無意識と言語
1 序
我々は自らの存在を何となく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方で、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状といった、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥る。
この「何者か」の正体こそが自我の制御の及ばない領域、すなわち「無意識」という〈他者〉に他ならない。
2 シニフィアンとシニフィエ
ラカンは「無意識とは言語のように構造化されている」という。ラカンのいう無意識とは単なる本能や欲動の座ではなく言語構造全体の座あるいは場だということである。
この点、構造主義的言語学の祖であるフェルディナン・ド・ソシュールによれば、ある言葉の「シニフィアン(音響イメージ)」と「シニフィエ(概念)」は不可分に結び付いているとされる。
ソシュールのダイヤグラムによれば、例えば「き」という語が発音されると「木」のイメージが不可分に喚起されるし、「木」を目にすると、いつも「き」というシニフィアンが不可避的に喚起されるということである。
これに対してラカンは、ソシュールのダイヤグラムを逆転させ、シニフィアンとシニフィエを切り離した上で、シニフィアンの優位性を強調する。
ラカンによれば、シニフィアンとシニフィエの間にはいかなる相互性も、一方による他方の決定もない。シニフィアンとシニフィエは互いに独立しているのである。
3 隠喩と換喩
「作詞や創作にみられる意味作用の効果が生じてくるのは、別の言葉で言えば、問題となっている意味作用の出現の効果が生じてくるのは、記号表現と記号表現の置き換えによっていることを示しています(ジャック=ラカン「無意識における文字の審級」〜「エクリ」516頁より)」
無意識においてシニフィアンは移動、圧縮の規制によって互いに結び合い、一つの網目のような構造をなしている。
シニフィアンの効果には隠喩と換喩という二つの側面がある。
この点、換喩とは、例えば「船」を「帆」で表すような、あるシニフィアン(船)から、関連する他のシニフィアン(帆)への置き換えをいう。これは単なる横滑りであり新たな意味を創造している訳ではない。
これに対して、隠喩は「ボアズ」を「麦束」で表すように、あるシニフィアン(ボアズ)を、全く関連のない他のシニフィアン(麦束)への置き換えをいう。
「船」と「帆」と異なり「ボアズ」と「麦束」の間に換喩的な結びつきはない。この時、元々のシニフィアン(ボアズ)は新たに置かれたシニフィアン(麦束)の中に保存され、これが新たな意味作用の創造へとつながってくる。
そして諸々の神経症的症状もラカンからすれば、ひとつの隠喩であるということになる。
4 時間的拍動としての無意識
また、後年において、ラカンは無意識を時間的拍動として捉えるようになる。無意識は「言違い」「機知」「夢」など「無意識の形成物」を通じて一瞬の裂け目として開かれるも、そこに意味が与えらるや否や再び閉じてしまうという開閉運動を繰り返しているということである。
ここに一つのパラドックスがある。すなわち、無意識を捉えたとすると、それはもはや無意識ではなくなるのである。