〈父-の-名〉


1 序論

心理療法における一般論として、人の症状や問題行動は、その人に内在するコンプレックスによって引き起こされると言われている。

そして、最も根源的なコンプレックスとは何かという問題について、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスがしばし対立的に説明される。

2 エディプスコンプレックス

エディプスコンプレックスとは周知の通り、精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの「発見」によるものであり、これを定義的に述べれば「異性親への愛情と同性親への憎悪」ということになる。

フロイトは当初、ヒステリー患者の供述を真に受けて、神経症の原因は幼少期における親からの性的な誘惑体験であるとする「誘惑理論」なる説を唱えていたが、程なくこれをあっさり放棄してしまう。

何となれば当時のウィーンでは、神経症に苦しむ若い女性が相当数に上っており、彼女たちの父親全員がペドフェリア的な性的倒錯者だと考えるというのはいくら何でも苦しい説明だと言わざるを得ないからである。

誘惑理論を放棄したフロイトは当時、親友の関係にあったヴィルヘルム・フリースとの幾度とない往復書簡を通じて自己分析を重ねていく。その結果、自らの内奥に「母親への惚れ込みと父親への嫉妬」という秘められた感情を発見し、この感情こそが、神経症の原因を形成する「早期幼児期の一般的な出来事」であるとした。

フロイトによれば幼児は3歳から6歳の時期に次のような段階をたどるという。

⑴最初は、男の子にとっても女の子にとっても、子どもの唯一の性的な対象は母親であり、子供と母親は閉鎖的な満たされた近親相姦的関係にある。

⑵やがて、父親が近親相姦的母子関係を禁止するものとして二人の間に割り込んでくる。この父親に対し、子供は敵対的態度を持ち、父親がいなくなればいいという父殺しの願望を持つ。

⑶ところが、子供にとって父親は絶対的強者であり、子供に対して去勢の脅迫を持って迫る。去勢の脅威を目の前に、子供は母親との近親相姦願望を諦めざるを得ず、母親の欲望の対象となっている父親を欲望の軸とする。

⑷男の子の場合、父を自らの理想像として立てて、父に同化することで彼は男性的なものを獲得する。この転換は急進的に行われる。

⑸女の子の場合、自分のペニスの不在に気づき、自分にペニスを与えてくれなかった母親を恨み、父親からペニスの代わりをもらおうとする。その転換は漸進的であるゆえに母親へのアンビヴァレンスな感情が残る。

フロイトはこの心的過程を、ギリシア悲劇「オイエディプス」なぞらえて「エディプスコンプレックス」と名付けたのである。

しかし、現代社会においてエディプスコンプレックスなどと言われても、何か荒唐無稽な御伽噺を聞かされている気分になるであろう。普通の人に対して「あなたは近親相姦ないし父殺しの願望がある」などと言い放ったところで、納得する人は多くはないであろう。

3 劣等コンプレックス

これに対してフロイトと並び称される心理学の巨峰、アルフレッド・アドラーが擁する劣等コンプレックスは遥かに解りやすい。

アドラーは人の根本衝動は「劣等感の補償としての優越性の追求」だと規定する。その優越性に追求の駆動された結果として形成される動線、つまり個人的な信念・世界観を「ライフスタイル」と呼ぶ。ライフスタイルと言うのは認知行動療法でいうところの「スキーマ」に概ね重なる概念である。

すなわち、人は自らのライフスタイルを正当化し論証する「目的」で様々な症状や問題行動を起こし、またライフスタイルというプリズムを通してこの世界を「認知」する(目的論・認知論)。

つまり重要なのは、どのようなライフスタイルを形成するかという問題であり、そこでは精神分析でいう意識・無意識の区別は重要ではなく、あくまで「全体」としての個人という「主体」の在り方が問われている(全体論・主体論)。

そして、いかなるライフスタイルを形成するかといういわば「目的の原因」は畢竟、「対人関係」をどのように捉えるかにかかってくるのである(対人関係論)。

ここで対人関係を「縦の関係」、すなわち操作したり評価する支配関係として捉えてしまえば、歪んだライフスタイルが形成される。これがアドラーのいう劣等コンプレックスに他ならない。

そこでアドラー心理学では対人関係を、尊敬、共感、感謝といった「横の関係」で捉える「共同体感覚」というライフスタイルの涵養が目標とされ、かかる共同体感覚を育むための技法群を「勇気付け」と呼んでいるのである。

4 精神病圏におけるエディプスの欠落

こうして並べてみると、直感的な説明としては劣等コンプレックスに優れた点がある言わざるを得ないが、その一方でエディプスコンプレックスの方がより上手く説明できるケースというのもまた確実に存在する。

例えば、パラノイア(妄想性統合失調症)という精神病は、その急性期において精神自動症や言語性幻覚などと呼ばれる意味不明な幻聴が発生し、安定期においては荒唐無稽な妄想的世界観が患者の口から披瀝されることが少なくない。

そして、これらは多くの場合、患者が何らかの社会的責任(昇進・結婚・妊娠)を引き受けた時に多く発症することが臨床上、確認されている。「社会的責任を負う」とはまさに自らの父性原理を参照するべき場面に他ならないが、パラノイアの場合、参照すべき父性原理がないが故に、その参照エラーが意味不明な幻聴などの形で返ってくるわけである。また、安定期における妄想も父性原理の不在を自分なりに補完しようとして作り上げた代替原理ということができる。

すなわち、このような症状はエディプスコンプレックスの欠落という点から初めて合理的に説明ができるであろう。ジャック=ラカンの言葉で言えば「〈父の名〉の排除」という状態である。

〈父の名〉というのは現実の父親の名前というよりも母親と子供を切り離す一種の精神力動作用である。精神病圏とは〈父の名〉の存在しない世界である。〈父の名〉の設立が成功することで、子供の精神構造は神経症圏に遷移し、失敗すれば精神病圏に留まってしまうのである。

5 神経症圏と精神病圏の鑑別診断

このような観点から、ラカン派精神分析においては、人の精神構造を具体的症状の有無にかかわらず、神経症圏、精神病圏、倒錯圏のいずれかに分類する。ラカン的な意味での「いわゆる一般人」というのは「症状が顕現していない神経症者」ということになる(現代ラカン派では異論もある)。

つまり、ラカンの理解からいうと、エディプスコンプレックス=〈父の名〉の有無は精神病圏と神経症圏を分かつ重要なメルクマールとして機能するのであり、エディプスコンプレックスとはむしろ「引き起こされなければならないもの」とさえいえるのである。

こうしてみると、エディプスコンプレックスと劣等コンプレックスはそれぞれ違う位相で機能しているのであって、決して「あれかこれか」という二項対立的な関係に立つものではないことが明らかであろう。

なお、こうした区別は精神分析の臨床上も極めて実際的な意味をもつ。例えば精神病圏者に自由連想を施して解釈を投与した場合、〈父の名〉の参照エラーが生じて精神病的症状が発症してしまう危険があると言われている、こういった理由から、通常は分析の前段階の予備面接において、精神病圏と神経症圏の鑑別診断が実施されるのである。

ただ、誤解されると困るのは、決して精神病圏の人が神経症圏の人に比べ「劣っている」という意味ではない、ということである。これらの精神構造の相違は「優劣」ではなく、あくまでも「個性」として理解すべきものである。このことはどれだけ強調しても、決してし過ぎることはないであろう。

6 父性隠喩

このように、ラカンはセミネールⅢ「精神病(1955〜1956)」において、エディプスコンプレックスとは一つのシニフィアン、つまり「父である=〈父の名〉」というシニフィアンの導入であり、これが欠損していることが精神病の構造的条件であることを詳らかにした。

ついで、ラカンはセミネールⅣ「対象関係(1956〜1957)」においてファルスという対象の欠如を巡って、人のセクシュアリティがどのように規範化(正常化)されるかを整理する(対象欠如の三形態)。さらに、セミネールⅤ「無意識の形成物(1957〜1958)」においては「原-象徴界の気まぐれな法」がいかにして父の法によって象徴的に統御されるかを論じる(エディプス三つの時)。

こうして、エディプスコンプレックスというのは①セクシュアリティの規範化と②原-象徴界の統御という二つの機能を持っていることが明らかになる。そこで、ラカンは、ソシュールの構造言語学のアルゴリズムを応用し、この二つの機能を一つの論理に圧縮する。これが父性隠喩と呼ばれる構造式である。

まず、子どもは、その前駆的な象徴機能によって形成された「〈母親〉の現前-不在」というシニフィアンのシニフィエに自らを「想像的ファルス」として代入しようとする(DM/x)。

しかし次に「〈母親〉の現前-不在」は〈父の名〉というシニフィアンによって「〈母親〉の欲望」として遡及的に名付けられ同時に否定される(NP/DM)。

こうして、子どもの中に言語構造=象徴界が内在化され「無意識=A」が成立する(無意識は言語のように構造化されている)。

同時に、隠喩構造による新たな意味作用として、子どもの中のひとつの欠如が名付けられ「欲望のなまえ=象徴的ファルス」が成立する(人間の欲望は他者の欲望である)。

〈父の名〉とは象徴界を安定させるシニフィアンであり、「象徴的ファルス」は象徴界に属するあらゆるシニフィアンがファリックな意味作用を持つことを基礎付ける「シニフィエ一般のシニフィアン」である。

このようなラカンの定式化により、フロイトのエディプスコンプレックスは、人が「無意識(言語)」と「欲望(欠如)」を持つに至る一つの構造として再定義されることになるのである。