欲望


1 人の欲望は他者の欲望である

動物には「本能」があり、彼らはそれに従い行動する。「本能」とは生物学的プログラムに基づいた「生(性)の欲求」であり、その目指すところは畢竟、個体維持と種の存続である。

ところが人間にはこの「本能」と言えるものが認められない。人間は食事にせよ性行為にせよ、それらは本能的衝動によるものではなく、第一義的には快楽追求のために行われるものである。

では、人間の行動原理は「本能」で無くして何であろうか?それは「欲望」である。「欲望」とはある種の「欠如」である。「欲望」はいかなる対象も満足を求めず、むしろ求めるところは「欲望」それ自身の持続と促進である。いわば「欲望」とは、ただひたすらに欲望し続けることのみを欲望し続けるのである。

人間は「本能」を持たない代わりに「欲望」を持っているのである。「欲望」を見失った時、人は生きることを苦痛と感じ、その生を拒否することすらあるであろう。人が生きるのに不可欠なこの「欲望」を持つことこそが心的活動の始まりである。

では、人間の欲望はいかに生じるのであろうか?ラカンは「人の欲望は他者の欲望である」という。例えば、なぜ皆がショウケースの中で光り輝くダイヤモンドを欲しいのかといえば、それを皆が欲しがっているからであり、なぜ誰もその辺に転がっている路傍の石を欲しくないのかといえば、それを誰も欲しがっていないからである。「欲望」の生成において「他者」は必要不可欠な存在である。

もっとも「人の欲望は他者の欲望である」というラカンの定式が二重の意味で両義性を孕んでいるように、「本能」に基づく「生(性)の欲求」の直線的単純さとは対照的に、人間の「欲望」は極めて錯綜した構築の上に成り立っている。

2 「小文字の他者」と「大文字の他者」

まず、第一の両義性は「他者の欲望」の「他者」の両義性である。「他者」とは「小文字の他者=a」であり、また「大文字の他者=A」でもある。

⑴ 小文字の他者

「小文字の他者=a」は兄弟姉妹、友達、同僚・・・など、あるひとつの象徴的秩序に帰属する「鏡像的他者」である。すなわち「似た者同士」の「わたし」と「あなた」という認識から生じる他人である。「鏡像的他者の欲望」とは兄が弟のおもちゃを無闇に欲しがるといった、似た者同士の鏡像へ生じる嫉妬や羨望である。

鏡像段階において構成される原始的自我は「自分=相手」という不安定なパラノイア的自我である。ここに「これはあなたよ」と母親(あるいは養育者)が「全能者=大文字の他者」として象徴的認可を与えることで、初めて子供は安定した自我と統一的な身体イメイジを受け入れることができるのである。鏡像段階は欲望のグラフでいう「i(a)ーm」の位置に相当する。

⑵ 大文字の他者

「大文字の他者=A」は両親、国家、神、あるいは言語、法、倫理・・・など、あるひとつの象徴的秩序それ自体を体現する超越的な存在である(以下では〈他者〉とする)。

後に見るように、ヒトの子どもは母親(あるいは養育者)という「〈他者〉の欲望」から「欲望の何たるか」を学び「欲望の主体」となるのである。

3 「他者を欲望する」と「他者が欲望する」

次に、第二の両義性は「他者の欲望」の格助詞である「の」の両義性である。

ここには目的格的意味と主格的意味が含まれている。つまり「〈他者〉の欲望」とは「〈他者〉を欲望する」ということであると同時に「〈他者〉が欲望する(他者が欲望するように欲望する)」ということである。

では、人はいかにして〈他者〉から「欲望」を学んでいくのであろうか。この点、ラカンは欲望は「欲求→要求→欲望」という弁証法的過程によって成立するという。以下、その過程を概観する。

⑴ 「欲求」と「要求」

ヒトの子どもは、他のほとんどすべての動物と異なり、未熟な状態で誕生して自立まで長い期間を要する寄る辺なき存在である。子どもはその間の身の回りの世話を生母もしくは監護者(以下、〈母親〉)に頼らざるを得ない。

生まれたばかりの子どもは生存のための空腹といった生理的満足を得るための「欲求」に迫られている。「欲求」とは生物学的なもの、すなわち「現実界」のものであるが、それが〈他者〉に伝えられるには「ことば」によって表現されなければならない。だから、子どもは「欲求」を〈母親〉に伝えるため、例えば「おぎゃあ」と発声し「要求」する。

ここで子どもは「象徴界」に参入し「言語=シニフィアン」の場に直面する。「言語=シニフィアン」は子どもの誕生に先立ち存在する〈他者〉である。これが欲望のグラフの示す「A」の位置である。

シニフィアンとは社会的な約束事と結びついたコードではなく、シニフィアンは他のシニフィアンとの比較おいてのみ自らの意味を定義できるものであり、自身は固定された意味を持っていない。

つまりシニフィアンには「aとはbではないものである。そしてbとはcではないものである・・・」というように一つの円環が成立している。この円環を切断するものこそが主体の行為である。換言すれば、純粋にシニフィアンの円環でのみ成立する論理的世界は完全ではあり得ず、そこにはシニフィアンの組み合わせの効果として一つの不合理な要素が出現する。これが主体に他ならないのである。

やがて「A」における、シニフィアンの連鎖に句読点が打たれ、一つのメッセージが成立する。欲望のグラフでいう「s(A)」の位置である。s(A)とはAの「意味作用=シニフィエ」である。

メッセージが構成されることで「主体=$」が成立する。$とは「現実界」に生まれ落ちたヒトの子ども(原生的主体)が「言語の世界=象徴界」に参入することで生まれるシニフィアンの効果である。

⑵ 想像的ファルス

以上のような過程を経て、ともかくも子どもは「おぎゃあ」と「声」をあげ、〈母親〉に「欲求」を「要求」するのである。

だが現実問題、〈母親〉も別に四六時中、子どものそばにいるわけではなく「現前-不在」を繰り返している。「おぎゃあ」と叫んでも〈母親〉は現れないという、不可解極まりない事態に子供は困惑し、不快感や不安感といった「欲求不満」の感情を体験することになる。

この「欲求不満」を埋め戻すため、子どもは〈母親〉の唯一無二の対象である「想像的ファルス」になろうとする。こうして、子どもは「Che vuoi?(汝何を欲するか)」と問い、その「欲動の言葉」をもって〈母親〉の世界を探索し始める。

主体は「Che vuoi?(汝何を欲するか)」の疑問詞に引っ張られ、ここで「要求」は「生理的満足の要求(おなかが減ったからミルクが欲しい)」という「言表内容」と「愛の要求(なんでもいいから愛して欲しい)」という「言表行為」に二重化される。欲望のグラフでいう下部の「シニフィアンの線」と「享楽の線」に対応する。そしてその中央に「欲望の領野」が成立する。

もっともこの時点で、子供は「欲望の何たるか」を理解していないため、ひとまず子供は、母の「ミルクを飲め」とか「ここで排泄せよ」などといった「〈母親〉の要求」に応えようとする。欲望のグラフでいえば「$♢D」の位置である。

母子間の交流は口、肛門、耳、目といった人体の穴を媒介として行われる為、欲動は「乳房・排泄・声・まなざし」という部分対象に結びつく。また、子供が色々な質問をして大人を困らせるのもこの時期である。これらの質問の背後には「結局、あなたにとって僕は何なのですか?」という根源的な問いが控えているのである。

だが、欲動の満足は拒絶されなければならない。子供が母親の世界から抜け出すには常に「要求」は二重化されなければならないのである(愛とは、持っていないものを与えることである)。

母親がある段階で子供の欲動を満足させる時、母親の欲望に一応の回答が与えられる為、二重化した要求の線はまた1本に逆戻りしてしまい、その段階に固着が生じることになる。

⑶ 〈父の名〉と象徴的ファルス

上に見たように子どもは「欲動の言葉」を以って母親の世界を探索する。しかし、どうあっても〈母親〉の「現前-不在」は続く。子どもは「想像的ファルス」になれない。「Che vuoi?(汝何を欲するか)」への返答は「返答がないという返答」をもってその最終的返答となる。これが欲望のグラフでいう「S(Ⱥ)」の場である。

「S(Ⱥ)」の「S」は子どもの探索に終止符を打つ純粋なシニフィアンーーーすでに死んでしまっている「父」のシニフィアンーーーである。「Ⱥ」は想像的ファルスを「去勢」された〈母親〉である。つまり、「S(Ⱥ)」とはいまの「欲求不満」が永久に続くことが確定した煉獄の場所である。

この煉獄の中、子どもは享楽の可能性を残す為の生存戦略としてある置き換えを行い自らの存在を救済しようとする。

まず、子どもは〈母親〉の「想像的ファルス」になるという「不可能」を「禁止」だと見做す。この「禁止する第三者」を〈父の名〉という。そして「禁止」である以上、その彼方に「ひとつの可能性」の次元を見いだすことができる。これを「象徴的ファルス」という。

このような操作を経ることで、不可能があたかも可能であるかのような「幻想」が作り出され、享楽の可能性が維持される。欲望のグラフにおける「$♢aーd」である。

すなわち、子どもは「〈母親〉の欲望」に触れることにより、自らの中にある「〈母親〉を欲望する」という感情を理解し「〈母親〉が欲望するように欲望する」ことになる。こうして子どもは「欲望の主体」となるのである。

4 欲望における「もう一つの極」

以上に見てきた「欲望」とはもっぱら前期ラカンの「象徴的ファルス」を「一つの極」とする理解である。1960年以降、ラカンは欲望の「もう一つの極」として「対象 a 」を前景化させていく。「対象 a 」についてはまた項を改めて述べる。