精神分析の倫理


1 序

プラトンのイデアは「真・善・美」を統一した理想郷である。もしも精神分析に一つの倫理があるとすれば、それはこの理想についてどのように考えるのであろうか?この問題を考える前提として鍵となるのが、ハイデガーのいう「das Ding」という概念である。

2 生の欲動と死の欲動

フロイトは人の中にある根本衝動を「欲動」と規定する。欲動とは身体的な一種の興奮エネルギーであり、その目的は自らの満足である。ヒトの子供(主体)は出生を経て現実界から象徴界に参入する代償として、始原的母子一体的な「欲動満足=享楽」を決定的に喪失することから、その回復運動として欲動が顕れる。

欲動は第一次的に「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象物を媒介とするが、その究極的対象は現実的な〈もの〉としか言いようがない「das Ding」という「無の場所」「享楽の在処」である。すなわち、欲動とは本質的には「無に還る」という「究極の快楽原則=死の欲動」ということである。

しかしながら「das Ding」という「現実界」への到達は、主体が「象徴界」に生きている以上、原理的に不可能である。主体が象徴界に参入した際に「現実原則と妥協した快楽原則=生の欲動」が成立しており「死の欲動」を抑止するからである。このような「生の欲動と死の欲動の不断の闘争」から「欲動」それ自体は決して満足することはないのである。

このような「das Ding」という「不可能」に直面した主体はひとつの転回を余儀なくされる。すなわち我々は「das Ding」という「不可能」をあえて一つの「禁止」とみなして「das Ding」の前にヴェールを張ることで、あたかもそれさえなければ「das Ding」へと至れるかの如き虚構を作り出し、享楽を手にする可能性を残そうとするのである。

こうして人はそれ以後の人生において禁止のヴェールの彼方にある見せかけの可能性を追い求めるという際限のない徒労に従事する。これを称して「欲望」という。

これは何も幼児期の発達過程に限った話ではなく、やはり我々は常に新たな「不可能」に直面することで、そこで生起する新しい感情に「欲望」という名前をつけている。とりわけ、その禁止のヴェールをキャンバスとして、そこに辿り着けるはずのない「das Ding」を描き出し、その不可能性を「芸術」や「愛」などといった何か尊いものへと高揚せんとする創造的営みを「昇華」という。

3 真・善・美

以上を前提とした場合、果たして精神分析の倫理とはいかなるものになるのであろうか?

⑴ 真

分析にとっての真理とは「去勢の真理」であり、「das Ding」その場所自体をいう。

なお、これに対して「知の探求」とは真理からの逃避である。「知の探求」とは「das Ding」の前に知識を置こうとするのである。すなわち、知と真理は対立し「知の亀裂」にこそ真理は現れるのである。

⑵ 善

善に二義あり。一つは「これ以上ないもの」と言う意味での「至高善」、もう一つは「役に立つもの」と言う意味での「有用善」である。

「至高善」とは「das Ding」の場にある。つまり至高善の探求とは享楽の探求に他ならない。これに対して「有用善」とはむしろ我々を「das Ding」から遠ざけようとする功利主義的な善である。

このように、欲望と有用善とは互いに相容れないところがある。

⑶ 美

「美」も「有用善」と同じく我々を「das Ding」から遠ざける。しかしながら「美」が「有用善」と異なるのは我々をその限界まで連れて行くということである。

「美」とはある任意の対象を「das Ding」の尊厳まで昇華することで産み出される効果である。我々が至上の美に接する時、恐怖に似た戦慄を覚えるのは「das Ding」への怖れに他ならないのである。この意味で美は欲望との和解を図るものといえる。

このような「美」を体現するものとして、ラカンはギリシャ悲劇「アンティゴネー」を位置付ける。

アンティゴネーとはエディプス・コンプレックスのモデルとなったエディプス王の娘のことである。エディプス王は周知の通り、父を殺して母を犯した罪悪感で自らの目を潰し、その後で叔父のクレオンによってデーバイを追放される。その時に付き添ったのがアンティゴネーとイスメーネーの姉妹である。

エディプスの死後、2人の姉妹はテーバイに戻ってくるが、アンティゴネーは反逆して戦死した兄のポリュネイケスの亡骸の処遇を巡りクレオンと対立する。

クレオンは、ポリュネイケスを国の法を破った者として、彼の亡骸を葬ることを禁じ 、野ざらしのままに腐敗するに任せることを命じ、これに背けば死刑も覚悟しなければならないという。アンティゴネーはポリュネイケスの亡骸を葬ろうとする。その結果、彼女は地下に幽閉されることになる。

結局、最後にはクレオンの方が折れてアンティゴネーへの処罰を取り下げるが、時は遅く彼女は地下で首を吊って死ぬという結末を迎えるのである。

クレオンは 、統治者として万人の幸せを計ろうとし 、そのために法から外れるものを容認できない立場にあり、これは一つの「善」の体現といえる。が、アンティゴネーにとって重要なことは 、万人のための法ではなく彼女自身の固有な欲望であり、欲望に譲歩しない生き方を選択することである。

ソクラテスの劇中でアンティゴネは光り輝く姿で描かれているが、これは死の場所になんのためらいもなく向かう彼女がdas Dingの尊厳まで高められたことを示す輝きに他ならないのである。

4 分析家の欲望

多くの人は自分を苦しめている症状から解放されたくて分析の場へ身を投じ、分析家にこの苦しみから逃れるにはどうすれば良いかと教えてほしいと要求する。

しかし当然ながら、分析家は「答え」を持っているわけではない。分析の場に「真」は存在しないのである。

仮に分析家のなんらかの介入により症状が軽減したように見えても、それは症状が移動しただけである。何となれば患者にとって、症状とは「das Ding」に目を背けることに由来する罪責感への防衛であり、享楽を得る為の手段に他ならない。

患者はそれまで外部の症状において享楽を得ようとしていたが、分析の開始によって分析自体が症状として機能するようになり、そこから享楽を得ようとする。

従って、分析家は「症状の消去」という「善」から分析を行わない。むしろ、分析主体に「das Ding」の極限を示さんとする「美」への欲望をもって分析を進めていくのである。

こうして分析家は、分析主体の「要求」を拒絶しつつ、分析主体の中に眠っている「欲望」を揺り動かしていく。分析主体は「欲望」を弁証法化させることで、症状の苦しみに自ずと折り合いをつけることが出来るのである。

このような意味からラカンは『精神分析の倫理』において「罪があると言いうる唯一のこととは、少なくとも分析的見地からすると、自らの欲望に関して譲歩したことだ、という命題を私は提出します」と述べるのである。

有名なテーゼ「分析家は汝の欲望に譲歩してはならぬ」である。つまり、精神分析の倫理とは分析家の、分析主体の無意識を詳らかにして「das Ding」の極限を示さんとする欲望である。換言すれば、分析家は「真」を知らず、「善」を為さず、「美」を示す者なのである。