〈もの〉と対象 a
1 初めに〈もの〉があった
1959〜1960年のセミネールⅦ「精神分析の倫理」においてラカンは〈もの〉の概念を取り上げる。これが後に名高き「対象 a 」への助走のはじまりである。
フロイトは人の根源的衝動を「欲動」と規定し、ラカンは欲動が完全に満たされた状態を「享楽」と呼ぶ。人は母の胎内という「現実界」に原生的主体Sとして生まれ落ちた時、欲動は全て満たされた状態にある。
しかしこの始原的享楽あるいは原初的満足体験は出生を経てシニフィアンの世界である象徴界に参入する過程で、もはや取り返しのつかないような形で失われてしまう。始原的享楽とはシニフィアンによって象徴的に名付けられる以前の、到達も再現も不可能な、まさに〈もの〉としか言いようのない現実的なものだからである(「はじめに享楽があった」「はじめに〈もの〉があった」「シニフィアンとは享楽を停止するもの」)。
ところが日々の暮らしの中には、かつて喪失したはずの〈もの〉の痕跡がしばしば顔をのぞかせるという、いわば「〈もの〉の侵入」といった事態がしばし起きる。ラカンは「精神分析の倫理」以降、「転移」「同一化」「不安」とセミネールを重ねていくごとに、このような「〈もの〉の侵入」を「対象 a の顕現」として捉えなおしていく。
2 「欲望の原因」としての対象 a
対象 a とは、想像的対象(小文字の他者)でも象徴的対象(大文字の他者)でもない現実的対象、すなわち「欲動の対象」であり、かつて存在し今は失われた始原的享楽の残滓、痕跡、小銭、剰余、廃棄物、あるいは「それ」としか言いようがない「〈もの〉の欠片」である。この意味で対象 a とは〈もの〉とシニフィアンとの間を部分的に接続する「理論的接着剤」といえる。
もちろん、対象 a は始原的享楽を全体的に回復させてくれるようなものではなく、対象 a を通じて得られる享楽とは疎外を前提としたファルス的な享楽である(フロイトの部分欲動に相当する)。
こうして人は対象 a を通じ享楽を可及的に回復しようとする幻想に支えられた「欲望」という名の不可能な徒労、終わりなき反復運動に終生を費やすことになる。対象 a が「欲動の対象」であるとともに「欲望の原因」と言われるのはこのような意味においてである。
3 乳房・排泄物・声・まなざし
ラカンが例示する対象 a の始原的なオリジナルは母親の欲望に由来する「乳房、排泄物、声、まなざし」の4つである。以降の人生で見出す様々な対象 a はこれら4つの代理物あるいはバリエーションと言える。例えば子供は特定の毛布を手放さず常に手元に置いておこうとする傾向が見出されるが、この毛布は母の乳房の代理として機能する、人生最初期の対象 a であろう(ドナルド=ウィニコットでいうところの移行対象)。
ある物がある人にとって欲動の対象に値するもの、すなわち「それを得る事で僅かでも享楽を回復できるだろうと信じるもの」であれば、なんでもそれは対象 a になり得るであろう。ひとがアプリオリに人肌を求め、あるいは善行を為し、あるいは詩、音楽、絵画、映像などの芸術作品をこよなく愛するのははそれらが対象 a だからである。対象 a は主体の欲望を急き立て、時には主体を狂気に追いやることになる。