疎外と分離
1 総説
ラカン派精神分析においては人の精神構造は概ね3つに分類される。すなわち精神病圏、神経症圏、倒錯圏である。ある主体が精神病圏から神経症圏へ遷移するには心的な母子分離が必要となる。その母子の享楽的二者関係を分断するのが、かつてフロイトによりエディプスコンプレックスとして名付けられた第三項としての父性機能である。
この点、父性機能には「言語の獲得」と「欲望の獲得」という二つの契機が内在する。これらの契機を力動論的に説明したのが「疎外と分離」と呼ばれる操作である。
後に見るように、「疎外」が主体の象徴界への参入の過程であるとすれば、「分離」とは主体が再び現実界に(部分的)に回帰する過程である。原生的主体Sはまず現実界に一つの生命として生まれ落ちた後、疎外の操作により言語の世界に参入するが、その代価として享楽を喪失し(失われた主体)$となる。。その後、分離の操作によって主体は再びかつて失った享楽の一部を「欲動の対象」を通じて回復可能となる。こうして主体は「欲動の対象=欲望の原因」に急き立てられる「欲望する主体」になる。
2 疎外
疎外とは母子一体の始原的享楽の喪失と引き換えに、主体が象徴的秩序に組み込まれる過程である。
フロイトは人の根源的衝動を「欲動」と規定し、ラカンは欲動が完全に満たされた状態を「享楽」と呼ぶ。人は母の胎内という「現実界」に生まれ落ちた時、欲動は全て満たされ享楽の状態にある。何となれば、母の胎内という「現実界」は新しい命=原生的主体Sに必要なすべてが満たされているからである(始原的享楽)。
やがて出生の時に至り、胎児は母親の胎内を出て人間社会の中に産み落とされる。子供はまず母体から物理的に「疎外」されるのである。そしてヒトの子供は、他のほとんどすべての動物と異なり、未熟な状態で誕生して自立まで長い期間を要する。寄る辺ない存在である嬰児はその間の身の回りの世話を〈他者〉(多くの場合母親)に頼らざるを得ない。
つまり生まれたばかりの子どもにとって〈他者〉の存在は絶対的である。だからこそ、嬰児は他者に生理的欲求を伝達するために、「おぎゃあ」という「ことば」を発する。すなわち主体は「言語」に直面する。言語は私の誕生に先立つものであり、外来性のものである。すなわち〈他者〉である。ゆえに〈他者〉と言語との出会いは本質的に等価である。
こうして主体は自らをひとつのシニフィアン(S1)によって表す。ところが、このシニフィアン(S1)は一つきりで存在するだけでは無意味である。意味を生み出すためのシニフィアンの最小単位は二つのシニフィアンの結びつきである。
ラカンの例えでいえば、砂漠で象形文字(S1)を見つけたとき、我々はその文字を書いた主体が存在したことを理解する。しかし主体が存在したということが理解できるのはその象形文字(S1)が他の文字(S2)と関係しているからである。つまり、そこに意味を生じさせるにはペアとなるシニフィアン(S2)を必要とする。
ここで主体はひとつの選択を迫られる。つまりは、「存在」を取るか「意味」を取るかである。
もし仮に主体が「存在」を選択した場合、主体は単一で意味のないシニフィアン(S1)を永久的反復するのみである。これは一つの単語で一つの文の全体を表そうとする一言文の構造へ固着する自閉症的主体という選択になる。
もし仮に主体がもう一つのシニフィアン(S2)を選択した場合、ここで(S1)と(S2)が結びつき、一つの「意味」を生み出す。この時、あるシニフィアン(S1)はもう一つのシニフィアン(S2)に対して主体を代理表象する。こうして主体は、二つのシニフィアンのペア(S1-S2)に代替されることで象徴界への参入する一方で、その代価として、シニフィアンによって象徴化不可能なもの(享楽を内包した部分)を決定的に喪失する。シニフィアンの領野に居続ける限り、主体は享楽に到達できない。仮に享楽に到達したとすれば、その到達は主体の死滅を意味する。すなわち、シニフィアンと享楽は原則として二律背反の関係に立っていることになる。
こうして原生的主体Sはシニフィアンの裏側に消失し、始原的享楽を喪失した(失われた)主体$としての以後の人生を送ることになる。つまり子供は言語という〈他者〉に服従することで「自分」が何者であるかを(決定的なものを失いつつも)初めて手にするのである
いわば、疎外とは子供は言語に服従し、言語という拘束具を受け入れる過程である。これもラカンの例えで言えば「命か金か」の選択である。当然、これは財布(S)を捨てて命(S2)を救うという半強制的な選択になるであろう。財布(S)をとれば命(S2)が失われ、命(S2)をとれば一部欠けた人生($)となる。どちらを取っても中央部の共通部分=享楽は失われてしまうのである。
このように疎外は母子一体的享楽を禁止する父性機能の第一の契機の現れでもある(父の否!)。すなわち。ここで子どもは母親の延長部分(幹にとっての枝葉)であることが否定される。
もっとも。疎外は必ずしも現実の父親の存在を必要とするわけではない。疎外は、子どもはいつも母と一緒にいられるわけではないという現実によって起こりうる。あるいは母が子どもに対して細やかな愛情表現を苦手としたり、それが乏しかったりする場合にも、子供は疎外されうる。すなわち、父親とは生物学的父親というよりも、母子関係を邪魔する第三項である。
しかしながら疎外を経るだけではまだ、世界の内には母の欲望以外に欲望は無く、自己が母の欲望の唯一無二の対象、つまり想像的ファルスで有るという信念(幻想)は否定されない。それが否定されるには次の「分離」の過程を要する。
2 分離
疎外の操作を経ることで子供は原生的主体Sから(失われた)主体$となる。そして子供には疎外以前は知る由もなかった一つの問いが生じる。それは「お母さんにとって一番大切なのは私なの?」という問いである。
なぜなら、寄る辺ない赤子は他者の助けなくこの世界では生きていけない為、この世界で生きていく為には、子供は母の唯一無二の欲望の対象、すなわち想像的ファルスなのか?という問いを持たざるを得ないからである。子供がしばし発する果てしない「なぜ」という問いは、単純な知的好奇心という以上に、何より子供が自分自身の存在理由を、すなわち自分が親の欲望にとって持つ価値を問うているのである。
母の欲望とは子供にとっては「早くミルクを飲め」とか「そこで排泄するな」などといった母の要求として立ち現れる。したがって、子供の住む場が疎外の場のみに限定されるとすれば、子供は母の要求の無限連環が続く檻に永久に閉じ込められることになるであろう。
これに対して、分離とは子供がかつて失った享楽を別の仕方の享楽(対象 a の享楽)として部分的に回復することで母の要求の鎖から解放される過程である。
分離の本質は、二つの欠如の並置、重なり、一致である。分離とは主体と〈他者〉が双方に共通する空集合を仲介として結ばれる。
子供は母の愛と関心を推し量った結果、一つの欲望のシニフィアン(〈父の名〉)によって母の欠如が名付けられ、自分は彼女の唯一無二ではないことを知るに至る。ゆえに分離は父性機能の第二の契機の現れである(〈父の名〉)。
こうして、子供は「喪失した享楽」という一つの欠如を抱え込んでいるが、それと同じように母の側にも満たされない一つの欠如(〈他者〉の欲望)があるということを発見する。
ここで子供は母の欲望に自らの失われた享楽を重ね合わせ、その二つの欠如の重なりの中に、母なるものの代理物達ーー乳房、排泄、声、まなざしーーに「かつてあった享楽の残滓」を見出して自らの欲動を構成する。かかる代理物達こそが想像的対象(小文字の他者)でも象徴的対象(大文字の他者)でもない現実的対象、すなわち欲動の対象としての「対象 a 」と呼ばれるものである。
こうして人は「欲動」を可及的に満たすべく対象 a を通じ「欲望」という名の徒労ーーーいや、終わりなき反復運動に終生を費やすことになる。すなわち、対象 a は「欲動の対象」であるがゆえに「欲望の原因」として機能する。
こうして子供は対象 a を関係することで自らも欲望する主体となり、母の要求の無限連環から脱出できるのである。主体と対象 a の関わり合いを称して「根源的幻想($♢a)」と言いパーソナリティ形成の核を成す。このように分離の過程とは子供が〈母親〉の欲望に抗うための試みであるともいえるであろう。