知を想定された主体


1 想像的対象から象徴的対象へ

精神分析の臨床においてまず第一に重要なことは、分析家は分析主体にとっての想像的対象として位置づけられてはならない、ということである。

想像的対象とは同一の象徴的秩序に帰属する「鏡像的な他者」をいう。つまり、「似た者同士」の「わたし」と「あなた」という認識から生じる他人である。典型は兄弟関係であろう。クラスメイトや同僚同士も想像的対象の関係となりうる。

想像的関係は愛憎渦巻く喰うか喰われるかの双数関係である。人は自分と同じカテゴリー(象徴的秩序)に属する誰かが自分より優先的に取り扱われることに我慢できないのである。

想像的関係が「わたしと、あなた」であるうちはそこに親愛の情を生じさせるかもしれない。けれどもほんのささいなきっかけで「わたしと、あなた」は「わたしか、あなた」という敵対的な関係へと変わってしまう。

最初の「わたしと、あなた」の関係が緊密であればあるほど、僅かな違いによる怒りはより大きいものとなるであろう。

つまり、分析関係においても、分析家が分析主体から想像的対象として認識されている場合、やがて分析主体は「自分と分析家の優劣関係」を問題にし始めてしまうということである。

こうして、分析家は想像的対象から象徴的対象へ遷移することが、さしあたっての分析目標とされることになる。

象徴的対象とは一定の象徴的秩序を体現する権威、すなわち「〈他者〉=大文字の他者」をいう。両親・法・言語・伝統・神などが典型的な象徴的対象である。

そして、分析関係における最終権威は言わずもがな分析主体の「無意識」である。

2 無意識を映し出すスクリーンとしての分析家

分析作業の基本は分析主体による自由連想である。分析主体は思い浮かんだことをなんでも話し、分析家はその言葉を傾聴する。

この点、我々は普段、他人の話を「理解」しようとする。畢竟、「理解」とは未知の事実を既知の枠組みの中に位置付ける営みに他ならない。

しかしながら、ラカンは分析主体の話を「理解しようとするな」という。分析家は、分析主体の話を想像的次元ではなく象徴的次元で聴く。つまり、話し手のシニフィエ(意味)ではなくシニフィアン(音)に注目していく。

そして、分析家は分析主体の言い間違い、言い淀み、錯誤行為、情動表現など「抑圧されたものの小さな回帰」、すなわち「無意識の形成物」に対して句読点を打ちこみ、分析主体がそれまで意図していなかった新しい意味を引き出していくのである。

ラカン派特有の可変時間セッションは句読法の強調系である。セッションの唐突な終了は心理学でいうツァイガルニーク効果を生み、分析主体の分析作業に対する欲望を掻き立てるのである。

こうして分析家は、分析主体の語りから「無意識の形成物」を抽出していくことで「無意識を映し出すスクリーン」として機能する。

その結果、分析家は分析主体にとって何か重要なことを知っていて、それを教えてくれる存在として見做される。これを「知を想定された主体(Sujet suppose Savoir=SsS)」という。

実のところ「知を想定された主体」とは分析主体の無意識の中に存在するものであるが、分析家が常に「無意識のスクリーン」として機能することで、分析主体の無意識は分析家へ投影されることになるのである。

何れにせよ分析家は「知を想定された主体」と見なされることで、彼は分析主体にとっての想像的対象から象徴的対象へと遷移する。

3 SsSの彼方にあるもの

分析家が分析主体にとっての「知を想定された主体」として位置づけられた時、転移が誘発され、分析主体は分析家にーーーある時は、自分についてどのように思うか「評価の要求」を、またある時は、自分に何かを要求するよう「要求の要求」といった具合にーーー様々な「要求」をしてくる。

分析家がこの時、分析主体の要求に応えた場合、症状は確かに一時的に改善することもある。しかし、精神分析の目標が〈他者〉からの分離だというのであれば、分析家が〈他者〉として彼らの要求を承認することは分析主体にとって「〈他者〉の欲望」への依存の反復強化という結果でしかない。そして要求はさらなる要求を生む悪循環に陥るであろう。分析関係はあくまで分析主体自身の欲望の主体化を目指す作業なのである。

この点、ある時期のラカンにおける分析目標は、いわゆるシェーマLが示すように、分析主体と〈他者〉の間に横たわる想像的な葛藤を除去することであった。しかし、分析家がSsSの位置にとどまったままでは、主体を要求の水準に固定してしまい、真に欲望させる事はできないのである。

以上のように、分析家はひとまず想像的対象ではなく象徴的対象の位置に来なければならない。しかし象徴的対象の位置は分析家が最終的に止まる位置ではない、という事になる。