根源的幻想の横断
1 序
「根源的幻想を横断した主体は、欲動をどのように生きることができるのでしょうか?これは分析の彼岸であり、これまでだれも取り組んだことがなかったことです(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」368頁より)」
ラカン派精神分析の目標は「〈他者〉からの分離」という点で一貫しているが、時期によってその理論構成が変動する。それは一言でいえば「欲望の弁証法化」から「欲動の顕在化」への理論的変化である。
2 欲望の弁証法の限界性
神経症者は相当程度に「欲望の水準」ではなく「要求の水準」を生きている。
欲望は欠如に由来し、なんら固有の対象を持っていない。つまり誰も自分が本当に何を欲望しているかを言うことはできないのである。
神経症者は「〈他者〉の欲望」と出会うことで不安を引き起こす。神経症者が耐えられないのは〈他者〉の欲望それ自体、〈他者〉の中の欠如、〈他者〉の不完全性である。
神経症者はよくわからない不安(神経症的不安=〈他者〉の欲望)より明確な恐怖(現実的不安=〈他者〉の不快な要求)を選ぶ。つまり、自分が〈他者〉の欲望の中でどのような対象であるかを知っていると思いこむ方を選ぶ。
この点、要求は明確な対象を持つ。神経症者にとって要求は具体的なものほど良い。
ラカンは「あらゆる発話は要求である。あらゆる要求は愛の要求である(「エクリ」813頁)」だという。これは「あなたの愛を勝ち取るために私が何をしなければならないか、あなたが告げてくれることを要求する」ということである。
故に、神経症者は〈他者〉が自分に要求することを要求する。そして要求はさらなる要求を産み出す悪循環となる。
そこで分析家は彼らの要求を拒絶する。例えば、予期せぬセッション終了によって。あるいは神託的発話としての「解釈」を以って。
こうして分析主体は謎めいた欲望を持つものとしての分析家に直面し、〈他者〉の欲望を扱わざるを得なくなる。
このような点から、セミネールXI以前のラカンは「欲望」の観点から精神分析を捉えようとしており、その時期の分析目標は主体の欲望を弁証法化することであった。確定された主体の欲望が展開されることで分析は成功裏に終わるというシナリオである。
確かに、欲望を弁証法化することで、欲望の原因への固着は弱まり不安は減少するという健全な効果をもたらす。
しかし、欲望とは所詮、象徴的秩序の関数にすぎない。結局は「彼らがそうしてくれと言うから、したくないのだ」「私がそうするなんて誰も思わないから、したいのだ」というように、「〈他者〉という法」を軸とする構図は何も変わらない。
どこまでいっても欲望は「〈他者〉の欲望」であり、欲望の弁証法化それ自体のみでは「〈他者〉からの分離」は不可能である。
3 根源的幻想
このような思索の高まりを経て、ラカンはセミネールXI「精神分析の四基本概念」において精神分析の終局的目標を「根源的幻想の横断」であると宣明する。
「疎外」と「分離」を経て「欲動の対象=対象 a 」を切り出すことで神経症的主体が成立する。
もっとも、大抵の場合、分離は完全に果たされているわけではない。人は象徴界を生きる以上、言語の主体であり、〈他者〉と関わることなしには生きてはいけない。
そこで、主体は分離を否定するため、対象 a を「欲望の原因」と看做して、自らを「〈他者〉の欲望(あるいは要求)」に同一化する。
主体は「分離を否定する幻想」を介して対象 a と関係する。そのような幻想のネットワークの中で最も基本的な幻想を「根源的幻想」という。
「根源的幻想」とは主体の欲望と対象 a の基本的関係性を規定する態度であり、個人のパーソナリティ(超自我ないし自我理想)の核となるものである。
これは「原光景」と関連している。子供のとき、現実的あるいは想像的な光景に対する反応が、その人の対人関係や嗜好のあり方を特徴付ける。
根源的幻想は人が〈他者〉と関わって生きる為には必要なものである。人は一人では生きていくことはできない。けれども、あまりに「〈他者〉の欲望」に縛られてしまうと今度は神経症的症状を典型とする様々な「生きづらさ」が生じてくるのである。
主体は対象 a から最大限の享楽を引き出せるような仕方でシナリオを組み立てようとする。しかし、その享楽はしばし嫌悪や恐れに転化する。フロイトは不安は情動の普遍通貨だという。不安は現実界が接近していること示すシグナルであり満足の所在を示す信号である。つまり、症状に苦しむことは、いわば一種の享楽と言い得るのである。
そこで、人は〈他者〉とつながりつつも、主体が〈他者〉からの自由を獲得する必要がある。この営みこそがラカンが精神分析の目標として宣明する「根源的幻想の横断」と呼ばれるものである。
4 欲動の主体の顕現
「根源的幻想」を「横断」するとは、主体の位置を〈他者〉の欲望(あるいは要求)に縛られた「欲望の主体」から、対象 a を自由に追求する「欲動の主体」へと移動させることを意味する。
欲動は現実界にあり、〈他者〉の存在を前提とはしない。欲動は〈他者〉ではなく「対象 a 」に向けられる。
欲動のレベルでは常に幸福である。欲動は禁止について何も知らず、常に自らに従い、適切か正しいか否かを一切考慮することなく満足へ突き進む「無頭の主体」である。
「疎外」において欲動は「〈他者〉の要求」に従属し、「分離」において「〈他者〉の欲望」に従属する。すなわち、欲望とは「享楽へと到る限界を超えることに対する防衛」である。
ある時期までラカンの分析目標は「満足を求めて叫ぶ欲動を口ごもらせ、押さえつけ、沈黙させる防衛的スタンス」を獲得することであった。しかしながら「対象 a 」の導入以後、ラカンはむしろ欲望こそ欲動満足の最たる妨害と捉えるようになった。
すなわち根源的幻想の横断は、欲望による防衛を解除し、自由に対象 a を追求できる欲動の主体の実現に他ならない。
主体は、欲望の原因に囚われることなく、むしろ自分自身を以ってして自らの欲望の原因となる。すなわち私は、私自身の原因として生じなければならないのである。
こうして、主体は原因として、欲望そのものとして行為することができ、〈他者〉の重みから自由になる。それは精神病者の如き文字以前の自由ではなく文字以後の自由である。
このような観点から言えば、分析家の真の欲望とは分析主体の享楽を露わにすること、すなわち「欲動の顕在化」である。分析家は彼の欲望の結び目を解くというより、むしろ彼の享楽の中にある結び目を解き放つ。
情動のあるところにこそ享楽は存在する。「本当に好きな人はあのひとだけだったの、でもあの人にはどうしても納得できなくて」「あの映画はすごく興奮したの、だけど自分がそういう経験をしたいってわけじゃないの」などと、分析主体が不快感を示したり、あるいは快感を偽装したり黙殺したりするとき、治療者はセッションの中断や解釈により、その裏にある享楽を強調する。主体は、この情動から生じる不安を乗り越えてこそ、「対象 a の享楽」に対しこれまでと異なった位置を取れるのである。
5 欲望と享楽の円環
このように「欲望」と「享楽」は一見似ているが、異なる位相にある。おそらく、その違いは端的に言えば「幸せになる」と「幸せでいる」という違いだと言えよう。
この点「幸せになる」ということは、翻っていまは「幸せではない」ということである。すなわち「欲望」とは、いまの自分の境遇が世間一般でいう幸福の定義に当てはまらない苦しみを伴う。まさに「欲望とは〈他者〉の欲望」である。
ところが「幸せでいる」というのは、世間一般でいう幸福の定義とは無関係に、自ら幸福の定義を作り出す主体的選択に他ならない。すなわち「享楽」とは、たとえどんな境遇であろうと、今の自分自身を肯定できる考え方と言えるのではないだろうか。
これはある意味で凡庸な結論なのかもしれないが、結局のところ、ひとは運命の主体にならなければならないのである。たとえ選んだ覚えのない境遇であろうと、理不尽の連続とも言える人生であろうと、ひとはそれらを主体化して行かなければならないのである。すなわち、フロイトの言葉で言えば「それがあったところ、そこに私はあらねばならない」ということである。
もっとも「根源的幻想の横断」と言っても、自己が現実界に有ることを見出すような「足下への到達」ということではない。当然、主体が欲動の暴れるままに自らの自我や超自我を全て投げ捨てるということでも無い。
幻想は言語化あるいは自覚化されただけであり、幻想自体が跡形もなく消滅してしまうということではない。幻想は依然として主体の根底において、主体を支えるべく機能し続けることになる。
それでも現実界との接触体験を幾度なく重ねることによって、主体の意識の中で現実界の感覚が次第に醸成されていく。こうして主体は現実界における本来的自己を実現することへ限りなく接近が可能となる。
イメージとしては、こころという深い湖の一番底(本来的自己)に触れて、また湖面(意識層)まで帰ってくるという往復運動を何回も繰り返すような感じだと言えばいいのだろうか。
このような営みは、我々が生きていく中、至る所で出会う〈他者〉ーーー例えば家族、学校、会社、恋人などーーーとの関係性にもある程度当てはまるであろう。つまり人生とは幾度とな疎外と分離を繰り返し、その時々の幻想を横断していくという、欲望の生成と享楽への回帰が螺旋のようにめぐりゆく円環の理とも言えるものかもしれない。
そして、仮に人生の中に「幸福の在処」というものがあるとすればそれは、欲望と享楽の両者の重なり合う領域に存在するのであろう。