転移


1 序

一般的な定義によれば、転移とは分析主体が過去に両親など重要な人物に対して抱いた感情を分析家に投影することをいう。

転移は知覚的水準(分析家の体型や声の調子、目や髪や皮膚の色など)、記号的水準(分析家の服装、オフィスの雰囲気など)、情動的水準(分析家の感情表出など)によって成立する。極端な場合、分析家に鼻があるだけで分析主体はその鼻から母親を想起し、そこに転移が成立することもある。

転移現象は分析を離れた日常でも見出される。恋人同士の関係、教師と生徒の関係、あるいはアーティストとオーディエンスの関係も多くの場合はーーー勿論やがてその理想は幻想に過ぎないことを知るであろうことを含めてーーーある種の陽性ないし陰性の転移として説明できるであろう。

2 転移の本質

転移とは本質的には〈他者〉に対する「私は〈他者〉に愛されたい」という「要求」に他ならない。〈他者〉とはその辺の「他人」とはまた違うーーーその人にとってはある意味で「この世界そのもの」ともいえるーーー絶対的な象徴的秩序を体現する「象徴的他者(大文字の他者)」をいう。

人生最初の〈他者〉は「〈母親〉=実母あるいは養育者」ということになる。かつてあった母子一体的な始原的享楽を失った子どもは「乳房、排泄、声、まなざし」などの身体的穴を通じた「欲動の言葉」を用いて「私は〈母親〉に愛されたい」と「要求」する。これが転移の起源である。

その後、子どもは〈父の名〉の導入により「欲望」の水準に達することになるが、「要求」の水準にもある程度の固着を残していることから、以後の人生において、誰か他人の中に〈他者〉のイメージを投影した時には、やはり彼あるいは彼女に対して「私は〈他者〉に愛されたい」と「要求」するのである。

3 転移の操作

⑴ 知を想定された主体

そういう意味においては、分析主体が「無意識のスクリーン」として機能し「知を想定された主体(Sujet suppose Savoir=SsS)」を演じる時、彼は想像的対象から象徴的対象に遷移し、転移の対象となる〈他者〉である言える。つまり転移とは、ラカンが言うところの「無意識の現勢化」である。

この点、「転移」は時に「反復」と同一のものと看做されたりもするが、厳密に言えば転移には「過去の反復」の他に「それに付随する情動」という二つの側面がある。後者を前者から切り離して考えるとき、転移現象が誘発される動因はSsSとしての分析家に求められる。

精神分析は転移を治療の道具として積極的に利用する。分析家は転移の事実(分析主体の愛情が本当は分析家ではなく誰か他の人物へ向けられたものだという事実)を解釈するのではなく、転移の内容を解釈する。分析作業がはかどっているかぎりは、転移の問題には触れないままにしておくべきであるといわれる。

分析主体が自身についての知を求めるという困難な仕事に取り組めるのは、まさしく分析家がその知を持っていると信じているからである。これは神経症者との分析において不可欠な原動力である。

⑵ 転移と欲望

ここで分析家は「関係しつつ観察する」という曲芸を行うことになる。一般的にいうと、観察する人は関係できないし、関係する人は観察できない。この点において、転移という概念は「関係しつつ観察する」ことが出来るほぼ唯一の視点であると言えよう。

ただ、転移とは結局のところ、分析家の「欲望」に分析主体の「欲望」が従属している一時的な依存関係であり、暗示による偽薬効果に似ているところがある。

極端な場合、分析主体は分析の予約を取り付けただけで症状が幾らか軽減される場合もあるしれない。けれども、分析主体が分析家の影響下を離脱した時、転移は解除され、彼はまた奴隷のように他人の欲望に左右される人生となる。

ゆえに分析家は転移を利用しつつも、分析主体からの「要求」を拒絶しつつ「解釈」の投与により、分析主体の中に眠っている「欲望」を揺り動かしていかなければならないのである。

そういった意味では転移とは、ラカンの「欲望とは〈他者〉の欲望である」という有名なテーゼの一つの臨床的発現として理解することができるであろう。分析家の「(無意識を詳らかにするという)欲望」こそが分析主体の「(自分は本当は何がしたいのかという)欲望」を弁証法化させていく原動力となるのである。

3 陽性転移

転移は陽性のものと陰性のものがあるが、いずれにせよ、分析主体に転移の自覚はない。まさに「いま、ここ」で分析家という特定の人物への強い感情として経験しているのである。

陽性転移とは分析家が好意を持たれている場合をいう。陽性転移が成立することによって、分析主体は分析家の年齢や容姿に関わらず、分析家に夢中になり分析家とのセッションを楽しみに待つようになる。

これは異性間のみならず同性間でも起こりうる。分析主体は自らの転移を転移として体験しているのではない。分析主体はまさしく「いま、ここ」で分析家という特定の人物へ対する強い感情として経験しているのである。

もっとも、あまりにも過剰な陽性転移は抵抗に転化し分析作業を停滞させることもある。分析とは外傷という現実を象徴化していくという、ある意味で苦しい作業であり、その抵抗によって転移が引き起こされている場合が考えられる。

4 陰性転移

ところで分析という現実的なものを象徴化する困難な作業において、しばし転移は陰性反応を持って立ち現れる。これを陰性転移という。陰性転移とは分析家が不審の目で見られている場合である。

しかしこのような場合においても、分析家は自らの象徴的水準を維持し続けて、分析主体のあらゆる反応をスクリーンとして受け止め、傍から分析主体の分析作業を援助することになる。

陰性転移とは分析主体が過去に出会った〈他者〉への陰性感情を分析家に投射しているに過ぎず、個人としての分析家に向けられたものではないからである。

従って、分析家は分析主体のいかなる陰性反応も額面通り受け取りこれを非難することはない。このような非難をすることで、お互いが「喰うか喰われるか」という想像的水準の泥沼に陥ってしまうからである。

また、分析家は「あなたは私とお母さんを混同しています」などと転移の事実を指摘したりもしない。このような指摘をすることで、分析主体の以後の投射が妨げられ、分析において重要な情報源が一つ失われるからである。

もっとも、あまりにも激烈な陰性転移は分析主体の精神構造が精神病圏に位置してる可能性があると言われているので別途の考慮を要する。

5 逆転移

いかに象徴的な役割に自分を置くことに熟練した分析家でも想像的な妨害を完全に取り除くことはできない。逆転移とは分析家が象徴的位置から転落し想像的な双数関係に陥ることである。臨床における分析主体の言動を自分の理論の枠組みに無理やりあてはめようとするのも一種の逆転移といえる。

この点、分析家の陰性逆転移を「投射同一化」という概念にて説明する立場がある。投射同一化とは分析主体が抑圧した情動を外部に投射し、分析家がそこに同一化する状況をいう。これに対しては、仮に分析主体がある情動を分析家に投射したとして、なぜ分析家がその感情に同一化するのかという点につき合理的な説明は困難であるという指摘がなされている。

いずれにせよ、セラピストはクライエントからの強い感情に巻き込まれないためには、セラピスト自身の生活を充実した幸福なものにしておくよう心がけるべきであり、それはクライアントに対する責任であるともいえる。

6 転移と愛

「フロイトは、非常に早くから、転移の中で生じる愛は真正のものかどうかという問題を提起しました。一般的には、それは端的に言うと一種の偽の愛、愛の影であると考えられています。(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」162頁より)」

ラカンは転移とは「偽の愛」であるという。では、転移ではない純粋な意味での「愛」とやらは果たして何であろうか?

先に見たように、子どもの「欲動」はまず第一次的には「乳房、排泄、声、まなざし」などの具体的対象に結びつくが、「欲動」とは本質的に「死の欲動」であり、その究極的な対象は母子一体的な「享楽」の在処、すなわち〈もの〉への到達である。

しかしながらフロイトが「快楽原則の彼岸」で述べるように「死の欲動」は「生の欲動」によって抑止される関係に立つことから、人は生きている限り〈もの〉への到達は原理的に不可能である。

そこで、子どもは〈もの〉に到達する不可能性を一つの「禁止」とみなすことで、その禁止の遥か彼方に一つの可能性を見出そうとする。これが「欲望」と呼ばれるものの本質である。

これは何も幼児期の発達過程に限った話ではなく、我々は日々、何かの不可能性に直面することで生起する感情に「欲望」の名前を無自覚的につけている。とりわけ、その「禁止のヴェール」に〈もの〉を描き出し、その不可能性を何か尊いものへと昇華させようとする営為を我々は「芸術」とか「愛」などと呼ぶ。

従って、もし仮に「転移」ではない純粋な意味での「愛」というものがあるとすれば、それは「何が何でもわたしは〈他者〉に愛されたい」という「要求」の水準ではなく、「何があってもわたしは〈他者〉を愛してる」という「欲望」の水準にあるということである。