解釈


1 禁欲原則

精神分析の重要な目標のひとつとして「要求」の恒常性や固着を超えた「欲望」の可変性や可動性へと向かう点が挙げられる。すなわち、欲望の弁証法化である。

この点、欲望は欠如に由来する。そして「欲望のグラフ」が示す通り、欲望の空間は「特定満足の要求」「愛の要求」の間に切り開かれる。

ラカンは「あらゆる発話は愛の要求である」という。分析主体が述べ立てる「自分を治して欲しい」「自分を知りたい」「精神分析を教えて欲しい「分析家にして欲しい」等々の様々な要求は「あなたの愛を勝ち取るために私は何をすべきかあなたが告げることを要求する」という一点に還元される。

このことから、分析家はその治療指針として、分析主体の言ってくる様々な要求を文字通りの「特定満足の要求」として承認しないという態度をとるのである。これを禁欲原則という。

言葉の意味は〈他者〉=聴き手によって決定される。分析家は分析主体の言葉を「要求の言葉」とも「欲望の言葉」とも聴き取ることができる。

そういった意味で分析家は隘路をたどらねばならないのである。分析家は分析の素材を分析主体から引き出しつつも、分析主体の「要求」を文字通りの「特定満足の要求」として聴かないことで、「特定満足の要求」と「愛の要求」を徹底的に分離する。

このような操作を経ることで、要求の連鎖という悪循環が絶たれ、要求の背後に潜む欲望の領野が活性化してくるのである。

2 神託的発話としての解釈

ゆえにラカン派における「解釈」とは分析主体が意識レベルで納得するような「説明による安心」ではなく、むしろ「衝撃による動揺」を与える「神託的発話」であることこそが望ましい。

分析主体は自らの症状、思考、夢、幻想に関する「説明による安心」を求めて分析家に「解釈」を「要求」する。しかしながら、ここで彼らの「要求」を即座に満たしてしまえば、分析主体は分析家にますます依存してしまう。

ラカンは「もたらされる効果が理解できるような解釈は、精神分析的解釈とは言えない」という。答えは外から与えられるのではなく、内側から湧き出でるものでなくてはならない。分析家は魚を与えるのではなく、分析主体が自ら釣りができるようになる手助けをしないといけないのである。

つまり解釈はパンチが効いている程よく、理解されることを意図しているのではなく、波風を立てることを意図すべきなのである。

3 解釈の多義性

ラカン派における解釈は、ある特定の意味に限定するのではなく、むしろ無数の意味を示唆するような多義的なものが多い。

なんとなれば解釈の持つその多義的な謎めいた意味作用は主体の内面で反響して、「欲望の主体」が鳴動し始めるからである。

フロイトによれば「解釈とはその真偽よりも生産的であるか否かが問題」なのであり、ラカンは「解釈は真であっても偽であってもいけない」という。

十分に考えられたことは曖昧に述べられる。言い方が曖昧であれば、逆に分析家は分析主体がそれをどのように取り上げて、そこに何を読み取るかを見ることができる。最初、気に障ったものでも後になって全くの真理として受け取られたりすることはよくあるし、また逆も然りである。たとえ的を得ない解釈だとしても、少なくともそれは分析作業を前に進める原動力にはなるのである。

4 解釈は「現実的なもの」を打つ

こうして、解釈は、クライエントの中でかつて一度も言葉にされなかった「現実的なもの」を言語化して行く。ラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールはこれを「干拓」と表現する。

ゆえに解釈とはーーー例えば、愛の言葉が多くの場合そうであるようにーーー相手の最も深い処へ、もっと大げさに言えば「いのちそのもの」に突き刺さらないといけないのである。すなわち、解釈は「現実的なもの」を打つ、ということである。