〈一者〉とララング


1 序

50年代までのラカン理論の中心概念は「欲望」であった。ところが60年代に入り、徐々に「享楽」という概念が前景化し「欲望」は背後に退いていく。

この点、ラカンは当初「対象 a 」という概念を通じて「享楽」を捉えていたが、70年代になるとその「対象 a 」すらも「見せかけ」であると言い出した。ここで導入されたのが〈一者〉という概念である。


2 存在論から〈一者〉論へ

ラカンは、セミネール19「ウ・ピール(1971~1972)」において、症状が持つ「象徴的意味の側面」と「現実的享楽の側面」という二つの側面を、それぞれ「存在論」と「〈一者〉論」に対応させた上で「存在論」の価値下げを行なっている。すなわち、症状が持つ「象徴的意味の側面」を問題とする「存在論」を使っている限り、症状が持つ「現実的享楽の側面」を捉えることはできないと述べる。

そしてラカンはセミネール20「アンコール(1972~1973)」において「性別化の式」の構築する中で、「対象 a の享楽=ファルス的享楽(男性の享楽)」とは異なる「〈他〉なる享楽(女性の享楽)」を発見し、これを「各人の持つ特異的享楽=〈一者〉の享楽」として位置付けることになる。こうしてラカンは「象徴的意味の重視=存在論」から、「現実的享楽の重視=〈一者〉論」へと転回を果たすのである。


3 〈一者〉の享楽

〈一者〉とは子どもが初めて言語と遭遇した時に刻まれる原初的トラウマ的満足体験の痕跡である。人はこの原初的トラウマ的満足体験をどうにかして反復しようとする。ラカンはこのような反復現象を「〈一者〉の享楽」として捉えた。

つまり「欲望」とは所詮「対象 a の享楽(見せかけ)」が生み出した「〈他者〉の欲望(借り物)」であり「〈一者〉の享楽(本物)」への防衛として創り出された幻想に他ならないということである。

そして、この「〈一者〉の享楽」は「単独で実在する最初のシニフィアン=S1」に紐付けられる。すなわち「S1」とは、症状がもつ「現実的享楽の側面」が刻み込まれた「〈一者〉のシニフィアン」である。

つまり〈一者〉論とは「S2=知のシニフィアン」よりも「S1=〈一者〉のシニフィアン」を優位に置く考えに他ならない。これは精神分析の再定義を意味している。つまり精神分析とは「S2=知のシニフィアン」の改訂ではなく「S1=〈一者〉のシニフィアン」の析出を目指す営みということになるのである。


4 ララング(lalangue)

⑴ 子供が最初に出会うトラウマ的シニフィアン

「〈一者〉論」へと転回後のラカンは「言語的無意識(S1→S2)」以前の、言語として構造化されていない単独のS1を重視する。

この点、子供が最初に出会うトラウマ的シニフィアン(一なるもの/ひとつきりのシニフィアン/一者のシニフィアン)を、ラカンは「ララング(lalangue)」という。「ララング(lalangue)」とはラカンの造語であり、冠詞付きの国語(la langue)の冠詞と名詞を一語に融合させたものである。

ララングとは「S1→S2」というシニフィアン連鎖以前のもの、それはあたかも蜜蜂の群のように「essaim(群集)」をなしている言語的存在「S1」である(「S1」と「essaim(群集)」はほぼ同じ発音である)。

子どもの身体がララングと邂逅した時、その痕跡は「一の印」として身体に刻み込まれ「トラウマ的享楽/自体性愛的享楽」がもたらされる。こうしたトラウマ的享楽/自体性愛的享楽をもたらす言語であるララングは神経症者、倒錯者、精神病者、自閉症者といったあらゆる主体が初めて出会う言語である。すなわち、全ての主体にララングは刻み込まれているのである。

子どもにとってララングとは情報の伝達手段(公共的コミュニケーション)ではなくトラウマ的享楽/自体性愛的享楽の再現手段としての言語(私的言語)に他ならない。しかしある時から、子どもはララングを使うことを諦め情報の伝達手段(公共的コミュニケーション)としての言語(langage)の世界(象徴界)へ参入する(疎外)。

この象徴界へ参入は通常、ララングに新たに獲得した他のシニフィアンを付け加える作業によってなされる。こうして子供は次第にララングと折り合いをつけ「シニフィアンによって構造化されたもの=無意識(S2)」が形成される。

しかし一方でララングに刻まれたトラウマ的享楽/自体性愛的享楽は、シニフィアンの構造化に回収されることはなく剰余享楽( a )として回帰することになる(分離)。


⑵ 詩とララングの相違

ララングは子供が文法を受け入れる以前の言語の次元であり、言葉をコミュニケーションのためではなくその特異的享楽を追求するため使用される。

この点、文芸作品の中には詩のようにララング同様、意味内容の伝達より言葉そのものに享楽を見出すもの見受けられる。もっとも、ララングは子供が特異的享楽を得るために使う私的言語であるが、詩は主体がララング(S1)が齎す特異的享楽を一旦断念し、シニフィアン構造(S2)を受け入れた上で〈他者〉を相手に創作され〈他者〉の承認を得て享楽を得ようとするものである。

つまり「特異性」とはそのままでは「個性」とはならない。「〈他者〉の承認=一般性」というハードルを越えて初めて、「特異性」は「個性」へと昇華するのである。

5 現実的無意識

このように考えると、無意識を解明するには、無意識の知(S2)を相手にするのではなく、その知の発生源にある「物質的な語」であるララング(S1)を取り扱わなくてはいけないことになる。

症状を回復不可能なものとして維持しているシステムの根幹には、自体性愛的な享楽を纏ったシニフィアン(S1)の反復がある。つまり「象徴的無意識(言語のように構造化されている無意識)」以前にS1が群集(S1・S1・S1・・・)し享楽を追求する無意識があるということである。これを「現実的無意識」という。この直接に現実界につながる無意識はかつてフロイトがエス(Es)と呼んだものに相当する。

結果、現実的無意識に対して、象徴的無意識は一段階格下げされることになる。


6 自閉症圏とララング

ラカン派の分析家、コレット・ソレールは「疎外と分離」の概念を参照し、自閉症を「疎外への拒絶」の問題として捉える。すなわち自閉症者とはララングの場所に留まった子供たちであると言える。

自閉症全般に特徴的な常同反復行動(リトルネロ)とは「〈一者〉の純粋な反復」に他ならない。つまりここでは、ララング(S1)は他のシニフィアン(S2)と一度も連鎖することなく「トラウマ的享楽/自体性愛的享楽=自閉的享楽」を得るためのツールとして常同反復的に機能しているのである。

一方で、いわゆるアスペルガー型の自閉症者においては、イントネーションがフラットである、方言が理解できない、ユーモアや皮肉が理解できない、といった特徴がしばし見られる。これはララング(S1)と他のシニフィアン(S2)の連携が切断されている事を意味している。

つまり自閉症者の言語使用パターンは、一方でララング(S1)の常同反復、他方でララングの連携無きシニフィアン(S2)の使用に二分される。こうした「ララング(S1)と他のシニフィアン(S2)の切断」という観点からはカナー型とアスペルガー型の自閉症を統一的に把握することが可能となる。