S1→S2


1 症状の意味と症状の根

60年代後半以降、ラカンは精神疾患の症状において「象徴的意味の側面(症状の意味)」より「現実的享楽の側面(症状の根)」を重視するようになる。

かつて、フロイトは、その症状が持つ意味を解釈することによって症状を消失できることを発見した。確かに症状とは「無意識の形成物=象徴的意味の側面(症状の意味)」を持っている。しかしやがてフロイトは、どれだけ解釈を投与しても症状が消失しない症状や、たとえ解消したとしてもすぐに別の症状が生み出される症例に頻繁に出会うようになる。

なぜ症状の意味がどれだけ解釈されても、患者はその症状を手放そうとしないのか?つまりそれは、症状が患者に対して、無意識的な隠喩表現を超えた何がしかの「満足」をもたらしているからである。

ここでいう「満足」とはそれぞれの主体において異なる「自体性愛的/特異的/単独的な享楽」である。症状の「象徴的な意味の側面(症状の意味)」とは、その「自体性愛的/特異的/単独的な享楽」が不可能になった際の代替物にすぎないのである。

こうして後年のラカンは症状における「現実的享楽の側面(症状の根)」を重視するようになる。神経症者や精神病者の症状は多様であるが、症状の多様性は「症状の意味」の側にあるのではなく「症状の根」の側に、すなわち症状が持つ享楽のモードにあるというわけである。


2 症状の一般理論

こうしてラカンは、セミネール20「アンコール(1972~1973)」、セミネール22「R.S.I(1974~1975)」、1975年の講演「ジュネーヴにおける『症状』についての講演」を通じて、神経症と精神病を区別せずに論じることを可能とする「症状の一般理論」を構築する。

これが「症状の一般理論」と言われるのは、神経症の症状形成のみならず精神病の症状形成もまた「S1→S2」と書き表すことができるからである。

ここでいうS1とは身体的トラウマからくる反復的享楽が刻まれた「〈一者〉のシニフィアン(無意味のシニフィアン)」である。

このS1に対して付け加えられるのが「言語によって構造化された無意識」としてのS2である。

S1は症状の反復を基礎付け、S2はシニフィアンを連鎖させ隠喩的な意味を生み出すのである。 つまり「何かを言わんとしている」隠喩的な症状の根底には反復的享楽としての症状がある。

このように、あらゆる「症状の意味=S2」は「症状の根=S1」から発展して出来上がっているということである。

症状の一般理論は、神経症的な「無意識の形成物としての症状」という特殊理論を相対化することができる。このように症状を把握する場合、もはや、神経症と精神病の鑑別診断は不要となる。症状の一般理論以降のラカンは「ポスト鑑別診断」の立場をとるのである。