ボロメオの環
1 想像的なもの・象徴的なもの・現実的なもの
ラカンは人の心的構造を「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」という三つの異なる位相の上に成立するものとして捉える。すなわち、我々は生の現実をイメージと言語で捉えて、パーソナルな現実を創り出しているのである。
そして、この三つの位相が如何なる関係にあるかを示したものが晩年のラカンが探求した「ボロメオの環」と言われるものである。
2 ボロメオの環の導入と展開
晩年のラカンのセミネールには「ボロメオの環」への言及が頻出する。「ボロメオの環」とは、互いには交差しない三つの輪が結び目を形成することで三位一体となったトポロジー的構造体のことをいう。
ボロメオの環はセミネール19「ウ・ピール(1971~1972)」で導入され、セミネール20「アンコール(1972~1973)」で展開されることになる。
もっとも当初、ボロメオの環は、後に見るように「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」と紐付けられてはおらず、次々に与えられるシニフィアンがいかにして一つの構造の中で意味を担うのかという、シニフィアンの自己構造化の論理を示すものとして捉えられていた。
つまり、ボロメオの一つ一つの輪は、文字を示すものであり、シニフィアン連鎖が意味をなすためには、それぞれの輪が互いの関係の中で一つの安定した構造をなす必要があるということである。
ラカンはボロメオの環が解かれた例として症例シュレーバーを引きつつ「この数学的ランガージュの特性は、一つの文字が欠けるだけで、他の全ての文字が、単にその配置に応じた価値を保ち続けられなくなるだけでなく、すべてバラバラになってしまう」と述べている。
しかしその後、ラカンはセミネール21「騙されないものは彷徨う(1973~1974)」において、ボロメオの環を単にシニフィアンの構造を示すものとしてではなく「想像的なもの(I)」「象徴的なもの(S)」「現実的なもの(R)」という三つの領域と紐付ける。ここでボロメオの環は現在広く知られる姿となる。
「想像的なもの」「象徴的なもの」「現実的なもの」としての三つの輪はそれぞれ独立しており、互いに直接の関係は持たず、特異な仕方で重なり合っている。こうしてボロメオの環は三つの領域に「共通尺度」を与えるものとみなされることになる。
3 意味と対象 a
この点、「象徴的なもの」の領域において自己構造化するシニフィアンは「想像的なもの」の領域において蓄積する「シニフィカシオンの塊」と重なる事によって「意味」を見出すことになる。
もっとも、そうした「象徴的なもの」と「想像的なもの」の重なり合いは「現実的なもの」と離れて成立するわけではない。「現実的なもの」に属する対象 a との関係がなければ「象徴的なもの」と「想像的なもの」の重なり合いは支えを失って崩れ去ってしまうのである。
そして、この対象 a を起点として、「現実的なもの」は「象徴的なもの」と「想像的なもの」の重なり合う中でそれぞれ異なる2種類の享楽を見出すことになる。これが「ファルス享楽」と「〈他なる〉享楽」である。
4 ファルス享楽
ボロメオの環において「象徴的なもの」「現実的なもの」の重なり合いの中に位置付けられた「ファルス享楽」は、「アンコール」における男性の論理式の例外、すなわち「あるものはファルス関数によって規定されていない」というテーゼに対応している。「象徴的なもの」が「普遍」として成り立つには「例外」を内的に排除することが必要となる。例外が「外-在」することにより、初めてシニフィアンというシステム全体が安定するという論理である。
こうした「例外」に位置するファルス享楽を夢想し、我々は「欲望」という名の終わることのない永続的運動に人生を費やすことになる。すなわち、ファルス享楽は象徴界内部にある何かを「所有」することによって得られる享楽とも言える。
5 〈他なる〉享楽
他方、ラカンはシニフィアンの秩序の外に「ファルス享楽」とは異なる「〈他なる〉享楽」を見出していく。それはボロメオの環においても「象徴的なもの」の外部にある「想像的なもの」と「現実的なもの」が重なり合う場所に位置付けられている。
「〈他なる〉享楽」の典型としては、ルドルフ・オットーのいういわゆる「ヌミノース体験」が挙げられる。ヌミノース体験とは我々の自我を超えた圧倒感、抗しがたい魅力、近寄りがたい畏敬の感情を惹起させる体験をいう。様々な宗教の根本にはこのような象徴化不能な「それ」としか言いようのない神秘体験が存在している。すなわち「〈他なる〉の享楽」は象徴界外部にある何かを「体験」することによって得られる享楽とも言える。
6 ボロメオの環と幸福の在り処
ある意味で、ボロメオの環はこの社会の中に居場所を見出せず、生きづらさを抱えている人に対して幸福の在り処を示しているのではないか。
終身雇用や年功序列を前提とした昭和的なロールモデルが崩壊した昨今において、車、結婚、マイホームなどといった「ファルス享楽的なもの」を得るためのハードルは確実に上がったと言わざるを得ない。
けれども、ボロメオの環が示すように享楽の道は一つではない。生の現実は変えることはできないかもしれないけど、パーソナルな現実は変える事ができる。すなわち、人生を本当の意味において実り豊かなものにする鍵は、容姿でも財産でも社会的地位でもなく、むしろしばし理不尽とも言える日常において見い出す事ができる特異的な煌きの中にあるのではないか。