サントーム


1 序

1970年代のラカンはサンタンヌ病院で行っていた患者呈示を通じて、幻覚や妄想といった古典的パラノイアや統合失調症の症状が顕著ではないにも関わらず、身体感覚の欠如、独特の浮遊感、特異な言語使用、集団からの逸脱といった様々な特徴から精神病の臨床構造を持つと判断せざるを得ない患者と向き合うことになる。

もはやエディプスコンプレックスの理論だけでは臨床の現実に向き合うことは不可能なことは明らかとなった。こうしてラカンは精神分析を再定義するための最後の理論的変遷を行う。

セミネール23「サントーム(1975〜1976)」においてラカンはアイルランドの作家、ジェイムズ・ジョイスを取り上げ、症状を「サントーム(sinthome)」と呼ぶようになった。「サントーム(sinthome)」とは「のちに症状と呼ばれるようになったものの古い書き方」という意味であり、症状を「象徴的意味の側面(S2)」ではなく「現実的享楽の側面(S1)」から捉えるものである。

「サントーム」のセミネールで示されるボロメオの環の基本構造は「想像的なもの(I)」「象徴的なもの(S)」「現実的なもの(R)」の三つの輪は「何らかの第四の輪(サントーム)」で補填されることで解体を免れているというものである。

つまり「〈父の名〉=エディプス・コンプレックス」というのはこの補填の一方法に過ぎず、もはや神経症と精神病はの違いとは補填の方法の違いに過ぎないことになる。すなわち、サントーム概念の導入は、ある意味で神経症と精神病の境界線を消し去ってしまうのである。


2 ジェイムズ・ジョイス

ジェイムズ・ジョイス。奇作「フィネガンズ・ウェイク」で後世に名を残すアイルランドが生んだ特異な小説家である。

ジョイスの作品「若い芸術家の肖像」において、主人公(おそらく若き日のジョイス)は敬愛するバイロンの評価をめぐって友人たちと口論になり暴行を受けるが、友人たちへの憎しみの感情が湧かず「まるで果実の熟したやわらかい皮をむくみたいに、あの唐突な怒りをあっさり剥ぎ取ってしまったように感じた」と書いている。

つまりジョイスは、自身の身体イメージに関わりを持っていない。ジョイスは明確な発病を示さない特殊な統合失調症であったと言われる。アルコール依存症のジョイスの父親は象徴的父親の役割を果たしていなかった。こうして〈父の名〉の排除の結果、ボロメオの環においては想像界の輪が他の輪と絡み合っていないということである。

人にとって想像界は身体イメージを支えている部分である。我々は一般的に鏡像段階を通して身体のイメージをもとに自我を作り上げる。ゆえに想像界の輪が外れるということは主体が自分の身体イメージを失い、自我を支えるものがなくなってしまうということである。

そこで、彼は身体イメージの代わりに「エクリチュール(小説を書くという行為)」によって「芸術家としての自分という固有の場所=エゴ」を作り上げることを、三つの輪をかろうじて繋ぎ止めていた。

ラカンはこの「エクリチュール」に相当する部分が、ボロメオの結び目の解体を防ぐための「サントーム」として機能しているという。すなわち「ジョイスは自らが名を望むことで、父性の不在の埋め合わせを行なった(ラカン)」のである。


3 フィネガンズ・ウェイク

もっとも、芸術によって自らの存在を確保しようとするのはジョイスだけではない。すべての真の芸術家は自らの存在確保のために想像する。ではジョイスの特異性とは何であろうか?

我々の日常は世界にファンタスムをかけてその中で生きている。いわば我々は物語の中で生きている。そしてそのファンタスムは「言語のように構造化された無意識(S2)」に由来する。言うなれば我々は無意識(S2)を定期購読していると言える。

これに対して、ジョイスは無意識(S2)を購読停止し「特異的/単独的な享楽」が結び付いたララング(S1)に作品の源泉を求める。それは彼の最後の作品「フィネガンズ・ウェイク」において「物語の不在」として現れている。「フィネガンズ・ウェイク」の中で提示する享楽の奔流はララングの水準に現れる自閉的享楽である。ジョイスは文学においてファンタスムを否定しようとしたのである。

もっとも〈他者〉への働きかけなく〈一者〉の享楽の自己完結のみでこの社会を生きていくことは困難である。通常は主人のディスクールに依拠して〈他者〉への働きかけが行われるが、ジョイスは大学人のディスクールを通して〈他者〉とのつながりを確保しようとする。つまり、ジョイスは自らのララングをもとに創り上げた「フィネガンズ・ウェイク」に群がる大学人を〈他者〉として選んだのである。

このように、ジョイスが自らのララングを利用して創り上げた作品を〈他者〉に認めさせることで「特異的/単独的な享楽が刻み込まれている主体の真の固有名=サントーム」を見出した。つまり、ジョイスは文学作品の創造によって分析経験を経由することなく精神分析の終結に到達したといえる。


4 逆方向の解釈

古典的なラカン理論において「症状」とは無意識の形成物であり、精神分析的解釈とは症状に隠された無意識的意味を詳らかにする作業だとされた。こうした解釈を「意味の解釈(順方向の解釈)」という。それは既存の無意識の知に新たな知を付け加えるような解釈である。

しかし、そもそも症状をはじめとする無意識の形成物とは、無意識それ自身が日頃から既存のシニフィアンを勝手に解釈してそこに意味を付け加え続けているからこそ生み出されるのである。そうであれば「意味の解釈(順方向の解釈)」は、症状を解消させるどころか、むしろ症状形成を促進してしまう側面を孕むことになる。

症状の一般理論以降、ラカンは症状が持つ「象徴的意味の側面(症状の意味)」より「現実的享楽の側面(症状の根)」を重視する。精神分析がかなり進んでも人が症状を手放そうとしない理由は症状が持つ「現実的享楽の側面(症状の根)」に他ならない。

ならば解釈においても「意味の解釈(順方向の解釈)」とは正反対の技法が要求されることになるであろう。ラカンの娘婿であるジャック・アラン・ミレールが言うところの「逆方向の解釈」である。

このような解釈技法はセミネール11「精神分析の四基本概念(1964)」で「解釈とは主体における無意味の核を取り出すことである」と述べた時、既にラカン理論の中に胚胎され、4つディスクールの理論において分析家のディスクール下段を「S2//S1」とすることで定式化されている。

逆方向の解釈は、シニフィアン連鎖(S2)を切断し「無意味のシニフィアン」であるララング(S1)を析出させる。すなわち、現代のラカン派にとって「症状を読む」とはもはや「症状の意味を読む」ではなく「症状の無意味を読む」ことに他ならないのである。


5 症状への同一化

もっとも、逆方向の解釈によってララングを析出したとしても、再びララングは無意識の知(S2)と結びつき、意味を持った症状を形成するかもしれない。つまり、ララングとは「症状の治癒不可能性」の証であり、それはあらゆる分析が「終わりなき分析」であることを意味している。

しかし、最晩年のラカンはこの「症状の治癒不可能性」こそがむしろ分析終結のポジティヴな条件として考えるようになる。こうしてラカンは精神分析の終結条件を「症状との同一化=症状とうまくやっていくこと」であると定義する。

「症状との同一化=症状とうまくやっていくこと」とは「特異的な享楽=〈一者〉の享楽」に対する主体の位置を根本的に更新する営みである。またジャック・アラン・ミレールが言うように症状が持つ「現実的享楽の側面(症状の根)」が、「症状の自閉的側面」であるとすれば「症状とうまくやっていくこと」とはいわば「洗練された自閉症」を目指す生き方ともいえるであろう。こうして主体はララングを自らのものにした時、サントームは紡ぎ直され、そこには新たな可能性が切り開かれるのである。


6 「これでよい」と思えるということ

「症状とうまくやっていく」。ラカンはここで別に奇抜な主張をしているわけではなく、むしろ人生論的意味ではきわめてまっとうなことを言っていると思う。

我々はいつのまにか「普通こうである」という「〈他者〉の欲望」をあたかも自分の欲望であるかの如く思い込んで生きている。

普通の感性、普通の意見、普通の生活、普通の人生。

もちろん、人は社会とのつながりの中で生きていく以上「〈他者〉の欲望」というのもある程度は大事なことである。

けれど「みんなやってるから私もしなくちゃ」「みんなできているのに私はできない」といった、本来ありもしない「みんな」などという〈他者〉が産み出す幻想に囚われてしまえばそこから様々な生きづらさが生じてきてしまう。

臨床心理学者の河合隼雄氏は「心」を超えた「たましい」の重要性を強調している。ユング派の分析家である河合氏はおそらくユングの言う「自己」を念頭に置かれていると思うが、ここでいう「たましい」とはフロイトがいう「エス」、そしてラカンがいう「ララング」に通じるものがある。

つまり、その時その時において、自分が執着しているもの、囚われているものは本当に自分の「たましい」を打つ何かなのか?を問い続ける事こそが自らの内にある「〈一者〉の享楽」を追求していく営みになるという事である。

こうした営みを積み重ね「〈他者〉の欲望」と「〈一者〉の享楽」との間の何処かに「これでよい」と思える自分なりの特異的な調和点を見出す事が出来た時、人はきっと、その人なりの幸福を生きていけるのではないだろうか。