ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」読解ノート


1 序

本書はラカンが国際精神分析協会(IPA)を「破門」されたその翌年に行われたセミネール(連続講義)を採録したものである。

ラカンは「精神分析の倫理」のセミネールにおいて享楽の場として「〈もの〉=das Ding」の概念を取り上げ、いよいよ「現実界」をその射程に入れる。そこで、ラカンにとって次に取り組むべき問題は、分析の場において「現実界」の概念を分析家が実際に操作できるようにすることであった。

こうして「精神分析の倫理」以後、「転移」「同一化」「不安」とセミネールが重ねられていく中で、ラカンは「〈もの〉=das Ding」を「対象 a 」という概念に洗練させていく。

1963年、「父の名」のセミネールが開始される。ところがこの年、ラカンは以前から不和の関係にあったIPAから教育分析家の取消処分(ラカン曰く「破門」)を受けることになる。こうして「父の名」のセミネールは一度だけ開かれた後、中止の憂き目となる。

このような逆境にも関わらず、ラカンは破門後、SFPを発展的に解消し、エコール・フロイディアンを結成。中断されていたセミネールは翌年1月からそれまでのサンタンヌ病院から高等師範学校へと場を変え、その装いも新たに「精神分析の四基本概念」と題して再開されることになる。


2 無意識・反復・転移・欲動

まず、本書の序盤から中盤にかけてはタイトルの通り、精神分析における四つの基本概念の本質が詳らかにされていく。すなわち「無意識」「反復」「転移」「欲動」である。


⑴ 無意識

我々は自らの存在を何となく「我思う。ゆえに我あり」といったデカルト的主体だと理解する一方で、思わぬ言い間違い、見たくもない悪夢、そして不安、恐怖、強迫観念といった神経症的症状といった、まさしく「何者か」によって「我、思わされている」としか言いようのない事態にしばし陥る。この「何者か」の正体こそが自我の制御の及ばない領域、すなわち「無意識」という〈他者〉に他ならない。

ラカンは「無意識とは言語のように構造化されている」という。無意識においてシニフィアンは移動、圧縮の規制によって互いに結び合い、一つの網目のような構造をなしているということである。

また、ラカンは無意識を時間的拍動として捉えている。無意識は「言違い」「機知」「夢」など「無意識の形成物」を通じて一瞬の裂け目として開かれるも、そこに意味が与えらるや否や再び閉じてしまうという開閉運動を繰り返しているということである。

ここに一つのパラドックスがある。すなわち、無意識を捉えたとすると、それはもはや無意識ではなくなるのである。


⑵ 反復

従来、反復と転移は同じ現象と考えられていたが、ラカンはこれを異なった違う次元に属するものだという。転移と反復を分離する時、反復は分析の場においてどのように位置付けられるのであろうか。

上述するようにラカンは「無意識とは言語によって構造化されている」という。もっとも、世の中には言語化できない「それ」としか言いようが無い快楽原則の彼岸、すなわち「現実界」が存在する。

「現実界」に遭遇した主体は「それ」を無理矢理に言語化しようとした結果、そこに「出会い損ね=歪み」が生じる。これを一般的には「心的外傷(トラウマ)」と呼ぶ。この「心的外傷(トラウマ)の再生」という「反復」こそが数々の神経症的症状の核をなしていると言える。

この点「現実界」との遭遇を「不満」として経験することで以後、嫌悪感を持って対応するのがヒステリー者である。これに対して「現実界」との遭遇を「過多の享楽」として経験することで以後、これを回避しようとするのが強迫神経症者である。

ラカンはアリストテレスの言う「automaton(オートマトン)」と「tuche(テュケー)」により「反復」という現象を説明する。「automaton=自動的に動くもの」とは反復現象自体を表し「tuche=運」は「現実界との遭遇」である。「現実界」は常に「automaton」の彼方にあり「tuche」の失敗が快感原則による記号の反復を強要する。

つまり「automaton」の背後には「tuche」があり「tuche」の周りに「automaton」がシニフィアンの網目を張り巡らせているのである。


⑶ 転移

精神分析的治療とは、「それ」との出会い直しの場とも言える。分析家が分析主体の語りを傾聴し「無意識のスクリーン」を演じる時、分析主体の中に「知を想定された主体(Sujet suppose Savoir=SsS)」というべき分析家への信頼が生まれる。この現象を「転移」という。

この点、「転移」は時に「反復」と同一のものと看做されたりもするが、厳密に言えば転移には「過去の反復」の他に「それに付随する情動」という二つの側面がある。後者を前者から切り離して考えるとき、転移現象が誘発される動因は「知を想定された主体」に求められる。

こうして、分析家は「知を想定された主体」として位置付けられることで「情動としての転移」を利用して「解釈」を与え、分析主体の「欲望」を弁証法化させていくことが可能となる。

また、分析家でなくとも、誰であれ「知を想定された主体」の機能が受肉される時、そこに転移は成立する。すなわち、転移の本質はある人が〈他者〉の欲望と出会うということである

もっとも、ラカンによれば、転移とは「偽の愛」である。「愛する」とは本質的には「愛されたい」ということである。ラカンは「転移とは無意識の現実を現勢化することである」という。転移は自由連想を停止させ、無意識の閉鎖の時をもたらすのである。


⑷ 欲動

無意識を一つの時間的拍動(開閉運動)として考える時、無意識はひとつの「透明な存在」あるいは「空」であり、そこに主体が存在する余地はない。

この時、主体は「シニフィアンの外部にあるもの=対象 a」を通じて自らの存在を得ようとする。このような主体と「対象 a 」の関係性を「欲動」という。

分析家は分析主体の「欲望」を弁証法化させた後、今度は「欲動」を顕在化させていく。「欲望」と「欲動」は何が違うのであろうか?

この点、「欲望」は特定の対象を持たず、一見「欲望の対象」として見えるものは「一つのルアー」である。そして「欲望とは〈他者〉の欲望」である。つまり欲望というのは本質的に両親や世間といった〈他者〉への依存が前提となっているのである。

これに対して「欲動」はあらゆる対象に結びつき、高まりも衰退もない恒常的な力である。つまり「欲動」と〈他者〉に依存しない「自らの自由な満足そのもの」と言うべき「無頭の主体」なのである。


3 疎外と分離

「このようなわけで、私は今日、〈他者〉の場のシニフィアンに依存しながら主体が実現されてゆくにあたって、どんな演算が行われているかを、みなさんにお話ししようと思っているのです(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」275頁より)」

無意識、反復、転移、欲動。これら四つの基本概念は、大まかに言えば二つのカテゴリーに分類できる。

まず「無意識(シニフィアンの網羅)」と「転移(シニフィアンの効果としての開閉運動)」はいずれも「象徴界」に結びついており、フロイトの第一局所論(意識-前意識-無意識)と関連する。

一方で「反復(現実界との遭遇)」と「欲動(対象 a との関係)」はいずれも「現実界」に結びついており、フロイトの第二局所論(自我-超自我-エス)と関連する。

ラカンはこれらの四つの基本概念を詳らかにすることを通じて、無意識とエスの関係を統合する。こうしてセミネールの佳境において集合論の図式を援用した二つの演算が示される。これが「疎外と分離」と呼ばれるものである。


⑴ 疎外

「疎外」とは我々が〈他者〉と出会うことで、その外部に「(失われた)主体=$」として排出され「欲動満足=享楽」を失い〈他者〉に依存する過程である。

子どもが初めて「言語」という〈他者〉に遭遇するとき、子どもは一つのマークである「S1(無意味のシニフィアン)」を授かり、これに同一化する。

ここで子どもは一つの選択を強要される。「存在か意味」かと言う選択である。ラカンのたとえで言えば「金(存在)か命(意味)か」である。

この点「金(存在)」を選んだ場合、子どもはひたすら「S1」を繰り返し、一つの単語で一つの文を生み出そうとする一言文構造への固着が成立する。

これは精神薄弱、あるいは自閉症の選択と言える。つまり、もし人が自由を選んだらそれこそ一巻の終わりであり、金も命も両方とも即座に失ってしまう。自由とは空腹で死ぬ自由でもある。

そして、もう一つは、「命(意味)」を表す「S2」の選択である。ここで主体は「S1」と「S2」を結びつけ一つの意味を生み出す。

結果、子どもはこの「S1→S2」のシニフィアン連鎖の外部に主体として排出される。

このように「無意味のシニフィアン=S1」は「もう一つのシニフィアン=S2」に対して主体を代理表象する。言い換えると、子どもは〈他者〉に服従することによって、シニフィアンに自分を代表させることができるという事である。

「もう一つのシニフィアン=S2」は主体の「アファニシス」という効果をもつ。ここから主体の分割という事態が生起する。

つまり「もう一つのシニフィアン=S2」こそが原抑圧の中心点を構成する。他のあらゆる抑圧はここを起点として生じるのである。

我々が「意味」を選ぶ時、「意味」はこの「無意味の部分」によってくり抜かれた姿においてしか存続しない。そして、この「無意味の部分」こそが主体の実現にあたって「無意識」を構成するものである。

このように「金(存在)」を選べば全てを失う。「命(意味)」を選べば金(存在)のない命が、つまりくり抜かれた命が残る。どちらをとるにせよ中央部の共通部分は一部かけてしまう。奴隷は金(存在)をもぎ取られて命(意味)を永らえるということになる。

このように疎外は本質的に「ヴェル=強いられた選択」によって特徴付けられる。疎外においては子どもと〈他者〉という二つの陣営が問題となり、子どもは不可避的にその闘争に敗れる。つまるところ疎外とは〈他者〉への隷属の道なのである。

そういう意味では 精神病や自閉症とは〈他者〉に対する子供の勝利の形式として理解することもできるであろう。


⑵ 分離

疎外において、S1→S2の効果として生まれた主体は存在欠如として外部に排出される。そしてそれは「言語=〈他者〉」によって身体が支配されることを意味している。

このように疎外が象徴界へ参入であるとすれば、分離は再び現実界へ回帰する過程である。つまり、分離とは再び「享楽」を取り戻し〈他者〉から自由となる過程である。

分離の本質は、二つの欠如が重なる場である。つまり、疎外によって存在欠如として生み出された主体は、分離において〈他者〉のなかにも一つの欠如を見出し、ここで成立過程を異にする二つの欠如が重なり合う。

つまり、主体は疎外において言語の〈他者〉Aと関係し、分離においては欲望の〈他者〉Ⱥと関係する。

ここで、主体$は〈他者〉Ⱥの欠如=(a)の中に自らの場、つまり「欲動の対象=対象 a 」を見出すことで、欲動=$♢aを構成するのである。

一般的な神経症圏における主体は(a)に自我を置くことで分離を行う。あるいは(a)の場に芸術作品や至高の愛といったものを置き、自らの固有の場を見出すことで分離を行うこともある。さらには、メランコリーにおける自殺も一種の分離といえる。彼は(a)に同一化して、「死」という無の場に自らを投入し、文字通り他者からの分離を果たすのである。


⑶ 治療指針としての疎外と分離

疎外と分離の図式は個体発生の図式であると共に、治療指針の図式としても考えられる。すなわち、分析の場における無意識の開閉運動は疎外と分離の繰り返しの運動として考えることができるのである。

自由連想が開始される時、分析主体の無意識は花開く。分析主体は分析家を「知を想定された主体=SsS」として仰ぎ見て、ここで無意識は閉ざされる(疎外)。

この時、分析家は解釈をもって再び無意識の扉を開く。すなわち、分析家は分析主体のSsSを揺るがし、対象 a の位置を取るのである(分離)。


4 根源的幻想の横断

「根源的幻想を横断した主体は欲動をどのように生きるのでしょうか。分析の彼岸とはこのことであって、いまだかつて接近されたことがありません。(ジャック=ラカン「精神分析の四基本概念」368頁より)」

こうして人は分離を得ることにより、対象 a を獲得し、欲動の主体となる。もっとも人は象徴界を生きる以上、言語の主体であり、〈他者〉と関わることなしには生きてはいけない。

そこで、主体は分離を否定するため、対象 a を「欲望の原因」と看做して、自らを「〈他者〉の欲望」に同一化する。このような主体の「欲望のあり方」を「根源的幻想」という。

人は一人では生きていくことはできない。根源的幻想は人が〈他者〉と関わって生きる為には必要なものである。けれども、あまりに「〈他者〉の欲望」に縛られてしまうと今度は神経症的症状を典型とする様々な「生きづらさ」が生じてくるのである。

そこで、人は自らの主体性を自覚することで「欲望」と「享楽」を調和させ、〈他者〉とつながりつつも、主体が〈他者〉からの自由を獲得する必要がある。

この営みこそがラカンが精神分析の目標として宣明する「根源的幻想の横断」と呼ばれるものである。



5 欲望と享楽の円環

このように「欲望」と「享楽」は一見似ているが、異なる位相にある。おそらく、その違いは端的に言えば「幸せになる」と「幸せでいる」という違いだと言えよう。

この点「幸せになる」ということは、翻っていまは「幸せではない」ということである。すなわち「欲望」とは、いまの自分の境遇が世間一般でいう幸福の定義に当てはまらない苦しみを伴う。まさに「欲望とは〈他者〉の欲望」である。

ところが「幸せでいる」というのは、世間一般でいう幸福の定義とは無関係に、自ら幸福の定義を作り出す主体的選択に他ならない。すなわち「享楽」とは、たとえどんな境遇であろうと、今の自分自身を肯定できる考え方と言えるのではないだろうか。

ひとは運命の主体にならなければならない。たとえ選んだ覚えのない境遇であろうと、理不尽の連続とも言える人生であろうと、ひとはそれらを主体化して行かなければならないのである。すなわち、フロイトの言葉で言えば「それがあったところ、そこに私はあらねばならない」ということである。

こうしてみると「疎外と分離」の論理は突き詰めて言えば、我々が生きていく中、至る所で出会う〈他者〉ーーー例えば家族、学校、会社、恋人などーーーとの関係性を明らかにしたものと言える。

つまり人生とは幾度とな疎外と分離を繰り返し、その時々の幻想を横断していくという、欲望の生成と享楽への回帰が螺旋のようにめぐりゆく円環の理とも言えるものかもしれない。そして、仮に人生に「幸福の在処」というものがあるとすればそれは、欲望と享楽の両者の重なり合う領域に存在するのであろう。