現実と反現実


1 この生を物語るということ

人はその想像力をもって世界を照らし出し、自分なりの「生の物語」を紡ぎ出すことで、世界の中に自らの居場所を作りだす。

人はそれぞれの特異性を抱えながら一般性の世界を生きている。いわゆる「個性」というのは一般性の世界で認められた限りでのその人の属性であり、そこに回収しきれない特異性と上手くやる為に、人はその人なりの「物語」を必要とする。

いわば人は「物語」の中で生きているといえる。こうした「物語」を紡ぎだすための個人の想像力は、それぞれの時代において共有される想像力にある程度は規定されることになるのである。

では戦後日本社会を規定してきた想像力とはどのようなものであったか?そして、現代において参照され得る想像力とはどこに求められるのであろうか?


2 理想・夢・虚構

この点、戦後社会学を牽引した社会学者の見田宗介氏によれば、「現実」という言葉は3つの反対語をもっている。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」である。

こうした反対語を見田氏は「反現実」と呼び、人の「現実」は「反現実」によって規定されるという。

こうした観点から、見田氏は、プレ高度成長期(1945年から1960年頃)を「理想の時代」として、高度成長期(1960年頃から1970年前半)を「夢の時代」として、ポスト高度成長期(1970年後半以降)を「虚構の時代」として、それぞれ規定した。


⑴ 理想の時代(1945年〜1960年頃)

理想の時代。それは人々がそれぞれの立場で「理想」を求めて生きた時代と言える。1945年のあの夏、終戦の灰燼の中から戦後日本は出発した。瓦礫と化した「現実」の中を生きて行くために人々はなにがしかの「理想」を必要とした。

この時代の日本の「理想主義」を支配していた大文字の二つの「理想」として「アメリカン・デモクラシー」と「ソビエト・コミュニズム」というものがあった。この両者は対立しながら共にこの時期の「進歩派」として「現実主義」的な保守派権力と対峙した。

この点、進歩派知識人の代表的論客である丸山眞男氏は現実には二つの側面があるという。すなわち、人は現実に制約され決定されているという側面と、人は現実を決定し形成して行くという側面である。

いわゆる「現実主義者」はこの第一の側面だけをみるが、しかし真に現実を見るものは現実の第二の側面をも見出すのだと丸山氏は言う。つまり「理想」を希求する者こそが「現実」を希求する者であるという事である。

一方で「現実主義者」にしてみても「今日よりも明日は、明日よりあさっては、きっともっと豊かになる」という「理想」を追っていたと言える。

「理想の職業」 「理想の結婚」「理想の住まい」「理想の暮らし」「理想の人生」・・・こういった色とりどりの「理想」が戦後日本の、しばし奇跡とも称される経済復興の駆動力となったことは疑いないであろう。

つまり「理想主義」とは現実主義であり「現実主義」は理想主義であるという事である。けれども、いずれせよそこにあるのはリアリティを希求する欲望に他ならない。当時、街場の映画館の看板に踊った「総天然色」という文字がこのリアリティへの欲望を裏側から物語っているのかもしれない。

こうした「理想の時代」は1960年の日米安保条約の改定(継続)に対する闘争で「理想主義者」が「現実主義者」に敗れたことで終焉する事になった。


⑵ 夢の時代(1960年頃〜1970年代前半)

日米安保条約の改定を使命とした岸内閣の後を引き継いだ池田内閣は「所得倍増計画」を掲げ「農業構造改善事業」による農村共同体の解体と「新産業都市建設促進法」による全国土的な産業都市化により産業構造の転換を推進。そこでは高度経済成長に必要な「資本」「労働力」「市場」という三位一体の産業構造の変革が目指された。

こうした産業構造改革により、農村共同体における家父長的大家族の解体が進み「拡大家族」から「核家族」へというロールモデルの転換は、家族のあり方や個人の人生に関する様々な領域に変化を及ぼした。

ともかくも結果としては経済成長は軌道に乗り、60年代前半の世は「昭和元禄」「泰平ムード」に酔いしれる。経済的繁栄は国民生活に物質的幸福を齎した。テレビ、洗濯機、冷蔵庫という「三種の神器」がほぼ普及し、今度はカラーテレビ、クーラー、自動車が「新・三種の神器」として喧伝されだした。

1963年に行われた全国的な社会心理調査の項目に、明治維新以降100年の歴史のそれぞれの時期を色彩で表すとすれば何色がふさわしいかという項目があり、結果、最も多かった回答は明治は紫、対象は黄色、昭和初年は青・緑、戦争中は黒、終戦直後は灰色。これに対し当代は「ピンク」だった。

そして同じく1963年に大ヒットしたのが「こんにちは赤ちゃん」という歌謡曲である。ここにはまさしく「ピンク色の夢の時代」の気分が純化した形で表出していたのではないだろうか。

こうして理想の時代における「理想主義者」たちの信じた現実は実現しなかったが「現実主義者」たちの望んだ理想は実現した。

このように1960年代前半が「あたたかい夢の時代」であったのであれば、後半は「熱い夢の時代」と言われている。

当時、アメリカ、フランス、ドイツを中心として発生した大規模な学生反乱は高度経済成長只中の日本にも波及する。この時代のラディカリストな青年にとっては「アメリカン・デモクラシー」も「ソビエト・コミュニズム」も「豊かな暮らし」とやらも、かつての理想たちすべてが抑圧の象徴であり打倒すべき対象でしかなかった。「理想」に叛逆する「熱い夢」が沸騰した時代ということである。


⑶ 虚構の時代(1970年代前半〜1995年頃)

1973年のオイルショックにより長らく続いた高度経済成長は終りを告げた。そしてかの長嶋茂雄が「巨人軍は永久に不滅です」という名句を残して現役引退した1974年、実質経済成長率は戦後初めてマイナス成長を記録。この年の「経済白書」の副題は「経済成長を超えて」。こうして時代はポスト高度成長期へと遷移する。

こうして「理想」も「夢」もない時代が到来した。こうした時代状況において人々は時代の「反現実」を「虚構」に求めだしたのである。

1973年に出版された「ノストラダムスの大予言」を嚆矢としてオカルトブームが起き「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」が起爆剤となりアニメブームを牽引した。 その一方、1983年に開園した東京ディズニーランドは徹底した現実性の排除による自己完結性に基づく虚構の楽園として出現した。また、それまでわい雑な副都心のうちの一つに過ぎなかった渋谷は1970年以降、西武・東急の開発競争による大規模な都市演出を通じて、虚構の時代における「かわいい」「おしゃれ」「キレイ」という「ハイパーリアル」な感性を体現する巨大遊園地へ変貌した。

同時にこの時代においては、森田芳光氏が「家族ゲーム」という映画で誇張気味に描くように、家族という基礎的な共同体が演技として「わざわざするもの」である虚構として感覚されるようになった。地方自治体が「1日15分は親子の対話を」などという呼びかけを始めたのもこの時代であった。

こうしてみると「理想→夢→虚構」という順で「反現実の反現実的度」は高まっていると言える。

理想の時代とはリアリティの時代であった。理想に向かう欲望とは、理想を現実化するという現実に向かう欲望である。けれども虚構に生きる欲望はもはやリアリティを愛さない。まさに「リアリティなんかないのがリアリティ」という時代が幕を開けたと言える。


3 「虚構の時代」の終焉と加速するポストモダン

そして戦後50年目、阪神大震災が起きた1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であり、国内思想史においてもある種の特異点に位置付けられている。

この年、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。

こうして高度成長期以後、かろうじて日本社会を支えていた「理想・夢の残骸」としての「虚構」も、それはまさに「虚構」でしかないことが明らかになった。ここで従来の意味での「虚構の時代」はひとまず終焉を迎えたといえる。



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