エヴァの命題


1 エヴァとは何だったのか

現代とは内的には「大きな物語の失墜/動物の時代/不可能性の時代」によって規定され、外的には「資本主義のディスクール」によって規定された時代であるといえる。いずれにせよ、もはや何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代が幕を開けたということである。

そして、こうした何が「正しい生き方」なのかよくわからなくなった時代における「他者」との関係性を、あの時代の変わり目において真正面から問いに付した作品が「新世紀エヴァンゲリオン」であった。


2 戦後ロボットアニメの総決算

戦後日本において奇形的とも言える「発展」を遂げたロボットアニメというジャンルはある意味で戦後日本の精神史と表裏の関係にあると言える。

かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは、占領当時の日本を「12歳の少年」だと評した。これは要するに、この国は民主的成熟度においては到底近代国家とは言えないという意味である。

その後、日本は経済的には肥大化していく。けれども肝心の民主的成熟度に関しては相変わらず「12歳の少年」のままであった。このような「幼形成熟(ネオテニー)」と呼ぶべき歪な状態をビルドゥングス・ロマンとして補償したのが、ロボットアニメというジャンルであった。

「鉄人28号」「マジンガーZ」といった初期ロボットアニメ作品においては「少年が機械仕掛けの身体を得て悪と戦う(経済成長)」という素朴な「正義(成熟)」が描かれた。つまり、ここでいう「正義(成熟)」とは「経済的に豊かになること=社会的自己実現」に他ならない。こうしていわゆる「戦後ロボットアニメの文法」というべきものが一旦確立する。

ところが消費社会が爛熟する80年代に入ると、ロボットアニメにもリアリズムが導入される事になる。いわゆる「リアルロボット」である。こうして「機動戦士ガンダム」では「宇宙世紀」と「モビルスーツ」という概念が導入され、ロボットは量産型の工業製品へと格下げされ、代わりにアムロやシャアといったキャラクターの自意識の問題がフォーカスされることになる。

更にその続編である「機動戦士Ζガンダム」では主人公のカミーユが最後に発狂し「機動戦士ガンダム逆襲のシャア」ではアラサーになったアムロとシャアがお互い責任を虚しくなすりつけ合う姿が延々と描かれることになる。

ここで「戦後ロボットアニメの文法」は問いに付される事になる。もはや「少年が機械仕掛けの身体を得て悪と戦う(経済成長)」こそが「正義(成熟)」というモデルが単純には信じられなくなっているということである。

こうして1995年に放映された本作「新世紀エヴァンゲリオン」によって「戦後ロボットアニメの文法」は完全に破棄されるに至る。こうした意味でエヴァは「戦後ロボットアニメの総決算」と言われるのである。


3 僕はここにいてもいいんだ

周知の通り、本作は1995年10月から全26話がテレビ東京系列で放送された。原作はガイナックス。総監督は庵野秀明。舞台は「セカンド・インパクト」と呼ばれる大災害から15年後の西暦2015年。中学2年生の少年、碇シンジは、長年別居していた父、碇ゲンドウから突然、秘密組織NERVに呼び出され、巨大ロボット、エヴァンゲリオンに乗って「使徒」と呼称される謎の敵を倒すよう命じられる。葛藤の末、シンジは「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせてエヴァに乗る。

エヴァは当初「究極のオタクアニメ」として始まった。細かいカット割りや晦渋な言い回しの台詞。随所に垣間見える、宗教、神話、小説、映画からの膨大な引用。こうした要素が渾然一体となり形成されたカルト的世界観はオタク層の快楽原則を最大限に刺激した。

ところが後半、制作スケジュールの逼迫からエヴァの物語は破綻をきたして行く。映像の質は回を追うごとに落ちて行き、それまで散々ばら撒き散らした伏線は一切回収されることはなく、最後に物語は唐突に放棄される。

こうして最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」においては、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し続け、他のキャラクターとの問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいてもいいんだ」という結論(?)に達し、皆から「おめでとう」と祝福されるあの伝説的な結末を迎えることになる。

いわばエヴァは土壇場で「究極のオタクアニメ」から「究極のオタク文学」に唐突に転向したわけである。ここで展開される会話ゲーム的なダイアローグは、確かに大塚英志氏のあの有名な批判にあるように「自己啓発セミナー」のプログラムそのものである。

こうした幕切れは、当然のことながら多くの顰蹙を買う事になる。しかし一方で、もはや制作スケジュールは完全に破綻し、最終回を物語としてまとめることは現実的に不可能であった。

もはや何も手の内が残っていない以上、最終話では「エヴァに乗らないシンジ=物語を放棄した庵野氏自身」をそのままフィルムに曝け出すしかない。

この点、放送直後の庵野氏のインタビューや関係者座談会などにおいては、庵野氏の根本には「変わりたくないんだ」という自己愛があり、その補償作用としてあの「逃げちゃダメだ」という強迫観念があるのではないかという議論が見られる。

そうだとすればシンジの「僕はここにいてもいいんだ」という宣明は「変わりたくないんだ」という庵野監督の咆哮そのものでもあったと言えるのではないか。


4 時代とのシンクロ

しかし、こうした「エヴァの破綻」は図らずも時代との過剰なまでのシンクロを果たしてしまう。

前に述べたように1995年は、戦後日本社会が曲がり角を迎えた年である。一方で社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した。

もはや何が「正しい生き方」なのかわからなくなった時代において、エヴァTV版が示したのが「おめでとう」という承認である。

本作では「エヴァに乗るのか乗らないのか」という主題が幾度も反復される。これはまさしく「戦後ロボットアニメの文法」で描かれてきた社会的自己実現に対する葛藤そのものである。

けれど、シンジが「逃げちゃダメだ」といって葛藤しながらもエヴァに乗る結果、アスカは心を壊し、トウジは片足を失い、カヲルは惨殺される。

要するにここで詳らかにされるのは「社会」へコミットすることで、不可避的に他者を傷つけてしまうという構図である。

こうして最終的にシンジは「エヴァに乗るのか乗らないのか」という主題を放り出し「僕はここにいていい」と宣明し、皆から「おめでとう」と承認される。

ここで示されるのは「何もしないことこそが正しいことである」という否定神学である。そしてこの結末は幸か不幸か、当時、社会的自己実現に挫折し、アイデンティティ不安に陥った若年層への自己肯定のメッセージとして作用した。こうしてエヴァは「承認の物語」として大きな共感を産み出した。

「動物の時代」「不可能性の時代」において人は「データベース的動物」として「他者性なき他者」を希求する。エヴァがここでひとまず提示した結末はこうした時代性を見事に体現するものであったと言える。



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