デタッチメントからコミットメントへ


1 村上春樹という作家

1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われる。こうした1995年以降の時代を東浩紀氏は「動物の時代」と呼び、大澤真幸氏は「不可能性の時代」と呼んだ。

そして、こうした時代の転換点をその鋭敏な感性でいち早く捉えた作家が村上春樹氏であった。こうした氏の転換は「デタッチメントからコミットメントへ」という言葉で広く知られている。


2 デタッチメントという倫理

初期の村上春樹作品は「政治の季節」の極相を迎えた「60年代末の記憶」に対するアンチテーゼから出発していると言われている。

デビュー作「風の歌を聴け(1979)」から「1973年のピンボール(1980)」「羊をめぐる冒険(1982)」に至るいわゆる「鼠三部作」と呼ばれる初期作品において鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理であった。

「デタッチメント」というのは、言ってみれば「公と私」「政治と文学」「システムと個人」の関係性の問題を一旦切断した上で、後者の問題に特化する態度である。

これは当時流行した「ポストモダニズム」とは一線を画するものと言える。当時の「ポストモダニズム」が標榜したのは「大きな物語」を解体して別の物語に読み替えてしまう「闘争」ならぬ「逃走」であり、こうしたアイロニズム的な態度を「物語批判」という。

こうした「洗練」された観点すれば個人の内面にこだわる村上作品は野暮ったいアナクロニズムでしかない。こうして両者は緊張関係に立つ。

ところが「大きな物語」の衰退はポストモダニズムが標榜する「物語批判」も道連れに無効化してしまった。批判すべき物語それ自体がなくなってしまった以上、そのアイロニズムはもはや空転するしかないわけである。

そして同時に人々の中で「大きな物語」なき後で生じる根源的なアイデンティティ不安を埋めるべく「大きな物語」に代わる物語への希求が強くなる。いわゆる「物語回帰」という現象である。

結果的に言えば村上氏はこのような時代の変化にいち早く対応した事になった。「鼠三部作」に続いて発表された長編小説「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」のラストでは、徹底したデタッチメントこそが倫理的なコミットメントであるという逆説が提示される。そしてこうした美学は1000万部のベストセラー「ノルウェイの森(1987)」において「ナルシシズムの記述法」としてさらなる深化を遂げる。こうして国民的作家、村上春樹は誕生した。


3 ねじまき鳥クロニクル

ところが村上氏は1995年前後に自身の倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転回させる。こうした転換の契機について村上氏は海外滞在経験が大きかったと述べている。もしかして外から閉塞する日本を眺めていて、これはもう「やれやれ」とか言ってる場合じゃないと、変わりゆく時代の潮目に気づいてのであろうか。

そしてこの時期に刊行されたのが「ねじまき鳥クロニクル」である。これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったように思える。

ところが「ねじまき鳥クロニクル」は違う。本作には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」と言えるのである。


4 ナルシシズムと正義

では同作において村上氏のいう「コミットメント」はいかなる形で示されるのか。

この点「ねじまき鳥クロニクル」においては、主人公オカダ・トオルが夢の世界でワタヤ・ノボルを「完璧なスイング」で撲殺し、その同時刻、失踪中の妻クミコがオカダに成り代わり入院中のワタヤを現実世界で殺害する。

つまり、同作で示された「コミットメント」のモデルとは、氏がこれまで洗練させてきた「ナルシシズムの記述法」を「正義の記述法」へ応用したものと言える。すなわち「他者性なき他者としての女性性」あるいは「母性的存在」を体現するヒロインが現実的なコミットメントを代行し、これにより主人公の「ナルシシズム」と「正義」が同時に記述されるという構造である。

これは端的に言えば「戦闘美少女スタイル」と言える。換言すれば村上氏が同作で示したコミットメントのモデルはゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏の中で広く引き継がれているのである。

こうした村上氏の示す「コミットメント」の図式に対しては、コミットメントから発生するコストをヒロインに押し付けているという批判が生じることになる。すなわち、同作で村上氏が示した「コミットメント」とは構造的にはヒロインという「他者性なき他者」を媒介項とした主人公の「政治と文学」の擬似的な再接続に他ならない。そして、ここにはヒロインの母性的承認の下で主人公がコミットメントを果たすという、いわば搾取的な構造があるのは否めない。そして、こうした構造は後のゼロ年代サブカルチャー文化圏において「セカイ系」と呼ばれる作品群にも引き継がれているのである。



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