終わりなき日常


1 まったり革命

先に述べたように、1995年以降の時代は「動物の時代」「不可能性の時代」としてひとまずは捉えることができる。

ではこうした「動物の時代」「不可能性の時代」における倫理、あるいは成熟の条件があるとすれば、それは何なのか?

この問いにいち早く解答を与え一世を風靡したのが、1995年に出版された社会学者、宮台真司氏による「終わりなき日常を生きろ--オウム完全克服マニュアル」である。

氏によれば90年代における「ブルセラ」と「サリン」の対立は80年代サブカルチャーを規定していた「終わりなき日常」と「核戦争後の共同性」という2つの終末観の対立の現実化であるという。

そしてオウムの病理とは「終わりなき日常」に耐えかねて「ハルマゲドンという非日常」を夢想し、その夢想を現実化しようとした点にあると氏は分析する。

従っていま必要なのは「終わりなき日常を生きる知恵」であると言い、こうした「終わりなき日常」に最適化したモデルとして「ブルセラ女子高生」を挙げ、彼女達のような生き方を「まったり革命」と名付けた。


2 「劇場版エヴァ」という処方箋

サブカルチャー文化圏において、こうした宮台氏のいう「終わりなき日常」と同様の態度を打ち出したのが、1997年夏に公開された「新世紀エヴァンゲリオン劇場版・Air/まごころを、君に」であると言える。

前述の通り、もはや何が「正しい生き方」なのかわからなくなった時代において、エヴァTV版が示したのが「何もしないことこそが正しいことである」という否定神学であり、この結末は幸か不幸か、当時、社会的自己実現に挫折し、アイデンティティ不安に陥った若年層への自己肯定のメッセージとして作用した。

しかし、これは所詮、空虚な現実逃避でしかない。あたり前の話であるが、現実において人は何もしないわけにはいかず、何かしらの形で他者と関わって生きていかなければならない。

この点、エヴァ劇場版はエヴァTV版に対する鋭いカウンターでもあった。劇場版においても、シンジは相変わらず心を閉ざし他者の恐怖を語り続けますが、土壇場において「人類補完計画」による完全な単体生命への進化ではなく、バラバラの群体に留まることを選択する。

すなわち、ここで示されるのは、何が「正しい生き方」なのか分からない時代だからこそ、人は他者と互いに傷つけあいながらもコミュニケーションを試行錯誤していくしかないという現実的かつ前向きな態度である。こうして劇場版においてシンジは、アスカに「キモチワルイ」と拒絶されるあの有名なラストを迎える事になる。


3 「小さな物語」への回帰

宮台氏やエヴァ劇場版が示す倫理は確かにメッセージとしては疑いなく正しい。けれども一方、人は実際問題、そんなに強くも軽やかにも出来ていない。

こうして、エヴァ劇場版はエヴァTV版に共感した「エヴァの子供達」に拒絶され、TV版的想像力を色濃く引き継ぐ「セカイ系」と呼ばれる作品群が一世を風靡することになる。別言すれば「セカイ系」とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」である。

同様に、宮台氏のいう「終わりなき日常を生きる知恵」を体現していたはずの「ブルセラ女子高生」もやはり皆、大なり小なり心を病んでおり、後年、宮台氏が自ら認めるように決して「まったり」と生きていたわけではないことが明らかになる。

これらの事象に通じるのは「大きな物語」なきところで生じる「小さな物語」への回帰に他ならない。結局のところ、我々は「物語」から自由ではありえないということである。

たとえ「物語を選択しない」という立場をとったとしても、それは結局「『物語を選択しない』という物語の選択」でしかない。つまり問われるべきは「物語とどう付き合っていくか」という「物語への態度」にあるということである。



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