萌えと泣きの詩学


1 データベース消費と美少女ゲーム

1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われる。この点、東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」への移行という現代における消費行動様式の変容にポストモダンの一般的傾向を見出し、人間的欲望よりも動物的欲求を優先させる現代的主体を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の現代を「動物の時代」であると規定した。

そして、ここでいう「データベース消費」とは、個々の作品消費を通じて、その作品を構成する「データベース」を消費する行動様式である。そしてこの「データベース」は階層的になっており、まず個々の作品の背景には個々のキャラクターレベルでのデータベースがあり、さらにその背後には「萌え」や「泣き」といったサブカルチャー市場全体の共通言語となるデータベースが想定されるのである。

こうした東氏のいう「データベース消費」を体現する例として、90年代後半からゼロ年代初頭の時期に一世を風靡した、いわゆる「美少女ゲーム」と呼ばれる作品群が挙げられる。


2 「泣きゲー」の登場

1980年代に登場したアダルトゲームは当初、ゲームの進行と共にエロティックな画像が表示されるといった性的快楽の描写に重きが置かれていた。ところが1990年代に入るとこうした傾向に変化が生じてくる。

ゲームブランドエルフから発売された「同級生(1992)」辺りから、性的快楽の描写よりも恋愛関係の描写が重視される傾向が生じ、ゲームブランドLeafより発売された「雫(1996)」以降は、シナリオとキャラクターデザインが重視される傾向が生じたと言われる。こうしてアダルトゲームは次第に美少女ゲームと呼ばれるようになっていく。

こうした傾向変化の中で、プレイヤーを泣かせるような感動的なシナリオを特徴とする「泣きゲー」というジャンルが確立されていく。その起源とされているのが、ゲームブランドTacticsから発売された「ONE〜輝く季節へ〜(1998)」である。

そして同作の主要スタッフによって新たに立ち上げられたゲームブランドKeyより発売された「Kanon(1999)」は「泣きゲーの金字塔」と呼ばれ、美少女ゲームの枠を超えて幅広い層の支持を獲得した。そして「Kanon」に続いてKeyから発売された「AIR(2000)」は「美少女ゲームの臨界点」と呼ばれ、ゼロ年代サブカルチャー文化圏を代表する普遍的名作の一つに位置付けられている。


3 Kanon

⑴ 「雪の街」の記憶

本作の主人公、相沢祐一は両親の海外赴任に伴い叔母の水瀬家に居候させてもらうことになり「雪の街」へ7年ぶりに帰ってくる。そこで幼馴染である水瀬名雪に再会するところから物語は始まっていく。

なぜか7年前の記憶を思い出せずにいる祐一は「雪の街」で出会う5人の少女達との交流を通じて、幼い頃の大切な記憶を取り戻していく。


⑵ 萌えと泣き

本作がまさにそうであるように「泣きゲー」と呼ばれる作品では多くの場合、前半部でヒロインとの他愛のない日常が綿密に描写される。そして後半部において苛烈な悲劇的展開へと突入することになる。

これはいわば「萌え」と「泣き」に支えられた文法である。前半でヒロインとの関係性を通じて、プレイヤーの中に「萌え」と呼ばれるキャラクターへの愛情が生じることになる。この「萌え」に紐付けられた関係性は後半で無残に引き裂かれ、ここで「泣き」と呼ばれる痛みが生じることになる。

そして、この「泣き」を経由する事で、かつての「萌え」がもはや取り戻せない何か崇高なものに昇華される。「泣きゲー」における感動性はこうした「萌え」と「泣き」のコントラストの中で生じるのである。


⑶ セカイ系の先駆け

また、本作は「泣きゲー」というジャンルの先駆けであると同時に「セカイ系」の萌芽ともなった作品である。なるほど、Kanonの少女達は皆それぞれがセカイ系ヒロインの特性を極めてバランスよく担っている。

主人公を全面的に庇護する幼馴染の少女(水瀬名雪)、主人公に依存する難病少女(美坂栞・沢渡真琴)、主人公の盾となる戦闘美少女(川澄舞)、そして主人公に奇跡をもたらす少女(月宮あゆ)。

つまり、Kanonという作品は「ヒロインによる母性的承認」によって「セカイからの承認」を仮構しているという点で正しくセカイ系の構造を内在させていると言える。


⑷ 奇跡のバーゲンセール

なぜこうまで本作は徹底してプレイヤーの「母」であろうとしたのか。これは本作の時代背景を考える必要がある。

Kanonの原作ゲームがリリースされた90年代後半というのは、平成不況の長期化により昭和的ロールモデルが破綻し、就職や結婚といった社会的自己実現のハードルが急激に上がった時代でもある。すなわち、従来のような意味での「父」となることが難しくなった時代ということである。

こうした時代の転換により、アイデンティティ不安に曝されることになった人々はひとまず「母」の承認の下で生き延びようとした。本作の背景にはこうした時代の需要があったのである。

認知行動療法に「シナリオ法」というものがある。これは認知の歪み(自動思考)を適正化する為の技法の一つで、全てが破滅に向かっていくというシナリオと奇跡が起きて全てが好転するというシナリオを考える。

こうした極端なシナリオの両方を考えてみることで、その中間にある現実的なシナリオが見えてくる。こうして認知の歪みを適正化していくのである。

しばし本作は「奇跡のバーゲンセール」などと揶揄されたりすることもある。けれど、その裏では、世界はそこまで悪くない、まだきっと人生捨てたものじゃないと、Kanonの紡ぐ奇跡に光明を見出した人も多かったのではないだろうか。

そういう意味で本作は時代の急性期を乗り切る処方箋としての機能を果たしたのではないだろうか。そして、その功績は今後も決して色褪せることはないと思う。


4 AIR

⑴ 禁じられた遊び

本作のシナリオは三部構成となっている。第一部「DREAM編」では、放浪を続ける法術使いの青年、国崎往人と海辺の田舎町で出会った少女達とのひと夏の交流譚が描かれる。

本作のメインヒロインである神尾観鈴は、誰かと仲良くなれそうになる時に限って癇癪を起こしたように泣きじゃくるという不安発作を起こしてしまう。これは観鈴が「最後の翼人」である神奈備命の転生体であることに由来している。

第二部「SUMMER編」で描かれるように1000年前、翼人は人に不幸をもたらすものとして畏れられており、それゆえに神奈には呪いが掛けられていた。その呪いのうちの一つが「親しくした他者を死に至らしめる」というものである。 翼人とは星の記憶を継ぐ者であり、最後の翼人は幸せな記憶を星に返す必要があった。けれども、この呪いによって親しい者を作ることができない為、幸せな記憶を星に返すことができず、神奈は延々と輪廻を繰り返すことになる。

そして神奈の転生体である観鈴も、翼人の呪いに蝕まれている。 すなわち、彼女にとって「誰かと仲良くなること」はまさしく「禁じられた遊び」に他ならない。故に無意識から回帰してくる罪責感への防衛として観鈴は不安発作を発症させてしまうのである。

それでも「この夏を特別にしたい」という一心から無理を重ねる観鈴の姿は観る者の心を打つ。そして、こうした彼女の健気さに感情移入すればするほど本作の後半の展開は辛いものとなっていくのである。


⑵ 美少女ゲームの臨界点

本作品の終章である第三部「AIR編」においてはプレイヤーは一羽のカラスでしかなく、観鈴がどんどん壊れていく光景を終始ただ傍観することしかできない。

この点、東浩紀氏によればAIRはいわゆる「美少女ゲーム」というジャンルの臨界点を示す作品ということになる。ここでいう「臨界」とは、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまうことをいう。

通常、美少女ゲームと呼ばれるジャンルの作品においては、プレイヤーは主人公に同一化し、ある特定のヒロインと繊細なまでの「純愛」を添い遂げる一方、プレイヤーは複数のシナリオを俯瞰して複数のヒロインを「攻略」することを目指す。つまりプレイヤーの中では、キャラクターレベルでの「 小さな恋の物語における純粋性=反家父長的感覚」と、プレイヤーレベルでの「物語を産出するシステム全体を支配するかの如き全能性=超家父長的感覚」が解離的な形で共存していることになる。

ところがAIRはこのような解離的共存を許さない。この作品はプレイヤーを二重の意味で疎外する。

まず第一部において国崎往人は観鈴を延命させる代償として物語からの退場を余儀なくされる。ここでプレイヤーはキャラクターレベルで物語から疎外されることになる。さらに、第三部においては先の通り、主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかない。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルそのものにおいてシステム自体からも疎外されることになる。

こうした構造的疎外の手続きを経ることで、プレイヤーの持つ「反家父長的感覚」と「超家父長的感覚」の解離的共存の裏にある自己欺瞞が図らずも暴きだされることになる。 それは美少女ゲームにおける「システム全体を支配するかの如き全能性」とは、ただただ「システムの外側にいるだけの不能性」と表裏の関係を成す錯覚に過ぎないという冷酷な現実である。そういった意味から東氏はAIRを「臨界的=批評的な作品」と呼ぶのである。


⑶ 「あはれ」という感性

けれども同時に、本作がもたらすカタルシスは「純愛」とか「攻略」などといった次元とはまた違うところにある。

そもそも本作は極めて日本的な物語である。日本の昔話は鶴、亀、蛇、魚などの生き物が女性の形をとって男性の前に現れる「異類婚姻譚」と呼ばれるパターンが多く、また、西洋の昔話は男女の結合(結婚)という結末が多いのに対し、日本の昔話は「鶴の恩返し」のように、諸事情あって最終的に女性が立ち去っていくという結末が多い。

この点、河合隼雄氏は、日本の昔話においては男女の結合の代わりに「無」が生じているという。「何も起こらなかった(Nothing has happened)」とは、語順通りに和訳すると「無が生じた」ということになる。

そして氏はこのような日本の物語は「あはれ」という感性によって特徴づけられていると指摘する。「あはれ」とは単純な「悲しみ(Sadness)」ではなく、儚さを慈しみ愛でる日本人独特の感性であると氏は述べる。

そういう観点から言えば、翼人という異類が少女の姿をとって男性の前に現れ、最後には消え去っていくという本作はきわめて日本的な物語ということになる。

そうであれば、本作がキャラクターレベルとプレイヤーレベルで突きつけてくる二重疎外による不能性とは、まさしくこの「あはれ」の感性と繋がってくる。本作が美少女ゲームとしても特異な部類に属するにも関わらず、普遍的名作として広範な支持を獲得したのは、このような日本人の感性を見事に捉えていたからではないだろうか。



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