セカイっていう言葉がある


1 ポスト・エヴァンゲリオン症候群

「セカイ系」とはゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードの一つである。1995年以降の日本社会においては、いわゆるポストモダン状況が大きく加速したと言われている。すなわち、現代とは内的には「大きな物語の失墜(リオタール)」に、外的には「資本主義のディスクール(ラカン)」によって規定された時代であるといえる。

この点、1995年以降の時代を東浩紀氏は「動物の時代」であると規定し、大澤真幸氏は「不可能性の時代」であると規定した。こうした何が「正しい生き方」なのかわからなくなった時代における「他者」との関係性を当時、真正面から問いに付した作品があの「新世紀エヴァンゲリオン」であった。そして、ここで提示されたのは「おめでとう(承認を与える他者)」「キモチワルイ(拒絶を貫く他者)」という「他者の両義性」である。

すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないという事である。こうしてゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」に規定されることになる。

こうした「エヴァの命題」に対する最も分かりやすい回答が、エヴァTV版のような「承認を与える他者」をイノセントに希求する態度である。こうしてゼロ年代前期には「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」というべき作品群が一世を風靡する。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力である。


2 セカイ系の定義

「セカイ系」という言葉が初めて公に用いられたのは2002年10月31日、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の掲示板に投稿された「セカイ系って結局なんなのよ」というタイトルのスレッドだとされている。

そこで管理人のぷるにえ氏は「セカイ系」とは「エヴァっぽい作品」に、わずかな揶揄を込めつつ用いる言葉であるとし、これらの作品の特徴として「たかだが語り手自身の了見を「世界」などという誇大な言葉で表現したがる傾向」があると述べている。

このようにセカイ系とはもともとは(主に主人公の)自意識に焦点を当てた一人語りの激しい作品を指していた。ところが「セカイ系」という言葉が文芸批評分野へと越境するにつれ、セカイ系の定義は「エヴァっぽい」などというファジーなものから、作品構造を重視する次のような定義に変質していく。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(きみとぼく)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』など、抽象的大問題に直結する作品群」

要するにここでは「想像的関係(少年少女の恋愛関係)」と「現実的極限(世界の果て)」がイコールで結ばれている。ゆえにセカイ系作品群においては「組織」とか「敵」といった「象徴的秩序(世界観設定)」が積極的に排除されることになる。

3 セカイ系とデータベース消費

こうしてセカイ系の定義は変容する。おそらくは、ぷるにえ氏が「セカイ系」が揶揄を込めて使用していたのに対して、批評的文脈では肯定的な意味を込めてセカイ系を捉えていたが故に、セカイ系の定義を洗練させる必要があったものと思われる。

こうしてみると「セカイ系」という言葉にはやや位相を異にする意味が内包されていることがわかる。ゼロ年代のサブカルチャー文化圏においては「セカイ系」を巡る華々しい論争が繰り広げられてきたが、そこでは例えば、ある作品が「セカイ系」とも「アンチ・セカイ系」とも評されたり、あるいは「セカイ系」であるがために批判され、また逆に評価されたりするという事態が起こっていた。こうした事態は「セカイ系」という言葉が持つ多義性に起因するのである。

こうしたセカイ系が持つ特徴は「データベース消費」と極めて高い親和性を有している。すなわち、セカイ系は「世界観設定」という「夾雑物」を排除しひたすら「萌え」「燃え」「泣き」のドラマに特化する事で、データベース消費に(結果として)いち早く対応したジャンルの一つとも言える。

こうしたセカイ系というジャンルを代表する作品として「最終兵器彼女」「ほしのこえ」「イリヤの空、UFOの夏」が挙げられる。


4 最終兵器彼女

⑴ 最終兵器降臨

北海道の高校に通うシュウジとちせは、ほんのちょっとした偶然からカップルになってしまう。いつもおどおどしているちせについ、強い言葉を投げてしまうシュウジ。お互い付き合うといっても何をしていいのかわからず、無理にカップルらしいことをしようとしてぎくしゃくしてしまう。こうして早々に別れ話が持ち上がる中で、シュウジとちせはお互い本音を吐露し、改めて彼氏彼女として「好きになっていこう」と歩み寄る。そんな初々しく、ぎこちない恋愛描写からこの小さな物語は始まっていく。

しかしその矢先、札幌に現れた謎の爆撃機の大編隊が都市部を無差別に空爆。10万人以上の死者、行方不明者が発生する。その最中でシュウジは戦場で身体から金属の翼と機関砲を生やして「敵」と戦うちせと遭遇する。

果たしてちせの正体は自衛隊により改造された「最終兵器」であった。

⑵ セカイ系の母

本作の特徴は極めて繊細な心理描写にあり、時にページを埋め尽くすような濃密なモノローグが展開される。その文体はラブコメというより少女漫画のそれに近いものがある。そしてそこでは「生きていく」「恋していく」という人の営みの根源が繰り返し問われていく。

しかし、その一方で本作の「戦争」の目的や「敵」の正体などについては一切説明がなく、また、ちせの最終兵器としての技術的メカニズムもほとんど不明なままである。要するに「世界観設定」の構築が完全に放棄されているのも本作の特徴である。

激しい自意識語り、世界観設定の放棄。こうした本作の作品構造はまさしく「セカイ系」というジャンルの特徴と言うべきものである。もっとも「セカイ系」という言葉が一般化したのは2002年以降であり、本作が連載されていたのはそれ以前の2000年から2001年の間であることから、本作はセカイ系を代表する作品というより、むしろセカイ系という概念を産み出した作品と呼ぶ方が正確なのであろう。

⑶ 本作が内包する「過剰さ」

けれども同時に、本作は上記のような「洗練」されたセカイ系の概念では決して捉え切れない、ある種の「過剰さ」をも抱え込んでいる。例えば本作の後半、2人は故郷を離れて、海の見える街で暮らし始める。そこでちせはラーメン屋、シュウジは漁協で大人達に混じって泥まみれになって働き、日々の生計を立てていく姿が仔細に描き出される。それはセカイ系批判としてよく言われる「オタク的」とか「引きこもり的」といったイメージからは最も遠い姿である。

「戦争」という「非日常」が「日常」を侵食していき、徐々にちせが人格崩壊を起こしていく中で、2人は最後の最期のぎりぎりまで「日常」の側に留まり「非日常」に抗おうとしていた。そういった意味で、いわば本作は「戦争」という「非日常」を徹底して「生活」という「日常」の視点から捉えて描き出した作品であるともいえる。

少し考えれば解るように、もしも本当にこうした「戦争」が起きたとすれば、我々にとって最も切実な問題は「戦争の目的」とか「敵の正体」などではないはずである。そうだとすれば、本作で世界観設定があいまいなのはある意味では当然とも言える。本作における「世界観設定」の排除は、よくあるセカイ系批判のように想像力の欠如などではなく、むしろ想像力を推し進めた結果であると言うべきである。

このように本作は後にセカイ系という概念で括られるような「世界の果て」へ超越するような想像力に依拠しつつも、その一方でいわば「世界の片隅」に留まる想像力をも胚胎させていた。そして「サヴァイヴ系」や「日常系」といったセカイ系を乗り越える形で現れたゼロ年代的想像力の変遷とは、まさしくこうした「世界の果て」から「世界の片隅」への変遷に他ならない。すなわち、本作はセカイ系という概念を創り出すと同時にこれを内破する契機をも既に胚胎させていたのである。


5 ほしのこえ

⑴ 新海作品の原点にして頂点

本作は「君の名は。」で社会現象を巻き起こした新海誠氏による短編アニメーションである。25分に濃縮された圧倒的な叙情感。今なお、新海作品の原点にして頂点と言える作品である。

長峰美加子と寺尾昇という友達以上、恋人未満といった関係の二人を中心に物語は紡がれる。2046年、中学3年生のミカコとノボルは同じ高校への進学を望んでいたが、実はミカコは国連宇宙軍のタルシアン調査隊に選抜されていた。翌年ミカコを乗せたリシテア艦隊は地球を離れ深宇宙に旅立つ。ミカコとノボルは超長距離メールサービスでつながりを保つが、やがてリシテア艦隊はワープを行い二人の時間のズレは決定的なものになる。

⑵ 「象徴的秩序」の回帰

「少年少女の関係性の断絶」。このモチーフは以降の新海作品で幾度となく反復されていく。この点、昇は美加子との別離を「心を硬く冷たく強くする」ことで耐えるという自己完結的な態度で乗り切ろうとする。

前述したようにセカイ系においては「想像的関係」が「現実的極限」に直結し「象徴的秩序」を排除する構造を有している。セカイ系作品が一定の共感を集めた時代背景として戦後社会を支えた「大きな物語」が崩壊し「象徴的秩序」に対する不信感があったことは確かであろう。しかし、いかに「想像的関係」に同一化しようと「現実的極限」に到達できるわけではなく、人はどこまでいっても「象徴的秩序」から逃れることは不可能である。本作のクライマックスで唐突に登場する電車はまさしくこうした「象徴的秩序」の隠喩として捉えることができるである。


6 イリヤの空、UFOの夏

⑴ 自覚的なセカイ系

「想像的関係と現実的極限の直結」という幻想に対する「象徴的秩序」の回帰。こうしたセカイ系構造に内在する問題をより自覚的な形で描いたのが「イリヤの空、UFOの夏」である。
本作は第二次世界大戦終了直後に史実から分岐した世界が舞台となっており、冷戦集結後も日米は「北」と呼称される国家との敵対関係が続いている。「北」の脅威に備え、航空自衛軍とアメリカ合衆国空軍が常駐する園原空軍基地の近辺ではUFOの目撃談が後を絶たなかった。

園原中学校二年生、浅羽直之は非公式のゲリラ新聞部に所属し、部長である水前寺邦博と共に夏休みの間、山にこもってUFOを探す日々を送っていた。しかし夏休み全てを費やしても何の成果も得られなかった。夏休み最後の夜、学校のプールへと忍び込んだ浅羽は伊里野加奈と名乗る謎めいた少女と遭遇する。そして翌日の始業式の日、伊里野は転校生として浅羽のクラスに編入してくる。こうしてあの夏の終わりが始まった。

物語が進むにつれ、やがてイリヤが軍の秘密兵器のパイロットであり、世界の命運を賭けた戦争に動員されていることが明らかになる。そのためイリヤの身体はどんどん弱っていく。見かねた浅羽は、イリヤを連れて逃走。こうして浅羽は世界かイリヤかの二択を迫られる。

⑵ セカイ系批評としてのイリヤ

この点、「イリヤの空」は「最終兵器彼女」や「ほしのこえ」と共に「三大セカイ系作品」として位置付けられてはいる。けれども前二者が結果的にセカイ系と呼ばれたのに対して、本作はセカイ系構造自体に相当に自覚的であり、むしろ「セカイ系批評」という側面すら併せ持っている。

本作はクライマックスまでは、まさに見事なまでのセカイ系展開となっている。果たしてイリヤの正体は地球侵略を目論むUFOに唯一対抗できる超音速戦闘機ブラックマンタの最後のパイロットであった。しかし浅羽へ恋心を抱いたイリヤの中には、初めて「死にたくない」という感情が芽生えていた。こうして少年少女と世界の命運は直結し「世界か少女か」の二択が示される。

ここで浅羽は世界ではなくイリヤを選ぶ。そしてイリヤはそんな浅羽を守るためブラックマンタでUFOへ特攻をかける。こうして世界は救われイリヤは最期を迎えるのであった。

しかし話はここで終わらない。本作は最後の最後にて大きなどんでん返しを用意していた。それまで描き出してきた浅羽とイリヤの関係性自体が「子犬作戦」なる組織的陰謀であり、結局「浅羽とイリヤの小さな物語=想像的関係と現実的極限の直結」は「大人たち=象徴的秩序」によって仕組まれた出来レースにすぎなかったという事実が明らかになるのである。

⑶ セカイ系におけるアイロニズム

本作はセカイ系構造を十分に意識して物語を設計しているため、セカイ系の特徴がきれいに描き出されていると言える。この点、セカイ系作品には「社会」が欠如しており、故に「社会」と向き合う事から逃げる幼稚な想像力だと批判される。しかし、こうした批判とセカイ系作品はむしろ共依存関係にある。

セカイ系作品群においては何かしらの形で「社会」の欠如が言及されており、ここから「ああ全く同感だ、極めてバカバカしい。だがしかし、そのバカバカしさの中にこそ価値がある」というアイロニズムが生み出される。こうなると先のような批判はむしろ作品に倫理的強度を与える作用を引き起こしてしまうことになる。

本作がセカイ系に批判的視点を持った小説であるにもかかわらず、むしろ典型的セカイ系として位置付けられる理由がまさにここにある。すなわち、セカイ系というジャンルは作者の自覚、無自覚にかかわらず「社会」が欠如しているという批判をすでに織り込み済みのものとして成立しているということである。


7 レイプ・ファンタジー構造

この点、宇野常寛氏はセカイ系の最大の問題点を「レイプ・ファンタジー」であると指摘する。つまり、セカイ系作品においては「無垢な少女」に守られる「無力な少年(=読者/視聴者/観客といった受け手)」が自らの矮小さを「自己反省」するという構図があるのである。

この「自己反省」という「安全に痛いパフォーマンス」を挟み込むことで、受け手側は「無垢な少女を欲望のまま消費する」という家父長的マチズモに反発する「繊細な感性」を持ったまま安全圏から「無垢な少女を欲望のまま消費する」ことが可能となる。こうしたセカイ系受容の中に内在する「自己反省の欲望」を宇野氏は「レイプ・ファンタジー」なるセンセーショナルな言葉で暴きだしたのである。

宇野氏の批判はひどくもっともだと思う。ただ、前島賢氏が的確に指摘するように、こうした「自己反省の欲望」は別にセカイ系特異なものではない。例えば、ロボットアニメの視聴者というのは、端的にロボットに乗って戦う破壊の快楽を消費しているわけであるが、正面からその快楽は肯定できるわけではない。そこで作中に「僕は好きで戦っているわけじゃないんだ」などと予め「自己反省」を導入しておくことで、視聴者は安心して破壊の快楽を消費することができるのである。

こうしてみると宇野氏のセカイ系批判というのは単なるジャンル批判を超えたより普遍的な「政治と文学」に対するより広範な射程を持った問題提起とも言える。

すなわち、セカイ系とは畢竟、1995年を節目とした時代の変化により生じた「政治と文学」の断絶を「無力な少年が無垢な少女を純愛という名でマチズモ的に所有する」という物語を用いて疑似的に再接続しようとした試みであったと、ひとまずは言えるのである。



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