サヴァイヴする正義


1 「古い想像力」と「新しい想像力」

社会共通の価値観である「大きな物語」が喪われもはや何が正しいのかわからなくなった時代、最もわかりやすい選択肢としては「君と僕の優しいセカイ」に縋りつく態度である。このような想像力が色濃く現れている「セカイ系」と呼ばれる作品群が2000年前後に一世を風靡した。

ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。ゼロ年代に入り、米同時多発テロ、構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくる。こうして、何が正しいのかわからないのであれば自分の信じられるものを正義とみなすしかない時代が幕を開けた。

この点「セロ年代の想像力」において鮮烈な批評家デビューを果たした宇野常寛氏は、こうしたゼロ年代以降の時代情勢と社会構造の変化を踏まえて「セカイ系」はもはや「古い想像力」であり、いまや決断主義的サヴァイブ感に満ちた「サヴァイヴ系」というべき作品こそが現在の「新しい想像力」であると言う。そしてその範例として氏は「DEATH NOTE」を挙げている。

こうした「サヴァイヴ系」的な想像力をゼロ年代のサブカルチャー文化圏において体現する代表作として「Fate/stay night」「コードギアス-反逆のルルーシュ」「とある魔術の禁書目録」が挙げられる。


2 Fate/stay night

⑴ 正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ

2004年にTYPE-MOONより発売された「Fate/stay night」は発売以来、漫画・小説・アニメ・映画・スマホゲームなど多彩なメディアミックス展開によって、その度に幅広い支持層を開拓してきたゼロ年代を代表するPCゲームの一つである。

とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨む。聖杯を手にできるのはただ一組。ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。

10年前の第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた衛宮切嗣への憧憬からいつか切嗣のような「正義の味方」となり、誰もが幸せな世界を作るという理想を追いかけていた。

そんなある日、士郎は偶然にサーヴァント同士の対決を目撃してしまったことから聖杯戦争に巻き込まれてしまう。士郎が呼び出したサーヴァントは「セイバー」と呼ばれる見目麗しい少女であった。

聖杯戦争の説明を受けるため、遠坂凛に連れられて監督役である言峰綺礼の教会を訪れる士郎。長々とした説明の後、最後に神父はこう告げる。

「喜べ少年、君の願いはようやく叶う」「正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ」

この言峰の台詞はまさに決断主義の本質を端的に言い表している。そしてこうした本作が持つ決断主義的傾向が最も先鋭に現れるのがいわゆる「桜ルート」である。

⑵ Fate/stay nightの裏街道にして到達点としての「桜ルート」

本作は選択肢次第で展開が変わるビジュアルノベルゲームであり、ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐する。すなわち、第1のセイバールート(Fate)、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)、そして第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)である。

桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道にして到達点である。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。

やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。ここで示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他ならない。

⑶ 決断主義としての正義

セイバールートでひとまず示された「理想主義としての正義=衛宮切嗣の願い」の形は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいて脱構築されることになる。そしてその過程は衛宮士郎が「理想主義としての正義=衛宮切嗣の呪い」を解毒して「決断主義としての正義」を立ち上げる過程でもある。

桜ルートの終盤において本作の黒幕の一人である間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かし、次のように告げる。

「万人のために悪を討つ。判っていよう?おぬしが衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそおぬしの敵だ」

桜はセイバーや凛とは決定的に違う。セイバーや凛は核となるパーソナリティが明確で、どんなことがあってもそこは一切ぶれない。士郎にとってはヒロインというよりは盟友に近い存在といえる。そこにはある種の絶対的な安心感がある。

けれど桜はそうではない。普段は穏やかな日常を象徴する明るく朗らかな少女として振舞っているが、一皮むけばそこには限りなく空虚な闇を内包している。この錯綜したパーソナリティが、捉えどころのない不安感としてプレイヤーの心を掻き毟るのである。

本作の劇場版が繊細な手つきで描写するように、桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達である。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。我々はここでの士郎の決断に「変節」とか「挫折」などとという言葉で軽々しく非難できない重さがある事を痛いほど理解できるし、むしろその決断の尊さに心からの共感を寄せる事さえもできるであろう。

こうして「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答える士郎の姿に我々は借り物でも偽善でもない、まさしく決断主義者の正義をはっきりと見て取ることができるのである。


3 コードギアス-反逆のルルーシュ

⑴ 撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ

グローバリズムの進展とその反作用としてのナショナリズムやテロリズムの噴出というゼロ年代的現実は単一の理想主義的正義を失墜させ、複数の決断主義的正義を乱立させた。本作でも「弱肉強食」「日本の誇り」「ナナリーの幸福」といった複数の正義による動員ゲームが繰り広げられる。あの「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」という台詞は決断主義的正義の本質を突いている。

誰かを撃つという「正義」とは誰かに撃たれるという「悪」と表裏の関係でしかない。この点、本作では理想主義的正義をかかげるスザクを敵役として配置する事でルルーシュの依って立つ決断主義的正義の特質をより際立たせていると言える。

⑵ 「誰もが幸せに暮らせるやさしい世界」の儚さと危うさ

本作中盤のハイライトと言えるのが「血染めのユフィ」である。行政特区日本とはユーフェミアの善意とは裏腹に実際のところ単なる隔離政策でしかない。これをシュナイゼルは黒の騎士団を瓦解させるカードとして利用し、ルルーシュは結果にとはいえ合衆国日本をでっち上げるカードとして利用した。

本作が示すのは正義とは結局は無根拠な欲望であり、理想とは所詮使い勝手の良いカードでしかないという構造に他ならないという事である。ここで本作は「誰もが幸せに暮らせるやさしい世界」の儚さと危うさを告発していると言える。

⑶ みんなで明日を迎えるために

本作後半ではルルーシュ対シャルル、そしてルルーシュ対シュナイゼルといった決断主義者同士の頂上決戦が展開される。こうした政治ゲームの渦中で皇帝に推挙されたナナリーをルルーシュが手を震わせながら高圧的に罵倒するシーンは極めて印象的である。

ゼロ年代的想像力の潮流で言えば、本作はセカイ系の幻影を振り切ると同時にサヴァイヴ系の極限へ至った作品といえる。シュナイゼルは「今日=システムと力による恒久的支配」こそが「世界平和」であると嘯く。これに対してルルーシュは「明日=誰もが幸せなやさしいセカイ」を目指して「世界征服」の道を突き進む。

ルルーシュの選択は絶望的なまでの悪の覇道である。けれどその想いは天空要塞ダモクレスの中でフレイヤのスイッチを握りしめるナナリーも同じだった。

「ダモクレスは憎しみの象徴になります、憎しみはここに集めるんです、みんなで明日を迎えるために」

本作が示すのは正義の否定神学構造である。神の不在こそが神の現前を予告する。正義というシステムは絶対的な悪を中心に置くことで初めて機能する。まさしく正義の味方には倒すべき悪が必要なのである。


4 とある魔術の禁書目録

⑴ 科学と魔術が交差する時、物語は始まる

本作の舞台となる世界は、科学技術を基本とする「科学サイド」と、魔術を基本とする「魔術サイド」の二大勢力に分かれている。科学サイドの拠点である「学園都市」は総人口230万人の内8割を学生が占めている。そこでは学生全員を対象にした超能力開発実験が行われており、全ての学生は「無能力者(レベル0)」から「超能力者(レベル5)」の6段階に分けられる。
本作の物語は学園都市で暮らすレベル0の高校生・上条当麻のもとに、禁書目録(インデックス)と名乗るシスターと、彼女を追ってきた魔術師達が現れる所から始まる。

⑵ 上条当麻と一方通行

本作の主人公、上条当麻は熱くまっすぐな少年漫画的ヒーローであり、理想主義的正義を体現する存在である。しかし複数の正義が対立する決断主義的状況における無自覚な理想主義的正義は青臭い綺麗事として相対化されてしまう。ゆえに上条が饒舌に語る正義は、それは時に「説教」と揶揄されてしまうのである。

これに対してもう1人の主人公格である一方通行は、かつて自らが虐殺した「妹達」の20001体目の個体である「打ち止め(ラストオーダー)」との出会いをきっかけに「一流の悪党」の位置を自覚的に引き受けて、まさに自覚的な決断主義者の道を突き進むのである。

⑶ 「システムのコスト」をいかに処理するのか

本作が描き出す科学サイドと魔術サイドの対立関係はグローバリズムとナショナリズムの対立の比喩としても読み取れる。グローバリズムの拡大により、ヒトやモノやカネの流動化・情報化は日々加速し、そこで不可避的に生じる矛盾や衝突は「システムのコスト」としてどんどん弱者の側へと転嫁されていく。

すなわち、決断主義的な正義とはこうした「システムのコスト」をいかに処理するのかという問題に対するそれぞれの立場からの回答に他ならない。いまや正義とは「理想への超越」ではなく「現実の調整」の問題なのである。



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