セカイから日常へ

1 「日常系」という想像力


「セカイ系」がゼロ年代初頭のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードであったのに対して、「日常系」とはゼロ年代中期以降のサブカルチャー文化圏を特徴付けるキーワードである。

「日常系」と呼ばれる作品は多くの場合その原作は4コマ漫画であり、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれる。そして作中において男性キャラは前面に出ることはなく、恋愛的な要素は極めて周到に排除されている。そして、ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は別名「空気系」とも呼ばれる。

こうした「日常系」はいわゆる「萌え要素のデータベース消費」の一つの形態として「セカイ系」に取って代わり登場した面も確かにあるにはあるが、その一方で「セカイ系」から「日常系」に至る想像力の変遷の中にはゼロ年代における成熟観の変遷をも見て取れる。すなわち「セカイ系」がいわば閉じたセカイの中で「自己反省」することをもって成熟とみなす想像力であったのに対して、「日常系」は開かれた日常の中に価値を再発見する営みに成熟を見出した想像力であるともいえる。

そして、こうした「セカイ」から「日常」へという想像力の変遷を物語レベルで体現した作品として「CLANNAD」「涼宮ハルヒの憂鬱」を挙げることができる。そしてゼロ年代における日常系の代表作として「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」が挙げられる。


2 CLANNAD

⑴ 美少女ゲームの新境地

本作の原作ゲームは「Kanon」「AIR」に続くKeyの3作目として、2004年に全年齢対象版として発売された。本作は、かつてアダルトゲームの「売り」であったはずの性的描写を完全に排除した形で世に問われたにも関わらず、前2作に劣らない高い評価を獲得し「CLANNADは人生」という名言も生み出した。


⑵ 桜咲く坂道から

主人公の岡崎朋也は、バスケの特待生として高校に入学したが、父親との喧嘩で右肩を負傷して選手生命を絶たれ、部活動を辞め今は遅刻やサボりを繰り返す不良となっていた。

ある日、朋也は学園前の桜並木の坂道で同じ高校に通う女子生徒、古河渚と出会う。幼少時より病弱な渚は病気による長期欠席のため高校3年を再度繰り返し、今のクラスでは孤立していた。

渚は演劇部の復活を目指しており、朋也は成り行きから、友人の春原陽平や、藤林杏、一ノ瀬ことみをはじめとしたヒロイン達と共に演劇部の再建に協力することになる。


⑶ 「父」になるということ

夢に挫折し現実から逃げ回っていた主人公がヒロインの母性的承認のもとで再び人生に向き合っていくという本作の構図はセカイ系的想像力をある部分では色濃く引き継いでいる。

もっとも、多くのセカイ系作品が「無力な少年」の位置に留まり「自己反省」する事に終始していたのに対して、本作の特徴は「無力な少年」が、その位置を脱して曲がりなりにも「父」の位置を引き受ける所までを描き切った点にある。「CLANNADは人生」と言われる所以はおそらくこの点にあると思われる。


⑷ 性愛的なものから友愛的なものへ

そして本作のもう一つの特徴は主人公とヒロインの性愛的関係性のみならず、ヒロイン相互の友愛的関係性にも光を当てている点にある。こうした想像力の中には、ゼロ年代後半に花開いた「日常系」の萌芽を見る事もできるであろう。

性愛的なものから友愛的なものへ。こうして見ると本作は「セカイ系」という「母」から「無力な少年」が曲がりなりにも「父」として自立を果たし、さらに「日常系」という「娘」へと、その想像力のバトンを渡すというその役割を、ある意味で正しく全うしたとも言える。


3 涼宮ハルヒの憂鬱

⑴ ただの人間には興味ありません

「東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。」

本作のヒロイン、涼宮ハルヒは高校入学早々の突飛な自己紹介を始めとして、その奇矯な性格と言動のせいでクラスの中で孤立していた。そんなハルヒに本作の主人公、キョンは好奇心でつい話しかけてしまう。

校内に自分が望む部活がないことに不満を抱いたハルヒはキョンの言動をきっかけに自分で新しい部活を作ることを思いつき、たまたま奇縁を得た長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹を巻き込んで「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」を目的とした新クラブ「SOS団」を発足させる。

ところがキョン以外の3人は、それぞれ本当の宇宙人(長門)、未来人(朝比奈)、超能力者(古泉)であった。こうしてSOS団の「非日常」と「日常」が交差する日々が始まった。

⑵ 洗練されたセカイ系

本作のヒロインのハルヒは極めてセカイ系的な思考の持ち主であり、なおかつ実際に世界を改変できる力を持っているという二重の意味でのセカイ系ヒロインである。

そしてそのハルヒに慕われるキョンという二者関係という構図はある意味で、極めて洗練されたセカイ系的な回路を持っているといえる。

⑶ セカイ的回路を内破する想像力

しかし本作は同時にこうしたセカイ的回路を内破する想像力をも持ち合わせている。当初は荒唐無稽な「セカイ=非日常」を希求し平凡な「日常」を唾棄していたハルヒは、市内散策、野球大会、夏季合宿、学園祭などのごく当たり前の高校生らしい青春イベントを通じて、周囲との交流の中で徐々に日常の中にある瑞やかさに気づいていく。

求めるものは「セカイ」ではなく「日常」の中にある--こうしたハルヒの世界に対する過剰防衛的な態度が徐々に緩和されていく過程はゼロ年代的想像力の変遷を見事に体現していると言えるだろう。


4 らき☆すた

⑴ 朋也のいない「CLANNAD」

本作はマニアックな小ネタを交えながら高校生女子の他愛のない会話劇を中心としたまったりとした日常を描き出す。

先の述べたように「CLANNAD」の一つの特徴が、主人公とヒロインの性愛的関係性のみならず、ヒロイン相互の友愛的関係性にも光を当てている点にあった。この点、らき☆すたの構図はまさしく朋也のいない「CLANNAD」とも言える。

彼女達はかつての美少女ゲームのヒロインやセカイ系ヒロインのように男性主人公との性愛的関係性を軸に自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係性の中で自らのパーソナリティを記述することができるのである。

⑵ らき☆すたが切り開いた境地

また、アニメやゲームが大好きなオタク的メンタリティを持つ主人公の泉こなたはオタクの新たな分身とも言える。本作が白日のもとに曝しているのは、かつてのセカイ系のように、もはや「世界の果て」でヒロインと究極の純愛を添い遂げる必要性など今や無く、この日常という「世界の片隅」で友達と楽しくゆるやかにオタクトークをしていれば人生それはそれで幸せなのだというある種の新たな幸福感や成熟感なのかもしれない。

そして、本作の舞台の一つである鷲宮神社は「らき☆すたの聖地」となり、地元自治体の鷲宮町が本作を使った町おこしに取り組んだことはよく知られている。そういった意味で本作はアニメーションという「虚構」と我々の生きる日常という「現実」の新たな関係性を切り開いた作品とも言える。


5 けいおん!

⑴ 「いま、ここ」という「当たり前」

「目標は武道館」とか言いながらも楽器の練習はそこそこにまったり皆でお茶。平沢唯、田井中律、秋山澪、琴吹紬、そして中野梓。彼女達軽音部の日常はぐだぐだと瑞やかに続いていく。

第1期最後の学園祭ライブにおいて唯がMCで宣明した「でもここが、いまいるこの講堂が、私たちの武道館です!」という台詞は本作の想像力を端的に言い表している。

放課後ティータイムはロックという音楽がかつて内包していたメッセージ性を全て剥ぎ取り、あくまでこの日常を祝福するために歌う。本作は日常系における「いま、ここ」というコンサマトリーな感覚に徹底して内在した作品である。

象徴的なのはアニメ2期の17話である。部室が使えなかったり妹の憂が風邪をひいたりするという出来事を通じて唯は「当たり前」がいかに大切なものであるかを思い知る。結果、放課後ティータイム後期を象徴する2つの名曲が産み出された。

⑵ 「いま、ここ」から別の「いま、ここ」へ

そしてここから全てが始まることになる。日常系4コママンガ原作史上初の長編映画となった本作の劇場版は、興行収入19億円を叩き出し、後の深夜アニメの大規模上映への道を切り開いた。また、ライブイベント「〜Come with Me!!〜」は日本武道館の収容人数の倍以上の3万人が来場した。

本作は「いま、ここ」を徹底することによってまた別の「いま、ここ」の地平を切り開くことに成功した作品ともいえる。過去に囚われるのでもなく、未来に生のリアリティを先送りするのでもなく、文字通りの「いま、ここ」により深く潜ることで、ありきたりな日常の風景の中にも、いくらでも瑞やかな歓びを汲み出していけるのである。そういった意味で本作は日常系におけるひとつの頂点に位置する作品といえるであろう。


6 ひだまりスケッチ

⑴ 異なる物語を生きる者同士の交歓

本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居する。

ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えている。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロたちとの賑やかな日々を過ごして行く中で、ゆっくりとしかし着実に自分の在り方を見出していく。

ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違う。このような異なる物語を生きる者同士の相互補償的交歓の中で生まれる可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えているのである。

⑵ ゆるやかでていねいなコミットメント

臨床心理学者の河合隼雄氏は心理療法のプロセスとして「3つのC」があると述べる。「3つのC」とはすなわち、コンプレックス・コンステレーション・コミットメントである。

河合氏はコンプレックスとは苦しいものであるが、それは同時に新しい可能性のありかを示しているという。

そして重要なのは日常的なめぐり合わせ、つまりコンステレーションの中で、自らのコンプレックスと対決し、外的・内的な現実とのコミットメントを重ねていく営みにある。こうした内的開発のプロセスを得ることで、人は自らに内在する新しい可能性をものにしていくことができるのである。

本作が計算され尽くされたキャラクターバランスの中で描き出す「ゆるやかでていねいなコミットメント」は 、萌えサプリメント的な癒しに止まらない、数々な豊かな気づきを読み手に与えてくれる。この辺りに「ひだまり」が何度もアニメ化され長らく愛されている普遍的な理由があるのではないかと思う。

社会の至る所で何かにつけ「自己責任」が叫ばれ、いわばセカイとセカイが正義を奪い合うような決断主義的現実が時代を覆っていたゼロ年代において、本作が提示した「それでも私たちは助け合える」という他者との関係性のあり方は、時代に対するある種の批判力であったと同時に、ポストモダン的成熟観に対するサブカルチャー側からの優れた回答であったとも言えるだろう。



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