構造を内破する希望の在り処


1 ポスト・決断主義

ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」、すなわち、これまで社会を支えてきた共通の価値観が失墜したポストモダン的状況がさらに加速するゼロ年代において、人々は好むとも好まざるとも、それぞれが信じる任意の価値観である「小さな物語」を選択して生きていかざるを得ない。

この点、最も安易な選択肢が、他者を拒絶し「君と僕の優しいセカイ」という「小さな物語」に引きこもることで幼児的万能感を確保する態度である。こうしてゼロ年代前期には「君と僕の優しいセカイ」の中に引きこもるような想像力が一世を風靡した。これが「セカイ系」と呼ばれる想像力である。

ところが世の中はこうした甘い夢を許さなかった。米同時多発テロ、構造改革による格差拡大といった社会情勢が象徴するように、世界はグローバリズムとネットワークで接続され、他者は遠慮なく我々のセカイを壊しにくることが明白となった。

そこにもはや普遍的な正義が無いのであれば、人は自らが信じる「小さな物語」を賭金として「正義」をでっち上げるしかない。こうして時代は剥き出しの欲望がしのぎを削るバトル・ロワイヤルへと突入する。こうしてゼロ年代中期にはセカイとセカイが正義を奪い合う決断主義的な傾向を持つ「サヴァイヴ系」と言うべき作品群が台頭する。

けれども決断主義的想像力の台頭は同時に、この不毛な簒奪ゲームをいかにして乗り越えるのかという問題意識をもたらした。こうしたことからゼロ年代後期以降では「ポスト・決断主義」というべき作品群が前景化していく。

こうした中で2011年1月、いわばこれまでのゼロ年代的想像力の総決算ともいうべき作品が世に問われた。


2 魔法少女まどか☆マギカ

⑴ 現代アニメーションの到達点

「魔法少女まどか☆マギカ」。本作は周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが成し遂げた現代アニメーションにおける到達点を示した作品である。

その社会的反響は凄まじく、BD第1巻の初週売上はテレビアニメ史上最高(当時)の5万3000枚。関連グッズは100社近くものメーカー(2012年春時点)によって制作され、グッズの累計売上総額は約400億円(2013年時点)。最終回放映後は特集記事が世に溢れかえり、各分野の名だたる著名人が本作に言及し、2011年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。まさしく記録と記憶、両方に残る作品といえる。


⑵ 僕と契約して、魔法少女になってよ

物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開ける。直後、ほむらはまどかと同じクラスの転校生として現れ、ほむらはまどかに「魔法少女になるな」と警告する。

その後「魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやかは魔法少女、巴マミと出会う。マミに救われたまどかとさやかは、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受ける。マミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱くが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺される。

マミの死により、魔法少女への憧れと現実の間で葛藤するまどか。一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となる。そこに新たな魔法少女、佐倉杏子が現れ、さやか、更にほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされる。

刻々と悪化する情況を、まどかはただおろおろと傍観するしかなかった。こうした中で、やがて魔法少女の秘密、魔女の正体が徐々に明かされていく。


⑶ 魔法少女なる構造

日本における魔法少女の黎明期は1960年代に遡る。当時一世を風靡した「魔法使いサリー」や「秘密のアッコちゃん」といった作品は当時の少女漫画的文法に即しており、そこで描かれるのは「お姫様」や「大人の女性」への素直な憧憬であった。まさに魔法少女という存在が万能の願望器であった時代である。

ところが80年代における「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」では「夢は魔法では叶えられない」「大人になるとは魔法を失うことである」という魔法少女の限界性が問題意識として前景化する。

そして90年代に入り「魔法少女」というジャンルに一大転換をもたらしたのが、戦隊ヒーロー的文法に則って描かれた一連の「美少女戦士セーラームーン」シリーズである。ここで変身バンクやお助けマスコットという「魔法少女」を構成する「お約束」が確立する。

かくして「魔法少女」とは「物語」ではなく「構造」へと変容する。こうして以後「魔法少女なる構造」に依拠したパロディ的作品群が急増することになった。

このような「魔法少女なる構造」に自覚的でありながらも、正統派少女マンガ的文法へ回帰を果たした成功例が「カードキャプターさくら」であり、逆に「魔法少女なる構造」にロボットアニメ的文法を接続した成功例が「魔法少女リリカルなのは」である。

そして、本作は「魔法少女なる構造」をいわば「ゼロ年代サブカルチャーの文法」で捉え直し「魔法少女なる構造」それ自体を脱構築するかの如き試みであった。ここでいう「ゼロ年代サブカルチャーの文法」とは「ループ構造」と「バトルロワイヤル構造」である。


⑷ ループ構造

「ループ構造」という形式自体は古い海外SFでもよく見られるもので、本邦のアニメ作品においても1984年に公開された押井守氏の傑作「うる星やつら2-ビューティフル・ドリーマー」が有名である。

こうしたループ構造はゼロ年代において急速に漫画、アニメ、ゲームのサブジャンルとして定着する事になる。その背景には周知の通りKey作品などをはじめとした美少女ゲーム(恋愛ADV)の隆盛がある。

恋愛ADVにおいては通常、選択肢次第で異なった物語に分岐していくマルチエンドシステムが採用されている。そこでプレイヤーは各エンドを回収する為、ゲームをクリアする度に最初の「共通ルート」に戻り、同じ時間軸を何度も延々とプレイする事になる。

そうするうちにプレイヤーはあたかもこの世界が果てしないループを続けているかの如き錯覚に陥ってくる。このように恋愛ADVのシステムはループ構造と極めて親和性を有していた。

この点、ループ構造のパターンは大きく分けて「世界全体のループ」「閉鎖空間内のループ」「特定キャラのタイムリープによるループ」の3つがあり、本作は最後の部類に当たる。

本作の特徴は、このループ構造が物語終盤に明らかになり、かつループの主体は主人公のまどかではなく、むしろこれまで敵役として描かれてきたほむらであった点にある。ここで視聴者はこれまでの世界観をひっくり返される事になる。


⑸ ゲーム的リアリズムと環境分析的読解

ここで重要なのは、ほむらは物語の「キャラクター」であると同時に、この物語を延々と反復するゲームの「プレイヤー」でもあるという点である。

その意味で本作は東浩紀氏がいうメタ物語的想像力に侵食された物語的想像力、すなわち「ゲーム的リアリズム」の文法で記述されていると言える。ゆえに本作は物語を素直に読み解いていく「自然主義的読解」とは別に、物語と現実の間に「物語が読まれる環境」を挟み込む読解技法、東氏のいう「環境分析的読解」が機能するケースに該当する。

この点「自然主義的読解」からすれば本作は後述の通り、物語の主人公であるまどかが自らのコンプレックスを克服し、究極の願いを成し遂げた「成長の物語」であり「自己実現の物語」となるだろう。

しかし「環境分析的読解」からすれば本作は、ゲームの「プレイヤー」であるほむらが、ゲーム内の「ヒロイン」であるまどかに「勝ち逃げ」されて、一人残された状況で幕を閉じる「挫折の物語」となるのである。

そう、ほむらにとってゲームはまだ終わっていない。こうして、ほむらにとっての「トゥルーエンド」は次作「叛逆の物語」に持ち越されることになるのである(もちろん「叛逆」が、果たしてトゥルーなのかどうかは異論もある)。


⑹ バトルロワイヤル構造

こうした「ループ構造」とともに本作の特徴を成しているのが「バトルロワイヤル構造」である。「バトルロワイヤル構造」とは厳格なルールの統制と閉鎖的状況の下で、参加者達が互いに殺しあうゲームを強制される状況をいう。その起源は言うまでもなく、1999年に出版され大きな反響を呼んだ高見広春氏の小説「バトルロワイヤル」である。

こうしたバトルロワイヤル構造は、ゼロ年代の社会情勢を背景として徐々に、当時のサブカルチャーを支配する想像力となっていく。これが「セカイ系」から「決断主義」へ至る変遷に他ならない。

本作のバトルロワイヤル構造は以下の通りである。

地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆らうエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。

このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。

このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にある。

つまり、魔法少女達の末路はソウルジェムを濁らせ「魔女」になるか、ソウルジェムを破壊され死ぬという二択しかない。その末路を少しでも先延ばしする為、彼女達はソウルジェムの濁りを緩和させるグリーフシードを求めて魔女討伐に奔走し、他の魔法少女とはグリーフシードの争奪戦に明け暮れる事になる。

そして、こうした終わりなき魔法少女のバトルロワイヤルに終止符を打ったのが「まどかの願い」であった。


⑺ 「外部」なき現代社会

「全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で。」

「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。」

「これが私の祈り、私の願い。さあ!叶えてよ、インキュベーター!!」

(本作最終話より)



周知の通り本作最終話は、あの東日本大震災の発生により放映が延期され、震災の恐怖と衝撃が未だ冷めない翌月、世の中に向けて問われたのである。多くの命を代償として詳らかにされたのは、この現代日本における社会システムの硬直性と杜撰さであった。このなんとも言えない閉塞感が日本中を覆い尽くす中、本作において、まどかが高らかに宣明したあの願いは、あの祈りは、あの叫びは、決して大げさな意味ではなく、時代のエントロピーそのものに抗う想像力を体現したものであったのではないだろうか。

本作において示されるのは、もはや魔法少女が万能の願望器でもなんでもなく、少女達の「願い」がただただシステムを稼働させるための動力源として搾取されていく世界観である。それはまさしく、グローバル化とネットワーク化がますます加速する中、アーキテクチャによる環境管理型権力の統制のもとで人間がモルモットのように飼い慣らされる現代社会の構造それ自体の鏡像でもある。

こうした構造は、超越的な「外部」を消去し、これまで人々の生のリアリティを支えてきた幻想を破綻させる。

正義は勝つとは限らない。努力は報われるとは限らない。未来は素晴らしいとは限らない。世界は所詮、金と偶然に規定されたガチャに過ぎない。

こうした構造自体から我々はどうやっても逃れられない。ここで無理矢理にでも構造の「外部」に希望を見出すような生き方に拘るとすれば、それは多くの場合「生きづらさ」という絶望として跳ね返ってくるのである。


⑻ 構造を内破する希望の在り処

そもそも希望とは何なのだろうか?もし仮に希望と絶望が「差し引きゼロ」なのであれば、希望の本質は「歪み」であり、誰かが希望を願えば、それだけの絶望が誰かに回帰する事になる。誰かを救うという事は誰かを救わないという事であり、誰かが幸せになるという事は誰かが幸せになれない事である。

希望の本質をこのように捉えた時、その抵抗の戦略はその絶望を一点に収束させずにいかに拡散させていくかという点に見出されるのではないか。この点、本作ラストに登場する「魔獣」はまどかの改変した新たな世界における形を変えた絶望の回帰である。そういった意味ではまどかの世界改変は、希望と絶望の相転移をより緩やかで受け入れ可能なものに変える一種の「設計主義」ともいえる。


「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。」

(本作最終話より)


こうして「まどかの願い」は現代を生きる我々にとっての希望の在り処さえも照らし出す。すなわち「構造」の外部に超越性を見出すのではなく、むしろこうした構造を逆手に取り、構造の「内部」の中で、いかにして主体的欲望を奪還し、多くの瑞やかな歓びを汲み出しつつ、構造のルールそのものを書き換えていくか。いま問われているのはおそらく、そんな生き方ではないだろうか。

いわば「まどかの願い」は世界の構造に対して鋭い「NO」を突きつけると同時に、人々の生に対する力強い「YES」のメッセージでもあった。そういった意味において、本作が幅広い時代の共感を産み出したのは、まさしく共時的なめぐりあいであり、必然的なコンステレーションだったのだと思う。


3 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない

⑴ 「ゼロ年代の想像力」の到達点としての「あのはな」

こうした「まどか」の放映直後の2011年4月から放映され、気鋭の脚本家、岡田麿里氏の出世作として知られる本作は「まどか」とは別の形で「ゼロ年代の想像力」の到達点を示している。

宿海仁太(じんたん)、本間芽衣子(めんま)、安城鳴子(あなる)、松雪集(ゆきあつ)、鶴見知利子(つるこ)、久川鉄道(ぽっぽ)。彼ら彼女ら6人は「超平和バスターズ」の名の下で少年少女時代の、何物にも代え難い「あの時」を共にした間柄だった。しかし芽衣子の死をきっかけに、超平和バスターズは決別。それぞれが「芽衣子の呪縛」を抱えつつ、中学卒業後の現在では互いに疎遠な関係となっていた。

しかしある日、高校受験に失敗以来引きこもり気味の生活を送っていた宿海の元に、突然、死んだはずの芽衣子が現れる。

芽衣子の姿は宿海以外の人間には見えない。そして宿海は彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。これを契機に、それぞれ別の生活を送っていた超平和バスターズの面々は再び集まり始め、皆は「めんまの願い」を叶え、彼女を「成仏」させるために奔走する。

なお、本作のタイトルは通常「あの花」と略されるが、公式には「『あ』の日見た花『の』名前を僕達『は』まだ知ら『な』い」を略して「あのはな」である。


⑵ 「欲望とは〈他者〉の欲望」である

物語終盤、超平和バスターズの面々は様々な障害をどうにか乗り越え「めんまの願い」とされる「花火の打ち上げ」に見事成功する。

けれど、芽衣子は「成仏」しなかった。何故なのか?ここで皆は初めて「めんまの願い」の意味を真剣に考え始める。

フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「欲望とは〈他者〉の欲望」であると言う。人の生のリアリティを支える「欲望」の根源には「Che vuoi?--あなたは何を求めているの?」という問いに対する欲望があるという事である。彼らは「めんまの願い=〈他者〉の欲望」と向き合う事で、己の抱えている自らの欲望に向き合う事になる。そして、芽衣子の「本当の願い」とはまさにこの点に関わってくるのである。


⑶ セカイ系と決断主義

果たしてその後、神社の境内に皆で集まり話し合いを続けていくうちに、各人は次々に「めんまの成仏」に奔走する裏にあった自らのドロドロとした打算とエゴイズムを吐露し始めるのである。

ここで詳らかにされる構図は何気にゼロ年代における「セカイ系」から「決断主義」に至る総括になっている。一方で、芽衣子を成仏させず独占し続けたい宿海の欲望はセカイ系主人公のメンタリティそのものであり、他方でそれぞれの打算とエゴイズムから「めんまの成仏」を企てる他の超平和バスターズ達の欲望は、いわば決断主義者達のそれに他ならない。

このように芽衣子亡き後をめぐる各人のスタンスの対立という本作の構図はまさしく「大きな物語」亡き後をめぐる「小さな物語」同士の対立というゼロ年代的想像力とパラレルな関係で捉えることができるのである。


⑷ ゼロ年代的想像力の「その先」

そして本作は同時にゼロ年代的想像力の「その先」をも示している。皆が自分の胸のうちを洗い晒しにして、お互いの苦しみを分かち合ったその時、そこにはとぎれとぎれで歪ながらも確かな「きずな」があったことに気づく。

ここに来てようやく「この6人で超平和バスターズなんだ」という極めて単純な、けれども何物にも代え難い、たったひとつきりの真実に行き当たり、終わりなき決断主義ゲーム、欲望のバトルロワイヤルに終止符が打たれる事になる。

そしてあの日以来、凍り付いていた時が再び動き出した。こうして「きずな」の再生を見届けた芽衣子は皆に見送られ、天に還っていった。


⑸ 「きずな」を紡いでいく力

本作は東日本大震災の直後、2011年4月から放映された。あの未曾有の大災害をきっかけに堰を切ったようにして世に溢れ出した一つのキーワード。それは「きずな」という言葉であった。

確かに「震災」という文脈で言えば、あの言葉は問題の本質に蓋をするような胡散臭い側面があるのはもちろんである。ただ「ポスト・ゼロ年代」というパースペクティヴの中でこの「きずな」という言葉を捉えた時、それはおそらく、様々なクラスターや格差などによってズタズタに寸断されてしまった今の日本においてオルタナティブな社会的紐帯と自分の居場所を希求する人々の願いでもあったのではないか。

寸断されたものをつなぎあわせる「きずな」を紡いでいく力。仮にもし、そんな力があるとすれば、人はそれを「愛」と呼ぶのかもしれない。先のラカンは「愛とは常に持っていないものを与えるものである」という有名な言葉を残している。そういう意味で本作はポスト・ゼロ年代における「愛の物語」だと、そう呼べるのではないだろうか。


4 とある科学の超電磁砲


⑴ 「サヴァイブ系」と「日常系」を架橋する想像力

周知の通り本作は「とある魔術の禁書目録」のスピンオフである。ゼロ年代のサブカルチャー文化圏の潮流の中でいえば「禁書」がいわば典型的な「サヴァイブ系」の想像力をベースにしているのに対して、本作は禁書の世界観を引き継ぎつつも、そこに「日常系」の想像力を導入していると言える。

本作が本家禁書を凌駕する人気を誇るのは「サヴァイブ系」への批判力としての「日常系」の台頭というゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流を物語レベルで内在化させる事に成功したからなのであろう。そういった意味で本作は「まどか」「あのはな」と同様のポスト・決断主義的な想像力を内在させている作品といえる。


⑵ 異質な他者の間における関係性のあり方

本作の舞台は総人口230万人の内8割を学生が占める「学園都市」。そこでは学生全員を対象にした超能力開発実験が行われており、全ての学生は「無能力者(レベル0)」から「超能力者(レベル5)」の6段階に分けられる。

本作の主人公、御坂美琴は、学園都市でも7人しかいないレベル5の1人であり「超電磁砲(レールガン)」の通り名を持つ。御坂は後輩の白井黒子、初春飾利、佐天涙子達と共に学園都市で起こる様々な事件を解決していく。

この点、御坂・白井と初春・佐天の間にはエリート/ノンエリートの断絶があり、また白井・初春と美琴・佐天の間にも風紀委員/一般人の断絶がある。いわば超電磁砲メンバー4人はそれぞれが異なる世界を生きる他者といえる。本作が描き出すのはこうした異質な他者の間における関係性のあり方といえる。


⑶ 学園都市の光と闇

本作の舞台となる学園都市はICTやAI、再生エネルギーを駆使する未来都市というユートピア的側面と、厳格な監視社会、苛烈な格差社会というディストピア的側面を併せ持っている。

こうした学園都市の光と闇はグローバル資本主義や環境管理型権力といったシステムが支配する現代社会の構図とパラレルに捉えることもできる。このように捉えた場合、木山春生や布束砥信は己の正義からシステムに叛逆する点でテロリストの立ち位置に近く、テレスティーナ=木原や有冨春樹らスタディは己の欲望からシステムを利用する点でカルフォルニアン・イデオロギーの立ち位置に近い。

では、こうした中で御坂の立ち位置はどこにあるのだろうか。この点、第2期前半「妹編」での御坂は事態を一人で抱えこんでしまい学園都市の闇の中で孤軍奮闘するが、後半「革命未明編」での御坂は前回の反省から皆に事態の真相を打ち明けて助力を乞う。このようなコントラストが表すように、本作が強調するのは他者間における連帯の可能性である。こうしたことから、本作における御坂達は「マルチチュード」の立ち位置に相当するように思える。


⑷ 帝国の体制とマルチチュード

「マルチチュード」とは、今世紀初頭に出版され世界的ベストセラーとなった「〈帝国〉」においてアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートが概念化した現代における新しい市民運動のスタイルである。

まず、ネグリたちは現代においては「国民国家の体制(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国の体制(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつある指摘する。

そして、この「帝国の体制」というフィールド上には、国家、国際機関、非営利組織、企業、個人などが並列的なプレイヤーとして配置されることになる。

そして、こうした「帝国の体制」を逆手にとり、帝国内部のインフラ、ネットワークを積極的に活用する新しい市民的連帯の形を、ネグリたちはスピノザの哲学を参照して「マルチチュード」という概念で肯定的に捉えるのである。

本作終盤においてテレスティーナが御坂に対して言い放った「学園都市は実験場、生徒はすべてモルモット」「その実験動物にすらなれない連中の闇がどれだけ深いか」という言葉は「帝国の体制」の端的な比喩と言える。

これに対して御坂は「それでも私はこの学園都市を嫌いになれない」と言う。そして超電磁砲メンバーを始め、ミサカネットワーク、婚后航空、さらには一般学生達といった学園都市内の多様なプレイヤー達と連携し、まさしく「帝国の体制」に「マルチチュード」の力で抗っていくのである。


⑸ このディストピアを肯定するということ

もちろん、こうした御坂達の奮闘にも関わらず学園都市の闇の深さは1ミリも変わらない。これからも御坂達は学園都市という実験場でモルモットとして生きて行かなければならない。

けれども祝祭感に満ちた最終話が象徴するように本作が打ち出すメッセージは世界の限りない肯定である。こうした本作の想像力は現代における幸福感と大きく共鳴しているのではないか。

この点、社会学者の古市憲寿氏は「絶望の国の幸福な若者たち」において、ゼロ年代以降前景化してきた若年世代の捉えどころのない幸福感の源泉を「コンサマトリー化」と「仲間の存在」にあると分析している。

すなわち、この不安と閉塞に満ちたディストピア的現実を生き延びる最適解は「ここではない、どこか」を夢想することではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねていく幸福感受性の深化にあるということである。こうした現実が良いか悪いかは別として、いずれにせよ本作は「幸福の規制緩和」というべき今の時代に必要な想像力をウェルメイドな物語として示しているのである。



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