きずなと生きづらさ


1 エヴァが描き出した「他者の両義性」

現代とは内的には「大きな物語の失墜/動物の時代/不可能性の時代」によって規定され、外的には「資本主義のディスクール」によって規定された時代であるといえる。

こうした現代における「他者」との関係性を、あの時代の変わり目において真正面から問いに付した作品が「新世紀エヴァンゲリオン」であった。
そして、TV版と劇場版という二つのエヴァの物語において提示されたのは両極端な「他者」のモデルに他ならない。すなわち「おめでとう」という「承認を与える他者」と「キモチワルイ」という「拒絶を貫く他者」です。すなわち、我々はこうした「他者の両義性」を前提として他者との関係性を構築していかなければならないということである。

この点、ゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏における想像力の変遷はエヴァが提示した「物語において他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」への回答の変遷であったともいうことができるであろう。

そして2007年、エヴァは全4部作の新劇場版として再起動した。総監督を務める庵野秀明氏はその所信表明において、エヴァという作品を「曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話」だと再定義した。

その第1部「序」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成となっているが、シンジやミサトの台詞の言い回しなどに僅かながら変化の兆しが見て取れる。そして、その後に続く「破」は驚きを、そして「Q」は困惑を、多くの観客にもたらすことになる。


2 「きずなの物語」としての「破」

第2部「破(2009)」においては新たなキャラクター、マリが登場、またネブカドネザルの鍵など新たな謎も投入され、TV版と異なるストーリーが展開していく。

しかし何より驚かされるのが「破」におけるシンジ、アスカ、レイの変化である。かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていた。精神科医の斎藤環氏は旧エヴァのシンジを「ひきこもり」、アスカを「境界性人格障害」、レイを「アスペルガー症候群」と評している。しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。端的にいうと今回の3人は「周りが見えている」という事である。

こうした「破」の変化は上に述べたゼロ年代のサブカルチャー文化圏における「セカイ系」から「ポスト・決断主義」に至る想像力の変遷と明らかに共鳴を示している。すなわち、エヴァは自らがかつて示した「物語において他者をいかに描くか」という命題に対する時代の回答を一旦は率直に受け入れて見せた。それが「破」の物語である。そういう言い方もできるかもしれない。

結果「破」は極めて洗練されたウェルメイドな「きずなの物語」に仕上がっている。世界は限りなく眩しく瑞々しい。この日常にこそ尊い価値がある。他者とはきっと分かり合える。「破」ではこうしたポジティブなメッセージが鮮明なまでに打ち出されているのである。

ここに我々はエヴァの物語を前に進めようとする庵野氏をはじめとする製作サイドの意思を見出すべきなのだろうか?しかし周知の通り、こうした「明るいエヴァ」のツケは次作できっちり払うことになる。ゆえにむしろ「破」で示された数々のポジティブなメッセージはすべて観客を欺く巨大なルアーであったという可能性も未だ否定できないわけである。


3 「生きづらさの物語」としての「Q」

第3部「Q(2012)」が描くのは前作から14年後の世界である。反NERV組織「ヴィレ」を結成したミサト達。「エヴァの呪縛」で成長しないアスカ。前作までのレイとは別人のアヤナミレイ(仮称)。「ゼーレの少年」と呼ばれる渚カヲル。旧姓が「綾波」に変更されたユイ。ゲンドウやユイの古い友人であることを匂わせるマリ。よくわからない謎が次々と現れ観客を困惑させる。

もっとも「Q」の物語自体は割とシンプルといえる。それは端的に言えば、本作で描かれるのは三幕形式で展開するシンジの絶望である。序盤のシンジは「ヴィレ」のメンバーから疎外され絶望する。中盤のシンジは「ニアサードインパクト」で世界を破滅させていたばかりか、レイさえも救えていなかった事に絶望する。終盤のシンジは性急に槍を引き抜いた結果、カヲルが惨殺され「フォースインパクト」を発動させて絶望する。

こうした「Q」で描かれる徹底した絶望はゼロ年代的想像力へのアンチテーゼのようにも見える。前述したようにゼロ年代的想像力が開こうとしたのは「異質な他者」との間にコミュニケーションを通じて「他者性なき他者」を発見していく可能性であった。こうした想像力はある種の社会的紐帯への希望を生み出すかもしれない。しかしその一方で、こうした想像力が様々なクラスターや格差によってズタズタに寸断された現代日本社会の現実を隠蔽する装置として機能することもまた確かである。

すなわち「破」がゼロ年代的想像力を体現する「きずなの物語」だったのに対し「Q」はゼロ年代的現実を告発する「生きづらさの物語」だったとも言えるわけである。

4 きずなと生きづらさ

この「破」から「Q」に至る流れはかつてのTV版から劇場版へ至る流れを想起させる。かつてエヴァ劇場版はエヴァTV版に共感する「エヴァの子供達」に冷や水をぶっかけるような結末を提示した。ここで示されたのも「おめでとう」という幻想ではなく「キモチワルイ」という現実を見ろという警鐘ではなかったか。

「おめでとう」から「キモチワルイ」へ。「きずな」から「生きづらさ」へ。こうしてみると庵野氏の立ち位置はある意味で一貫しているといえるのではないか。



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