虚構と現実


1 理想・夢・虚構

戦後社会学を牽引した社会学者の見田宗介氏によれば、「現実」という言葉は3つの反対語をもっている。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」である。

こうした反対語を見田氏は「反現実」と呼び、人の「現実」は「反現実」によって規定されるという。

こうした観点から、見田氏は、プレ高度成長期(1945年から1960年頃)を「理想の時代」として、高度成長期(1960年頃から1970年前半)を「夢の時代」として、ポスト高度成長期(1970年後半以降)を「虚構の時代」として、それぞれ規定した。


2 動物と不可能性

そして戦後50年目の年にあたる1995年を境として、日本社会は「大きな物語の失墜」と呼ばれるポストモダン状況に突入する。もやは何が「正しい生き方」なのかわからない時代において、それまでの「虚構の時代」における「虚構と現実」の図式が単純には妥当しなくなった。こうして現代における「虚構と現実」の関係が再検討されることになる。

この点、東浩紀氏は「物語消費」から「データベース消費」への移行という現代における消費行動分析を切り口として、人間的欲望よりも動物的欲求を優先させる現代的主体を「データベース的動物」と名付け、1995年以降の現代を「動物の時代」であると呼んだ。

そして、大澤真幸氏は東氏がいう「動物の時代」における「反現実」とは「不可能性」であると言う。大澤氏によれば「虚構の時代」は⑴「虚構」に反するかのような「現実への回帰」⑵「虚構」を強化するかのような「極端な虚構化」という一見相反する二つの傾向の間で分裂・解消されているという。

そして、大澤氏はそこに「他者性なき他者」という「不可能性」を隠蔽する構造があるといい、1995年以降の現代を「不可能性の時代」であると規定するのである。すなわち「不可能性」とは従来の「虚構と現実」の対立関係をさらに先鋭化させて捉える発想といえる。

3 もう一つの反現実としての「拡張現実」

これに対して、宇野常寛氏は上記の議論を引き継ぎつつ、グローバル化とネットワーク化の極まった現代における「反現実」とは、理想や夢や虚構といった「ここではない、どこか」を架構する「仮想現実」ではなく、ありふれたこの日常の「いま、ここ」の現実を多重化する「拡張現実」にあるという。

⑴ カルフォニアン・イデオロギー

その起源には、かつてアメリカ西海岸で生まれた「カルフォニアン・イデオロギー」という思想がある。70年代以降、アメリカ西海岸において、ヒッピーやドラッグなどのカウンターカルチャーが流行し、その中のいちジャンルとしてコンピューターカルチャーが注目されだした。その結果、アメリカ大陸の西の果てで、新たなフロンティアともいえるサイバースペースが発見され、個人は再び世界そのものを変える可能性を手にすることになった。

ここから素晴らしいサービスを投入すれば世界は自動的に変わっていくという一種のユートピア思想が生まれる。これが「カルフォルニアン・イデオロギー」である。GoogleやAppleといったグローバル情報産業はまさに「カルフォルニアン・イデオロギー」の体現者に他ならない。

カルフォルニアン・イデオロギーは情報テクノロジーの力で現実に介入する。ここで起きるのは「虚構」と「現実」の関係性の変容である。かつての「虚構」は「現実」から逃走する「仮装現実」を仮構する想像力であったのに対し、今日の情報テクノロジーの進展により「虚構」は「現実」に介入する「拡張現実」としての作用を持つ事になった。すなわち「拡張現実」とは「虚構と現実」の関係性を従来のように対立関係ではなく統合関係として捉える発想と言える。


⑵ 拡張現実の時代

こうした「拡張現実」は1995年以降、インターネットの普及とともに日本社会に時代的な「反現実」として胚胎し、その流れはゼロ年代後半においてスマートフォンとソーシャルメディアの登場により加速し、あの2011年の東日本大震災で顕在化した。

そして未曾有の震災から5年が経過した2016年、この「拡張現実」という想像力を体現した3つの作品が日本映画界の話題を攫う。

「シン・ゴジラ」「君の名は。」そして「この世界の片隅に」である。


4 シン・ゴジラ

⑴ 歴代ゴジラ映画と原子力

2016年に公開されるや否や、各界において大きな反響を呼び起こした映画「シン・ゴジラ」。総監督・脚本には「新世紀エヴァンゲリオン 」で知られる庵野秀明氏。監督・特技監督には庵野氏の盟友にして「平成ガメラシリーズ」の功労者、樋口真嗣氏。そしてその宣伝コピーは「現実対虚構」である。

ビキニ環礁水爆実験が行われた年に公開された「ゴジラ(1954)」はまさしく核兵器時代の恐怖を象徴する映画であった。ところがその後ゴジラ映画はシリーズ化され、5作目の「三大怪獣地球最大の決戦(1964)」辺りから、シリーズを重ねる毎にゴジラは「正義の味方」としての側面が強くなる。その背景には「原子力の平和利用」という今では欺瞞としか言いようのないキャッチコピーの下で「夢のエネルギー」「希望のテクノロジー」として原子力に未来を託す時代的空気があった事とは決して無関係ではない。

そしてシリーズ15作目「メカゴジラの逆襲(1975)」以降、長期の中断を経て久々に制作された「ゴジラ(1984)」においてゴジラは再び人類の敵として登場する。同作公開に先立つ1979年にはスリーマイル島原発事故が起こり、当時は原子力が持つ「夢のエネルギー」「希望のテクノロジー」というイメージに対して疑問符が付き始めた時代であった。

このように歴代ゴジラ映画と原子力は切っても切り離せない関係にあった。そして「ゴジラFAINAL WARS(2004)」以来、12年ぶりの国産ゴジラ映画として制作された「シン・ゴジラ」の背景には東日本大震災と福島第一原発事故があることは明らかである。


⑵ 理想的なプロジェクトX

この点「シン・ゴジラ」はヒューマンドラマ的要素を徹底して排除し、その主題を「もしも現代日本に巨大不明生物が現れたらどうなるか」という一点に絞り切る大胆な構成を取り「理想的なプロジェクトX」として我々の生きる社会に巨大な問いを突きつけた。

この作品に内在する想像力をもっとも具象化した存在として市川実日子氏演じる尾頭ヒロミの名前が挙げられる。高速でキーボードを叩きながら自説を独り言のように早口でまくしたてる変人ぶりと、ゴジラの上陸可能性や核分裂可能性をいち早く指摘する優れた分析能力を併せ持った彼女の存在感は曲者揃いの「巨災対」の中でもひときわ強烈な印象を残す。

ある意味、尾頭はこの作品に内在する想像力をもっとも具象化した存在とも言える。すなわち徹頭徹尾、ゴジラを「敵」でも「災厄」でもなく「情報の束/データベース」として捉える。

本作の「現実対虚構」というキャッチコピーもそういった文脈に位置づけて読むことが出来るであろう。本作は経済大国の威風はもはや過去のものとなり今やすっかり自信を失った日本の「現実」に映画という「虚構」の力で介入しようとした。そして我々の生きるこの日常にも「原発」「テロ」「貧困」といった様々な形で「ゴジラ」は現れる。

こうした理不尽な「現実」と対峙する上で必要なのは、この世界と時代の光彩を「情報の束/データベース」として見はるかし、そして読み替えていく「虚構」の力なのではないのだろうか。


5 君の名は。

⑴ 風景の発見

新海映画を特徴付けるもの。それは言うまでもなくあの緻密なまでに構築された美しい「風景」である。柄谷行人氏が「近代日本文学の起源」で述べるように、明治20年代の言文一致から始まった日本近代文学はごくありふれた無意味な風景を「写生」することで、その中に固有の意味を投射する「内面」を備えた〈わたし〉という鏡像を転倒した形で見い出そうとした。

これがいわゆる「風景の発見」と言われるものである。新海誠氏の作家的特異性は「セカイ系」という文脈を通じて現代アニメーションの中に新たな形での「風景の発見」をもたらした点にあるのは疑いない。

写真資料をもとにトレースされたその背景美術は正確な空間性と細密なディテール感からなる莫大な情報量を持ちつつも、現実の風景に含まれる余計なノイズを周到にオミットする事で高度な美的緊張と独特の叙情を生み出す新海映画における「風景」は現実の風景を幾重にも多重化させていくのである。

⑵ 横切っていくもの

そして、新海映画における「風景」の最大の特徴が「横切っていくもの」にある。「雲のむこう、約束の場所」における「塔」然り、「秒速5センチメートル」におけるNASDAのロケット然り。キャラクターと背景美術が複雑にレイヤードされたその画面の上を一つの軌跡が突き抜けていくあのダイナミズム感溢れる構図である。

もっとも、初期新海作品おいて「横切っていくもの」は専ら「遥か彼方にある憧憬」を象徴する役割を担っていた。けれども「君の名は。」におけるティアマト彗星は「今、ここにある危機」を象徴するものとして描かれている。

⑶ 新海映画におけるデタッチメントとコミットメント

このような変化は新海作品におけるストーリーテリングの作用点が変化した事と決して無関係ではない。本作のあらすじはこうである。東京に住む男子高校生の立花瀧と飛騨の山村に住む女子高校生の宮水三葉はある日、お互いの体が入れ替わってしまう。以来、突如始まった週何度か訪れる「入れ替わり生活」を戸惑いつつもそれなりに楽しむ2人。しかしこうした生活に突然終止符が訪れる。

三葉の身を案じた瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチを頼りに飛騨へ向かう。果たして三葉の住む糸守町は3年前にティアマト彗星の破片が直撃し、三葉を含めた住民500人以上が死亡していた。瀧は時空を超えて生前の三葉と入れ替わっていたのである。

「少年少女の関係性の断絶」。初期新海作品で幾度となく反復されたモチーフである。この点、初期の主人公達が取る態度は自己完結的なデタッチメントであった。「ほしのこえ」の昇は美加子との別離を「心を硬く冷たく強くする」ことで耐え「雲のむこう、約束の場所」の浩紀はヴァイオリンに佐由理の面影を求め「秒速5センチメートル」の貴樹は明里を想いながら宛先のないメールを打ち続けることになる。

これに対して本作の瀧と三葉は中期新海作品の流れを汲む「コミットメントする主人公とヒロイン」といえる。糸守の消滅と三葉の死という現実に直面してもなお諦めない瀧はかつて入れ替わり時に「口噛み酒」を奉納した糸守山上にある「あの世」ーーー宮水神社の御神体へ向かい、三葉の遺した「口噛み酒」の力を借り再び三葉と入れ替わりを果たす。そして彗星落下当日の糸守町での奮闘した後に「かたわれどき」において三葉と時空を超えて邂逅する。ここで見せる瀧の執念は「星を追う子ども」において、亡妻リサを蘇らせるため地下世界アガルタの果てを目指す森崎を想起する。

そして瀧と再び入れ替わった三葉は町長である父親を説き伏せ全町民の避難に成功。こうして大惨事は紙一重で回避される。ここでの三葉も泥臭いまでにコミットメントするヒロイン振りを演じる。こうした三葉の姿は「星を追う子ども」でアガルタを駆け回る明日菜や「言の葉の庭」で孝雄に追いすがる百香里に通じるものがある。

ここに我々は新海映画における「デタッチメントからコミットメントへ」という変遷を見る事ができる。こうして、かつての秒速5センチメートルにおいて描き出された「断絶とすれ違い」の構図は、本作ラストにおいて「断絶とめぐりあわせ」の構図として更新される。

このように本作は、新海作品の原点であるセカイ系構造を基盤としつつも、ストーリーテリングの作用点を「デタッチメントからコミットメントへ」と転回することで、作家性を手放すことなく幅広い共感を紡ぎ出すことに成功したのである。


6 この世界の片隅に

⑴ 自然主義的リアリズムの極致

本作は戦時下の日常を細やかに描きだし、その隙間に脱力した笑いを配置していく。本作の数々の日常描写は当時の配給事情や食料事情の綿密な調査に基づいており「楠公飯」をはじめとした「戦時レシピ」は原作者、こうの史代氏自身が実際に作ったみたという徹底ぶりである。

そして、周知の通り、本作はクラウドファンディングという当時としては斬新な資金調達により映画化され、ミニシアター系作品としては異例の大ヒットを記録した。本作の監督を務めた片渕須直氏は原作を読むや否や「これをアニメーションにしない手はないし、他のひとに委ねたくない、絶対に自分でやらなければいけない」と確信したらしく、映画の製作にあたっては徹底的な調査が行われ、当時の広島や呉の風景が恐るべき精密さでシュミレートされている。

このような「風景のリアリティ」を追求する手法は「アルプスの少女ハイジ(1974)」で高畑勲氏が確立した日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」に由来する。

「自然主義的リアリズム」に基づく空間演出は写実的な背景と記号的なキャラクターの間にインタラクションを生み出すことで、キャラクターに「まさにそこに立っている」という確かな存在感、実在性を与えると言われる。そういった意味で本作映画は戦後の日本アニメーションが築き上げてきた伝統の到達点に位置している。

こうして徹底的に再現された当時の風景は映画と現実の壁を融解させていく。いわば半ば戦時日常ドキュメンタリーというべき本作は、次第に遠ざかりつつある「あの戦争」とこの現代を歴史的記述でもイデオロギーでもない「共感」という名の想像力によって接続しているのである。

⑵ 戦時下の日常

昭和18年12月、18歳の浦野すずは草津の祖母の家で海苔すきの手伝いをしている時、突然縁談の知らせを受ける。急ぎ帰宅したすずが窓際から覗き見た相手は、呉から来た北條周作という青年だった。翌年2月、呉の北條家に嫁いだすずの新しい生活がはじまる。いつもぼんやりしていて危なっかしいすずは、北條家で失敗を繰り広げながらも、次第に周囲の人々に受け入れられていく。

本作は形式こそ4コマでは無いものの、そのテンポ感はいわゆるまんがタイムきらら的な「日常系」に極めて近いものがある。本作の描く戦時下の日常がどこまで当時の一般的な日常だったのかはわからない。けれどもこうした描写のひとつひとつが「あの戦争」と今の時代は地続きの日常であるという当たり前の事実を我々に再認識させるのである。

⑶ 居場所のなさ

このように本作が前半で細やかに描き出した日常は、後半で容赦なく破壊されていく。すずは時限爆弾の爆発に巻き込まれ義理の姪である晴美を死なせてしまい、自身も右手を失ってしまう。

異郷の嫁ぎ先ですずを慕ってくれる妹のようでも娘のようでもある晴美はすずに間違いなく「居場所」を差し出していた存在であった。また、すずは右手を失うことで絵が描けなくなり、世界の中に自らの「居場所」を描き出す手段を失ってしまった。

よく知られているように、すずが右手を失って以降の本作の背景はほとんどが左手で描かれている。こうした左手で描き出された歪んだ世界の中で、すずが直面しているのはまさしく「居場所のなさ」である。

「居場所のなさ」。あの戦争が多くの人から奪ったのはまさしく「居場所」という人の生を規定する物語だったのではないかと。そう本作は問うているように思えてならない。

そして、こうした「居場所のなさ」から生じる感情が「生きづらさ」である。これは現代を生きる我々にもある程度、理解可能な感情ではないか。すなわち、本作は「生きづらさ」という比較的身近な感情を媒介項として「あの戦争」に思いを至らせるを可能とする。

⑷ 「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事

そして、故郷である広島への原爆投下。終戦を告げる玉音放送。出会い損なった記憶、飛び去った正義。こうした様々な喪失をすずは「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事で乗り越える。忌まわしい記憶から目を背けず思い出を手放さないという選択である。

そして、本作の物語はすずが偶然広島で出会った原爆孤児を引き取る所で静かに幕を下ろす。こうした本作の結末は戦後の一時期盛んだった原爆孤児国内精神養子運動とも大きく共鳴している。すずと孤児を繋げたのは互いの境遇に想いを至らせる想像力であった。こうしてすずは新たなめぐりあわせを得ることで再び自らの「居場所」を取り戻したのである。


7 拡張現実の展開

カルフォルニアン・イデオロギーが情報テクノロジーの力を経由することでグローバル化とネットワーク化の極まったこの世界の現実に介入する。これに対して「シン・ゴジラ」「君の名は。」「この世界の片隅で」という三作は特撮やアニメーションの想像力を経由する事で、それぞれのアプローチで「災後の日本」という現実に介入しようとしたといえる。

こうした拡張現実的想像力は2010年代のサブカルチャー文化圏にも大きな影響力を及ぼしている。特にその傾向は「日常系」と呼ばれる作品群において顕著である。

⑴ 開かれる日常

ゼロ年代における日常系の代表作「らき☆すた」「けいおん!」「ひだまりスケッチ」などから明らかなように、日常系が現代における成熟的コミュニケーションの可能性、新たな想像力の地平を切り開いた事は疑いのない事実である。

ただ一方、日常系の魅力はなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における女の子同士の甘やかな交流にあり、これは結局のところ「極端な虚構」における「データベース消費」の一形態に他ならない事もまた事実である。こうした意味では、日常系もまたやはり「動物の時代」「不可能性の時代」というポストモダン的想像力に規定されていたとも言える。

ところが2010年代の日常系においては、こうしたジャンル的限界性を内破していく傾向が徐々に顕在化し始めた。例えば「ご注文はうさぎですか?」「NEW GAME!」「こみっくがーるず」などは「お仕事」という回路を通じて、あるいは「アニマエール!」「ゆるキャン△」などは「アウトドア」という回路を通じて、日常系の想像力はコミュニティの「内」のみならず「外」に向かってゆるやかに開かれつつあった。

こうした日常系の傾向変化の中で、拡張現実的想像力を大きく導入した成功例として「恋する小惑星」が挙げられる。

⑵ 甘やかな虚構から瑞やかな現実へ

もともと「理想的な日常」を描く日常系作品と拡張現実的想像力は親和性を有していたといえる。例えば「らき☆すた」の聖地である鷲宮町がアニメを使った町おこしの取り組みはよく知られている所である。

しかし、地学部の日常を描く本作はここからさらに一歩踏み込み、天文学や地質学といった地球科学という枠組みをうまく活用することで、作品として拡張現実的想像力それ自体を作品テーマとして内在させている点に特徴がある。

こうした本作の特徴を分かりやすく示しているのが、近所の子供達相手に開かれた天体観望会のエピソードである。天体観測にあまり興味がなく、観望会にもしぶしぶ参加した女の子が率直に述べる通り、普通に見る限りで天体や星雲というのは「ただの光っている点」「ただのモヤモヤ」以上の何者でもない。ところが天文学の知識を通してみると、こうした「ただの光っている点」「ただのモヤモヤ」という「対象」が「いま遥か太古の宇宙を見ている」という「体験」にリフレーミングされる。その結果、この女の子は天体観測の魅力に取りつかれる事になるのである。

また、本作の大きな特徴に「夢」の強調がある。本作では「未知の小惑星の発見」「宇宙飛行士」「自分だけの地図」といった荒唐無稽だったりファンシーな様々な夢が語られるが、これらの夢達は単なるキャラの「萌え要素」に留まらず、きちんと地学部の活動や受験勉強といった「現実」と常に相互補完的にリンクするように描かれている。ここで「夢」は「現実」と対立する理想でも虚構でも、ましてや不可能性でもなく、むしろ「現実」を多重化させていく「拡張現実」として作用しているのである。

「いま、ここ」に深く潜っていく事で、何気ない「日常」の中に色とりどりの「非日常」が見えてくる。ありきたりな日々の「現実」の中で遥か彼方の「夢」をみる。

データベース消費的日常から拡張現実的日常へ。甘やかな虚構から瑞やかな現実へ。こうした現代的な幸福感受性の在り方を描き出す「恋する小惑星」は日常系というジャンルが持つ可能性を大きく更新していると言える。



目次に戻る