性愛から友愛へ


1 共同幻想論
1995年以降の日本社会においては「大きな物語の失墜」と言われるポストモダン状況がより加速したと言われている。ではこうしたポストモダン状況における主体的自由の起点はどこに見出すべきであろうか?この点、かつてこうした問題を個人、他者、国家との関係性の中で原理的に考察したのが、しばし戦後最大の思想家と呼ばれる吉本隆明氏である。

⑴ 自己幻想・対幻想・共同幻想

吉本隆明氏の主著「共同幻想論」は「全共闘」と総称される全国的な学生運動の盛り上がりを見せていた1968年に刊行された。「共同幻想論」では「遠野物語」と「古事記」という二つの古典を素材として国家の成立条件を論じられている。すなわち、人間の社会像は「自己幻想(個人)」「対幻想(家族的関係)」「共同幻想(国家的共同体)」から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになるという事である。

この点、家族を成立させている「対幻想」は二種類ある。「夫婦/親子的対幻想」と「兄弟/姉妹的対幻想」である。子を再生産する前者は時間的永続性を司り、子を再生産しない後者は空間的永続性を司る。

そしてこの二種類の対幻想を「宗教」とか「イデオロギー」などと呼ばれる操作で組み合わせる事で、対幻想は共同幻想に拡大される。すなわち、人は疑似人格としての国家との間に国民として「夫婦/親子関係」を結び、そして国民相互は同じ親(国家)を持つ「兄弟/姉妹関係」となるわけである。


⑵ 「大衆の原像」という「自立」

「政治の季節」の極相を迎えていた当時、吉本氏は「天皇制」や「戦後民主主義」といった「共同幻想」に回収されない個の「自立」を模索していく「第三の道」を唱導した。

この点、吉本氏は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の各幻想は原理的には「逆立」するものと考えた。「逆立」とは各幻想が反発しつつも独立している状態の事である。そして、ここで氏は「自己幻想」が「共同幻想」に「逆立」する為の起点として「夫婦/親子的対幻想」に着目する。

「夫婦/親子的対幻想」はそれ自体で二者間の閉じた世界の中に完結する。端的に言うとここでは「あなたさえいれば世界などどうでもいい」という物語が機能するという事である。吉本氏はこうした対幻想を起点とした自立を「大衆の原像」と呼んだ。

これは言うなれば「愛の力でイデオロギーを内破する」というレトリックである。これは当時「革命の夢」に敗北した全共闘の学生達に、自分達の敗北を正当化する為の物語として受容された。

こうして、かつて革命を志した学生達はゲバ棒を捨てヘルメットを脱ぎ、愛する家族と紡ぎ出す小さな幸せの営みを守る為、組織の歯車となって働きに働き、結果「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された80年代の日本経済の繁栄を築き上げる。

「革命という非日常」から「生活という日常」へ。共同幻想論はそれなりに誰かの背中を押し、誰かの人生を救い、一旦はその使命を全うしたのである。


⑶ しかし人は「自立」できなかった

ところが実際のところ、こうした吉本氏の戦略がもたらしたのは個の「自立」ではなく所属共同体への「埋没」でしかなかった。かつての革命学生の多くは企業戦士として横並びと前例踏襲を重んじる日本的企業文化に同一化していく。この時、吉本氏の対幻想を起点とした自立の処方箋は、こうした思考停止に「愛する家族を守るため」という大義名分を与えてしまった。

そしてこのような思考停止こそが、集団主義と同調圧力による組織体系の硬直化と創発性の阻害を招く最たる要因であることは言うまでもない。果たして多くの日本企業が90年代以後、規律重視の工業社会からイノベーション重視の情報社会へという、世界的な産業構造の急速な変化に対応できず、バブル崩壊以後の日本経済は低迷の一途を辿っていった。

こうしていまや「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い過去となり、貧困と格差が進む中、経済的豊かさの指標とされる国民1人当たりのGDPは1988年には2位だったのが2019年にはなんと26位にまで転落する事になる。

一方で、世界的なグローバル化、ネットワーク化の進展は国家という共同幻想を零落させ、人々の自己幻想の肥大化を促進した。スマートフォンの進化とソーシャルメディアの発達により、いまや人々は自分が見たい現実だけを見て信じたい物語だけを信じる事のできる情報環境を手に入れたのである。

そして、こうした母胎の如き環境下で幼児的に肥大化した自己幻想は今や零落した共同幻想へと容易く同致してしまう。いわゆる「ポスト・トルゥース」と呼ばれる、事実が軽視されフェイクニュースが幅を利かすという今日のディストピア的状況の背後にはこうした構造があるのである。

こうしてかつて半世紀前、吉本氏が提示した「自立」の戦略は今日において完全に破綻するに至る。では、現代における「自立」の方策はあるのであろうか。


⑷ 性愛的対幻想から友愛的対幻想へ

この点、宇野常寛氏は今日における「肥大化した母性(母胎の如き情報環境)」と「矮小な父性(自己幻想の肥大化)」の結託を「母性のディストピア(ボトムアップ的に醸成される共同幻想)」と呼ぶ。そして氏はこうした「母性のディストピア」を解除する鍵を「もう一つの対幻想」に、すなわち「兄弟/姉妹的対幻想」に見出した。その論理は大まかに言えば以下のようなものである。

まず、グローバリズムとネットワークが極まった現代社会においては「国家という共同幻想」が零落する一方「市場という非幻想」が浮上する。

これは言うなれば市場という「ゲームボード」上に、個人、組織、国家が「ゲームプレイヤー」として配置されると同時に「ゲームデザイナー」として参加しているという事態を意味している。

そして、かつての「国家という共同幻想」が書き手と読み手が固定化された一方通行的な「物語的存在」であったとすれば「市場という非幻想」とはプレイヤーとデザイナーが常に流動的に入れ替わる双方向的な「ゲーム的存在」という事になる。

すなわち、ここで世界と我々は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」によって接続される事になる。

そして、こうした「市場とゲーム」において、もし我々が他のプレイヤーに「夫婦/親子的対幻想(性愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは「家族」「国家」といった相対的に零落した共同幻想へと回収される事になる。

しかし一方、我々が他のプレイヤーに「兄弟/姉妹的対幻想(友愛的対幻想)」を見出すのであれば、それは共同幻想に回収される事なく、対幻想のままに対象を拡大させる事が可能となる。こうした関係性を宇野氏は「相補性の片割れたちによる、寄り添いのアイデンティティ・ゲーム」と呼ぶ。

こうした性愛的対幻想から友愛的対幻想へ至る「自立」を巡る想像力の変化はゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏の中にも胚胎されている。その例として近年において急速に一般的認知を獲得しつつある「百合」という文化の前景化が挙げられる。そしてこうした友愛的対幻想の台頭は従来、もっぱら性愛的対幻想を取り扱っていた少女漫画にも影響を及ぼしつつある。その例として「カードキャプターさくら」の作風の変化が挙げられる。


2 ゆるゆり

⑴ 「百合」という文化--少女小説からコミック百合姫へ

「百合」の起源は大正期の「少女小説」に遡る。近代教育システムの確立による「少女期」の出現、明治30年代における少女雑誌の創刊などを背景に誕生した少女小説は従来の家父長的な「家の娘」という呪縛から少女を解放し近代的自意識の発露へと導く役割を果たした。

初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性として少女同士の友愛や関係性を魅力的に描き出している点が挙げられる。

「花物語」は、ミッションスクールを舞台とした女学生同士の「エス」と呼ばれる関係性を描き出した作品であり、ここに「百合」の原的な世界観が胚胎する。このモチーフは少女小説の復権を掲げて80年代にコバルト文庫黄金期を築き上げた氷室冴子作品を経て、現代サブカルチャー文化圏の中に「百合」というジャンルを認知させた今野緒雪氏の「マリア様がみてる」にも引き継がれている。

ゼロ年代以降における百合文化を語る上で欠かせないのが「コミック百合姫」の存在である。その前身である「百合姉妹」が2003年、マガジン・マガジンから業界初の百合専門誌として創刊され、翌年には早速休刊の憂き目に遭うも編集長の中村成太郎氏の尽力により2005年には一迅社から実質的な後継誌である「コミック百合姫」が創刊される。当初は季刊誌からスタートし、2010年には隔月刊発行、2016年には月刊発行へと順調に規模を拡大させていく。そしてこの「百合姫」から初のアニメ化を成し遂げたのが「ゆるゆり」である。


⑵ 「ゆるゆり」という革命

本作はその名の通り中学生女子の日常の中でのゆるい百合を描いていく。「ゆるゆり以前ゆるゆり以後」と呼ばれるように、本作はキレ味鋭いギャグと繊細な感情描写を武器に、これまでどこか敷居が高く後ろ暗いイメージが付きまとっていた百合というジャンルを明るく楽しい肯定的なものへと変えて行った。

もちろん、こんなゆるいものなど断じて百合ではないという意見もある事は百も承知している。確かに、本作が描く人間関係の大半は何だかんだ言っても女の子同士の友愛の延長線上でしかなく、そこに性愛的な感情の自覚は希薄である。

ただ、本作はちなつや千歳というやや濃いめのキャラの視点を通じて、読み手の百合的な感性や想像力を徐々に「教育」していく仕掛けになっている。つまり本作は読者を本格的な百合の深遠へ誘う為の教育漫画であると捉えるのが妥当かもしれない。教育である以上は「教育的配慮」もそれなりに必要だという事である。

しかし、それでもやはり、本作の成功は百合というジャンルに誤配を招く可能性を拡大させてしまった事も確かである。具体的にはゆるゆりみたいな作品を期待して百合姫に手を出しだ結果、その「ガチっぷり」に戦慄するというパターンである。

こうした誤配から生じるもっとも危惧すべき事態はジャンルの再定義である。すなわち、百合というジャンルに深く根ざしている性や身体の問題が切り離され、単に思春期の女の子同士の甘やかな交歓という上澄みを掬い取ったものだけが「百合」であるとされてしまう可能性である。これは従来からの百合ファンにとっては自分の居場所を奪われるに等しい危機にもなりなねない。


⑶ 「解放区」「居場所」としての「百合」

ただ、デリダや東浩紀氏を引くまでもなく「誤配」は時に良い方向にも作用する。ゆるゆりの成功は、サブカルチャー作品全体における百合描写のハードルを大きく引き下げ、また近年の「おねロリブーム」など「百合」というジャンル自体を活性化させる契機を持ち込んだ事は確かである。

「百合」という概念は一ジャンルコードに留まらず、エディプス的規範に収まり切れなかった「過剰な何か」に「解放区」や「居場所」という物語を差し出してきた。その根底にあるのは「排除」ではなく「包摂」の原理なのである。


3 カードキャプターさくら

⑴ まさかの連載再開

少女漫画という伝統的ジャンルにおける親子夫婦的対幻想から兄弟姉妹的対幻想への変化の例として創作集団CLAMPの不世出の名作「カードキャプターさくら」があげられる。

少女漫画の枠組みを超え、現代サブカルチャーにおける魔法少女の概念を再発明したことで知られる同作は2000年に一旦連載が終了するも、2016年に「クリアカード編」と銘打ち、かつてと同じく「なかよし」にて連載を再開することになる。

物語は前作の最終回直後から再び始まる。友枝中学校に進学した木之本さくら。長らく離れ離れになっていた李小狼とも再会し、これからの中学校生活に期待を膨らませるその矢先、フードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中に。そして「さくらカード」は透明なカードに変化し効果を失っていた。

以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。二人はお互い何かを感じるところがあったのか次第に交友を深めていく。一方、秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡にはある目的があった。


⑵ 異性間の性愛から同性間の友愛へ

現時点でこのクリアカード編という作品を正確に評価するのは難しいが、ここまで読んできて思うのは、物語展開のフォーマットは前作を踏襲しつつ、前作と比べてキャラクター相互の関係性描写の重心が変化しているという印象である。

それは端的に言えば「異性間の恋愛から同性間の友愛へ」ということに他ならない。前作では、さくらが小狼や雪兎、あるいはエリオル、藤隆との関係性をひとつひとつ言語化していく作業を通じて「異性間の性愛」という新しい感情を発見していく過程に描写の重きが置かれていたのに対して、今作においては、さくらと秋穂という二人の少女が相互に「同性間の友愛」を交歓していく過程に描写の重きが置かれてる。

こうした、さくらの変化が示すのはまさしく性愛的対幻想から友愛的対幻想への変化に他ならない。この点、臨床心理学者である河合隼雄氏が指摘するように、特に10代前半という時期における少女はあたかも「さなぎ」のような「こころの殻」を形成し、その内側で子どもから大人へとその精神を変容させていく「内閉の時期」を迎えると言われる。こうした内閉期を迎える少女の成長物語として、本作は現代を生きるに相応しい「自立」の在り方を提示しようとしているのではないか。



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