構造と記号--バルト


1 不遇な青年期

人は言語に囚われた生き物である。我々の思考や経験、行動や習慣、あるいは趣味や嗜好の様式は、母国語という言語規則や身体的な言語感覚の他、その人が属する集団における言語運用によって統御されている。こうした言語における作用の一つに「記号」がある。「記号」とはある言語共同体における「お約束」のことを言う。この点、構造主義言語学を発展させた「記号学」を立ち上げ、あらゆる文化現象を読み解いた批評家がロラン・バルトである。

  バルトは第一次大戦中の1915年に、フランス北部の港町シェルブールで生まれた。海軍中尉であった父親はバルトが1歳にもならないうちに戦死。幼少期のバルトはフランス南西部の街バイヨンヌで母親、祖母、叔母に囲まれて過ごすことになる。とりわけ母親であるアンリエットはバルトにとって生涯を通じて大きな存在であった。

その後、バルトは9歳の時に母と共にパリに移住。パリでの生活は苦しいものだったが、バルトは次第に頭角を現し、エリートとして将来を期待された。ところがバカロレア(大学入学資格試験)の二次試験直前に肺結核を発症。20代の大半をサナトリウムで過ごす羽目になった。

 
2 言語・文体・エクリチュール

1946年、ようやく病の癒えたバルトはパリに戻ってきた。しかしこの時すでに31歳。そろそろ真剣にこれからの身の振り方を考えねばならない時期となっていた。そんな折、バルトは友人のツテで、有力紙の文芸欄に寄稿する機会を得る。こうして何年かにかけて同紙に執筆された論文をまとめたものがデビュー作「零度のエクリチュール(1953)」である。

同書においてバルトは文学において表現形式こそが作家の自由と責任と倫理を表すと主張する。この点、バルトによれば「言語」とは、その時代のあらゆる作家に共通した規則や慣習の総体であり、これに対して「文体」とは、一人の作家の身体や過去から生まれたその人固有の語り口やイメージである。

人はどちらも自由に選ぶことはできない。けれどもその中間にある「エクリチュール」は作家自らが責任を持って選び取ることができる表現形式や言葉づかいである、とバルトは言いう。

例えるのなら「言語」が一般的な身体であり「文体」が属人的な身体だとすれば「エクリチュール」は身体がその都度その都度で自由にまとう衣服のようなものである。すなわち、作家の「社会参加(アンガージュ)」とはまさにこの「エクリチュール」の選択によるものである。

幼い時に父を亡くしたバルトは威圧的な存在や言葉を知らずに育ち、何かの意味や物語を「自然」として押し付けられることに拒否感を持っていた。「エクリチュール」とはこうした「自然」に対する嫌悪と恐れの表明でもあった。同書は大きな反響を呼び「エクリチュール」なる概念は広く受け入れられ、バルトは一躍、気鋭の批評家として注目されることになる。


  3 記号学の展開

1954年から56年にかけて、バルトは「今月の小さな神話」という一連の短いエッセーを雑誌に連載することになった。同連載では様々な商品、広告、写真、映画、風俗といった大衆消費文化に潜む「神話」を暴き出していく。ここでいう「神話」とは、かつてバルトが「零度のエクリチュール」において批判した「自然」としての意味や物語のことをいう。そしてこれらの文章をまとめて単行本化したのが「現代社会の神話(1957)」である。

同書には「今日における神話」という書き下ろしの論考が収録されている。ここで、バルトはフェルディナン・ド・ソシュールの構造言語学にヒントを得て「神話」を分析するための新しい理論として「記号学」を提唱する。

この点、ソシュールの言語学において「シーニュ(記号)」とは「シニフィアン(意味するもの)」「シニフィエ(意味されるもの)」から成立している。そしてバルトはこの三つ組の概念を用いて言語と神話の「構造」を明らかにした。こうしてバルトはフランス思想界における「構造主義」を体現する論客の一人として位置づけられる。

その後、バルトは自らの「記号学」をより洗練させていく。その一つの到達点が、ファションに関する言語(モード雑誌)の分析を行った「モードの体系(1967)」である。ここで「自然/神話」は「コノテーション(共示)」という概念で示される。こうしたバルトの一連の仕事は後にジャン・ボードリヤールらポストモダン思想家の消費社会分析に引き継がれていった。

 
4 作者の死と読者の誕生

「モードの体系」刊行の数ヶ月後、バルトは「作者の死」という論考を雑誌に発表する。この論考は発表当時はあまり注目されなかったものの、いまでは「作者の死」という言葉は批評家、ロラン・バルトの代名詞ともなっている。

同論考においてバルトは従来の批評において重要視されてきた「作者」を遠ざけ、代わりに「読者」をクローズアップさせる。バルトによれば、テクストは多様なエクリチュールからなっており、そのような多様性が集まる場所が「読者」であると言う。

そしてバルトは1968年のセミナーでバルザックの小説「サラジーヌ」の詳細な分析を通じて、物語の構造を明らかにするというより、むしろ文章や言葉が生まれる場に立ち会い、作品を「再エクリチュール」するという読書行為を提唱する。このセミナーの成果をまとめたものが「S/Z(1970)」である。

バルトは「作者の死」というセンセーショナルな言葉により「作者」というオリジナルに縛られることのない、それぞれの「読者」が「書くように読む」という自由で創造的な読書の快楽を肯定していく。ここに「コノテーション」から逃れる「意味の複数性」を見出すことができる。そして、こうしたバルトの主張は現代日本のオタク系文化における「メディアミックス」や「二次創作」といった消費形態と共鳴するものがあるように思える。


5 バルトと日本文化

ところでバルトは大が付く親日家としても知られている。バルトが日本を初めて訪れたのは1966年5月。その時以来バルトは日本に「恋」をした。68年1月に3度目の滞在から帰国した彼は早速、日本文化論の著作の執筆に取り掛かる。こうして出版されたのが「記号の国(1970)」である。

日本での日々はバルトにとって驚きの連続だった。フランスの街の中心である教会と異なり、東京の中心である皇居には誰も入ることができず、東京では中心が空虚になっているのではないかとバルトは述べている。

あるいは料理の場合でも「すきやき」はフランス料理におけるメインディッシュに相当する中心がなく「天ぷら」は中心の具よりも周囲の衣の隙間を食べているかのようであるという。このようにバルトは日本で目にしたのは様々な形の「空虚な中心」であった。

そしてバルトを最も魅了した日本文化は「俳句」であった。バルトは俳句を「理解しやすいものでありながら、何も意味していない」という。

例えば松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句。「水の音」の後にはいかなる反響も、いかなる物語の展開もない。そこにはただ、言語の終焉としての断絶だけがある。

フランスの詩が短い表現の中にレトリックを駆使して意味を充満させているのに対して、俳句は意味を否定しているのではなく、むしろ「中断」させていると、バルトはいう。

こうしてバルトは「意味の複数性」とは異なるもう一つの可能性を俳句の中に見出した。それは畢竟「意味の中断」であり、ここから産み出されたのが「ロマネスク」という概念である。ロマネスクとは西洋的な自我とは異なる空虚な「わたし」によって語られる断章的なエクリチュールのことである。「記号の国」以降、バルトの著作の多くは断章形式で書かれることになる。

そればかりでなく、バルトが最愛の母アンリエットの死に向き合う時にも俳句は導きの糸となった。バルトは俳句における「それはかつてあった」という現実と「これだ!」という真実の驚くべき融合を写真の中にも見出した。こうしてアンリエットの少女期の写真を中心とした写真論「明るい部屋(1980)」が生まれることになる。


6 言語からの自由と言語への自由

言語を愛し、憎み、恐れつつも、最後は言語によって生かされた批評家、ロラン・バルト。現代においてバルトは批評家や理論家としてではなく、作家としての再評価が進んでいると言われています。

バルトは「単数的な意味の重み」から逃れていく「意味の複数性」や「意味の中断」を追求した点において、同時代を代表する哲学者であるジャック・デリダやジル・ドゥルーズと共通した問題意識を持っていたと言える。けれどもバルトが今だに人々を魅了してやまないのは、その理論や概念ではなく、まさしく彼の「エクリチュール」にあるのではないか。

人は言語に囚われた生き物である。我々は例外なく、言語からの自由と言語への自由という問題に常に直面させられている。こうした問題を改めて深く考える上で、ロラン・バルトという人の生き様に学ぶところは多いように思える。




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