構造と正義--デリダ


1 反-哲学としての脱構築

西洋哲学史はプラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉がある。西洋哲学の父は周知の通りプラトンの師であるソクラテスだが、ソクラテス自身は何も書き残さなかった人なので、ソクラテスの言葉を書き留めたプラトンの哲学をもって西洋哲学は始まったとされる。

そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれている。形而上学は世界を「現前/不在」「内部/外部」「本質/派生」「主体/対象」などといった階層秩序的な二項対立へ切り分けることで構築されてきた。近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他ならない。

こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーである。ハイデガーの主著である「存在と時間」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものであった。

けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきた。

いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体」を目指した「反-哲学」と呼べるものである。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築」の名において継承したのが、フランスの(反)哲学者、ジャック・デリダである。

デリダの代名詞である「脱構築(デコンストリュクシオン)」とは、ハイデガーの用語である「解体(デストルクチオーン)」の仏訳語であり、既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事を言う。デリダはこうした「脱構築」を武器にプラトンをはじめとした古今東西の様々なテクストについて極めて斬新な読解を提示してきた。


2 パロールとエクリチュール
 
以下ではデリダの「脱構築」の実践過程の概略を初期の代表的テクストである「プラトンのパルケマイアー」に則して示す。「プラトンのパルケマイアー」においてデリダが「脱構築」したのは「パロール(音声言語)/エクリチュール(文字言語)」の二項対立である。この点、伝統的な形而上学的価値観においては、発話者本人が現前して直接語りかける「パロール」こそが真理を誤謬なく伝える特権的なメディアと位置付けられ、発話者本人が不在の「エクリチュール」とは真理に誤謬を招きいれる危険があることから、あくまでもパロールの補助的なメディアとして位置付けられていた。

こうしたパロール優位の考え方を「音声中心主義」という。そして、デリダによれば、この「音声中心主義」は「ロゴス中心主義」と結びつき、表音文字であるアルファベットの優位性からくる「西洋中心主義」として世界の思考を隠然と支配している。この点、構造主義的言語学の祖であるフェルデナン・ド・ソシュールも、西洋文明を批判していたはずの人類学者レヴィ=ストロースもこの「西洋中心主義」の思考から逃れてはいない。

確かにアルファベットはまぎれもない表音文字であり「音声から文字へ」という動きは否定し難い。そこでデリダは従来のパロールとエクリチュールの根源に「原-エクリチュール」を想定する事で「パロール/エクリチュール」の二項対立を脱構築した。

ここでいう「原-エクリチュール」とは「原初の文字」とかではなく、言語を構成する諸差異を産出した「差異化の運動」それ自体のことをいう。これをデリダは「差延(ディフェランス)」と呼ぶ。言語という構造の根源には差延という力動があるという事である。


3 新たな「決定」の思想

こうしてデリダは脱構築を用いて形而上学による階層秩序的二項対立を解体していった。けれどもこうしたデリダの手法に対しては諸方面から、真偽善悪の秩序を揺るがせる危険思想だ、健全な理想の意義を否定するニヒリズムだ、退廃的で無責任な知的遊戯だ云々、といった批判が浴びせられた。

確かに脱構築は「決定不可能性」の経験を強調する。しかし肝心なのは脱構築は「決定不可能性」にとどまるものではなく、まさにその「決定不可能性」を経由することで、形而上学的な決定を超えた「決定」を呼び込む思想でもある。

こうしたデリダの「決定」の思想は80年代半ば以降の「法」「政治」「宗教」の問題にコミットする著作群において前景化した。


4 脱構築とは正義である

1989年、デリダはイェシヴァ大学で行われたシンポジウムの基調講演「法の力」において「脱構築とは正義である」という有名なテーゼを打ち出した。その論理は次のようなものである。⑴法は本質的に脱構築可能である。⑵一方、もしも正義それ自体が法の外に存在するのであれば、それは脱構築不可能である。⑶同様に、もしも脱構築それ自体が存在するとすれば、それは脱構築不可能である。⑷ゆえに脱構築とは正義である。

これはもちろん、ジャック・デリダの哲学が正義であるとか、ジャック・デリダその人こそが正義の人であるとか、そんな陳腐な言説ではない。では、ここでデリダのいう「正義」とは一体、何か?

この点、法は様々な事象を合法/違法といった形而上学的二項対立として記述することで、特定の領域における普遍的な秩序を構築する。しかし法の起源は秩序なきところに秩序を無理やり創設した暴力的な営みに他ならない。デリダが言う所の「力の一撃=原エクリチュールの一撃」である。つまり法とはいわば「決定不可能性」を暴力的に決定した産物に他ならない。そうであるがゆえに法は「脱構築可能」なものとなる。

そしてこうした法における脱構築が生じるのは「脱構築不可能」な正義が法の外にあるからである。そしてこのような正義とは特異的な他者への応答、すなわちデリダのいう「まったき他者」への応答に他らない。


5 正義の在り処

もっとも法と正義は対立しない。確かに正義は法のかたちにより十分に現前することは決しないけれど、法の廃棄によって正義が現前することも決してない。従って正義は法を通して、法の絶えざる脱構築のプロセスによってしか追求し得ない。

そして、法はどうあっても他者への暴力を孕んでいる。こうした現実を前提にした上で脱構築は「暴力のエコノミー」における「最小の暴力」を通して、際限なく正義の方に向かっていくしかない。

このように脱構築は普遍性と特異性、あるいは計算可能性と計算不可能性の究極的両立を目指す。そしてそれはまさに「決定不可能性」というアポリアを、今この瞬間の有限な環境において無限の責任として引き受ける「決定」に他ならない。

しかしデリダはまさにその「決定不可能性」というアポリアを引き受けた「決定」こそが、まさしく正義の条件となるという。つまり脱構築とは、アポリアとしての「正義に狂う」ということである。


6 正義と誤配

このようにデリダのいう「正義」とは形而上学的二項対立的な「正義/悪」でいう正義ではなく、むしろこうした「正義/悪」を脱構築したいわば「悪としての正義」である。

我々は日常的についつい世界を形而上学的二項対立な「正義/悪」に切り分けて、自分を「正義」の側に置きたがる。けれどデリダが戒めるのはまさしく我々のこうした形而上学的な思考ないし態度に他ならない。

畢竟、誰かにとっての「正義」は誰かにとっての「悪」でしかない。「悪」という言葉に語弊があるのであれば「欲望」と言い換えてもいい。普遍的な「正義」が失墜した現代においては人の数だけ「正義=欲望」があると言えます。ゆえにそこで「正義=欲望」と「正義=欲望」の間に不可避的なコミュニケーションの失敗が生じてくる。

こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の問題を正面から扱ったのが、事項において取り上げる東浩紀氏による独創的なデリダ論「存在論的、郵便的」である。




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