郵便空間と観光客--再びデリダの方へ
1 ふたつの脱構築
先述したとおり、デリダは西洋形而上学の「解体(デストルクチオーン)」を目指したハイデガーの「反-哲学」を「脱構築(デコンストリュクシオン)」の名において継承した。このような「脱構築」を武器に、1960年代におけるデリダは様々なシステム/テクストにおける「内部/外部」の二項対立を快刀乱麻の如く斬り捨てていく(「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」)。ところが1970年代になるとデリダは何を思ったのか、これまでの明晰な文体を放棄して、何が言いたいのかよく分からない奇妙なテクストばかり書くようになる(「弔鐘」「絵葉書」)。
70年代におけるデリダのテクスト群は謎の実験文学として、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきた。こうした中で「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いに徹底してこだわり、ここからデリダの「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」を取り出すことに成功したのが東浩紀氏のデビュー作「存在論的、郵便的(1998)」である。
同書はかつての「ニューアカデミズム」を牽引した浅田彰氏の激賞とともに世に送り出され、東氏は一躍、現代思想界の若き俊英として脚光を浴びることになった。では、ここで示された「いわゆる脱構築」とは別の「もう一つの脱構築」とは一体何なのか?
2〈かもしれない〉という幽霊
ある具体的なシステム/テクストの「こうである/そうでなかった」という解釈の背後には「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という「可能性の束」が無数にひしめいている。こうした「可能性の束」をデリダは「幽霊」と呼んだ。
「幽霊」とは反復可能性がもたらす「こうでなかったかもしれない/そうだったかもしれない」という変異のことであり、同時に事実としては「こうである/そうでなかった」という唯一性でもある。所詮「幽霊」は「幽霊」でしかない。けれどこうした〈かもしれない〉という「幽霊」の声に真摯に耳を傾けようとした結果が、まさに70年代におけるデリダの変化でもあった。これがデリダの「郵便空間」である。
3 手紙は宛先に届かないかもしれない
この点、フランスの精神分析医、ジャック・ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」はラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られている。
このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものである。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出した。
「言うなれば送信機は受信機から自分自身の伝言を逆さまの形式をとおして受け取るのです。それゆえ〈盗まれた手紙〉さらには〈保管中の手紙〉なる言葉の真意は、手紙というものはいつも送り先に届いているということなのです。(E41)」
これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないかもしれない」というテーゼを提出する。どういうことか?
4 形而上学・否定神学・郵便空間
この点、東氏によれば「真理の配達人」においてデリダは二重の批判を行なっている事になる。すなわち、それは「形而上学的システム」への批判と「否定神学的システム」への批判ということである。
まず形而上学的システムにおいて、全てのシニフィアンはそれぞれ対応するシニフィエに回付され、こうしたシニフィアンの循環運動は最終的には超越論的シニフィエによって担保される。ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別される。この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となる。こうした形而上学的システムの例としてルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理実証主義やエトムント・フッサールの超越論的現象学があげられる。
これに対して否定神学的システムにおいては、シニフィアンの循環運動の完全性を不可能にする「穴」を発見する。しかしこの「穴」は「シニフィエなきシニフィアン」という超越論的シニフィアンで名指され、全てのシニフィアンの運動はこの超越論的シニフィアンに回収される。ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡される。この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。
こうした否定神学システムを整備したのがハイデガーの存在論であり、これをより洗練させたのがラカン派精神分析ということになる。すなわち、ラカンがいう「手紙は常に宛先に届く」とは「全てのシニフィアンは常に唯一のシニフィエなきシニフィアンへ回付される」という事である。
否定神学システムは形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明してくれる。しかし同時に否定神学システムは世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまう。ここに複数的な超越性の「可能性の束=幽霊」を導入するのがデリダの郵便空間システムである。
すなわちデリダのいう「手紙は宛先に届かないかもしれない」とは「全てのシニフィアンは想定外のシニフィアンに誤配されるかもしれない」ということである。手紙は宛先に届かない〈かもしれない〉。仮にそれが正しい宛先に届いた時だって、別の宛先に届いた〈かもしれない〉。こうした「可能性の束=幽霊」が常に郵便空間には内在しているのである。
5 存在論的、郵便的
こうしたことから東氏はデリダの脱構築を二つに分ける。すなわち、まず「差延」などに代表される「いわゆる脱構築」をハイデガー由来の否定神学システムからなる「(論理的-)存在論的脱構築」として名指した上で、ここから逃れる「もう一つの脱構築」の可能性としてフロイト由来の「(精神分析的-)郵便的脱構築」を提示するのである。
この点、存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通する。もっとも存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念である。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになる。
これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉える。そしてここで用いられるのは精神分析における転移のメカニズムである。いわば哲学素の転移化である。
郵便的脱構築において用いられる転移技法は「古名」の操作と呼ばれる。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われる。
こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」である。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じる。
6 シニフィアンとエクリチュールの二重性
すなわち、ハイデガーとデリダの世界(Da)の相違は以下のようなものである。ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いている。ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させるクラインの管を経由して超越的審級から「存在の声」が降り注ぐ。
これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものが無意識という「郵便空間」を経由して「幽霊の声」として再来する。こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」の可能性をあらゆるレベルのコミュニケーションに見出すのが「存在論的、郵便的」の理論的核心であると言える。
7「大きな物語」の失墜と郵便的不安
「存在論的、郵便的」は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という問いから出発した。ではなぜ東氏はデリダの奇妙なテクストを読み解くテクストを書いたのか?それは畢竟、本書が書かれた当時の日本社会がまさにデリダ的な状況にあったからに他ならない。
1995年以降の日本社会は社会共通の価値観である「大きな物語」が失墜した、いわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況へと突入した。これはラカン派精神分析でいうところの「象徴界の機能不全」と呼ばれる状況である。そして、こうした状況で生じる感覚を東氏は「郵便的不安」と呼ぶ。それは「大きな物語」という上位審級なきところで乱立する「小さな物語」同士が衝突した時に生じる「誤配」を恐れる不安のことである。
こうした郵便的不安から逃れるための処方としてひとまず考えられるのは、一方ではフェイクでもなんでもいいから「大きな物語」を強引に捏造する方向性と、他方ではただただ「小さな物語」の中で充足する方向性である。
けれども前者が極端化すればこれはカルト宗教となり、後者が極端化すればこれは引きこもりとなる。結局、一番穏当な処方としては両者の間をいく道しかない。すなわち「大きな物語」なきところで乱立する「小さな物語」の間を横に突き抜けていく契機を作り出すということである。
そこで必要なのは「コミュニケーションの失敗=誤配」から生じる「郵便的不安」から逃げるのではなく、これを反転させて、むしろ「郵便的享楽」とでも呼ぶべきものに変えていく方略である。デビュー以降、東氏の哲学の根底には一貫して、こうした「コミュニケーションの失敗=誤配」をいかに肯定していくかという問題意識がある。
8 動物化する情報社会
2000年代における氏の活動はインターネットの普及を背景とした情報社会論やアニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー論が中心となった。
東氏の代名詞的著作とも言える「動物化するポストモダン(2001)」において提示されたのは「データベース的欲望」と「シュミラークル的欲求」の解離というべきポストモダンにおける二層構造モデルであった。
そして、こうした「二層構造の時代」における新たな民主主義を構想したのが、ゼロ年代における氏の総決算とも言える「一般意志2.0(2011)」である。
同書においては社会契約説で知られる18世紀の政治哲学者、ジャン=ジャック・ルソーが提出した「一般意志」という概念を参照点として、社会に蠢く様々な「つぶやき」を可視化した「データベース」としての「一般意志2.0」が構想される。
これは「郵便空間」の可視化構想ともいえる。もっとも、よくある誤解のように同書は従来型の議会制民主主義から「一般意志2.0」による直接民主主義への転換を説くものではない。むしろ同書は「一般意志2.0」を構築することで、従来型の議会制民主主義における「熟議」を再活性化して「熟議」と「データベース」が並走してせめぎ合う新たな公共空間の創出を提案しているのである。
9「誤配」の再定義
熟議とデータベースのせめぎ合いによる新たな公共性の創出。2010年代当初、東氏はこうした「夢」を当時普及し始めたSNSに託していた。この点、ゼロ年代という時代はインターネットこそが新しい民主主義のかたちを創出するという理想が素朴に信じられた時代だった。そしてソーシャルメディアの出現により、遂にインターネットが世界を変えるという夢が現実味を帯びたように思われていた。 東氏の「一般意志2.0」もこうした時代の空気感の中で書かれた本であった。
そして10年。周知の通りSNSに対する評価は「期待」から「失望」に変わっていった。今振り返れば2010年代とはSNSによる「動員と分断の時代」だったと言える。「一般意志2.0」の時点での東氏はSNSによる「誤配」の加速を期待していたが、現実においてSNSは世界を容易に友と敵に切り分けて、むしろ「誤配」を排除するメディアとなってしまった。結局この10年で明らかになったのは、いくら情報テクノロジーが進化したところで、使う人間が進化しなければ世界は何一つ変わらないという、普通に考えてみればごくあたりまえの事実であった。
この点「存在論的、郵便的」の頃の東氏は「誤配」はネットワークの効果として自然に発生すると考えていた。けれどもネットワークの現実はむしろ「誤配」を排除する方向に作用することが明らかになった。
こうして2010年代における氏の活動は自ら創業した「ゲンロン」を拠点としたある種の哲学的実践へとシフトする。ここで「誤配」は情報空間と現実空間の組み合わせによって能動的に生じるものと考えられるようになる。
10 郵便的マルチチュードとしての観光客
このような実践を踏まえて「二層構造の時代」の時代における主体的成熟のあり方を「観光」という概念へと練成したのが近著「観光客の哲学(2017)」ということになる。
同書はナショナリズムとグローバリズム、コミュニタリアニズムとリバタリアニズム、規律権力と環境管理型権力といった様々な観点から「二層構造の時代」の特質を明らかにした上で、こうした「二層構造の時代」における抵抗の基点として同書は「郵便的マルチチュード=観光客」を位置付ける。
「マルチチュード」とは今世紀初頭、世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著「〈帝国〉」において、グローバル環境下で生じる市民運動を哲学的に評価する為に用いられた概念である。もっとも同書によればネグリ的なマルチチュードは実際のところ「連帯は存在しないことによって存在する」という「否定神学的マルチチュード」であり、その内実は「愛」「無垢」「歓び」などといったよくわからないものに頼る、端的に言えば感動的だが無意味な、ある種の信仰告白でしかないわけである。
そこで氏は「スモールワールド(大きなクラスター係数と小さな平均距離の共存)」と「スケールフリー(優先的選択による次数分布の偏り)」といった現代ネットワーク理論に依拠することで「否定神学的マルチチュード」が抱える理論的・実践的困難を乗り越えたものとして「郵便的マルチチュード=観光客」を提示した。
11「誤配」を歓待すること、手を取り合うということ
基本的に人は「郵便的不安」から「誤配」を恐れる生き物である。近年多発するソーシャルメディアにおける炎上騒動の根底には、クラスター間における「誤配」があることは疑いない。また「共生社会」「ダイバーシティ」といった社会的課題においても「誤配」の問題は避けて通れない。
人は常に何かしらの物語に囚われてしまう存在である。けれども物語を内に閉じる限り、不可避的に他者は友と敵に切り分けられる。そうならない為には、物語を内に閉じることなく常に外に開き続ける必要がある。それがまさしく「誤配」を歓待するということである。
「誤配」を歓待するということ。物語の外で手を取り合うことで物語は書き換わる。人は物語に囚われてしまう存在である。けれど同時に人は物語を書き換える事ができる存在でもある。
この点、氏が「一般意志2.0」で参照したルソーは人間嫌いの思想家だった。彼はそもそも人間とは他人が嫌いで、孤独を愛する生き物だと考えた。にも関わらず、なぜ人は社会を作るのか。
ルソーが示す答えは「憐れみ」であった。ルソーによれば「憐れみ」とは、目の前で苦しんでいる人へ、深く考えることなく手を差し伸べる感情のことを言う。もし「憐れみ」がなければ人類などとうの昔に滅んでいた、とルソーはいう。本来、孤独を愛するはずの人は「憐れみ」によって社会を作ったということである。
こうした「憐れみ」を生じさせる契機こそがまさしく「誤配」である。本来的に分かり合えない人と人が--イデオロギーによる連帯でも共感によるつながりでもない--「憐れみ」よって手を取りあえる可能性、大きな物語の支えなき公共性を創出していくという営みは、偶然に規定された「誤配」を歓待するところから始めていくしかないという事なのだろう。
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