結語


1 ソーカル事件

「ソーカル事件」というものをご存知だろうか?1995年、ニューヨーク大学の物理学教授、アラン・ソーカルは、いわゆる「フランス現代思想」の文体を真似たパロディ論文を作成し、これをポストモダン系の学術誌「ソーシャル・テクスト」に投稿。同論文に散りばめられた数式や科学用語がインチキであることは数学や物理専攻の学部生レベルであれば自明のものであったが、あろうことか「ソーシャル・テクスト」はそのインチキを見抜けず、同論文はそのまま掲載されてしまう。その後、ソーカルは予定通り論文作成の経緯を暴露。果たして「ソーシャル・テクスト」は世の笑いものとなり、同誌編集長は96年のイグノーベル賞を受賞してしまう。

さらにソーカルは1997年にジャン・ブリクモンとの共著「〈知〉の欺瞞(英題:ファショナブルナンセンス)」を出版。様々なフランス現代思想系の思想家たちの文章を広範に取り上げ、それらの言説がいかに意味不明であるかを完膚なきまでに暴き出した。

フランス現代思想といえば多彩な数学や物理学の概念を駆使した難解な論理と衒学的な文体で知られ、多くの人はそこに何か深遠な真理があると信じて、テクストを読み解けないのは自分の頭が悪いせいだと思い込んでいた。けれどもソーカルに言わせれば「テクストが理解不能に見えるのは、他でもない、中身がないという見事な理由のためだ」ということになる。


2 フランス現代思想とは何だったのか

当時、フランス現代思想の愛好者にとってソーカルの告発がいかに衝撃的だったのかは容易に想像できる。実際におびただしい批判や非難がソーカルに対して浴びせられた。

けれどもソーカルが揶揄したのは哲学や人文科学の言説それ自体ではなく、あくまで数学や物理学の概念を濫用した怪しげなロジックである。では、こうした怪しげなロジックをひとまず脇に置いて、フランス現代思想を純然たる哲学あるいは人文知としてみる時、そこにはいかなる価値を見出すことができるのか?


3 実存主義から構造主義へ

1960年代、フランス現代思想のトレンドは「実存主義」から「構造主義」へと変遷した。ジャン=ポール・サルトルに代表される実存主義は、人は独自の「実存」を切り拓いていく自由な存在=主体であることを限りなく肯定した。ところがクロード・レヴィ=ストロースに代表される構造主義が暴き出しだしたのは、我々の文化は主体的自由の成果などではなく、歴史における諸関係のパターン=構造の反復的作動に過ぎないという事であった。

こうしてたちまち構造主義は時代のモードへと躍り出た。ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルトといった名が構造主義者として華々しく世に知れ渡った。

1960年代中盤には構造主義の栄華は頂点に達した。この時期に公刊されたラカンの「エクリ(1966)」とフーコーの「言葉と物(1966)」はいずれもベストセラー的売上げを記録。多くの知識人、文化人は自らを構造主義者であることを以て任じた(中には構造主義的再編でチームの成績向上を図るなどと言い出すサッカーの監督もいたようだ)。

ところが1960年代後半になると構造主義は早くもその栄華に陰りが見え始める。こうした流れを決定的なものにした出来事が1968年に起きた「パリ5月革命」である。


4 ポスト・構造主義の登場

「68年5月」において学生たちが異議を申し立てたのは「Egalité! Liberté! Sexualité!(平等!自由!セクシャリティ!)」というスローガンが端的に示すように、大学や社会が押し付ける旧態依然とした父権主義的な「構造」に対してであった。ここで構造主義は「構造は街頭に繰り出さない」などとラディカルに批判されることになった。

こうして「構造」それ自体に内在する「構造」を不安定化させる要素に注目する「ポスト・構造主義」と呼ばれる思潮が前景化する。こうした「ポスト構造主義」の代表的論客としてジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリ、そしてジャック・デリダの名が知られている。

この点、ポスト・構造主義者達がもっぱらの標的としたのが当時、構造主義のカリスマとしてフランスの思想界に君臨していたラカンであった。ラカンは構造主義的立場から独創的な精神分析理論を展開したことで知られている。もっともその理論の特徴は、基本的には構造主義から出発しつつも「無意識」という構造の外部に「主体」や「対象 a 」といった概念装置を導入することで「構造の変化」を考えようとした点にある。

このようにラカンの理論は確かに典型的な構造主義の中にとどまらないものがあるが、その目指すところはやはり結局、構造の解明と安定ということになる。けれどもポスト・構造主義から言わせれば、今や目指すべきは構造の解明でも安定でもなく、それ自体の破壊あるいは解体でなければならない。

こうしたことからドゥルーズ=ガタリは父権主義に規定された神経症的欲望から多様多彩な欲望を開放する「ツリーからリゾームへ」というパラダイム転換を称揚した。またデリダは「脱構築」を武器に様々なシステム/テクストにおける「内部/外部」の二項対立を快刀乱麻の如く斬り捨てていった。


5 否定神学システム

こうして見ると、ラカンとドゥルーズたちの間には一見、明確な対立があるように思える。ところが両者の思考は共通したある傾向に規定されているところがある。

それはつまり、あるシステムにおける制御不可能な限界ないし外部として、何らかの「システムの穴」を発見することで、オブジェクトレベルではシステムを破壊あるいは解体すると見せかけて、メタレベルではその「システムの穴」それ自体によって当該システム全体を安定させるというアクロバティックな思考法である。こうした思考法は「否定神学システム」と呼ばれる。

こうした否定神学システムは「いわゆる哲学」である伝統的な形而上学システムでは説明できない世界の「限界」や「過剰」を巧妙に説明すると同時に、世界の「限界」や「過剰」を単数的な超越性へと回収してしまう。すなわち、この思考法の問題は単数的な超越性が全体を統制するというある種の「全体主義」や「決断主義」を招いてしまう点にある。


6 複数的/非意味的/特異的

もっとも、近年ではデリダ、ドゥルーズ、さらにはラカンにもこうした否定神学システムに回収されない側面がある事が明らかになってきた。

例えば「存在論的、郵便的(東浩紀)」では、デリダの脱構築において、否定神学的な脱構築(論理的-存在論的脱構築)から逃れていくもう一つの脱構築(精神分析的-郵便的脱構築)による複数的な「コミュニケーションの失敗=誤配」が生じる「郵便空間」が理論化された。

あるいは「動きすぎてはいけない(千葉雅也)」では、ドゥルーズ哲学を規定するベルクソン主義とヒューム主義の拮抗を読み解き「リゾーム」に象徴される「接続の原理」の陰に常に伏在していた「非意味的切断の原理」を誇張的に取り出すことで、全体化しない非意味的断片のコラージュとしての個体化が考察された。

また「人はみな妄想する(松本卓也)」では、神経症と精神病の鑑別診断を軸として、父権主義的な無意識(エディプス・コンプレックス)を解明する構造主義者ラカンではない、特異的な症状(サントーム)を発明するもう一人のラカンが見出された。

ここで共通するのは、システムの全体性を否定神学的な単一の「穴」に頼ることなくシステムを解体していく複数的/非意味的/特異的な思考である。そしていま必要とされるのは、まさしくこうした思考ではないだろうか。


7「つながり」の時代における実践知

人は誰もが「物語」によってその生を基礎付ける。我々はこの世界を「セカイ」という「物語」として把握する。この点、社会共通の「大きな物語」が失効したポストモダン状況である現代においては、人はそれぞれ、任意の「小さな物語」を選んで生きるしかない。そうである以上、時として物語同士が衝突する事になる。

では「大きな物語」なきところで「小さな物語」同士がいかに関係していくのか。こうした問題意識がゼロ年代における社会思想やサブカルチャーを少なからず規定していたといえる。そしてその一つの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯であった。

あなたと私のセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性への信頼としてのつながり。これは確かに理想的な関係性と言える。こうしたことから、ゼロ年代後半から2010年代初頭においては「つながり」こそが、この世界を変えるというどこか希望めいた空気感もそこはかとなくはあった。

もちろん、こうした「つながり」という関係性自体はとても大切なものである。けれどもこの「つながり」という関係性がひとたび閉じたものになるのであれば、それは新たな「小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」と呼べるであろう。セカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びセカイが回帰してくるということである。

そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり=セカイ」たちによる「動員と分断の時代」とであったと言える。要するにこの10年は「つながり」への希望が次第に失望へと変わっていった10年であった。こうした「つながり=セカイ」の病理とは、まさに単一的な超越性がシステム全体を統御する否定神学の病理と言えるのではないか。

人は常に何かしらの物語に囚われてしまう存在である。そして物語を内に閉じる限り、不可避的に他者は友と敵に切り分けられてしまう。そうならない為には、他者とのつながりを「つながり=セカイ」の物語の内に閉じることなく、つながりをつながりのままで常に外に開き続けなければならない。

誤配を歓待するということ。非意味的断片のコラージュでありつづけること。特異性を手放さないままに一般性へと調和していくということ。こうしたフランス現代思想を読むことでもたらされる思考や発想は、日常の至る所に現れる「つながり=セカイ」の病理を解体して、つながりを再び外に開くための優れた実践知となるのではないだろうか。




目次へ戻る