現象学的批評


1 現象学とは何か

現象学は当初、その創始者であるエトムント・フッサールのもとで「厳密学としての哲学」を目指して出発したはずが、いつの間にかヨーロッパ文化の危機の克服という極めて時務的な問題に対応することになり、さらにはマルティン・ハイデガーやジャン=ポール・サルトルの下で実存哲学へと変貌していくことになった。

こうして変幻自在に生成変化していく現象学は決して哲学上の一ジャンルにとどまらず、今世紀の人間科学の諸領域を覆う一つの包括的運動であり、開かれた方法論的態度ともいえるところがある。

かのサルトルは現象学に初めて触れた時、目の前のコップ一杯のカクテルを哲学として語る事ができると聞かされて、感動のあまり青ざめたそうだが、この得体の知れない魅力を放つ現象学とは一体どのようなものなのか。


2 自然的態度と現象学的態度

19世紀中葉、グスタフ・フェヒナーらの努力により、心理学は従来の内観法を棄て自然科学を範とした実験的方法を導入した。こうしたことから、従来は先天的な観念であると考えられてきた数学的観念や論理学的観念などを心理現象へと還元し、一切の諸科学の基礎に心理学を位置付ける「心理学主義」と呼ばれる立場が台頭し始めた。

フッサールの最初の著作「算術の哲学(1891)」もまた、こうした心理学主義の強い影響の下で書かれている。しかしフッサールは「論理学研究(1900〜1901)」の第1巻においては一転して、心理学主義に批判的な論理主義的な立場をとるようになる。ところが同書第2巻になるとさらに論調が変わり、ここでフッサールは、心理学主義と論理主義のはざまを行く第三の道としての「現象学」という独自の立場を提唱した。

そしてその後10年にわたる思索の末、フッサールは次第に自らが打ち出した「現象学」に揺るがぬ確信を持つに至る。このようなフッサールの絶対的自信の源泉となったのが、彼がこの10年の苦闘の中で発見した「現象学的還元」の思想である。

フッサールは「現象学の理念(1907)」において「自然的態度」と「現象学的態度」を截然と区別する。ここで彼は我々の日常における素朴な認識である「自然的態度」とは本来は意識を超越したところにあるはずの存在者を現実に「ある」と断定する態度であると考え、こうした超越的な断定を一旦保留して「現象学的還元」を加える態度を「現象学的態度」と呼んでいる。

そしてフッサールによれば、こうした「現象学的還元」により「体験する自我」と「自然的対象」との経験的関係は排除され、意識体験には「絶対確実な現実」としての「純粋現象」が得られることになる。「純粋現象」とは、単なる経験を超越した普遍的な〈本質〉の体系をいう。すなわち「現象学的還元」とは、ある現象における普遍的な〈本質〉を見出す営みに他ならない。


3 超越論的現象学の確立

このような現象学的還元の思想がやがて「純粋現象学および現象学的哲学の構想 (1913)」第1巻において一層精緻な形で展開されるようになる。同書ではカント哲学における「超越論的」という概念を「還元」と結びつけ「現象学的還元」を事実から本質の還元である「形相的還元」と「超越論的還元(狭義の現象学的還元)」 に区別する。

つまり意識の素朴な「自然的態度」に対して「超越論的還元」が加えられ「超越論的態度」が得られる事になるのである。それによって開かれる意識が「超越論的意識(純粋意識)」であり、この態度に立つ哲学が「超越論的現象学」だというわけである。

現象学において人間は、超越論的主体として世界を「志向(構築)」する存在である。この世界を構成する事物は決して我々とは独立した存在ではなく、我々の「意識」によって「志向(構築)」された「現象」であるということである。

ところが我々は日常的に「自然的態度」によって世界の存在を素朴に仮定して世界内部的に生きている。フッサールは世界の存在についてのこうした断定を「自然的態度の一般的定立」と呼ぶ。

しかしこうした断定にはなんの根拠もない。この世界は全ては幻かもしれない。「自然的態度」とは絶えず積み上げられる日常的経験から生じた一種の「思い込み」に過ぎないという事である。

そこでこの「自然的態度の一般的定立」つまり世界の存在についての確信を一旦「括弧に入れる」ことで、逆に我々に直接与えられている意識体験からいかにしてそのような確信が生じてきたかを見ようとするのが超越論的還元といつことである。

こうした意味で、現象学は我々の「意識」そのものを問い直す「意識の科学」である。そして、ここでいう「意識」とは、人の精神それ自体の「深層構造」そのものである。それゆえに現象学は、様々な学術的な知の前提である「絶対確実な現実」を確立することで、自然科学や精神科学に厳密な「学」としての基礎付けを提供する「諸学の学」になるとフッサールは力説した。


4 現象学的批評

こうしたフッサールの現象学を文学作品の考察に適用し「作者の意図」を厳密に抽出しようとするテクスト読解を「現象学的批評」という。現象学批評は作者の伝記的事実や作品の置かれた文学的コンテストなどといったテクスト外の情報を全て「括弧に入れる」ことで徹底したテクストの内在的な読解を行なっていく。そして、そこではテクストの中に頻出する主題やイメージ群といったパターンを手がかりとして、テクストの有機的諸部分を統合する〈本質〉として、テクスト以前に存在するはずの純粋意味としての「作者の意図」を抽出されることになる。

こうした現象学的批評の立場に従えば、批評家は自身の価値判断による解釈を控え、あくまでもテクストの中に内在する〈本質〉の客観的かつ公正な記述に徹しなければならない。

ところがここに理論的な難点がある。現象学批評は言語以前の純粋意味として「作者の意図」を抽出しようとするが、しかし意味とは結局のところ何かしらの言語によって記述されるのである以上、その意味は無限に先送りされて行き、端的にいって、言語以前の純粋意味など確定しようがないということになる。そして、これは言語を純粋現象の二次派生物として捉えるフッサールの現象学自体が抱える理論的な難点に他ならなかった。


5 後期フッサールの転回

もっともフッサール自身はフライブルク大学に招聘された1910年代半ばから、かつて「構想」で確立したはずの超越論的現象学の構想を再び掘り返し反省を深めていった。

ここでフッサールは「構想」における現象学的還元の出発点となる「自然的態度」とは実は自然科学のように自然を客体化して観る「自然主義的態度」であったと考えるようになる。

そしてこの「自然主義的態度」と区別される本来の「自然的態度」とは、むしろ自然科学における自然主義的態度や精神科学における人格主義的態度などの諸態度に先立っていてそれらを可能ならしめる本来的態度と見るべきであると言い出した。

こうして現象学的還元とは、自然主義的態度により客体化された世界から「理念の衣」を剥ぎ取り、本来の自然的態度として経験する「生活世界」を取り戻す営みであると再定義される事になる。

確かにこの意味での「自然的態度」における世界経験もやはり一種の「思い込み」ということになるかもしれない。けれども仮にこれを「思い込み」と呼ぶのであれば、それはもはや全ての真理の前提となる「根源的な思い込み」というべきであろう。

ここにきてフッサールの考えは大きな転回を示している。現象学的還元とは、もはや無世界的な純粋意識、全ての意味を根源的に算出する超越論的主観性の立場に身を置くことではなく、我々の素朴な日常的経験、普段は反省されることもない自然的態度を振り返ることに他ならないという事である。

つまり後のメルロ=ポンティの言葉で言えば「最初の哲学的行為とは、客体的世界の手前にある生きられる世界に立ち戻ることであり」「真の哲学とは、世界を見ることを学び直すこと」と考えられるようになる。

そして、ここでの現象学と諸科学の関係は「構想」の頃のように全ての諸科学に先行する普遍学のようなものではなく、むしろ諸科学の事実認識に依存しつつ、その認識には開示されない事実の意味を解読することにこそその使命があるということである。


6 世界は思い込みでできている

このようにフッサールは幾度かの転回を経て自らの現象学を深化させているが、そこには一貫した問題意識を認めることができる。それは端的に言えば19世紀に勃興した近代実証主義に対する懐疑に他ならない。

学問の本来の使命であるはずの真理の探求を蔑ろにして目先の実用性ばかりを追求する近代実証主義は、フッサールにしてみればまさしくヨーロッパ文明そのものの危機であった。

いま再び世界の根源を問い直し、この未曾有の危機を救わなければらない。このようなフッサールの問題意識が全面的に展開されたのが最晩年の論文「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学(1936)」である。

近代実証主義というのは現代風に言い直せばエヴィデンス至上主義のようなものだろう。我々もまた、データや数字といった「見えるもの」だけが世界の全てだと思い込み、その背後にある「見えないもの」への問いを蔑ろにしていないだろうか。いや、むしろ我々は「見たいもの」だけを見るために「見たくないもの」を排除しているのではないだろうか。

現象学はこうした独善的な態度に反省を迫り、世界を謙虚にまなざす態度を回復するための基礎教養でもある。世界は思い込みでできている。ある思い込みを脱したとしてもそこは別の思い込みでしかない。けれども、その二つの思い込みの差異としての「認識力の拡大」の中にこそ我々は何かしらの真理を発見する事があるように思える。





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