脱構築的批評Ⅰ


1 反-哲学としての脱構築

西洋哲学史はプラトン哲学の註釈史であるという有名な言葉がある。そしてプラトンが創始した哲学は別名「形而上学」と呼ばれている。形而上学は世界を階層秩序的な二項対立へ切り分けることで構築される。プラトンのイデアから始まりヘーゲルの絶対精神へと至る西洋哲学史とはいわばこの経験的世界(=形而下)を規定する形而上学的原理を探求する歴史でもあった。そして近代の自然科学の発展を支えたのも、まさしくこうした形而上学的思考に他ならない。

こうした形而上学に対して叛旗を翻したのが、しばし20世紀最大の哲学者と形容されるマルティン・ハイデガーである。ハイデガーの主著である「存在と時間(1927)」はこうした形而上学の歴史を「解体」することで、歴史の彼方に置き去りにされた根源的な「存在」の経験を問うという巨大な構想を持つものであった。

けれども、ハイデガーは、形而上学の解体をまさに形而上学の言葉で行おうとしたため「存在と時間」の構想は破綻し同書は未完の憂き目を見る。その後、同書はハイデガーの意に反して形而上学の極みともいえる「実存哲学の聖典」として祀りあげられた。その一方で、同書の真の目的であった「存在の問い」を遂行し続けた後期ハイデガーの言説は何かわけのわからない秘教的言説のように思われ、これが長らくハイデガーの「転回」として理解されてきた。

いわばハイデガー哲学とは形而上学の「解体」を目指した「反-哲学」と呼べるものである。こうしたハイデガーの「反-哲学」を「脱構築」の名において継承したのが、フランスの(反-)哲学者、ジャック・デリダである。

デリダの代名詞である「脱構築(デコンストリュクシオン)」とは、ハイデガーの用語である「解体(デストルクチオーン)」の仏訳語であり、既存の枠組みを「脱」して新しい枠組みを「構築」する事をいう。

デリダはこうした「脱構築」を武器にプラトンをはじめとした古今東西の様々なテクストについて極めて斬新な読解を提示してきた。ではこのような脱構築はどのような理論的根拠によって支えられているのか。

⑴ 引用可能性と散種

この点、デリダは「パロール(発話)」の審級における「多義性」と「エクリチュール(文字)」の審級における「散種」を対置させている。

「パロール(発話)」は常に現前的な発話主体に結びつくが、これに対して「エクリチュール(文字)」は常に現前的な発話主体とは無関係に引用され解釈されていく。すなわち「パロール」が常にある特定のコンテクストに依存しているのに対して「エクリチュール」は常に特定のコンテクストから抜き取られて別のコンテクストに接木される「引用可能性」を持っている。これをデリダは「エクリチュールの断絶力」と呼ぶ。

そして、パロールによって記述可能な意味の複数性のことを「多義性」と言うが、これに対して、パロールによっては記述不可能なエクリチュールに固有の意味の複数性を「散種」という。すなわち、パロールでいかに百万言を尽くしてその「多義性」を記述したところで、そのエクリチュールの審級における「散種」は常に取り逃してしまうことになる。

⑵ 散種の時間性

そして、このような「散種」は「多義性」とは別の時間性から生じることになる。

まず、あるエクリチュールの持つ多義性はその語の背景にあるコンテクストに由来する。例えば「war」というエクリチュールは英語では「戦争」を意味しているが、ドイツ語では「存在した」という意味になる。すなわち、あるエクリチュールの「過去」には複数のコンテクストがあり、それが「現在」においてその言説の多義性を重層的に規定しており、そして「未来」においてはかつてあった多義性が全て解明されるという時間性が理念的に想定されている。

ここで「過去」「現在」「未来」は時間的に一直線に配置され、さらには「未来」と「過去」は繋がれて円環をなしている。この直線的かつ円環的な思考をデリダは「弁証法」と呼ぶ。

これに対して、あるエクリチュールに宿る散種はその定義上、任意のコンテクストに由来せず、むしろパロール(耳)とエクリチュール(目)の間にある空間に由来する。すなわち、あるエクリチュールに先行する「過去」として散種が存在するのではなく、むしろ散種とは、あるエクリチュールが複数の異なったパロールのあいだを移動することにより、事後的に生じるものである。

ここでは本来なかった多義性が事後的に元々あったかのように捏造される「散種の多義性化」と呼ばれる転倒が生じている。そして、ここには様々な「現前したことのない過去」という特殊な時間性が生じることになる。こうした特殊な時間性をのちにデリダは「幽霊」と呼んでいる。

⑶ コンスタンティヴとパフォーマティブ

ところでJ.L.オースティンにより創始された言語行為論は「コンスタンティヴ」と「パフォーマティブ」という対概念を言語分析に導入したことで知られている。

コンスタンティヴ(事実確認的)な言説とは事物のあれこれの状態について「報告する」ものを言う。これに対して、パフォーマティヴ(行為遂行的)な言説とは事物の状態について報告するのではなく、むしろそれが話されるという事実自体により現実に何らかの「作用を及ぼす」狙いを持ってる。端的に言えば、コンスタンティヴとはその言葉通りの意味を持つ言説であり、パフォーマティヴはその言葉通りではない意味を持つ言説である。

これに対してデリダは「署名 出来事 コンテクスト(1971)」においてこうしたコンスタンティヴ/パフォーマティヴの截然とした区別は不可能だと主張する。

言語行為論はパフォーマティヴの領域を確定するにあたり、ある言明が「通常」の状況で使用される場合のみに限定し「寄生的」な状況で使用される場合を除外する。ここで「寄生的」な状況とは例えばウソやモノマネ、劇のセリフなど、その言明が本来のコンテクストではない状況で使用される場合を言う。こうした「寄生的」な使用は、本来のコンステクトから抜き取られて別のコンステクトに接木される「引用符付き」といえる。言語行為論はこうした「引用符付き」の使用を「寄生的」と呼んで除外し「引用符つき」ではない「通常」の発話だけを分析対象に限定しようとする。

けれどもそもそもすべての言説はエクリチュールの審級において常に「引用符付き」で使用される「引用可能性」がある。そうであるとすれば、言語行為論のいう「通常/寄生的」の区分は定義上内破しており、あらゆる言説においてコンスタンティヴかパフォーマティヴかを決定することは原理的に不可能であることになる。つまりあらゆる言説はコンスタンティヴとパフォーマティヴという二つの読解レベルに同時に所属しうることになる。


2 エクリチュールと脱構築

引用可能性と散種。コンスタンティヴとパフォーマティヴ。「脱構築」とは、このようなエクリチュールの特性を利用したテクスト読解技法である。この点、ポール・ド・マンは脱構築について次のように説明している。

ここでド・マンは「what's the difference?--それは一体、何の違いがある?」という疑問文を例に挙げます。この文を文法通りの疑問として理解すれば、それは「違い=差異」を問い糺す文章になるが、この文を修辞疑問として理解すれば、それは「違い=差異」を否定する文章になる。

つまり問題の文は一方で「違い=差異」の探究を求めながら、他方でまさにその「違い=差異」の探究そのものの無効性を宣言していることになる。すなわち、この「what's the difference?--それは一体、何の違いがある?」という文はコンスタンティヴとパフォーマティヴという二つの読解レヴェルへ同時に所属しており、その結果として一つの文が持つある主張が、同時にその文自身によって裏切られるという二律背反(ダブル・バインド)が生じることになる。このようなダブル・バインドの経験は、のちにデリダ自身によって「不可能なものの経験」「アポリアの経験」とも呼ばれることになる。


3 脱構築的批評

「脱構築」とはテクストにおける決定不可能のアポリアを暴き出す読解操作に他なならない。この点、古典的な構造主義的批評はテクストにおける「高さ/低さ」「明るさ/暗さ」「自然/文化」といった二項対立を機能させる論路を解明できれば一般にそれで満足していた。これに対して脱構築的批評は、テクストにおける二項対立が自身を確固たるものにしようとするあまり、かえって自身を破綻させたり転倒させてしまう様相を暴き出す。

言語は正確な意味を語ろうとするばかりに、常に過剰な言語を動員し、結果として自ら取り込もうとしている意味を自ら覆したり取り逃したりする危険性が絶えずついてまわるとデリダはいう。

こうした脱構築批評の典型的戦略は、テクストの周辺部分に現れる何気ない言及や脚注といった些細なものに注目し、テクストが言い淀んだり、取り乱したり、あるいは自家撞着に陥っている徴候的な箇所を発見することで、テクスト全体を支配する対立構造を決定不可能なアポリアに追い込んでいくというものである。

やがて脱構築批評は文芸批評の世界で一種の知的流行となり、1970年代のアメリカではイェール大学を中心としたポール・ド・マンら「イェール・ディコンストラクション派」が台頭した。イギリスの文芸批評家、テリー・イーグルトンの要約によれば、その主張は概ね次のようなものである。

あらゆる言語はすべからくメタフォリカルなものであり、従って言語が文字通りに「文字通りなもの」と信じるのは誤りである。哲学も法律も政治理論も詩と全く同じようにメタファーに頼った虚構である。メタファーは本質的に無根拠であり、言語は最も強く人を説得しようとするその瞬間にメタファーの塊たる自らの虚構性と恣意性を曝け出さずにいられない。

そして言語のそうした両義性が最もよく表れている領域が「文学」である。読者は「文字通り」の意味と文彩的な意味との間で引き裂かれ、両者いずれも選べないままに「読めないもの」になったテクストの底なしの言語的深淵へと眩惑のうちに投げ入れられる。文学は批評家がわざわざ脱構築してやるには及ばない。文学は最初から自ずから脱構築されており、しかも文学は実際には脱構築そのものについても語るのである。

そして読者は互いに調和もしなければ拒絶もしない二つの意味に挟み撃ちにされ、文芸批評はいきおいアイロニックで不安定な営みとなる。テクストの内なる真空では意味の虚構性、真理の不可能性、あらゆる言説の欺瞞的二枚舌的性格が赤裸々に暴かれる。いまや文学はその言語の無能ぶりの証左になった。文学とは意味指示の廃墟であり、コミュニケーションの墓場である。


4 デリダにおける「剰余」

こうしてアメリカにおける脱構築批評は文学テクストの意味をひたすら解体し続ける退廃的な知的ゲームと化していった。ともすればあるテクストを脱構築したはずの批評がその背後からさらに脱構築されるという事もざらにあったりする。ここでは自分の手持ちのカードを全部捨て去って空手で座り仰せた者が勝者となるのである。

それゆえに脱構築とは真偽善悪の秩序を揺るがせる危険思想だ、健全な理想の意義を否定するニヒリズムだ、退廃的で無責任な知的遊戯だ云々、といった批判が諸方面から浴びせられた。

確かに脱構築という営みが、あるテクスト=システムを規定する階層秩序の決定不可能性を暴露するための思考運動であることは疑いない。これは形式的にいえば、ゲーテル的決定不可能性の問題でもある。そしてデリダ自身はこうした思考運動を「代補の論理」と呼んでいる。

けれども他面でデリダのテクストには「ゲーテル的決定不可能性=代補の論理」の発見に止まらない「剰余」がある。

例えば、しばしデリダにおける「脱構築」の範例的テクストとして取り上げられる「プラトンのパルケマイアー」において、デリダは「パルマコン」と呼ばれる「薬」と「毒」という両義性を持つ語を代補としてプラトン哲学を脱構築している。

しかしデリダのテクストはそこで終わらない。彼は「パルマコン」という両義性を持つ語に注目する一方で、その「パルマコン」という「ことば」そのものに執拗に拘り、そこに「真理」「家族」といった問題系など、多くの参照の糸を絡ませていく。

あるテクスト=システムを形式的に脱構築をするだけであれば、それらの隠喩の配置は必要なかったはずである。これは「プラトンのパルケマイアー」だけの問題ではない。ではそこでデリダは一体何を行おうとしたのか?以下、項を改める。





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