脱構築的批評Ⅱ


1 脱構築の二つの側面

フランスの哲学者、ジャック・デリダ。一般的には「脱構築」として知られる彼の哲学的活動は60年代前半から始まった。1967年に出版された「声と現象」「グラマトロジーについて」「エクリチュールと差異」という三著作を契機としてデリダの仕事は急速に評価を獲得し、70年代において「脱構築」は一つの知的流行となり、結果的に80年代初めまでにデリダは「ポストモダン」を先導する哲学者の一人として広く認知されるようになった。

ところがその一方、1970年代初頭から1980年代にかけてデリダは「散種(1972)」「弔鐘(1974)」「絵画における真理(1978)」「葉書(1980)」などに代表される極めて難解で実験的なテクストを公刊する。これらのテクスト群は一種の哲学的パフォーマンスとして受け止められ、デリダ研究の中でも長らく見て見ぬふりをされてきた。

こうした中で、この時期のデリダのテクストに光を当て、独創的な〈超〉デリダ論を展開したのが東浩紀氏の「存在論的、郵便的(1998)」である。同書で氏は「なぜデリダはそのような奇妙なテクストを書いたのか?」という素朴な問いを梃子として、デリダの「脱構築」には二つの側面があると指摘する。

すなわち、まず一般的に「いわゆる脱構築」として理解されている、あるテクスト=システムの最終審級を無効化させる側面と、次にその「いわゆる脱構築」が取り逃がした「剰余=脱構築不可能なものの経験」を捉えようとする側面である。

そして、東氏は脱構築のこの二つの側面を「ゲーテル的脱構築」と「デリダ的脱構築」と名指した上でデリダのテクストに初期からしばし出現する「郵便」の隠喩を手掛かりに「デリダ的脱構築」の思考を理論化している。では、この「郵便」なる隠喩を用いた「デリダ的脱構築」とはどのような思考なのか。


2 形而上学システム

まず「ゲーテル的脱構築」により「脱構築可能性なもの」な思考様式を「形而上学システム」という。「形而上学システム」とは、すべてのシニフィアンからシニフィエへの循環運動は超越論的シニフィエ(形而上学的原理)という最終審級によって担保されると想定する思考様式をいう。ここではオブジェクトレベルとメタレベルは完全に峻別されており、この認識構造を図式化すれば底面が頂点によって吊り支えられた円錐構造となる。

例えばプラトン以降の西洋哲学は典型的な「形而上学システム」である。また世の中の様々な法律や理論や思想は形而上学なテクストで記述されている。

形而上学的システムは超越論的シニフィエを頂点とした体系的思考を展開する。けれどもいかなるシニフィエも、それは結局シニフィアンによって記述される以上、その体系の中には常に脱構築可能な「穴=ゲーテル的亀裂」を抱え込んでいるのである。


3 否定神学システム

つぎに「ゲーテル的脱構築」における「脱構築不可能なもの」を捉える一つの思考様式を「否定神学システム」という。「否定神学システム」とは、シニフィアンからシニフィエへの循環運動の「穴=ゲーテル的亀裂」を発見した上で、この「穴=ゲーテル的亀裂」を「超越論的シニフィアン」で縫合し、全てのシニフィアンの運動をこの超越論的シニフィアンという最終審級へと回収してしまう思考様式である。

ここでオブジェクトレベルとメタレベルは短絡されており、この認識構造を図式化すれば底面と頂点の間で循環運動が生じるクラインの壺構造となる。

こうした「否定神学システム」の代表例がマルティン・ハイデガーの存在論である。

⑴ ハイデガー哲学が切り開いた境域

ハイデガーの哲学は「存在」とは何かを思考する。我々の世界は様々な「存在者」が「存在」することで構成されている。そして、我々は「存在者(オブジェクトレベル)」を思考対象とする事はできるけれども、その存在者が世界に「存在(メタレベル)」するという思考形式それ自体を思考対象することは定義上不可能とされる(メタレベルはオブジェクトレベルにはならない)。

ところがハイデガーは様々な存在者の中に思考対象(オブジェクトレベル)と思考形式(メタレベル)が折り重なった「二重襞」を持つ特異的な存在者を発見した。その特異的な存在者こそがまさしく、ハイデガーが「現存在」と呼ぶ我々人間のことである。

「現存在(人間)」は思考対象(オブジェクトレベル)でもあると同時に思考形式(メタレベル)の源泉でもあります。ゆえにハイデガーは「現存在=思考対象(オブジェクトレベル)」について思考する事は間接的に「存在=思考形式(メタレベル)」について思考する事にもなるのではないかと考えた。

このようなオブジェクトレベルとメタレベルを短絡させる二重構造=クラインの管は「実存論的構造」と呼ばれている。

こうした「実存論構造=クラインの管」を可能とする「穴=ゲーテル的亀裂」は「呼び声=実存性の開示」によって開かれる。「呼び声」はクラインの管を循環して、世界(Da)における「穴=ゲーテル的亀裂」をより高次において縫合する否定神学システムを構成する。

ここで「穴=ゲーテル的亀裂」を縫合する「呼び声」とは否定神学システムにおける超越論的シニフィアンの役割を担う。世界(Da)には「穴=ゲーテル的亀裂」が開いている(開示性)。しかしその「穴」が開くことで世界はむしろ閉じられるということになる(覚悟性)。

⑵ ハイデガー哲学の功罪

1920年代における前期ハイデガーは以上のような実存論構造(=否定神学システム)の構造を思考した。その成果が主著「存在と時間(1927)」における現存在分析である。そして1930年代における後期ハイデガーはこのような実存論構造(=否定神学システム)の成立根拠(=超越論的シニフィアン)へと遡行した。これがいわゆるハイデガーの「転回」と呼ばれるものである。

この点、後期ハイデガーにおいては存在の源泉を現存在には求めるのではなく、むしろ存在こそが現存在の源泉となると考えた。この時期から超越論的シニフィアンに相当する語も発信元不明な「呼び声」ではなく「存在」から「現存在」へ向けて発信される文字通りの「存在の声」と呼ばれるようになり、そこでは現存在分析以前の「存在」そのものが分析されることになる。

問題なのは後期ハイデガーが「存在」の分析において様々な哲学用語(哲学素)を「固有名」として読解した点にある。その思考は詩的言語に支えられた差異の領域へ遡行し、ある種の神秘主義的なブラックボックス的言説を形成する。この点、ハイデガーの思考はルドルフ・カルナップが批判するように「論理形式の名詞化」を引き起こしている。


4 郵便=誤配システム

このようなハイデガーの存在論に代表されるように「否定神学システム」は表面的には「形而上学的システム」を脱構築する一方で「穴=超越論的シニフィアン」というブラックボックスを経由することで、いわば裏口から「形而上学システム」を再導入してしまう思考ともいえる。

そしてハイデガーの影響を受けた1950~1960年代のフランス現代思想シーンもまた概ねこの「否定神学システム」の磁場に支配されていた。そしてそれはデリダも例外ではなかった。

デリダの脱構築は直接的にはハイデガーに由来する。それゆえにデリダは自らの思考がしばし否定神学システム的なブラックボックスに陥りがちであった事にかなり自覚的であったといわれている。そこで1970年代のデリダはこのようなハイデガー的思考への抵抗を試みた。デリダの「郵便」の隠喩はこうした文脈の中に位置付けられる。

すなわち、東氏のいう「デリダ的脱構築」とは「ゲーテル的脱構築」の残滓=不可能性を思考しつつ、なおかつ「否定神学システム」からも逃れていく思考である。こうした思考様式を東氏は「郵便=誤配システム」と呼んでいる。

「郵便=誤配システム」とは端的に言えばシニフィアンが予期せぬシニフィアンに誤配される不完全で歪なネットワーク空間のことである。それは具体的には「思い違い」「読み違い」「書き違い」などといった形で我々の日常生活の中に現れる。こうした「郵便=誤配システム」からは「否定神学システム」における「穴」とは、ネットワークの効果として顕現する仮象として把握されることになる。

そしてこのような「郵便=誤配システム」のメカニズムの由来はフロイトの精神分析に見出される。換言すれば、デリダの「脱構築」においてはハイデガーとフロイトが拮抗しているということになる。この点については精神分析的批評Ⅱにおいて詳論する。


5 もう一つの脱構築的批評

ところで「存在論的、郵便的」の展開の中で幾度となく再浮上を繰り返す一つの議論がある。すなわち、それは「固有名」をいかに扱うかという議論である。いわば同書の裏テーマともいえるこの議論はいかなる批評的射程を持っているのか。

⑴ 記述主義と反記述主義

1960年代まではゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルが提唱した記述理論によって「固有名」とは縮約された確定記述の束と見做されていた。例えば「アリストテレス」という固有名を我々は通常、その名が「プラトンの弟子」「『自然学』の著者」「アレクサンダー大王の師」云々といった様々な確定記述の束のいわば短縮形として用いられる。従って、ここでは固有名の指示対象とは、それら確定記述の束により決定されると考えられている。つまりここで固有名はあくまで言語体系の内部に位置している。こうした立場を「記述主義」という。

しかしアメリカの分析哲学者、ソール・クリプキは70年に行われた「名指しと必然性」という講義において、この記述理論に重大な欠陥があることを指摘した。例えばいま「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」という新事実が判明したとする。記述理論に従えば、その時我々は「『アリストテレス=アレクサンダー大王を教えた人』はアレクサンダー大王を教えていなかった」という論理的に矛盾した命題に直面する。

このように「アリストテレス」という固有名は少なくとも「アレクサンダー大王を教えた人」という確定記述とイコールではない。そして極論すれば「アリストテレス」に関するありとあらゆる確定記述を覆す事実が判明したという想定も可能である。けれども、それでも我々はその人を「アリストテレス」と呼ぶはずである。そうだとすれば結局「アリストテレス」なる固有名は常に確定記述の束に還元できないということになり、ここで記述理論は破綻する。

固有名は確定記述の束に還元されないというクリプキの命題は固有名はつねに、ある「剰余」が宿っていることを意味している。すなわち、固有名に宿るその剰余こそが「アリストテレス」という固有名の確定記述への還元不可能性を支えている。こうした立場を「反記述主義」という。

我々はあらゆる確定記述について、常にそれが否定された別の可能世界を想定することができる。そして固有名の同一性はそれら全ての可能世界を貫き維持されている。これは固有名の中に、いかなる言語内翻訳にも従わない非言語的な残余が存在することを意味している。その残滓をクリプキは「固定指示子」と呼び、言語外で生じた力の痕跡として説明した。ここでは固有名には言語体系の外部としての「現実」が侵入すると想定されていることになる。

⑵ 固有名の剰余の根拠

では、このような「剰余」はいつ固有名に宿ったのか。クリプキはその源泉を、最初の「命名行為」に求めていた。そしてその痕跡は固有名の上に「固定指示子」として宿り、その言語外的な出来事の記憶は言語共同体における「伝達の純粋性」によって担保される。

これは極めて荒唐無稽な想定である。もっともクリプキにせよそんな「現実」が実在すると主張したいわけではない。言い換えれば、クリプキは記述理論を脱構築した結果、その理論的思考の残余=脱構築不可能なものについて語るために、彼は「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといった非現実的な神話を必要としたのである。ここでは「語れるもの=確定記述」はすべて脱構築可能である以上、その剰余については「語れないもの」として語るしかないという否定神学的な思考運動が内在しているのである。

この点、スラヴォイ・ジジェクはクリプキの固有名論をラカン派精神分析の理論から読み直している。フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは主体の精神構造を「想像界(認識)」「象徴界(記号)」「現実界(剰余)」という三つの境域から考察する精神分析理論を創出したことで知られている。そしてジジェクによれば、固有名の剰余の根拠とは実証科学的な「現実」の中ではなく、ラカンのいう「現実界」にこそ求められなければならないとする。

すなわち「象徴界」を構成する「シニフィアン(表象)」から「シニフィエ(意味)」への循環運動はゲーテル的亀裂を抱え込んでおり、そこには必ずひとつの「他のシニフィエに送り返すことのできないシニフィアン=シニフィエなきシニフィアン」が存在する。これこそが「象徴界」の外部たる「現実界」に対応する特権的シニフィアンであり、固有名とはまさにその特権的シニフィアンとして機能するがゆえに、シニフィエ(確定記述)に送り返すことができないことになる。

つまり「アリストテレス」という固有名の剰余は、象徴界全体の不完全性により保証されていることになる。したがってそこでは特定の名が生まれる「現実」的な事情は、そこに宿る剰余とは何の関係もないわけである。そうであれば、固有名に宿る剰余を保証する「命名行為」とか「伝達の純粋性」などといったクリプキの神話の想定は不要となるのである。

ここで固有名の剰余はもはや、個々の名に宿るとは考えられず、むしろラカンが「対象 a 」と呼ぶ主体の欠如の相関物として解釈されている。象徴界における不完全性=欠如を埋めるために主体は常に「対象 a 」を必要とし、社会的にはスターリズムにおけるスターリンのような崇拝対象、フェティッシュとしての貨幣、コカコーラなどの呪術的商品がその「対象 a 」として機能している。つまり固有名の剰余の根拠について、クリプキが剰余の根拠を固有名の側に「固定指示子」として見出したが、ジジェクは固有名を受け取る側に「対象 a 」として見出したのである。こうして、クリプキの議論が宿していた否定神学性は、ジジェクが加えたこの洗練によって完成する。

⑶ 固有名の訂正可能性

その一方で、クリプキの議論は別の角度から読み直す事ができる。クリプキは例えば「一角獣」といった空想の存在の固有名に剰余が宿ることを認めない。なぜなのか。

例えば「アリストテレス」という固有名であれば「実はアリストテレスはアレクサンダー大王を教えていなかった」などといった可能世界を必要とする。しかし「一角獣」という固有名には「実は一角獣は実在していた」などといった可能世界は必要としない。

なぜならばクリプキにおいて「一角獣」が存在するかどうかは事実の問題ではなく言語の問題だからである。問題は「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が現実にいるかどうかではない。たとえ「一角獣」と全く同じ性質を全て満たす動物が明日発見されたとしても、我々はそれを「一角獣と全く同じ性質を持つ実在の動物」と呼ぶだけである。我々はそもそも「一角獣」という固有名を「いつの日かそれが発見されるかも知れない」という想定で使用していない。

つまり、ここでは可能世界の要否とは固有名の「訂正可能性」に対応していることがわかる。我々は「アリストテレス」という固有名と同時にその諸々の確定記述が訂正可能であるという前提も受け取っている。だからこそ「アリストテレスは実はアレクサンダー大王を教えていなかった」という事後的訂正が可能となり、そこから遡行的に固有名の「剰余」が見出される。しかし「一角獣」という固有名について我々は訂正可能であるという前提を受け取っていない。従って「一角獣」という固有名に剰余は宿らないということになる。

つまり固有名に剰余が宿るか否かは、その名に「訂正可能性」があるかどうかという伝達経路、すなわちコミュニケーションの社会的文脈によって規定されていることになる。

クリプキは固有名の剰余を説明するために最終的に「命名儀式」という非現実的な神話を持ち出した。しかし以上の議論は固有名の剰余そのものが転倒の結果であることを教えている。

固有名の剰余とはもともと確定記述を訂正する根拠として仮設されたものであるが、もしその訂正可能性がコミュニケーションの社会的文脈の中で規定されるのであれば、確定記述を訂正する根拠は固有名そのものではなく、むしろそのコミュニケーションの社会的文脈に見出されなければならないわけである。

つまり「アリストテレス」という固有名が流通するコミュニケーションの社会的文脈が、まずその訂正可能性を規定する。その訂正可能性から複数の可能世界が構成された結果、そこから事後的に全ての可能世界に共通する「アリストテレス」という固有名に元々「剰余」があるかの如き錯覚が生じていることになるのである。

⑷ エクリチュールにおける誤配可能性

こうしたことから、東氏は固有名の訂正可能性について語るクリプキの可能世界論と、伝達経路の脆弱さについて語るデリダのエクリチュール論を接続し「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」という命題を導き出している。

この点、クリプキの可能世界論における確定記述の束に対する固有名の剰余=単独性の関係は、デリダのエクリチュール論における「多義性(パロールによって記述可能な意味の複数性)」に対する「散種(多義性に回収されたないエクリチュール固有の意味の複数性)」の関係と理論的にほぼイコールである。様々な伝達経路の中で固有名に事後的に「剰余」が生じるように、様々なパロールの中でエクリチュールに事後的に「散種」が生じるのである。

そして、ここでいう「エクリチュール(綴り字)」とはコミュニケーションの誤配可能性一般を意味している。氏はデリダはコミュニケーションをしばし「郵便」の隠喩で捉えているという。情報の伝達が必ず何らかの媒介を必要とする以上、すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故=誤配の可能性に曝されている。デリダにとってコミュニケーションとはその種の事故の可能性から決して自由になれない「あてにならない郵便制度」なのである。そして、このような不完全な情報伝達の媒介を「エクリチュール」というのである。

つまりここで「アリストテレス」という固有名=エクリチュールは、様々な伝達経路=郵便空間を通り抜け、我々の前に配達=誤配されてきた複数の名の集合体として理解される事になる。

そこでは様々なコミュニケーションの誤配の結果、必然的にそこでは複数の確定記述のあいだで矛盾が生じたり、その一部が行方不明になったり、他の名の確定記述と混同されてしまうといった様々な齟齬が生じることになる。だからこそ、それゆえに「アリストテレス」という固有名にはつねに訂正可能性に曝されている。このような固有名の訂正可能性を東氏はデリダの隠喩に倣い「幽霊」と呼ぶ。

「アリストテレス」という固有名はさまざまな「アリストテレスの幽霊(訂正可能性)」に取り憑かれている。そしてそれら幽霊(訂正可能性)は伝達経路の不完全性、すなわちコミュニケーションの誤配によって出現する。そしてこれらの伝達経路を抹消した時に、あの固有名の剰余=単独性が超越論的シニフィアンとして現れるのである。

⑸ ゲーム的リアリズムと幽霊の主題

東氏のデビュー作である「存在論的、郵便的」という著作はその後の「動物化するポストモダン(2001)」「一般意志2.0(2011)」「観光客の哲学(2017)」といった一連の東氏の仕事の「基礎理論」を提示している感もあるテクストである。そしてこれまで述べてきた東氏の固有名論は「動ポモ」の続編である「ゲーム的リアリズムの誕生(2007)」におけるキャラクター論と極めて親和的であるように思える。

日本は明治期に「言文一致体」を導入し近代文学の歴史を開いた。柄谷行人氏は「日本近代文学の起源(1980)」において「言文一致体」の導入により言語は近代以前の歴史的意味の充溢した「不透明」なものから「透明」なものとなり、ここから「風景」や「内面」といった近代的現実の発見を可能にしたという。

以降、長らくのあいだ文学とは風景や内面といった近代的現実を写生する知的営為であると見做されてきた。ところが1970年代以後、戦後児童文化の中で発達した漫画やアニメーションといった現代的虚構を写生しようとする新たなリアリズムが台頭し始めた。

この点、大塚英志氏は「キャラクター小説の作り方(2003)」において、このような「現実の写生」と「虚構の写生」という二つのリアリズムを「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」という言葉で対置させた。

こうした「まんが・アニメ的リアリズム」という文学観に支えられた小説の代表格が、1990年代以降の文芸市場において急速に存在感を見せ始めた「ライトノベル」と呼ばれる作品群である。大塚氏はこのような「ライトノベル」と呼ばれる作品群を近代文学における「私小説」との対比から「現実=私」ならぬ「虚構=キャラクター」を写生する「キャラクター小説」であると定義した。

このような柄谷氏と大塚氏の議論を踏まえた上で、東氏は「ゲーム的リアリズムの誕生」において「自然主義的リアリズム」と「まんが・アニメ的リアリズム」の並立を「近代的現実」と「キャラクターのデータベース」というメタ物語的環境の並立として捉え、こうした状況を「想像力の二環境化」と呼んだ。

さらに、東氏は前掲書においてライトノベルの中に「まんが・アニメ的リアリズム」とはまた異なるリアリズムを見出している。すなわち、キャラクターを基盤として描かれるライトノベルは一つの完結した物語でありながら、それは同時に「同じキャラクターによる別の物語」への幽霊的な想像力を召喚し、それは時としてメディアミックスや二次創作といった形で具現化することになる。こうしたキャラクターのメタ物語性に注目して、あるキャラクターから複数の物語が分岐する可能性を写し取るリアリズムは「ゲーム的リアリズム」と呼んだ。

「ゲーム的リアリズム」とは、ゲームやインターネットといった「コミュニケーション志向メディア」が産み出すメタ物語が小説や映画などの「コンテンツ志向メディア」を侵食するという境界線上で発生する。こうした状況を氏は「想像力の二環境化」に倣い「メディアの二環境化」と呼ぶ。

こうした「ゲーム的リアリズム」の概念は固有名の訂正可能性から基礎付ける事が可能と思われる。すなわち、メディアの二環境化(=複数の伝達経路)が同一キャラクターの別の物語(=幽霊)を生み出し、その効果としてキャラクター(=固有名)にメタ物語(=剰余)が生じるという事である。

そして、こうしたメタ物語的環境を読み手と作品との間に挟み込む読解技法を氏は「環境分析的読解」と呼び、従来の素朴な読解技法である「自然主義的読解」と対置させている。自然主義読解が作品に内在する「物語的主題」を読み解くのであれば、環境分析的読解は物語的主題を超えたメタ物語的な「構造的主題」を読み解いていく。そして時に同一作品において両者はまったく真逆のメッセージを発する事さえもある。

ここでいう「構造的主題」とは、いわば「作品という固有名」に取り憑いた「幽霊の主題」ともいえる。こうした「幽霊の主題」を取り出す読解は、テクストの最終審級を無効化するような「いわゆる脱構築的批評」とは別の「もうひとつの脱構築的批評」の可能性を開くものではないだろうか。





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