精神分析的批評Ⅱ


1 デリダはフロイトの中に何を見たのか

先述したように精神分析とは19世紀末、ジークムント・フロイトが当時、謎の奇病とされたヒステリーの治療法を試行錯誤する中で産み出された理論と実践の営みである。精神分析はフロイト以後も後継者達の手で多様多彩な発展を遂げていく事になるが、フロイト理論が抱え込んでいた「科学」と「精神療法」の間の矛盾は、そのまま米国自我心理学と英国対象関係論という学派的な対立に引き継がれていった。

こうした中で、フロイト理論を徹底的に読み直し、構造主義的言語学の知見を導入して強力な精神分析理論を創り上げた人物がジャック・ラカンである。これに対してフロイト理論に真っ向から反旗を翻し、独自の分裂分析を提唱した論客がジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリである。

ところで、ラカンが緻密に読み解きドゥルーズたちが苛烈に批判したフロイトをまた別の角度から読み直していたことで知られる同時代の人物がいる。ポスト・構造主義を代表する論客にして「脱構築」の名で一斉を風靡したフランスの哲学者、ジャック・デリダである。果たしてデリダはフロイトの中に何を見たのか。


2 盗まれた手紙のセミネール

ラカンがその難解極まりない事で知られる主著「エクリ」の冒頭に置いた「盗まれた手紙のセミネール」は当時のラカン派精神分析の基本的思考が集成されたテクストとして知られている。

このセミネールは表題通り、エドガー・アラン・ポーの有名な短編小説「盗まれた手紙」をラカンが解釈するものある。そこでラカンは、ポーの小説の中で特権的な役割を果たす「手紙」に注目し「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出した。

まず、ラカンによるとここでいう「手紙」とは、ラカン派精神心分析でいうところの「ファルス」と「対象 a 」に相当する。「ファルス」とはシニフィアンの循環運動(ラカンのいう象徴界)の「穴=不可能性」を開くシニフィアンであり「対象 a 」とはその「穴=不可能性」を再び閉じるシニフィアンである。

ポーの小説において「盗まれた手紙」は、王から王妃へ、大臣へ、デュパンへ、そして警視総監へと絶えず移動していく。ここで「手紙 」はオブジェクトレベルではどこにも届いていないが、メタレベルでは「常に宛先に届く=どこにも届かない」という逆説的位置に必ず届いていることになる。

すなわち、ラカンによれば、分割可能な「主体(脱構築可能なオブジェクトレベル)」の裏側でつねに分割不可能な「穴(脱構築不可能なメタレベル) 」が超越論的シニフィアンとして出現することになる。この単数的な「穴=超越論的シニフィアン」の出現こそがラカンにとっての最終審級である。すなわち、この超越論的シニフィアンは、それ自身が単数で分割不可能な限り、それは再びシステムの全体性を否定的に表象してしまうのである。


3 真理の配達人

これに対してデリダは「盗まれた手紙のセミネール」の批判的読解である「真理の配達人」において「手紙は宛先に届かないことがありうる」というテーゼを提出する。

この点、ラカンは、手紙(=記憶/情報)は「常に宛先に届く=どこにも届かない」という場所に必ず転送されるという誤配なきネットワーク空間を暗黙裡に想定している。実際、ラカンは様々な哲学的・文学的言説から「不可能性」の痕跡を探し出してきては、それらを単数的な「不可能性」へ再構成してしまう。ラカンの中ではフロイトもハイデガーもポーも皆同じ「不可能性」に直面しているとみなされるのである。そこで歴史は事実上、抹消されており、それらはすべて「ファルス」や「対象 a 」という「超越論的シニフィアン」をめぐるラカン的問題の反復でしかないということになる。

これに対してデリダは「手紙=記憶/情報」は宛先に届かないことが「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相を重視している。素朴に考えても実際、我々は自身の記憶を忘却したり勘違いをしたり、あるいは様々な情報を読み間違ったり書き間違ったりすることが「ありうる」だろう。デリダによればこの「ありうる=確率可能性/反復可能性」という位相をラカンは取り逃しているといえる。

このような宛先に届かず行方不明になったり誤配されたりする手紙の中にこそデリダは「不可能性」を見出している。ゆえにデリダの「不可能性」は複数性を帯びている。かつてフロイトたちが直面した「不可能性」とデリダの直面する「不可能性」が同じものである保証はどこにもないということである。


4 形而上学システムと否定神学システム

ここでデリダは二重の批判を行なっていることになる。すなわち「形而上学システム」と「否定神学システム」への批判である。

まず「形而上学システム」とは、すべてのシニフィアンからシニフィエへの循環運動は超越論的シニフィエ(形而上学的原理)という最終審級によって担保されると想定する思考である。

例えばプラトン以降の西洋哲学は典型的な「形而上学システム」である。また世の中の様々な法律や理論や思想は形而上学なテクストで記述されている。形而上学的システムは超越論的シニフィエを頂点とした体系的思考を展開する。けれどもいかなるシニフィエも、それは結局シニフィアンによって記述される以上、その体系の中には常に脱構築可能な「穴」を抱え込んでいる。

次に「否定神学システム」とは、シニフィアンからシニフィエへの循環運動の「穴」を発見した上で、この「穴」を「超越論的シニフィアン」で縫合し、全てのシニフィアンの運動をこの超越論的シニフィアンという最終審級へと回収してしまう思考である。

そして、こうした「否定神学システム」の代表例がマルティン・ハイデガーの哲学である。そしてハイデガーの影響を受けた1960年代のフランス現代思想シーンは、概ねこの「否定神学システム」の磁場に支配されていた。当時のラカン派精神分析にはその範例的な思考を見出すことができるのである。ゆえに「真理の配達人」におけるデリダのラカン批判は間接的なハイデガー批判といえる。


5 郵便=誤配システム

ではデリダはこうした「形而上学システム」と「否定神学システム」への批判の先にどのような思考を展開したか。この点、東浩紀氏はデリダの「脱構築」には二つの側面があるという。まず一般的に「いわゆる脱構築」として理解されているシステムの最終審級を無効化させる側面と、次にその「いわゆる脱構築」が取り逃がした「剰余=(脱構築)不可能なもの」を捉えようとする側面である。

そして、このような後者の「不可能なもの」を捉える脱構築にはハイデガーに由来する「否定神学的-存在論的脱構築」と、ハイデガーに抵抗する「郵便的脱構築」の2つのルートがあるとされる。

この点、存在論的脱構築にとって「不可能なもの」とは単数的な観念である。そして「不可能なもの」の存在論化においては哲学素の固有名化が利用されるため、その言説は後期ハイデガーのようにかなり秘教じみたものになる。

これに対して、郵便的脱構築は「不可能なもの」を複数的な物質として捉えるのである。そしてここで用いられる技法は「古名」の操作と呼ばれている。これはまず⑴ある概念に還元される様々な確定記述が抜き取られ、次に⑵残ったその概念の名を利用した確定記述の「接木/拡張」という二段階で行われる。

こうした「古名」の操作を可能とするのが、あらゆるシニフィアン(表象)に宿る確定記述の束に等置不可能な「剰余(plus)」である。そしてこの「剰余(plus)」はあらゆるシニフィアンと、その背後に取り憑いている「コーラ(=器)としてのエクリチュール」との間に生じる差延から生じることになる。

存在論的脱構築も郵便的脱構築も世界(Da)から排除された「不可能なもの」を言語化しようとする点では共通するが、以下のような相違がある。

ハイデガーの世界(Da)はシニフィアン(存在者)のみで構成されており、そこにはひとつの穴(存在)が空いており、ここからクラインの壺の底面と頂点を短絡させる管=クラインの管を経由して超越論的審級から「存在の声」が降り注ぐ。

これに対してデリダの世界(Da)はシニフィアン(存在者)とエクリチュール(幽霊)の二重構造になっており、その二重性の間から崩落したものがクラインの管が分岐化された空間=郵便空間を経由して「幽霊の声」として再来する。

このように「不可能なもの」を思考しつつ、なおかつハイデガー的な「否定神学システム」から逃れていくデリダ的な思考様式を東氏は「郵便=誤配システム」と呼んでいる。そして、この「郵便=誤配システム」の背景にフロイトの影響が認められるのである。


6 デリダが見出した「もうひとりのフロイト」

デリダは「フロイトとエクリチュールの舞台(1966)」において、フロイトの著作群の中で「科学的心理学草稿(1895)」と「マジック・メモについてのノート(1925)」という、どちらかというと周縁的なテクストを高く評価している。そして、ここでデリダが注目したフロイトのテクストからは、ラカンが緻密に読み解きドゥルーズたちが苛烈に批判したエディプス・コンプレックス至上主義者たる「いわゆるフロイト」とは異なる「もうひとりのフロイト」を見出すことができるのである。

⑴ 経路

まず「科学的心理学草稿」においてフロイトは人の心=心的装置を「知覚表象の保持(=ニューロン)」とその間に張り巡らされた「経路(=ネットワーク)」として捉え、その情報処理の過程を心的エネルギー量の移動によって説明している。

そして、フロイトは「二次過程(=意識的情報処理)」と「一次過程(=無意識的情報処理)」の差異をその心的エネルギーの流動性から区別する。一次過程の心的エネルギーは二次過程の心的エネルギーに比べて流動性が高く、その経路の途中に障害(例えば外傷的表象)がある場合はより抵抗の低い経路へと迂回/逸脱する。この迂回/逸脱を繰り返す過程で心的エネルギーは圧縮ないし分割されることになる。

すなわち、ここでは無意識における「経路(=ネットワーク)」の複数性が仮定されているのである。そして、夢・錯誤行為・神経症といった奇妙な表象(無意識の形成物)はこうした無意識における錯綜した情報処理によって形成されることになる。

⑵ マジック・メモ

つぎに「マジック・メモについてのノート」においてフロイトが取り上げた「マジック・メモ」という装置は、暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに厚紙の縁を付けて、その上に二層構造のカバー(透明なセルロイドと半透明の薄いパラフィン紙)を取り付けた子供用のオモチャのことである。

この装置に棒や爪などで文字を書くと、その筆圧がかかった箇所ではカバー下層とボードが粘着し、その痕跡が黒い文字として視認できる(カバーが二層に分かれている理由は刺激に弱いパラフィン紙を保護するためである)。そして、その書き込まれた文字を消して新たに文字を書き込みたい場合は、今度はカバーを二層ごとに引き上げ、ボードとの粘着状態を元に戻すのである。

このような構造を持つマジック・メモにフロイトが注目したのは、この装置の構造が人の心的装置における特性をよく表していたからである。フロイトはカバー下層を知覚-意識系に、ボードを無意識にそれぞれ準えている。

そしてここでのポイントは知覚-意識系(カバー上層)が受容した情報は意識の上では忘却(カバーを剥がした)後も、その記憶は無意識(ボード)に物理的な文字の痕跡として残り続けるという点である。

⑶ 語表象と物表象

この点、フロイトは「無意識について(1915)」という論文で「意識的な表象は物表象とそれに属する語表象を含むが、無意識的な表象は物表象だけである」という重要なテーゼを提出している。

つまり心的装置は「二次過程(意識的情報処理)」においては「物表象」と「語表象」を用いることで「知覚同一性/思考同一性」という二種類の同一性論理で情報を処理するが「一次過程(無意識的情報処理)」は「物表象」による「知覚同一性」の論理しか扱えないということである。

一次過程の典型例は我々が夜見る夢を生み出す無意識の作業(夢作業)である。この点、フロイトが「夢判断(1900)」で様々に例示するように、夢は二次過程に属するある表象(日中残余)を再び一次過程(夢作業)に差し戻す。この夢作業の過程で、その表象から語表象の資格が失われて、思考同一性の論理が剥奪される。それ以降、当該表象は物表象となり、知覚同一性の論理によって分解・結合・圧縮される事になる。それ故に夢においては名詞と論理形式は混同され、論理形式が奇妙な形で名詞化=視覚化されることになる。


7 幽霊の審級

ここまでのフロイトの議論を先述のデリダの議論に接続すると、経路はクラインの管の分岐化に、マジックメモは世界(Da)の二重構造に、語表象はシニフィアンに、物表象はエクリチュールに相当する。

つまり世界(Da)の二重構造によりシニフィアンから引き剥がされたエクリチュールは無意識=郵便空間を経由して「幽霊の声」として回帰することになる。そしてこのようなデリダ的な思考からみると「否定神学的システム」における「穴」とは「郵便=誤配システム」の中で生じる仮象的効果として捉えられることになる。

そしてこうしたデリダの「郵便=誤配システム」が開くのが「幽霊」という位相である。我々は日常的なコミュニケーションにおいて、もっぱら特定のコンテクストに依存するパロール(発話)の審級にのみ注目するが、その一方で特定のコンテクストから断絶したエクリチュール(文字)の審級は常に我々の無意識を侵食する。

そしてデリダによれば、このようなパロールとエクリチュールの往還運動の中には「散種」が宿るという。「散種」とはパロールによっては記述不可能なエクリチュールに固有な意味の多様性をいう。そしてそこには「過去・現在・未来」という一般的な時間性とは別様の様々な「現前しなかった過去--〈かもしれない〉」という特殊な時間性が生じる。このような特殊な時間性をしばしデリダは「幽霊」というメタファーで名指している。

「幽霊」はコミュニケーションにおける等価交換の外部を開く。例えばコミュニケーションにおける「共感」とは一般的に「相手の気持ちを理解する」という等価交換を目指した営みといえる。けれどもコミュニケーションが「郵便=誤配システム」に規定されている以上、その中において完全な共感=等価交換は原理的に成立しない。こうした共感=等価交換の誤配のなかで、様々な〈かもしれない〉という幽霊たちが産み出される事になるのである。

もちろん通常の社会生活を営む上ではひとまず、我々はひとまず共感=等価交換が成立している「ふり」をしないといけない。けれどもその一方で共感=等価交換の名において切り捨てられた幽霊たちへのまなざしを完全に忘却してしまった時、きっと我々のコミュニケーションにおける創造性や、世界の解像度などといったものはどんどん雑なものになっていくのではないか。

社会共通のコードが失われ脱コード化が加速する現代はまさに「誤配の時代」といえる。そうした現代におけるコミュニケーションの知を--そのわかり合えなさをいかに分かり合えるのか、あるいはいかに愛でていけるのかという知を--問う上で、エクリチュールから産み出される幽霊の位相を無視することは決してできないようにも思えるのである。

こうしてみると真に脱構築的なテクスト読解とは「いわゆる脱構築」からイメージされるダブル・バインドの暴露による最終審級の無効化に止まることなく、その先にある「ありえたかも知れない」という「幽霊の審級」とでもいうべきものを開く精神分析的なテクスト読解ということになるのではないだろうか。


8 精神分析的批評

現代文学理論を総括した名著「文学とは何か」の著書として知られる英国の文芸批評家、テリー・イーグルトンによれば、精神分析的な知見を応用した文芸批評は概ね4種類あり、それぞれ「作者」「内容」「形式」「読者」を分析対象としている。

この点、かつて精神分析批評といえば作品の「作者」あるいは「内容」を分析して、その中にフロイトのいうエディプス・コンプレックスの痕跡を見つけ出そうとする試みが主流であった。けれども、こうした試みは時として過度の推測やこじつけに終始してしまうこともあり、しかもこれまで見たように、いまやエディプス・コンプレックスという概念それ自体が精神分析の理論的進展の中で相対化されつつあるのである。

こうしたことから、現代において精神分析的批評がその本領を発揮する領域は、むしろこれまで比較的軽視されてきた作品の「形式」や「読者」の分析の中に見出されることになるように思われる。

この点、フロイトによれば我々が就寝時に見る様々な夢とは無意識における願望の象徴的充足物であり、夢の本質を解明することこそが無意識に至る王道であるという。

この点、フロイトは、我々が実際に見る夢を「顕在内容」と呼び、夢の原材料となる無意識の願望、睡眠中に受ける身体刺激、前日の体験といったイメージ群を「潜在内容」と呼ぶ。そして「顕在内容」と「潜在内容」の間には無意識により行われる「夢の作業」が介在する。

この「夢の作業」では一連のイメージ群を単一の「内容」へと圧縮されたり、また、一つの対象が持つ意味を、それと何らかの形で結びつく別の対象へと置き換えられたりする。また夢はいきおい視覚的なイメージによる表現法にその大半を頼らざるを得ないことから、これらの「圧縮」や「置き換え」は語表象から物表象へと翻訳されることも多くある。

このような夢の作業による二次加工のおかげで夢は無意識の願望、睡眠中に受ける身体刺激、前日の体験といったイメージ群がごった煮となったカオスではなく、比較的了解可能な寓話的な物語として我々の前に提示されることになる。

こうした夢の作業は、言語学者ロマーン・ヤコブソンが特定した言語の基本的な作用である「隠喩(複数の意味を圧縮する)」と「換喩(ひとつの意味を別の意味に置き換える)」と照応する。こうした無意識のメカニズムを端的に述べたものが「無意識は、言語のように構造化されている」というラカンの提出した有名なテーゼである。

そして精神分析の臨床では、夢の「顕在内容」に現れる「歪み」「曖昧さ」「不在」「省略」といった「徴候的」な箇所に注目し、そこでいかなる「夢の作業」が為されたかを読み解くことで、夢を形成する「潜在内容」を明らかにしていく。
そして夢と同じように小説などの文芸作品もある言語や世界観といった特定の原材料を、ある特殊な技術によってある程度一貫性のある消費可能な物語へと二次加工する。ここでいう特殊な技術とは、作品中における「視点」「語り口」「構造」「描写」といった文学的な「形式」である。

こうした「形式」を分析し、物語の中に現れる「言い逃れ」「横滑り」「強調」「両義性」といった「徴候的」な箇所から幾重にも存在する二次加工の層に切り込むことで、我々はテクストとして書かれていないけれども作品に内在するもう一つの、あるいは複数の「サブテクスト」のようなものを明るみにだすことができる。

この「サブテクスト」こそがまさしくテクストの無意識=デリダ的な郵便空間が生み出す「幽霊の審級」に相当するのではないか。おそらく批評なりオマージュなり二次創作なりといった様々な形で長らく語られ続けられる作品とは、このような「サブテクスト=幽霊の審級」を多数抱えている作品なのではないだろうか。そして、こうした観点から如何なる形で作品が受容されているのかという「読者」の分析も可能となるだろう。

このような意味で精神分析的批評は小説なり映画なりアニメなりといった「虚構」から個人や社会の在り方といった「現実」を照らし出すのである。





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