分析心理学的批評Ⅱ
1 生の「物語」が持つ機能
ユング派分析家でもある臨床心理学者、河合隼雄氏はその心理療法の臨床において、しばしクライエントが持ってくる童話や絵の中にその人の心の状態があまりにも如実に反映されていることに驚かされることがあると述べている。
河合氏によれば、このような創作をした本人はその作品が持つ意味に気づいていないことが多く、その後、治療者と話し合う中でその秘められた意味を識っていくのである。そして氏は、こうした創作の中に個人が自らの生を基礎付けるための内的幻想、すなわち、その人にとっての生の「物語」を見出している。こうした意味での「物語」が持つ機能とは一体何なのであろうか。
2 媒介としての「物語」
まず第一に「物語」とは、人が生きていく中で生じる様々な出来事を了解する媒介となる。現代において「科学」はさまざまな出来事に対して明晰な説明を与える。けれども、人は自らが遭遇したあらゆる出来事を「科学」だけで割り切れるとは限らない。とりわけ不幸な出来事や理不尽な出来事に直面した場合は「科学」による「客観的な説明」とは別に、その出来事が「その人にとって」どういう意味を持つのかという「物語」が必要となるのである。そして、河合氏は、こうした意味での「物語」を紡ぎ直すための知恵を神話や昔話といった「おはなし」の中に見出すのである。
神話や昔話などは現代の「科学的」な視点からすれば荒唐無稽で非論理的なものばかりである。けれども、自然科学的事実の外にある「現実」を捉えるために必要なのは、むしろそういった荒唐無稽で非論理的な視点であるともいえる。
この点、河合氏は神話や昔話を1人の人間の内界(こころの中)で生じた「おはなし」として読むという視点を提示している。我々の「こころ」は大きく「意識」と「無意識」に分けられる。我々が持つ「私は私である」という認識は、我々の「意識」の枢要をなす「自我」という心的作用によるものである。ところがこうした自我の統合性を乱す別の心的作用が、我々が普段は意識することのない心的領域である「無意識」に存在する。
そして河合氏の依拠するユング派の理論では、意識の枢要をなす「自我」とは別に、意識と無意識の双方を含めた心全体の中心部に「自己」と呼ばれる「こころの基礎部分」を仮定する。こうした「自己」は、ある時には「母なるもの--グレートマザー」として、ある時には「生きられなかった半面--影」として、またある時には「他なる性--アニマ/アニムス」として、様々なかたちをとって顕現し、我々の心の中で様々に相対立する葛藤を相補的に再統合していく原動力となる。そして、こうした再統合の過程をユング派では「個性化の過程」ないし「自己実現の過程」と呼ぶのである。
こうした視点から河合氏は古今東西の様々な「おはなし」を読み解いていく。例えば「桃太郎」は日本的な自我意識と無意識の関係性について、ある種の「範例」を示す「おはなし」と言える。また「白雪姫」は「内閉期」を迎えた少女と「母なるもの」の「対決」について、イタリア民話の「怖いものなしのジョヴァンニン」は「生きられなかった半面」との付き合い方について、七夕伝承やナホバ・インディアンの神話は「他なる性」の分離と調和について、それぞれ雄弁に語っている「おはなし」として読めるのである。
3 道標としての「物語」
そして第二に「物語」とは、人がその生を生きる上での道標となる。かつて近代までは「社会共通の物語」がスタンダードな道標として機能していた。けれど価値観が多様化した現代において我々は「社会共通の物語」なきところで、それぞれが「自分の物語」を見出していかなければならない。こうした「自分の物語」を見出した先駆的な例として、河合氏は我が国の代表的古典文学である「源氏物語」に注目している。
⑴ 紫式部の物語としての「源氏物語」
「源氏物語」は、平安時代の貴族社会を舞台に、主人公の光源氏の栄光と没落を描いた王朝物語である。作者である紫式部はあまり高位といえない貴族の娘として生まれた。26歳頃、父親と同年齢ほどの男性と結婚し、一人の娘をもうけた後、夫と死別。この頃から「源氏物語」を書き始めたとされている。
こうして紡ぎ出された物語はやがて評判を呼び、時の権力者、藤原道長にその才気を見出された紫式部は、道長の娘である中宮彰子の教育係として宮中に出仕。その後も道長の支援の下、紫式部は「源氏物語」の執筆を続け、最終的に全54帖、400詰原稿用紙換算で2400枚におよぶ長編作品として完成させた。
先述したように「源氏物語」の主人公は光源氏という男性である。彼は容姿、地位、財産、教養、趣味どれをとっても最高レベルのステータスを持つ男性として設定されている。しかし物語全体を通読した河合氏が光源氏に抱いた印象はその「影の薄さ」である。
これはどういうことか。この点につき氏は色々と思案した結果「源氏物語」とは「光源氏の物語」ではなく「紫式部の物語」であると結論する。すなわち、光源氏の周囲にいる女性たち全てが作者である紫式部の分身であるということである。紫式部はこれまでの自らの半生を振り返り、自己の内面と向き合ううちに、彼女の内界に様々な変化に富む女性達の群像を見出した。
それは例えば優しく見守る「母」として、または誠実で忍耐強い「妻」として、時には激しく嫉妬する「娼」として、あるいは何かと反抗的な「娘」として出現する。そしてこれらの女性達の群像全てが、他ならないこの「私」なんだと、彼女は思った。
そして、紫式部は自らの内界に現れた無数の女性群像を一つの物語の中に統合するため、一人の男性を必要とした。このいわば「便利屋」的存在として召喚された男性こそが光源氏である。ゆえに光源氏は形式的には主人公ではあるが、実質的には主人公ではないということになる。
そして本書は、こうした紫式部の内界に生じた女性群像を「紫マンダラ」として構図化する。この曼荼羅はまず、登場人物の女性たちが光源氏を軸として「母」「妻」「娼」「娘」のカテゴリーに配置される形を取る。
こうして浮かび上がった「紫マンダラ」の全領域を走破していくのが、紫式部がとりわけ強く同一視した光源氏の正妻格である紫の上である。ここで紫式部は「母」「妻」「娼」「娘」を一人の女性像として統合する。
さらに物語はここで終わらない。光源氏の死後、次世代の物語である「宇治十帖」においては、大君、浮舟という女性たちの物語を経て、最終的にはもはや男性との関係で自らの居場所を見出さない自由な存在としての、女性の在り方が描き出されることになる。
⑵「男性の物語」から「女性の物語」へ
河合氏は、かつて小渕内閣で「21世紀日本の構想」という名の懇談会の座長を務めていた。そして、その報告書をまとめるにあたり、氏が強調したのは「個の確立」であった。
「個の確立」とは何か?この点、ユング派の分析家、エーリッヒ・ノイマンは西洋近代的な「個の確立」の範例として「英雄物語」を挙げています。ヨーロッパの昔話に数多く見られる「英雄物語」の根本的な枠組みは、一人の英雄が誕生し、怪物を退治し、最後は姫君とめでたく結ばれるというものである。
「英雄=自我」の誕生から「怪物=無意識」との対決を経て「姫君=幸福」と結合する。西洋近代的な「個の確立=自我の確立」とはこのような過程を通じて果たされるということである。それゆえに、ノイマンは「個の確立=自我の確立」こそが近代においては、男女問わずに重要であるという。けれども「英雄物語」とは「力強い男性」が「か弱い女性」を救い出すという、言うなれば「男性の物語」である。
このような「男性の物語」を女性が敢えて生きようとする時、やはりそこには色々な無理が生じてくるのである。また男性であっても「男性の物語」を生きられない、あるいは生きたくない人だっている。それゆえに、河合氏は「男性の物語」のオルタナティブとしての「女性の物語」による「個の確立」こそが現代においては、やはり男女問わずに重要であるという。そして紫式部は、恐るべきことに今から1000年以上も前に「女性の物語」による「個の確立=自分の物語」を見出していたということになる。
「男性の物語」から「女性の物語」へ。こうした視点でみると、我が国のサブカルチャーの中には案外と、その随所に「女性の物語」を見出せるように思えてくる。
例えば、大正期に確立した「少女小説」というジャンルは、旧来的な家父長制社会を支える「家の娘」という呪縛から逃れていく主体として「少女」のイメージを提示した。初期少女小説を代表する吉屋信子氏の「花物語」に象徴されるように、こうした少女小説の特性の一つとして知られるのは、少女同士の友愛を魅力的に描いている点にある。そしてその背景には「エス」と呼ばれた当時の女学校文化がある。「エス」とはsisterhoodの頭文字Sからきた隠語で、女学校の上級生と下級生、あるいは同級生同士など、少女同士の擬似姉妹的な関係性をいい、その特徴は高尚かつ清純な精神性の称揚にある。その後、男女の自由恋愛が普及するにつれて文化としての「エス」は衰退していくが「少女小説の精神」は連綿と受け継がれ、現代においては「百合」という一大ジャンルの中に流れ込んでいる。
また、ゼロ年代的想像力における「セカイ系」から「日常系」へという変遷も「男性の物語」から「女性の物語」への変遷として捉えることができるかもしれない。この点「セカイ系」においては「無垢な少女」に守られる「無力な少年」が自らの矮小さを「自己反省」する事をもって「成熟」だと見做す構図があった。これに対して「日常系」を生きる少女達はもはや異性間の性愛的関係を軸として自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係の中で自らのパーソナリティを記述して、生成変化させていくのである。
光源氏から紫式部へ。家の娘から少女へ。セカイから日常へ。およそ1000年前に紫式部が切り開いた道はその後、近代を経て現代に至るまで、様々な想像力によって幾度となく辿り直され、踏み固められた道でもある。こうした「近代を超える物語」「現代につながる物語」として「源氏物語」を読む時、そこには単なる「代表的古典文学」という旧来的枠組みには収まらない豊かな味わいと、様々な発見があるのではないか。
4 分析心理学的批評
人は世界に棲まう上で意識と無意識の相補的作用から生じる内的幻想としての「物語」を必要とする。この点、かつて「社会共通の物語」が機能していた時代において、人がその社会の構成員となる必要条件はこの「社会共通の物語」を信じる事であり、信じない者はその社会において「悪」して排除された。けれども「社会共通の物語」の下で社会全体が思考停止しまえば、その先には悲惨な末路が待っている。かつての日本が「神州不滅」とか「大東亜共栄圏」などといった「物語」に国家全体が酔いしれて、その果てに破滅へ向かった歴史は周知の通りである。
こうした意味で「社会共通の物語」が失われた現代はある意味で「自由な時代」ともいえる。けれども、そこではどのような「物語」を信じれば良いかわからないという問題が生じるのである。この時、一番危険なのは狂信的な政治思想やカルト的な宗教教義など、とんでもない「物語」に「正しさ」を求めてしまう事である。「物語」は人を生かす側面と同時に、人を殺す側面も持っている。我々はどのように素晴らしく見える「物語」でも決して絶対視することなく、常にこれを批判的に観る視点を欠かしてはならないという事である。
また現代においては、異なる「物語」を生きる他者といかに関係していくかという問題がある。この点、ある人がどのような「物語」を選ぶかは、根源的には「好きか嫌いか」というその人の個人的趣味の領域に関わってくる。例え自分がどれだけ好きな「物語」であっても、相手も好きになってくれるとは限らない。従って、異なる「物語」を生きる他者と関係する上で生産的な態度とは、自分の好きな「物語」を生きつつも、他者の好きな「物語」をできる限り共感的に理解しようと努める態度という事になるだろう。
そして現代においては、小説、映画、ドラマ、アニメ、ゲームといった形で市場に溢れ返る「物語の洪水」にどのようにコミットするかという問題がある。これは換言すれば、こうした「物語の洪水」を「虚構」として「消費」するだけでなく「現実」の中でいかに「活用」するかという問題である。
比較的身近な活用例としては、ある作品を通じて他者とのコミュニケーションを円滑にしたり、ある作品に縁ある土地を「聖地巡礼」したりする営みが考えられる。もう少し高度な活用例だと、ある作品を素材とした二次創作、コスプレといった営みが挙げられる。さらに高度な活用例になると、河合氏のように、ある作品を心理療法における参照枠として用いる営みなどが考えられる。
いずれにせよそこで「物語」は我々の日常をより豊かで創造的なものにするための媒介者として機能しているといえる。そしてこうした「物語」を現実の中で活用するという発想は、社会学的には「拡張現実」と呼ばれる概念で名指されているのである。詳細は社会学的批評Ⅱで述べる
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