実存と構造⑵ 作品論


1 罪と罰(ドストエフスキー)

⑴ 危機の時代の作家

時は19世紀、当時のロシアでは「農奴制」という従来の社会構造が徐々に軋みを上げ始め、1825年のデカブリスト事件や1949年のペトラシェフスキー事件に象徴されるように社会全体に不穏な空気がみなぎっていた。

1861年、急速に近代化を進めようとした時の皇帝アレクサンドル2世によって「農奴解放」が行われることになったが、この改革は社会に更なる混乱を生み出す結果となり、現実に解放された農奴たちは土地すら与えられず、多くは流浪の民となり、失業者で溢れかえった首都ペテルブルクでは盗みや殺しなどの犯罪が爆発的に増加し、また自殺が一種のパンデミックのような現象として広がっていた。

こうした危機の時代において、あたかも預言者の如く人類に警告を発したロシアの作家がフョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーである。

1821年10月30日(グレゴリオ暦では11月11日)、ドストエフスキーはモスクワに生まれた。母のマリアは商家出身で、父のミハイルは慈善病院に勤務する八等官の医者であった。

1937年、ドストエフスキーが16歳の時に7人の子供を残して母マリアが肺結核で死去する。その翌年、ドストエフスキーはエリート校である陸軍中央工兵学校に入学した。学生時代のドストエフスキーは読書に熱中し小説の習作の執筆も始めていたが、その一方で集団生活が苦手な彼は校風に馴染めず成績も悪く一年目から留年することになった。

1839年、父ミハイルが領地内で何者かによって殺害され、この時、ドストエフスキーは生涯の宿痾となる癲癇発作を初めて起こす。この父の死は後のドストエフスキー研究において大きなテーマとなっている。

1843年、ドストエフスキーは22歳で学校を卒業し陸軍少尉となり工兵局製図室というエリート部署に配属されるが、この職場は彼の肌に合わず一年後には辞職して背水の陣で小説を書き始める。そして、そのデビュー作である「貧しき人々(1846)」は文壇から絶賛されたが、その後に発表した「分身(1846)」「プロハルチン氏(1846)」「白夜(1848)」といった作品は逆に酷評の憂き目に遭う。こうした世間の掌返しに反発したのか、同時期にドストエフスキーは過激な空想的社会主義者であるミハイル・ペトラシェフスキーが主宰するサロンへ接近していく。

1849年、ドストエフスキーは逮捕され裁判で死刑判決を言い渡される。ところが死刑執行直前に突然、皇帝の勅使が現れて特赦によりシベリア流刑へ減刑すると告げられる。これは皇帝の権威を示すため最初から全て仕組まれていた茶番劇であったが、この極限的な経験は彼を大きく変える契機となった。シベリアのオムスク監獄まで徒歩で向かう途中、彼は聖書(一説には当時迫害されていた分離派の聖書と言われている)を貰い、監獄に唯一持込める本であるこの聖書を徹底的に読み込んだと言われている。

1854年、33歳で刑期を満了したドストエフスキーは中央アジアのセミパラチンスクのシベリア守備大隊に一兵卒として送られ、その時に県庁書記イサーエフの未亡人マリアと結婚する。そして1859年、38歳でようやく兵役解除が認められたドストエフスキーは10年ぶりに首都ペテルブルクに帰還し、再び専業作家の道を進み始めることになる。けれども当局の検閲と監視の中で彼が文章を書いて生きていくためには、かつての社会主義への情熱は一旦封じ込めて、ひとまず保守的な作家の顔をするしかなかった。それゆえに彼の作品は様々な主張が蠢く「ポリフォニー(多声性)」から成り立っていると評されたりもするのである。

1863年、ドストエフスキーは旅行先のイタリアでルーレット賭博に取り憑かれてしまい、これ以降の印税のほとんどをルーレットにつぎ込み、その借金返済のために原稿を書くという自転車操業生活になってしまう。さらにその翌年には妻マリアと良き理解者であった兄ミハイルが相次いで亡くなってしまう。こうした苦境の時期に書かれた作品が本作「罪と罰(1866)」である。

⑵ ナポレオン主義者と救世主の間で

この作品の主人公、ロジオン・ロマーノヴィッチ・ラスコーリニコフは大学法学部を学費未納で放校となった後、アパートの屋根裏部屋に引きこもり下宿代も滞納したまま食事もろくに摂らず、何やら奇怪な空想に耽っている。

その空想とは端的に言うと「歴史上の英雄や天才の如き少数の非凡人はその他大多数の凡人とは異なり人類にとって有益な目的のために、ある一線を踏み越えて罪を犯す権利を持つ」というものであった。そして彼は自分もまたナポレオンのような英雄になるのではないかと考え、自分が英雄かどうかを確認するために高利貸しの老女アリョーニャを殺害する計画を思い立つ。果たしてラスコーリニコフは計画通りアリョーニャを殺害し、さらにその現場を偶然目撃したアリョーナの義妹リザヴェータも殺してしまう。

「英雄になりたい」という彼の願望は単なる誇大妄想のようにも見えるが、その根底には弱者を救済し世のため人のために尽くしたいという彼なりの正義があった。実際に彼は酒場で偶然に知り合った退職官吏マルメラードフの娘で篤い信仰心を持ちながらも家計のため娼婦に身を堕としているソーニャという女性に同情し、彼女の心の支えとなるのである。こうして彼はナポレオン主義的な殺人犯であると同時に一人の女性にとっての救世主の役割を演じるという二重性を負う事になる。

⑶ ラザロの復活とは何か

その後、ラスコーリニコフは犯罪が露見する恐怖と闘っていたが、ついに罪を認めようと決して身辺整理を始める。まず母プリへーリヤと妹ドーニャの世話をラズミーヒンという彼の数少ない友人に託した後、ソーニャの部屋を訪れた彼は彼女に「ラザロの復活」を読んで欲しいと頼む。

この「ラザロの復活」というのはヨハネ福音書第11章に出てくる次のようなエピソードである。イエスの磔刑と復活に立ち会ったことで知られる「マグダナのマリア」と時に同一視されるマリアという女性の弟にラザロという病人がいた。マリアの姉であるマルタはイエスのもとに人を遣わしてラザロの病状を知らせるが、イエスは「この病気は死で終わるものではない」などといって来てくれない。そしてラザロの死から4日後にやってきたイエスは「私は復活であり、命である」といいラザロの墓所に赴き「ラザロ、出てきなさい」と叫んだ時、奇跡が起きてラザロは蘇る。この「ラザロの復活」はヨハネ福音書を重んじるロシアではよく引用されるエピソードである。

本作において「ラザロの復活」に初めて言及した人物はラスコーリニコフこそが真犯人だと睨んでいた予審判事ポルフィーリーである。ラスコーリニコフが書いた犯罪心理学の論文から彼のナポレオン主義を鋭く読み取っていたポルフィーリーはラスコーリニコフに「神を信じているんですか」と問い「信じています」と答えるラスコーリニコフに「じゃ、ラザロの復活も?」とさらに畳み掛ける。

その時、ラスコーリニコフは狼狽えながら「し、信じます」などと答えているが、実際のところラスコーリニコフは聖書もろくに読んだことがなければ教会に行ったこともなかった。けれども、ポルフィーリーのこの問いかけは彼の心のどこかに引っ掛かっていたのであった。

⑷ ドストエフスキーと土壌主義

「ラザロの復活」の箇所を読み終えたソーニャに向かってラスコーリニコフは母と妹と決別してきたことを伝え、自分が老女殺しの犯人を知っていると仄めかす。そしてその翌日、ラスコーリニコフは再びソーニャの元を訪れ、ついに彼は自身の罪を告白することになるが、ここでソーニャが口にしたのが次のような台詞である。

「どうしたらいいって!」彼女はそう叫ぶなり、いきなり立ち上がった。涙をいっぱいにためていたその目が、ふいに火のように輝きだした。「さあ、立って!(ラスコーリニコフの肩を掴んだ。おどろいた彼は、相手の顔をじっと見ながら立ちあがった)いますぐ、いますぐ、十字路に行って、そこに立つの。そこにひざまづいて、あなたが汚した大地にキスをするの。それから、世界中に向かって、四方にお辞儀して、みんなに聞こえるように『私は人殺しです!』って、こう言うの。そうすれば、神さまががもういちどあなたに命を授けてくださる。行くわね?行くわね?」発作でも起こしたように全身をふるわせながら、彼女は彼の手をとり、固くつよく握りしめ、燃えかがやく目で彼の顔を見つめながらそうたずねた。

(「罪と罰」より)


ここでソーニャの信仰の対象とは本質的にはキリスト教ではなく「ロシアの大地」であったということが明らかになる。これはドストエフスキーの信奉している「土壌主義」である。

「土壌主義」とはロシアの大地、土に忠誠を誓うものは農民でも知識人でも、正統派でも分離派でも、ユダヤ人でもタタール人でもウクライナ人でも皆が同胞なのだという思想である。そして、この「ロシアの大地」とは東はシベリア、西はヨーロッパの手前、南はカザフスタンあたりまでを、つまりユーラシア全体を指している。

そしてこの大地を通じて神に罪を告白しろという思考は正教における精霊の考え方に由来する。周知のようにキリスト教では父(神)と子(キリスト)と聖霊で三位一体とされている。この点、カトリック(西方教会)とプロテスタントでは精霊に触れるためには教会を通す必要があるとされ、それが教会の権威の根拠となっている。これに対して正教(東方教会)では神はキリスト教徒の上だろうとイスラム教徒の上や仏教徒の上だろうが、どこにでも自由に精霊を落として人々を救済できると考える。このような正教的な感覚に基づいてソーニャはイエス・キリストを介在させずに大地と神を結びつけているのである。

この点、従来の一般的な読解によれば、ラスコーリニコフはソーニャの朗読する「ラザロの復活」を聴いて信仰心に目覚めて、その罪の告白につながったのだとされている。

これに対して元外務省主任分析官でロシア情勢に詳しい作家の佐藤優氏は近著「生き抜くためのドストエフスキー入門講義(2021)」でラスコーリニコフを救済したのはキリスト教ではなく「土壌主義」であると述べている。そして、氏はこの「土壌主義」はドストエフスキー独自のものではなく、極めてロシア的なイデオロギーであり、このような思考はいまのプーチンの中にもみることができるという。

⑸ ラスコーリニコフがみた世界の終わり

当初、ドストエフスキーはラスコーリニコフを自殺させる予定だったようだが、その構想はその後の執筆過程において大きく変更され、最終的に彼は生き延びることになった。

自首から5ヶ月後、ラスコーリニコフにはシベリアでの強制労働、懲役8年という判決が下された。周囲の証言から犯行は一時的な心神喪失によるものだったと結論づけられ、また、自首の事実やラズミーヒンらが証言したラスコーリニコフの善良な性格から情状酌量が行われ、計画殺人に対する量刑としてはかなり軽い判決となった。

もっとも、シベリアに送られた後もラスコーリニコフは自分のナポレオン主義的な思想それ自体が間違っていたとは思えなかった。彼にとって自分の「罪」とはあくまでも一線を超えた恐怖に耐え切れなかった自身の弱さであった。

そしてシベリアについて一年が過ぎた復活祭の頃、彼は病気になり発熱して入院する。そこで見たのが「世界の終わり」をめぐる悪夢である。

全世界が、ある、怖ろしい、見たことも聞いたこともない疫病の生贄となる運命にあった。疫病は、アジアの奥地からヨーロッパへ広がっていった。ごく少数の選ばれた人々をのぞいて、誰もが死ななければならなかった。出現したのは新しい寄生虫の一種で、人体に取りつく顕微鏡レベルの微生物だった。しかもこの微生物は、知恵と意志をさずかった霊的な存在だった。この疫病にかかった人々は、たちまち悪魔に憑かれたように気を狂わせていった。そしてそれに感染した者たちは、病気にかかる前にはおよそ考えられもしなかった強烈な自信をもって、自分はきわめて賢く、自分の信念はぜったいに正しいと思い込むのだった。人々が、自分の判断、自分の学術上の結論、モラルにかんする信念、そして信仰を、これほどまで確信したことはかつてなかった。いくつもの村、いくつもの町、そして人間が、これに感染し、気を狂わせていった。誰もが不安にかられ、おたがいに理解しあえず、それぞれが、ただ自分こそは真理の担い手と思いこみ、他人を見てはもがき苦しみ、胸をたたき、泣きわめき、両手を揉みしだくのだった。だれをどう裁くべきかもわからなければ、何が悪で何が善か区別できず、折りあいすらつけられなかった。だれを無罪とし、だれを有罪とするかもわからなかった。人々は、およそ意味のない悪意らしきものをいだいて、ひたすら殺しあった。おたがいに軍隊を集めあったが、この軍隊も行軍の途中、とつぜん殺しあいをはじめた。隊列はみだれ、兵士たちはたがいに襲いあい、相手をなぐったり、斬ったり、かみついたりし、その肉を食いあったりした。

(「罪と罰」より)


まさしく新型コロナウィルスが全世界を席巻する現代社会を預言するかの如きこの恐るべき夢は彼自身の内部に巣食う破壊衝動そのものであると同時に、神なき世界に生きる人間の絶望を表している。そして、この預言的な夢をきっかけとして、彼のナポレオン主義的な思想は覆されていくことになるのであった。

⑹ 神なき時代における正義の在り処

本作においてドストエフスキーが描こうとしているものは畢竟、神なき時代における正義の在り処である。ラスコーリニコフのように神も国家も信頼できない人間が自身の信じてやまない「正義」を実践しようとすれば、それは時として共同体の枠をはずれ、道徳や法律から逸脱してしまうこともあるだろう。

ラスコーリニコフは結局、最後はソーニャの信仰と愛に支えられながら改悛の道を歩み始めた。けれども、それは物語に幕を引くための便宜的な結論に過ぎない。そして、ここで提出された神なき時代における正義の在り処というドストエフスキーの問いは決定的な答えを見出せないままに、ポストモダン状況が加速する現代においてより先鋭化した形で問われ続けているといえるのである。


2 嘔吐(ジャン=ポール・サルトル)

⑴ 高等遊民ロカンタンの実存をめぐる冒険

1945年10月、ジャン=ポール・サルトルは「実存主義とは何か?」という講演を行い、第二次世界大戦後の解放感と不安感に満ちたフランスにおいて実存主義という新たな思想を華々しく打ち出した。そして、ここでサルトルが打ち出した実存主義の原点が、この講演の7年前に発表された「嘔吐」という小説である。

20世紀フランス文学を代表する傑作の一つに数えられる『嘔吐』が刊行されたのは1938年である。約7年の歳月をかけて執筆された本作はサルトルの20代から30代初めまでの自分の全てをつぎ込んだ作品だといえる。

当時のサルトルは「偶然性の理論」と彼が呼ぶものに没頭しており、当初は本作も「偶然性に関する覚書」という題が付されていた。ところが、その執筆過程において抽象的な哲学エッセイだったものがやがて小説に変わっていき、タイトルも「偶然性に関する覚書」から「メランコリア」「アントワーヌ・ロカンタンの並はずれた冒険」と変転し、最終的に出版元のガリマール書店の社長の提案で「嘔吐」の題名で出版されることになった。この作品によりサルトルはまず小説家として世の中に認められることになる。

本作は語り手である主人公、アントワーヌ・ロカンタンという青年の日記という形式をとっており、日付は1932年の1月から2月となっている。舞台はプーヴィルという架空の港町で、当時サルトルが住んでいたノルマンディ地方の港町ル・アーヴルがモデルと考えられている。

ロカンタンは金利収入だけで暮らす独身の高等遊民であり、ポーヴィルに来る前は世界のあちこちをノマドのように放浪していた。現在彼はアマチュア歴史家としてロルボン侯爵という18世紀の人物について調べて本を書こうとしている。

物語はロカンタンがふと物に対して奇妙な感じを覚え、小石とかドアの取っ手を見たり、それらに触れた時になぜか不快感を覚えたことから始まった。彼はその正体を見極めようと日記を書き始め、次第にその不快感が〈吐き気〉であることを意識し出し、この〈吐き気〉は一体何なのかを考え始めるのである。そしてある水曜日の午後遅くに突然、ロカンタンは公園のマロニエの根っこを前にしてある種の啓示を得ることになる。

実存が突如その姿を現していた。それは抽象的な範疇としての無害な見かけをなくしていた。それは物の生地そのものだった、この木の根は実存のなかで捏ねられていた。というかむしろ、木の根、庭の鉄柵、うっすらとして芝草、こういったものはすべて消え失せていた。物の多様性、物の個別性といったものは、単なる見かけ、うわべのニスにすぎなかった。そのニスは溶けてしまい、あとには、奇怪な、ぶよぶよの、無秩序の塊だけが残っていた--むきだしの塊、ぞっとする卑猥な裸体の塊だけが。

(『嘔吐より』)


ここでロカンタンは世界を構成する人も物もあらゆるものはただただ偶然の産物であり、すべてが不条理で何の根拠も意味もなく、ただそこに「実存」しているだけであるという「真理」を発見する。すなわち、彼の〈吐き気〉とは単なる生理的な反応ではなく「実存」を前にした時の意識の反応であることをロカンタンは理解することになった。このように本作は世界における「実存」という「真理」を発見する物語である。そしてその「実存」とは畢竟「偶然性」でしかないということである。

⑵ 人間は自由の刑に処されている

サルトルによる実存主義の第二原理は「人間は自由の刑に処されている」というものである。すなわち、もし神が存在しないのであれば、世界に投げ出された人間は自分の行動を正当化する理由として神を召喚することはできず、自身が行うことの価値を自分自身で「自由」に決めていかなくてはならないということである。

そして、こうした「自由」の発見もすでに『嘔吐』の中に現れている。もっとも、本作での「自由」はかなり消極的な位置付けとなっている。先述のように「実存」を発見して途方に暮れたロカンタンは週末に元恋人のアニーと4年ぶりに再開するも失意のうちにプーヴィルに戻り、次の週の日記に次のような文章を書いている。

私は自由だ。もう生きる理由が何もないのだから。私の試みたすべての生きる理由はなくなって、その他の理由はもう想像することもできない。私はまだかなり若い、やり直すだけの力を充分持っている。しかし何をやり直すべきなのか?恐怖と吐き気の真っ最中に、自分を救ってくれるものとして、どれほどアニーをあてにしていたことか。それが今はじめてわかる。私の過去は死んだ。ロルボン氏は死んだ。アニーが戻ってきたのは、ただ私から希望を全て奪うためだった。庭と庭との間を沿って続くこの白い道にいて、私は独りきり。独りきりで自由だ。しかしこの自由はいくぶん死に似ている。

(「嘔吐」より)


これまでロカンタンは世界を放浪をしたり、ロルボン公爵の研究をしたりといった「試み」により必然的な時間の中で生きることを求めてきた。ところが、ここに来てロカンタンは物事はすべからく「実存」の偶然性の産物であり、全ては不条理で根拠もなく意味もないという「真理」を悟るのであった。すなわち、ここでロカンタンが語る「自由」とは畢竟、全ての「試み」が失敗した結果、もはや「生きる理由」から解放されてしまった状態としての「自由」である。

⑶ 偶然性から必然性へ

こうしてロカンタンは途方に暮れることになるが、そこにはやがてひとすじの希望の光が射してくる。プーヴィルを去ることにしたロカンタンは、出発前に行きつけのカフェに寄り、ウェイトレスがお別れにとかけてくれたお気に入りのレコードを聴く。

「Some of these days(いつか近いうちに)」という古いジャズの曲を聴くといつもロカンタンは幸福感を覚え〈吐き気〉が消えていた。なぜなら音楽という音符に規定された「秩序=必然性の世界」の中に没入することで「実存=偶然性の世界」から脱出することができたからである。

ここでロカンタンはこの音楽のような「秩序=必然性の世界」こそが今まで自分が求めていたものであったことを悟る。そしてロカンタンは自分も一遍の小説という「秩序=必然性の世界」を創り出すことで自分の生を「実存=偶然性の世界」から救済しようと決意する。ここでロカンタンの物語は幕を閉じる。

これはロカンタンにおける「自由」による新たな「投企」といえる。すなわち、それは「実存=偶然性の世界」に身を委ねて食って眠ってだらだらと生き延びることではなく、未だこの世にない新たな「秩序=必然性の世界」を創り出していく行為であるといえるのである。

このように「嘔吐」において「実存」を発見したロカンタン(=サルトル)は、我々の生きるこの世界は偶然性に満ちた不条理なもので何の根拠も意味も無いという一つの「真理」に至る。けれどもこの真理は、そうであるが故に人間は「自由」であり、その「主体性」から出発するのである、というもう一つの「真理」を導き出すことになった。

⑷ サルトルの精神分析としての「嘔吐」

戦後、サルトルは「実存主義とは何か?」という講演で「実存主義はヒューマニズムである」という鮮烈なテーゼを打ち出した。ここでサルトルのいう「ヒューマニズム」とは人間が自らの存在を未来へ「投企」することで現在の状況を変え意味を与えていくヒューマニズムである。

興味深いことに、この実存主義におけるヒューマニズムは『嘔吐』においてはロカンタン以外の人物によって語られている。本作には「独学者」という人物が登場する。この奇妙な人物は図書館に通ってアルファベット順に本を借りて読みあらゆる知識を吸収しようとしている。この人物にロカンタンは特に悪意は持ってはいない。それはおそらくこの「独学者」もまた自分と同様に社会のはみ出し者であり、孤独な人間であると知っているからなのだろう。

ある日、ロカンタンは独学者とレストランで昼食を共にすることになった。この時、独学者は次のような台詞を述べる。

人生は、それに意味を与えようとすれば意味がある。まず行動し、何らかの企ての中に身を投じるべし。しかる後に反省すれば、すでに賽は投げられており、人は拘縛(アンガージュ)されている。

(「嘔吐」より)


自分が社会党員であることを告白し熱くヒューマニズムを説き始める独学者を当初ロカンタンは内心でバカにしていたが、だんだんとこの議論に首を突っ込んでしまったことに嫌悪感を覚えやがて言葉を失って噛んでいたパンを飲み下すこともできなくなる。

この時にロカンタンの頭の中では「人間。人間を愛さなければならない。人間は素晴らしい」という言葉が鳴り響き、彼はかつてないほど強烈な〈吐き気〉の発作に襲われる。そして彼はいきなり席を立ち、握りしめていたデザート用ナイフを皿に投げ出して、錯乱しながらレストランを逃げるように出ていった。そして、その直後、彼はあの「実存」を発見することになるのであった。

ここで述べられている独学者の台詞は後のサルトルの講演を先取りしたものといえる。端的に言えば戦後サルトルは独学者に転向したのである。すなわち、実存主義における「ヒューマニズム」とはまずはサルトルにとっての「他者=無意識」の主張として出てきている。そういった意味で本作は極めて精神分析的な作品である。

⑸ 希望を投げ出さないということ

こうしてみると「実存」とは不気味なものとして、そして「自由」とは苛烈なものとして、サルトルの前に出現した。けれども、サルトルはこうした「実存」と「自由」と格闘して自らのものにすることで独自の「ヒューマニズム」へと到達した。

もちろん周知の通り現代思想史的には実存主義は後に構造主義という新たな思潮によって乗り越えられることになった。構造主義が緻密に論証したように人の「実存」とはある面では所詮「構造」の産物でしかないことは確かだろう。けれども「構造」をある種の「差異の体系」として捉えるのであれば、それは畢竟「差異化の運動」の派生物であり、この「差異化の運動」の中に再び「実存」のダイナミズムが回帰してくることになるのである。

そして何よりもサルトルは最後まで「希望」を語り続けた人でもあった。人が「投企」する存在として、未来に向かって自らを投げ出すことができるのはそこには何かしらの希望があるからである。すなわち、実存主義におけるヒューマニズムとは、人が未来に向かって自らを投げ出していくヒューマニズムであると同時に、その未来で待っている希望を決して投げ出さないヒューマニズムであるといえるのである。


3 万延元年のフットボール(大江健三郎)

⑴ 日本文学における実存と構造

戦前の日本文学は二つの潮流に分かれていた。一つは私小説や心境小説の類で、書き手の日常性の中から人間存在についてのテーマを見つけて、淡々とした筆致で捉えるものである。もう一つはプロレタリア文学を始めとした社会小説と呼ばれるもので、貧しい労働者の生活を描き、社会改革の必要性を訴えるものである。

この二つの潮流は同じく近代文学のリアリズムを基盤とするものの、その志向は完全に真逆であるといえる。こうしたことから、プロレタリア文学は私小説を自虐の中に引きこもるだけで何一つ社会の変革に寄与しない文学であると批判し、私小説はプロレタリア文学を社会主義の宣伝に過ぎず人間の真実を捉えていない文学であると批判していた。

ところが先の敗戦により、私小説がそのまま社会小説になるという特異な状況が生じることになった。敗戦後の混乱期において人は誰もが理不尽な状況の中で追い詰められた孤独な実存として生きることを余儀なくされ、それゆえにありきたりな日常を描くことが、そのまま国家や社会に対する告発になり、人間とは何かを描き出す実存の文学となるのであった。

戦後の日本文学では、まず終戦直後に「第一次・第二次戦後派」と呼ばれる作家達が現れ、その後にやや遅れて「第三の新人」と呼ばれる作家達が登場することになるが、この時期の文学は全てが実存主義的な要素を孕んでいたといえる。そして敗戦から10年の歳月が流れた1950年代半ば、二人の若手作家が彗星の如く出現します。石原慎太郎氏と大江健三郎氏である。

⑵ 石原慎太郎と大江健三郎

第34回芥川賞を受賞した石原氏のデビュー作「太陽の季節(1955)」は、既存道徳の枠組みを逸脱して性と暴力に耽溺する若者の生態をセンセーショナルに描き出した作品である。同作は映画化され若年層の幅広い支持を得て社会現象となり「太陽族」や「慎太郎刈り」という流行語を生み出した。

もし仮に石原氏が「光」とすれば、大江氏は当初「影」のような存在であったといる。卒業論文がサルトル論であったことからも分かるとおり、大江氏は意図的に実存の文学を推進した書き手として世に出ることになった。もっとも大江氏がデビューした時期は終戦直後からすでに10年が経過しており、世間は日常性を取り戻し、世の中は高度経済成長に向かいつつあった。こうした平和な時代において、なお実存の文学を描くのであれば、日常から解離した特異的な状況をあえて設定する必要性が生じることになった。

この点、大江氏の初期作品においては、犬殺しのアルバイトとか病理研究のための死体処理とか痴漢犯罪に手を染める知識人などといった特異的な状況が描かれている。そして、このような状況の中で病的なほどに孤立した「実存」の姿を追い求めるその作風は一部のファンから熱狂的に支持されることになった。

このように大江氏は小説という虚構において日常に埋没した「実存」を描く一方、現実においてはサルトルから学んだ「アンガージュマン(社会参加)」の方途を模索するようになる。その試みが原爆の悲惨さを訴えた「ヒロシマ・ノート(1965)」というルポタージュや、当時の大きな社会問題であった60年代安保反対闘争への積極的関与に現れている。

そんな中、作家としての大江氏の転換点となったのが「万延元年のフットボール(1967)」という作品である。この作品はそれまでの「実存」を追求してきた氏の作風に「構造」という新たな要素が導入された記念碑的作品であった。

⑶ 万延元年のフットボール

「万延元年のフットボール」という作品では頭の中では過激なことを考えているのに現実には何も行動できない兄と人間的魅力に溢れ行動力に富んだ弟という極めて対照的な性格の兄弟を軸に物語が展開していく。もっとも、これだけだと従来からありがちな主人公の「実存」を描く単なる挫折小説に過ぎない。

ところが大江氏はここに「構造」を導入する。主人公の故郷に伝わる「万延元年の百姓一致」という伝承によれば一揆の指導者として処刑された庄屋の弟は英雄に祭り上げられているが、主人公がたまたま見つけた古文書から実は庄屋の弟は途中で逃亡していたという事実が判明する。

ここで主人公の立ち位置は神話的な「構造」の中に位置付けられ、その「実存」における苦悩は神話的な「構造」の中で幾度も反復されてきた「よくある話」へと相対化されることになる。

このような「構造」を文学に導入した同作は世界的に見ても、ガルシア=マルケスの「百年の孤独(1967)」と並んで当時の文学における最先端に位置する試みと言われている。その後も大江氏は「同時代ゲーム(1979)」という明らかに神話的な「構造」に全面的に依拠した作品を発表する。そして大江氏の最高傑作という呼び声も高い「新しい人よ眼覚めよ(1983)」という作品では主人公の私小説的日常がウィリアム・ブレイクの預言詩と重ね合わされ、そこで「実存」の苦悩は「構造」の中で救済されることになる。

大江氏は「実存」の袋小路から脱出するための一つの答えとして「構造」を見出した。個人的な問題も、一度神話的な繰り返しの構造の中に埋め込んでしまば、悩んでいるの自分一人ではないことがわかり、同じような悩みを抱えているすべての人がいわば「同志」となるのである。かくて実存は孤独という地獄から救済されるのであった。

4 千年の愉楽(中上健次)

⑴ 中上健次が描き出した神話

1960年代に入ると、ベトナム戦争の激化に伴い「政治の季節」が到来し、この時期には「ベ平連作家」とも呼ばれる社会派小説の書き手が一世を風靡する。その後「政治の季節」の終焉に伴い、政治的イデオロギーから一定の距離を置いた「内向の世代」と呼ばれる作家が登場した。もっとも「ベ平連作家」も「内向の世代」も石原氏や大江氏と同世代の作家であり、彼らに続くような若手作家がなかなか現れない時期が続いていた。

こうした中で久々に現れた有望若手作家が中上健次氏であった。初期の中上作品は都会で生きる地方出身者の孤独と苛立ちというごくありきたりなテーマが描かれるばかりであったが、中上の故郷である和歌山県新宮を舞台にした「岬(1976)」という作品で戦後生まれ作家として初の芥川賞を受賞すると、一躍脚光を浴びることになった。

そして中上氏の評価を格段に高めたのは「岬」の続編にあたる長編小説「枯木灘(1977)」である。多くの読者は「枯木灘」の出現によって「岬」の中に既に伏在していた中上氏の壮大な構想に気づくことになった。

中上氏は枯木灘シリーズを執筆するにあたり、意図的に神話の構造を作品の中に織り込んでいる。神話の構造とは繰り返しの構造である。同シリーズは「路地」と呼ばれる被差別部落のゾーンを舞台に、父と子、兄と弟、そして兄と妹の愛憎入り混じる関係の反復を描き出し、このような反復の中で主人公は神話的構造の無限連鎖の中に自らを埋め込んでいくことになった。

⑵ 千年の愉楽

こうした中上作品における構造的手法の一つの到達点が「千年の愉楽(1982)」という作品である。同作はオリュウノオバという語り手が複数の物語を語る連作短編という形式をとっている。オリュウノオバは路地と呼ばれるゾーンの産婆であり、ここで生まれ育った人々はすべてオリュウノオバの手によってこの世に生まれ落ちている。また、オリュウノオバは驚異的な記憶力の持ち主で、自分の手でこの世に誕生した赤ん坊の名前もさらにその後の人生までも、全てを克明に記憶しているという設定になっている。こうしてオリュウノオバは「路地」に発生する多くの物語の語り部となる。すなわち、オリュウノオバの存在そのものが「路地」の人々の物語の「枠物語」となっている。

同作を構成する六つの短編にはそれぞれ主人公がいる。その全員が「中本の血」を受け継ぐ同じ親族に属しているが、互いの関連はそれほど密ではない。この主人公たちがオリュウノオバの視線の中で次々に立ち現れ、そして、あっけなく死んでいく。

これらの短編は独立しているように見えながら、作者の巧妙な仕掛けによって数珠のようにつなぎ合わされ、全体が神話的な構造に規定された広大な物語空間を構成している。そして物語の最後にはオリュウノオバの死が語られ、物語の円環は閉ざされたかにも見えるが、最後の物語ではアイヌのコタンの話が挿入されてユーカラと呼ばれる神話についての言及がなされている。そのことによって、ひとつの物語の円環がここで閉じられつつも、その背後にはより大きな物語が広がっているという、まさしく曼荼羅の如き広大深遠な世界観が示唆されることになるのであった。





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