現実と反現実⑴ 総説


1 現実と反現実

我々の生きる「現実」とは、何らかの「現実ならざるもの」を参照した「意味の秩序」として構成されている。この「現実ならざるもの」を社会学では「反現実」と呼ぶ。この点、戦後社会学を牽引した見田宗介氏によれば「現実」という言葉は3つの反対語をもっているとされる。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」である。この三つの反対語がそのまま三種類の「反現実」に対応する。そして、このような「反現実」のモードを基準として、戦後日本という一つの時代を眺めた時、その「反現実」のモードは「理想→夢→虚構」と遷移していることになる。

こうした観点から、見田氏は戦後45年目にあたる1990年にこれまでの戦後日本という時代をプレ経済成長期、経済成長期、ポスト経済成長期の3期に区分し、それぞれを「理想の時代(1945年〜1960年)」「夢の時代(1960年〜1975年)」「虚構の時代(1975年以降)」と規定するテーゼを提唱した。

⑴ 理想の時代

理想の時代。それは人々がそれぞれの立場で「理想」を求めて生きた時代といえる。1945年のあの夏、終戦の灰燼の中から戦後日本は出発した。瓦礫と化した「現実」の中を生きて行くために人々はなにがしかの「理想」を必要とした。

この時代の日本の「理想主義」を支配していた大文字の二つの「理想」として「アメリカン・デモクラシー」と「ソビエト・コミュニズム」というものがあった。この両者は対立しながらも共にこの時期の「進歩派」として「現実主義」的な保守派権力と対峙することになった。

この点、当時の「進歩派知識人」の代表的論客である丸山眞男氏は「現実」には二つの側面があるという。すなわち、人は「現実」に制約され決定されているという側面と、人は「現実」を選択し決定していくという側面である。

いわゆる「現実主義者」はこの第一の側面だけを観ることになるが、しかし真に「現実」を見る者は現実の第二の側面をも見出すのだと、丸山氏はいう。つまり、一見「現実」から遊離した「理想」を希求する「理想主義者」こそが真の「現実」を希求する者であるということである。

しかし一方でその「現実主義者」にしてみても当時は「今日よりも明日は、明日よりあさっては、きっともっと豊かになる」という「理想」を追っていたといたのである。「理想の職業」 「理想の結婚」「理想の住まい」「理想の暮らし」「理想の人生」・・・こういった色とりどりの「理想」が戦後日本の、しばし奇跡とも称される経済復興の駆動力となったことは疑いないだろう。

つまり「理想主義」とは実の所は「現実主義」であり「現実主義」とは実の所は「理想主義」であるということである。けれども、いずれせよそこにあるのは「ここではない、どこか」にあるバラ色の未来を希求する欲望に他ならない。当時、街場の映画館の看板に踊った「総天然色」という文字がこうした欲望を裏側から物語っているのかもしれない。そして、こうした「理想の時代」は1960年の日米安保条約の改定(継続)に対する闘争で「理想主義者」が「現実主義者」に敗れたことで終焉する事になった。

⑵ 夢の時代

日米安保条約の改定を使命とした岸内閣の後を引き継いだ池田内閣は「所得倍増計画」を掲げ「農業構造改善事業」による農村共同体の解体と「新産業都市建設促進法」による全国土的な産業都市化により産業構造の転換を推進し、そこでは高度経済成長に必要な「資本」「労働力」「市場」という三位一体の産業構造の変革が目指された。

こうした産業構造改革により、農村共同体における家父長的大家族の解体が進み「拡大家族」から「核家族」へというロールモデルの転換は、家族のあり方や個人の人生に関する様々な領域に変化を及ぼした。

そしてともかくも結果としては経済成長は軌道に乗り、60年代前半の世は「昭和元禄」「泰平ムード」に酔いしれることになった。経済的繁栄は国民生活に物質的幸福をもたらした。テレビ、洗濯機、冷蔵庫という「三種の神器」がほぼ普及し、今度はカラーテレビ、クーラー、自動車が「新・三種の神器」として喧伝されだした。

1963年に行われた全国的な社会心理調査の項目に、明治維新以降100年の歴史のそれぞれの時期を色彩で表すとすれば何色がふさわしいかという項目があり、結果、最も多かった回答は明治は紫、対象は黄色、昭和初年は青・緑、戦争中は黒、終戦直後は灰色。これに対し当代は「ピンク」であった。そして同じく1963年に大ヒットしたのが「こんにちは赤ちゃん」という歌謡曲である。ここにはまさしく「ピンク色の夢の時代」の気分が純化した形で表出していたのではないか。

こうして「理想の時代」における「理想主義者」たちの信じた「現実」は実現しなかったが「現実主義者」たちの望んだ「理想」は実現したことになった。

このように1960年代前半が「あたたかい夢の時代」であったのであれば、後半は「熱い夢の時代」といえる。当時、アメリカ、フランス、ドイツを中心として発生した大規模な学生反乱は高度経済成長只中の日本にも波及した。この時代のラディカリストな青年にとっては「アメリカン・デモクラシー」も「ソビエト・コミュニズム」も「豊かな暮らし」とやらも、かつての理想たちすべてが抑圧の象徴であり打倒すべき対象であった。こうして「理想」に叛逆する「熱い夢」が一世を風靡した。

⑶ 虚構の時代

1973年のオイルショックにより長らく続いた高度経済成長は終りを告げました。そしてかの長嶋茂雄氏が「巨人軍は永久に不滅です」という名句を残して現役引退した1974年には実質経済成長率が戦後初めてマイナス成長を記録する。この年の「経済白書」には「経済成長を超えて」という副題が付されていた。こうして日本社会はポスト経済成長期へと遷移し「虚構の時代」が幕を開ける。

1973年に出版された「ノストラダムスの大予言」を嚆矢としてオカルトブームが起き、その後「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」を起爆剤とするアニメブームが起きた。 また1970年以降、それまでわい雑な副都心のうちの一つに過ぎなかった渋谷は西武・東急の開発競争による大規模な都市演出を通じて「かわいい」「おしゃれ」「キレイ」という「ハイパーリアル」な感性を体現する巨大遊園地へと変貌を遂げた。そして1983年に開園した東京ディズニーランドは徹底した現実性の排除による自己完結性に基づく虚構の楽園として出現した。

同時にこの時代においては、森田芳光氏が「家族ゲーム」という映画で誇張気味に描くように、家族という基礎的な共同体が演技として「わざわざするもの」である虚構として感覚されるようになった。地方自治体が「1日15分は親子の対話を」などという呼びかけを始めたのもこの時代であった。

こうしてみると「理想→夢→虚構」という順で「反現実の反現実的度」は高まっているといえる。「理想の時代」と「夢の時代」とは曲がりなりにも何かしらの「リアリティ」の在り処を素朴に信じることができる時代であった。これに対して「虚構の時代」とはもはや「リアリティの欠如というリアリティ」を愛でるしかない時代であったといえる。


2 第三者の審級

そして、戦後半世紀を迎えた1995年、大澤真幸氏はこの見田氏のテーゼを発展的に継承する議論を提起した。まず大澤氏によれば「夢」というモードは「理想」と「虚構」の両方に引き裂かれているような両義性を持っているという。例えば「将来の夢」というときは夢は理想に近い意味を持ち「夢か幻か」というとき夢は虚構に近い意味を持つ。それゆえに大澤氏は見田氏のテーゼにおける「夢の時代」は、その両側の「理想の時代」と「虚構の時代」へと解消することができるという。

こうして大澤氏はそれまでの戦後50年のちょうど中間にあたる1970年に「理想の時代」から「虚構の時代」の転換点を求め、さらにここに「第三者の審級」という独自の概念を導入した新たな時代区分を提唱した。

ここで大澤氏のいう「第三者の審級」とは特定の共同体を意味づけ正統性を付与する理念化された「超越的なまなざし」の担い手(理念化された超越的死者=他者)をいう。そして、こうした意味での「第三者の審級」を喪失した共同体は精神的混乱の危機に直面することになるとされた。

このような危機に対処するべく、例えば民俗学者の柳田國男氏は、かつて1945年の敗戦に際して、これからの日本社会における新たな精神的基礎を「イエ」という伝統を支える祖霊神への信仰に求めようとした。これに対して、同じく民族学者の折口信男氏は、柳田氏と同様な問題意識から、その精神的基礎を古事記の最古層に現れる高産霊神や神産霊神といった「ムスヒの神々」への信仰に求めようとした。

このような柳田氏や折口氏の思想的努力はいずれも敗戦によって喪失した我が国の「第三者の審級」を、どうにかして新たに立ち上げ直そうとした試みとして理解できる。ところが柳田氏や折口氏が危惧したような精神的混乱は少なくとも敗戦直後には現れなかった。

大澤氏によれば、それは日本という共同体を支える「第三者の審級」の速やかな交代があったからである。すなわち、それは「天皇」から「アメリカ」への交代である。かくて日本人の精神を支える形式的構造は敗戦によって「内容」は変化することになりましたが「形式」は保持されたということになる。

⑴ 政治から経済へ--理想の時代における第三者の審級

こうした観点から見れば「理想の時代」のいう「理想」とは端的にいえば「アメリカ」という「第三者の審級」の視点からみて好ましい社会をいう。このような社会を称して「戦後民主主義」という。もっともその一方で「ソ連」を「第三者の審級」として戴く「コミュニズム」も対抗軸としての「もう一つの理想」を形成した。

もっとも1960年の安保闘争において「アメリカ」への信頼に小さな亀裂が入ったことがきっかけとなり、1960年代に入ると「理想」から政治性が失われることになった。すなわち、ここで「理想」はいかなる政治的な内実も持つことなく、ただ単純に経済的に豊かな生と等値されることになった。

そして「理想の時代」の末期に現れた全共闘運動は確かに社会の革命・改革を求める運動ではあったが、この運動に参加した若者たちが目指した「理想」は、ただただ従来の権威、従来の理想を否定するということだけに終始しており、その具体的な内実をほとんど持っていなかった。このような理想の否定だけが理想であるとすれば、この運動は「理想の時代」の末期症状ということになる。

⑵ オタクとマスメディア--虚構の時代における第三者の審級

「虚構の時代」を代表する精神とは大澤氏によれば、それは「現実」すらも言語や記号によって構造化されている一種の「虚構」の中に相対化してしまう態度によって特徴づけられている。

このような「虚構の時代」の申し子は、しばし「新人類」とも呼ばれる1970年代末期から1980年代中盤の時期に成人した世代である。彼らがこのように呼ばれたのは、現実の社会生活に深く執着したり、コミットしたりすることなく、それを虚構の物語と同等にしか重視しない、彼らの軽いノリがより上の世代の者たちの目には極めて新奇なものに映ったからである。

そして、この「新人類」の延長線上にアニメ、漫画、コンピュータゲームなどといった虚構へ没頭する「オタク」と呼ばれる若者たちが登場することになる。

この点、大澤氏は「オタク」の前駆的存在といえる鉄道マニアや切手マニアが「鉄道」や「切手」といった断片的な要素への偏愛を通じて普遍的な世界を写像しているとして、ここから同様の傾向性は後の「オタク」にも妥当するのではないかという。すなわち、ここには普遍性への欲望が特殊性に反転した上で欲望されているという逆説をみることができるわけである(なお、こうしたオタクの志向性は大塚英志氏のいう「物語消費」に相当する)。

また、オタクにしばし向けられるテンプレートな批判として「オタクは虚構と現実の区別がついていない」というものがあsる。しかし大澤氏によれば、オタクの感受性の特徴とは「虚構」を「現実」と見做すのではなく、むしろ逆に「現実」を「虚構」と権利上異ならない一つの可能世界として感覚する点にあるという。こうした意味で、確かにオタクは「虚構の時代」の精神を純粋に体現する存在であるともといえる。

そして大澤氏は、しばし現実に対して冷ややかな距離を取るオタクの相対主義的な態度を「アイロニズム」と呼び、ここには「第三者の審級」の「徹底した不可視化」を伴っているという。もともと近代社会はパノプティコンに象徴されるように「第三者の審級」の抽象化・不可視化を通じて実現されるものであるが、近代的現実や近代的価値をも相対化するオタクは、そのような抽象化された「第三者の審級」をも斥けているわけである。

もっともここでは「第三者の審級」が存在しないわけではない。むしろ、さまざまな事象を相対化する「アイロニズム」には、その相対化する視点が帰属する場としての「第三者の審級」が不可欠である。そして、このような視点が帰属する場を名指す上で、大澤氏は北田暁大氏のいう「ギョーカイ」という言葉を援用している。ここでいう「ギョーカイ」とは要するに新聞やTVなどの「マスメディア」のことである。すなわち「虚構の時代」における「第三者の審級」を体現する存在は「マスメディア」であったといえる。そして、こうした時代を象徴する流行語の一つに「パラノ/スキゾ」という言葉があった。


3 パラノ・ドライブとスキゾ・キッズ

⑴ ニュー・アカデミズムの起爆剤としての「構造と力」

日本経済が空前のバブル景気へ向かいつつあった1983年9月、勁草書房という人文系出版社から一冊の本が出版された。タイトルは「構造と力」。著者は浅田彰。当時、京都大学人文科学研究所助手のポストにあった弱冠26歳の青年が著したこの本はフランス現代思想を題材にした難解な思想書にもかかわらず15万部を超えるベストセラーとなり、世の中に「ニュー・アカデミズム」と呼ばれる空前の現代思想ブームを巻き起こした。

同書の「序に代えて《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み--千の否のあと大学の可能性を問う」では「サブタイトルを書きながら、はや投げ出したいような気分になってくるのを、どうしようもない」という文章から始まり、何事も要領良くこなす現代の大学生への違和感が表明され、いま大学という場で真に学ぶべき知とは何かが問われている。

続いて大学における「文・理学部中心/法・医学部中心」という歴史的変遷から「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)=虚学的/実学的=象牙の塔/現実主義」といった二者択一が提示され、ここで重要となるのは「感性によるスタイルの選択」だと述べられた後、あの有名な一文が現れる。

「ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。このことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探求の道」に励んでみたり企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラけることによってそうして既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。

その上であえて言うのだが、評論家になるのも良くない。〈道〉を歩むのをやめたからといって〈通〉にならねばならぬという法はあるまい。自らは安全な「大所高所」に身を置いて、酒の肴に下界の事どもをあげつらうという態度には、知のダイナミズムなど求むべくもない。

要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身を晒しつつ、しかも、批判的姿勢は崩さぬことである。対象と深く関わり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。言ってしまえばシラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。

先ほどの文脈で言うとどうなるか。醒めた目で知を単なる手段とみなすことはまず退けられる。そもそも、あなたは目的そのものにシラケているはずだ。かといって、知を目的として偶像化するほど熱くなることもない。そこで、あなたは「どうせ何にもならないけれど」と言いつつ知と戯れることができる。そして、逆説的にも、そのことこそが知との真に深いかかわりあいを可能にする条件なのだ。

(「構造と力」より」)


⑵ 構造主義とポスト構造主義

ここから氏は大学における知の二者択一から社会科学という学問分野それ自体に突きつけられた二者択一へとそのパースペクティヴを拡張した上で、これから同書において問おうとする「構造主義」と「ポスト構造主義」の見取り図をざっくりと素描していく。

まず議論の出発点に氏は人間を「狂った生き物」とする考え方を置いている。すなわち、生の「方向=意味(サンス)」が予めプログラムされた動物や植物と異なり、過剰な「方向=意味」を抱え込んだ存在である人間は放っておいたらどこを向いて走り出すかわからない厄介な存在であるということである。

このような「方向=意味の過剰(生きた自然からのズレ)」はまず恣意性のカオスとして現れる。そこで自然の秩序を持たない人間は「恣意性の制限(ソシュール)」としての「文化」という秩序を構成する必要がある。これが構造主義のいうところの「象徴秩序(差異の共時的体系)」である。もっとも、ここで注意すべき点は時系列的にまずカオスがあって次に象徴秩序がくるというわけではなく、人間はつねに/すでに象徴秩序の中にいるのであり、恣意性のカオスはそこから論理的に遡行することで初めて見出されるということである。

次に氏は象徴秩序の類型としてレヴィ=ストロースの「冷たい社会」と「熱い社会」という理念型を導入する。この点「冷たい社会」とは近代以前のほとんどすべての社会であり、これらの社会で象徴秩序はトーテミスムなどを導入することでコスモス(自然の系列)とノモス(社会の系列)がメタフォリックに対応する二つの二元構造をとっている。この対応によって本来は恣意的なものに過ぎない各系列の文節化がある程度の安定性を得る事になる。とりわけコスモスは「聖なる天蓋」としてノモスを支え、その秩序を時代の激動から守る役割を果たすことになる。

もちろん、そのような仕組みをとったからといって象徴秩序の中に過剰なカオスを回収し尽くすことは不可能である。そこで「冷たい社会」は周期的な祝祭における常軌を逸した蕩尽(ハレの時空)によってこの過剰な部分を処理することで日常における象徴的秩序の安定性を維持している。

これに対して「熱い社会」とは、多くの「冷たい社会」を次々と呑み込み、その各々のコスモスーノモス構造を解体することによって成立した近代社会である。ドゥルーズ=ガタリに倣って言えば、近代社会とは象徴秩序を脱コード化することによって出現した社会である。

この点「冷たい社会」が「方向=意味の過剰」をスタティック(静態的)な「差異の体系(構造)」における高次元の象徴的意味のうちに結晶化させようとするのに対して「熱い社会」は「方向=意味の過剰」からなるダイナミック(動態的)な「差異化過程(力)」を一定方向に回路付けて、より速くより遠くまで加速し続ける運動の中に仮初の安定を得ようとする。

従って「冷たい社会」が定期的な祝祭を必要としたのに対して「熱い社会」はこうした祝祭を必要としない。「方向=意味の過剰」は一歩でも余計に進もう、余分な何かを生産しようとする日常の絶えざる前進そのものによって、形を変えて解消されることになる。端的にいえばこの日常そのものこそが世俗化された持続的な祝祭空間であるということである。

⑶ 二者択一という問題設定そのものを疑うということ

もっとも、その一方で「差異化過程」においては「方向=意味の過剰」を一方向に回路づけるための「整流器(加速器/安全装置)」が必要となる。こうした意味での最も有効な「整流器(加速器/安全装置)」として同書は「教育機構」を挙げる。

この点「教育機構」の最高学府たる大学においては、一方で「応用科学」としての知がメノトミックな手段性の連鎖に組み込まれ、差異化過程の「加速器」として肥大化していき、他方で「純粋科学」としての知はメタフォリックな対応によって、差異化過程の「安全装置」の役割を果たすようになる。

換言すれば一方は「部分的社会工学」といった名の下で断片化・無意味化を余儀なくされ、他方は本来全体たりえぬものを全体と信じ、そのヴィジョンをマンダラの如く崇拝することで近代社会の宗教と化すとのである。

こうして我々はあの「即時充足的(コンサマトリー)/手段的(インストゥルメンタル)=虚学的/実学的=象牙の塔/現実主義」という不毛な二者択一へと連れ戻されることになる。そしてここで重要なのはやはりこの二者択一という問題設定そのものを疑うことであり、一方で断片と化すことを拒否しつつ、他方で虚構のマンダラを切り裂くことである、と同書は述べる。

そして絶対的な基準に同化してそこから近代批判を行う手もさりとて全てを異化し一般的な相対化に訴える手も先が見えている以上、残されているのは、ひとまず近代を常ならぬ恐るべきものとして引き受けた上でその内部で局所的な批判の運動を続ける困難な戦略であるとして氏は次のように述べる。

教会の説教壇の如き絶対の高みから大鉈を振るうのではなく、寿司屋のカウンターに魚の切身を並べるようにパラダイムの数々を陳列してみせるのでもない。恐るべき粘着力を持つ近代のドクサの中でそれと格闘し、一瞬の隙をついてそこから逃れ去る、あるいは、それ自体をズラすのである。始原なし目的なしの過程の一契機としての切断。それこそ、近代に絡め取られた知の唯一の可能性であり、大学の生み出しうる最大の事件であり、いま《知への漸進的横滑り》を開始しようとするあなたに先程来提案してきた「方法ならざる方法」なのである。

(「構造と力」より)


⑷ クラインの壺の外部への逃走

こうした観点から同書の第Ⅰ部においては構造主義とポスト・構造主義のパースペクティヴがより詳細に描き出され、第Ⅱ部においては構造主義のリミットとしてフランスの精神分析医、ジャック・ラカンが位置づけられ、その後いよいよポスト・構造主義の大本命としてドゥルーズ=ガタリが登場する。

この点、同書はドゥルーズ=ガタリの「コード化」「超コード化」「脱コード化」という三段階説に依拠した上で、浅田氏は脱コード化を極限まで推し進め「内部」から「外部」に出よと力説する。もっとも、ドゥルーズ=ガタリが言うところの「オイディプス的三角形」をはじめとする近代資本社会に実装された様々な「整流器(加速器/安全装置)」は「脱コード化」を促す過剰の奔出をなし崩し的に解消して、同書が「クラインの壺」と呼ぶ無限循環回路へと還流させていく。腰を落ち着けたが最後「外部」は新たな「内部」になる。こうした「クラインの壺」の中でなお「外部」へ突き抜けようとするのであれば、重要なのは「常に外へ出続ける」というプロセスに他ならないということである。

こうして同書終盤で示された「パラノイアックな競争/スキゾフレニックな逃走」というコントラストは浅田氏の次著「逃走論(1984)」において「若者の生き方論」へと接続された。同書において氏は(体制/反体制にかかわらず)ひとつの排他的イデオロギーに執着する生き方をパラノイア(妄想症)に喩え「パラノ・ドライブ」と呼ぶ。これに対して多方向へ逃走しリゾーム的に生成変化する生き方をスキゾフレニー(分裂症)に喩え「スキゾ・キッズ」と呼ぶ。言うなれば「パラノ・ドライブ」とはこれまでの過去の全てを「統合化(積分)」し続ける生き方であり「スキゾ・キッズ」とは、いまここの現在をアドホックに「差異化(微分)」し続ける生き方のことである。

こうして氏は今こそ「パラノ・ドライブ」の外に出て「スキゾ・キッズ」の本領を発揮し、メディア・スペースで遊び戯れる時が来たと力説する。近代における「追いつけ追い越せ」の「パラノ・ドライブ」からポストモダンにおける「逃げろや逃げろ」の「スキゾ・キッズ」へ。こうした考え方は消費化情報化社会が爛熟し、バブル景気へと突入しつつあった1980年代中盤の日本社会の気分と見事に同調することになった。「パラノ/スキゾ」という言葉は1984年の第1回流行語大賞新語部門で銅賞を受賞し、浅田氏は自らその「逃走」を実践するかのようにマスメディアの寵児となっていくのであった。


4 1995年以降の反現実

そして戦後50年目にあたる1995年は、戦後日本社会が一つの曲がり角を迎えた年であったといえる。阪神大震災が起きたこの年は、一方で平成不況の長期化により社会的自己実現への信頼低下が顕著となり、他方で地下鉄サリン事件が象徴する若年世代のアイデンティティ不安の問題が前景化した年でもあった。

この点、現代思想史においてこの1995年とは、日本社会においてポストモダン状況がより加速した年として位置付けられている。「ポストモダンの条件(1979)」を著したフランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールは「ポストモダンとは大きな物語の失墜である」と規定した。ここでいう「大きな物語」とは宗教やイデオロギーなど社会を規定する価値体系の事をいう。消費化/情報化の加速する現代は、こうした「大きな物語」が機能しなくなり、何が正しい価値なのかわからない時代であるということである。こうして1995年以降の「反現実」が改めて問い直されることになった。





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