現実と反現実⑵ 作品論
1 されどわれらが日々(柴田翔)
⑴ 全共闘世代のバイブル
戦後の日本文学史はまず終戦直後に登場した第一次・第二次からなる「戦後派」と呼ばれる作家達が現れるところから始まった。この「戦後派」と呼ばれる作家達の特色は、例えば戦場とか投獄といった極限的な状況を舞台として人間や社会における理想や真理の探求が従来の文学的常識を覆すような極めて斬新な方法で遂行された点にあった。こうして一躍、世の脚光を浴びてたちまち当時の文壇を制圧してしまった「戦後派」は、ここからさらに進んで気宇壮大で広い社会的視野を持った「大きな小説」を志向するようになり、彼らの多くは共産主義や社会主義の理想から政府や既存の社会体制を批判する「反体制文学」を推進した。
当時は「政治と文学」が曲がりなりにも接続を果たしていた時代であった。この点、1960年代において「戦後派」の正統後継者として登場した若手作家達の一人に柴田翔氏の名が挙げられる。1964年に第51回芥川賞を受賞した本作「されどわれらが日々-」は全共闘世代を中心とした当時の若年層のバイブルとなった柴田氏の代表作であり、その発行部数は186万部を記録して1971年には映画にもなった作品である。
⑵ 古書に導かれた物語
本作の序盤のあらすじはこうである。語り手である東京大学英文学専攻の大学院生の大橋文夫は冷たい雨の降る秋のある日、アルバイトの帰りにたまたま立ち寄った古本屋でつい先月か先々月に完結したばかりのH全集が売られていることに気がついた。そのうちの真新しい一冊を手に取って眺めているうちに眼前にあるその一揃が自分の存在にからみついてきて、自分の意に反するようなことを無理やりやらされるような重苦しい気持ちで文夫はH全集を購入する羽目になる。
その数日後、彼の婚約者である佐伯節子が文夫の下宿を訪ねてきた。文夫は1歳下で遠縁の親戚に当たる節子とは幼少時より従兄妹同士のような付き合いがあった。高校卒業後に東京女子大に入学し歴研部員となった彼女は当時学生の中でも最左翼として知られていた東大駒場の歴研とも交流し、実際の学生運動にも関わりを持っていた。
節子は文夫の本棚にあったH全集の一冊を手に取り何気にめくっているうちに、ひょうたん形の珍しい蔵書印に目を留め、暫くこの本を貸してほしいと文夫に申し出る。翌週、佐伯家を訪れた文夫は節子からH全集と同じひょうたん形の蔵書印が押された薄い本を見せられる。節子はその薄い本は駒場の歴研部員であった佐野という共産党員の学生から借りたものだという。佐野は節子が大学1年の時、党の地下軍事組織に参加して以来、その行方がわからなくなっていた。
節子は佐野の消息を知るべく彼の駒場での同級生であったAという人物に手紙を出し、Aからの返信には佐野は昨年の春に佐野は一年遅れで大学を卒業してS電鉄に就職するもその後の消息は不明であることと、佐野と同じO高校の同窓に文夫と同じ研究室の助手を務める曾根という人物がいることが記されていた。そして節子からの依頼で文夫は曾根に佐野の消息を尋ねたところ、果たして佐野は睡眠薬で自殺していたことが判明する。
⑶ 六全協から全共闘へ
本作は1950年代の学生運動を題材とした青春群像劇である。よく知られるように日本共産党は1955年の第六回全国協議会(いわゆる六全協)において、それまで分裂していた主流派(所感派)と国際派を統一する形で従来の武装闘争路線からの転換を図ったが、この六全協の決定によって多くの急進的な学生活動家が党の無謬性神話の崩壊に失望したといわれている。
ここから共産党とは一線を画した「新左翼」と呼ばれる政治運動が生じ、1957年には永続革命論を提唱したレフ・トロツキーの思想を継承した「革共同(革命的共産主義者同盟)」が、1958年には大衆に開かれた国民運動を標榜する「ブント(共産主義者同盟)」が結成され、これらの組織は60年安保闘争において大きな役割を果たすことになった。
その後、新左翼の運動は大きな政治的争点がないまま1960年代半ばまで一時停滞することになるが、1960年代後半のベトナム反戦運動以降、徐々にその勢力を盛り返していく。そして1968年に起きた日大不正経理問題や東大医局問題などを契機に新左翼の諸セクトに属する学生はノンセクトの学生と共に「全共闘(全学共闘会議)」を結成し当局に対する抗議運動として大学キャンパスを占拠することになった。
こうした意味で本作はある面ではいわば「全共闘世代のルーツ」を描いた作品であり、本作が当時の若年層から支持された理由の一つもやはりまた、この辺りにもあるのではないか。
⑷ 理想とニヒリズム
本作は「理想の時代」における「ニヒリズム」への向き合い方を真摯に問うた作品であるといえる。本作において佐野が「(理想主義的な)大文字の理想」に挫折しニヒリズムに陥り、文夫が「(現実主義的な)小文字の理想」に過剰に同一化してニヒリズムをコントロールしようとする中で「(理想主義的な)大文字の理想」に失望する一方で「(現実主義的な)小文字の理想」にも馴染めなかった節子は誰のものでもない自分だけの「ひとつきりの理想」を探求する旅に出ることでニヒリズムを振り落とそうとするのであった。
2 燃えよ剣(司馬遼太郎)
⑴ 新撰組--悪の暗殺組織から幕末のスターへ
幕末最強の剣客集団として知られる新撰組は明治大正の頃までは薩長史観の影響でもっぱら正義の維新志士の前に立ち塞がる悪の暗殺組織という位置付けにあった。ところが昭和に入ると子母澤寛による史談「新選組始末記」をきっかけに新撰組は再評価されるようになる。戦後、新撰組を題材にした映画が数多く作られるようになり、新撰組局長近藤勇をはじめとした各隊士たちにも脚光が当てられるようになった。
そんな中、新撰組という存在を幕末のスターへと決定的に押し上げた記念碑的小説が本作「燃えよ剣」である。本作は維新志士たちから「鬼の副長」として恐れられた新撰組副長土方歳三の生涯を中心に新撰組の栄枯盛衰を描いていく。
⑵ 新撰組と歳三
武州石田村の豪農に生まれた歳三は少壮の頃は喧嘩と女遊びに明け暮れ、周囲からは「バラガキ」と呼ばれる悪童として知られていた。やがて歳三は近藤と無二の親友となり、近藤が当主を務める天然理心流の道場「試衛館」の塾頭となるが、当時の試衛館は多くの食客を抱えていた上に折りからの疫病もあり、その経営は困窮を極めていた。
一方、幕末の騒乱は風雲急を告げ、京都の治安悪化に頭を痛めていた幕府は庄内藩浪士清河八郎の献策により、時の第14代将軍家茂の上洛に際し将軍警護の名目で浪士組の結成を企図し江戸で浪士を募集。この時、近藤、土方ら試衛館の門人も徴募に応じ京に登る。
ところが京都に到着するや否や清河の真の目的は将軍警護などではなくむしろ尊皇攘夷の尖兵を集める事にあったことが判明する。清河と袂を分かった近藤ら試衛館派は、ちょうど京都守護職などという貧乏籤を引かされて頭を抱えていた松平容保に見出され会津藩預かりの浪士となる。こうして京の治安を守る武装警察集団「新撰組」が誕生した。
新撰組副長に就任した歳三は、西洋軍隊を参考にした指揮系統を導入すると同時にその行動原理に「士道」を掲げ、新撰組を鉄壁の統制を誇る戦闘集団へと育て上げていった。そして攘夷派による政権転覆計画を突き止めた新撰組は、京都三条木屋町の旅籠池田屋にて謀議中の攘夷派浪士らを一網打尽にする。この「池田屋事件」により新撰組の名は天下に轟き渡ることになった。
ところがその後、天下の時勢は急変する。壊滅寸前まで追い込まれた攘夷派は薩長同盟によって息を吹き返し、追い詰められた時の第15代将軍慶喜は大政奉還を表明し政権を返上。幕府は瓦解し、新撰組は主人を喪った。けれども歳三は時勢に関係なく最後まで幕府に殉ずる肚を決め、盟友近藤とも袂を分ち戊辰戦争を転戦。北海道で「蝦夷共和国」の樹立に参加し官軍に最後まで抗うのであった。
⑶ 他人の理想と自分の理想
司馬氏は歳三の生き様を「喧嘩師」と形容する。本作の史観に従えば新撰組とは彼の「作品」であった。歳三は生来の武士ではないだけに「武士」という存在に鮮烈な憧憬を抱いており、人を斬る以外に存在目的を持たない刀の如く、武士は余計な思想に惑わされず粛然と節義のみに生きるべきであると考えていた。このような従来の幕府や藩の因習にとらわれない歳三のシンプルな思考が新撰組という空前絶後の戦闘集団を生み出した。いわば歳三は「武士」という存在を「再発明」したといえる。こうしたことから本作はある種のイノベーションの寓話としても読めるだろう。
その一方で、曲がりなりにも新撰組局長である近藤は天下の時勢をある程度、肌感覚で理解していた。当時の武士階級を支配していた共通教養である水戸史観は皇室への忠誠度合いから歴史上の英傑を忠臣と朝敵に分類し、南北朝の英雄である楠木正成を最大の忠臣とする一方で室町幕府の開祖である足利尊氏を最大の朝敵に位置付けていた。こうした水戸史観に照らし合わせれば、天子を薩長に奪われてしまった今、幕府は「朝敵」という事になる。
典型的な水戸史観の徒である将軍慶喜は自身が「第二の尊氏」として歴史に名を残してしまうことを何よりも恐れていた。そして若かりし頃から頼山陽の「日本外史」を愛読し楠木正成を崇拝していた近藤もまた水戸史観の呪縛から逃れる事はできなかった。
いわば近藤は水戸史観という「他人の思想」に囚われていた。これに対して歳三はそんな「他人の思想」とは無関係なところで「自分の理想」を最後まで創造し続けたのであった。
3 日本のいちばん長い日(半藤一利)
⑴ 半藤史学の原点
昭和38年6月20日、東京は築地の料亭でとある座談会が開かれた。元内閣書記官長の迫水久常、元陸軍大将の今村均、元陸軍大佐の荒尾興功、元秘書官の鈴木一ら、終戦当時の日本の政界や軍部の枢要にいた錚々たるメンバーが出席し、あの昭和20年8月15日に自分がどこで何をしていたかを回顧するこの座談会の企画と司会を務めたのが後に昭和史の大家となる文芸春秋の編集者、半藤一利氏である。
当時、若干33歳の若手編集者であった半藤氏が終戦企画として立ち上げたこの座談会において飛び交った戦争当事者たちによるリアルな証言の数々は同年の「文藝春秋」8月号に掲載され大きな反響を呼んだ。そしてその後、この座談会をさらに掘り下げるべく取材を重ねた半藤氏が執筆し、当時の大御所ジャーナリストであった大宅壮一氏の名義を借りて昭和40年に世に問われた本書「日本のいちばん長い日」は「終戦というプロジェクト」を緊迫した筆致で描き出す半藤史学の原点というべき一冊である。
⑵ 7月26日から8月14日まで
太平洋戦争末期の昭和20年7月26日、時の連合国はイギリス・アメリカ・中華民国の連名で日本に無条件降伏を促すポツダム宣言を発するも、時の鈴木貫太郎内閣は当時中立国であったソ連に対して和平の仲介を依頼する対ソ工作が水面下で進行していたこともあり、ひとまず事態を静観する態度を取った。28日の各朝刊紙の紙面には「笑止、対日降伏条件」や「聖戦を飽くまで完遂」などという戦意高揚を図る強気の文字が踊り、同日午後4時にはポツダム宣言を「ただ黙殺するだけである」という鈴木首相の談話が発表された。しかし8月に入っても肝心のソ連からの回答はなく、貴重な時間がただ無駄に過ぎていった。
8月6日早朝、広島市が謎の大規模爆発により一瞬で壊滅したという衝撃的な報が政府中枢へもたらされた。翌7日に米国トルーマン大統領は広島に投下された新型爆弾は戦争に革命的変化を与える原子爆弾であると宣明し、日本が降伏に応じない限り、さらに他の都市へも投下する旨の声明を発表する。さらに翌9日未明、頼みの綱のはずのソ連が日ソ中立条約を破棄し、満州国、朝鮮半島北部、南樺太への侵攻を開始した。
急迫した情勢下で開かれた同日午前の最高戦争指導会議ではポツダム宣言の受諾条件について議論された。ここでは我が国の国体護持をめぐり⑴天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外相案(一箇条案)と、⑴の他にさらに⑵占領は小範囲、小兵力、短期間であること⑶武装解除と⑷戦犯処置は日本人に手に任せることを追加した陸相案(四箇条案)が対立する。阿南惟幾陸相はこの4条件なくして国体護持は事実上不可能であると強硬に主張した。そして議論が紛糾する中、長崎市に2発目の原爆が投下されたという報がもたらされることになる。
午後から開かれた閣議でも長時間の議論が尽くされるも意見はまとまらず、鈴木首相の提案により同日深夜に急遽開催された天皇臨席の御前会議でも議論が拮抗したまま日付が変わり、午前2時を過ぎたところでついに鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぐ事になり、ここに外相案によるポツダム宣言受諾が決定された。
ところが日本のポ宣言受諾に対するアメリカ側の対日回答案(バーンズ回答)における「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官にsubject toする」という回答文中の「subject to」という文言をめぐり「制限下におかる」と訳した外務省と「隷属する」と訳した陸軍中央が対立。同日午後の閣議、翌13日午前の最高戦争指導会議、同日午後の閣議において議論は再度紛糾。甲論乙駁が果てしなく続き、ここでも阿南陸相は悲痛な抗議を続け、鈴木首相は再び昭和天皇に聖断を仰ぐことになった。
翌日14日午前10時50分、鈴木首相の策案により昭和天皇の「お召し」という形で最高戦争指導会議構成員と閣僚全員の合同の御前会議が行われ、最後は涙ながらに国体護持を切論する阿南陸相たちを昭和天皇が説き諭すような形で日本の降伏は決まった。そしてここから終戦詔勅の玉音放送に向けて「日本のいちばん長い日」が始まることになった。
⑶ 宮城事件
本書が描き出す8月14日正午から8月15日正午までの「日本でいちばん長い日」とは「終戦というプロジェクト」をめぐり政府と青年将校が熾烈な攻防戦を繰り広げた24時間のドラマである。ポツダム宣言受諾条件をめぐり政府と対立する陸軍内部では政府転覆を図るクーデター計画を策動するも結局、阿南陸相らの賛同を得られずクーデター計画は空中の楼閣と帰してしまう。
しかし、それでも諦め切れなかったのが軍務局課員、畑中健二少佐と椎崎二郎中佐を中心とする一部の青年将校達であった。彼らは宮城を占拠して昭和天皇に「御聖断の変更」を願うという途方もない計画を夢想し、その実行にあたり関係各方面の協力を取り付けるべく奔走する。この点、畑中らの計画の鍵は宮城を警衛する近衛師団の動員にあった。けれども難物として知られる森赳近衛師団長を説得できる可能性は限りなくゼロに近く、その計画はもはや無謀というより暴挙といえるものであった。
半藤氏は畑中少佐らを突き動かしていたのは利欲でも怨恨でも功名心でもなく、あくまで「国体護持」を貫かんとする彼らなりの信念であったと述べる。もっとも政府側にしてもポ宣言受諾にあたり「国体護持」は絶対に譲れない一線であり、鈴木首相も阿南陸相もいわば「国体護持」という目的のための手段をめぐり対立していた。けれども、ここでいう「国体」なる観念の内実は論者によって様々に異なっており、とりわけ畑中らが奉じる「国体」とは天皇や皇室といった法的制度の次元を遥かに超越した「日本人の普遍的精神そのもの」というべき観念である。この点、畑中や井田が師事した東大教授平泉澄博士の主唱する実在的国体観によれば、建国いらい日本は君臣の定まること天地の如く自然に生まれたものであり、これを正しく守ることを忠といい、万物の所有は皆天皇に帰すがゆえに国民は等しく報恩感謝の精神に生き、天皇を現人神として一君万民の統合を遂げることこそが我が国の国体の精華であるとされる。
現代社会の平均的感覚からすれば俄に理解し難い論理であるが、とにかくもこうしたラディカルな国体観から畑中らは目下の時局を案じ、無条件降伏の根本理由など畢竟、自分の生命が惜しいからという売国奴の論理であるか、早ければ早いほどあらゆる面での損害が少ないからという唯物的戦争観でしかないという結論に到着し、さらに戦争とはひとり軍人だけがするのではなく、君臣一如、全国民にて最後のひとりになるまで遂行せねばならないはずのものであり、国民の生命を助けたいなどという即物的理由による無条件降伏はかえって国体を破壊する革命的行為に他ならないと断じ去り、これを阻止することこそが国体にもっとも忠なのであると信じ込んでいたのである。
⑷ 物語と平衡感覚
現代の倫理観念からすれば畑中ら青年将校を悪と断罪したり視野の狭い愚者だと嗤う事は容易だろう。けれどもそう言いながらもその一方で、現代においても我々はカルトや原理主義に入れ込んだ挙句にテロリズムに走ったり人生を破滅させてしまう事例を数多く目撃している。畑中らの悲劇の本質は「国体」という名の「理想」をあまりにも純粋無垢に信奉してしまっていた点にあるといえる。
「理想」は人を導く側面を持つと同時に人を破滅させる側面も持っている。この点、本書はその序で「今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは”平衡感覚”によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右や左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡を取り戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命が決まるのではあるまいか」と書いている。かつての青年将校らの狂騒や、現代におけるカルトや原理主義の暴走は、まさしくここでいう「平衡感覚」の喪失から生じた典型的ケースといえる。こうした意味で我々はどんなに正しく美しく素晴らしくみえる「理想」でも決して絶対視することなく、常にこれを批判的に観るための「平衡感覚」をあの8月15日から学び取るべきなのではないだろうか。
4 夕べの雲(庄野潤三)
⑴ 第三の新人
戦後の日本文学史においては第一次と第二次からなる「戦後派」に続いて現れた3番目の世代の作家達を「第三の新人」と呼ぶ。もっとも、この「第三の新人」は登場当初はあまりぱっとせず、当時の批評家からは「即物性、単純性、日常性、生活性、現状維持性、伝統性、抒情性、単調性、私小説性、形式性、非倫理性、非論理性、反批評性、非政治性」などと散々にこき下ろされ、このような思想性も政治性もない退嬰的な文学などどうせすぐに消え去る運命にあるだろうと思われていた。けれどもその後「戦後派」から「ベ平連」に至る反体制文学の華々しい隆盛の陰で「第三の新人」は地道に創作に取り組み続け、1960年代になると文壇において確固たる位置を築き上げることになった。
例えば「第三の新人」の筆頭格として見做される安岡章太郎氏は芥川賞を受賞した「陰気な愉しみ(1953)」を始めとして、戦争とか死といった出来事を「戦後派」のように深刻に、あるいはヒロイックに語るのではなく、軽妙なユーモアによって対象を相対化して、あくまでも日常的なスタンスで語りきってしまう作風が特徴である。
また安岡氏と並んで「第三の新人」を代表する作家として位置付けられる吉行淳之介氏は主に男女関係をテーマとした作品を多く発表し、芥川賞を受賞した「驟雨(1954)」やその代表作である「暗室(1970)」といった作品で、耽美的な幻想を取り払った性愛のリアルの中に垣間見ることができる人間の実存を描きだしていった。
そしてもう一人「第三の新人」を語る上で欠かせない作家として庄野潤三氏が挙げられる。庄野氏は安岡氏や吉行氏のように軽妙洒脱な作風ではないが、ある意味で「第三の新人」の精神をもっとも具現化した作家であるともいえる。そしてその庄野氏の代表作と呼べるのが本作「夕べの雲」である。
⑵「いま」を書いた物語
本作では東京の郊外の丘の上にささやかなマイホームを建てた夫婦と3人の子供たちの四季折々の生活風景が描かれていく。主な登場人物は、作家を生業としている大浦と大浦の細君、そして晴子(高2)、安雄(中1)、正次郎(小3)からなる家族5人である。
彼らの新しい家は開けた丘の頂上にあり、見晴しが良い代わりに四方から吹き付ける風当りの強さも相当のものであった。大浦は丘の上に新居を建てたことを早くも後悔するも、今となっては後の祭りで、さしあたり自衛のため家の周囲に「風よけの木」を植えなければならないと考える。けれども、なんだかんだで日々の雑事に忙殺されていくうちに「風よけの木」を植える仕事はどんどん遅れ、とりあえず一家が落ち着いて生活できるようになるまでに2年ほどの歳月を要した。
大浦は人間は一つの土地に「ひげ根」を下ろし長く暮らす方が良いという考え方の持ち主である。そういった意味で本作では大浦一家が新しい土地で「ひげ根」を下ろしていく過程を極めて淡々と、かつていねいな筆致で描き出す作品といえる。
なお、庄野氏の一家も同じ家族構成で1961年に東京都練馬区から神奈川県川崎市生田の見晴らしの良い山の上の新居に引っ越している。それから3年半後に執筆を始めたのが本作である。
この点、文庫版のあとがきの中で氏は「今度、日本経済新聞に書く小説には、生田の山の上へ引越して来てからのことを含めて現在の生活を取り上げてみようと思っている。「いま」を書いてみようと思っている。(中略)その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである。その今そこに在り、いつまでも同じ状態で続きそうに見えていたものが、次の瞬間にはこの世から無くなってしまっている具合を書いてみたい」と述べている。
⑶ 穏やかで幸福な日常の中に隠された危うさ
基本的に私小説というのは一人の作家が長く描き続けると同じようなモチーフが繰り返し反復されていくことになる。すなわち、私小説を書く作家は、複数の作品を通じてただ一つの長編小説を書いているとも見ることができる。
この点、芥川賞を受賞した「プールサイド小景(1955)」は、会社をクビになった男が転職先も見つからないまま、小学生の子供を連れてプールに行くという話で、一見穏やかな光景の中に先の見えない不安が潜んでいる日常のありようが描かれている。
また、本作と並ぶ庄野氏の代表作といわれる「静物(1960)」は、幼い子供達と若い夫婦の何気ない明るく穏やかな日常を描き出す一方で、その背後には妻が自殺未遂をした過去が何気に仄めかされており、作品全体が奇妙な緊張感に満ちている。
そうであれば「夕べの雲」が描き出す「日常」の背景には、仕事口を失って生活不安を抱えていた父親や、自殺を図った母親の姿が過去の記憶として潜んでいる事になる。
穏やかで幸福な日常の中に隠された危うさ。庄野氏が本作で描いているのはそういう光景である。もちろん「夕べの雲」の読者全員が庄野氏の過去作を読んでいるわけではない。しかしそれでも、一見して穏やかで幸福な「日常」の裏に潜んでいる危うさというものは、自ずと「行間」から滲み出てくる。
この点、本作に登場する夫婦は戦争体験者であり、同時に当時の読者もまた、そのほとんどが戦争体験者である。それゆえに、庄野氏が描く「日常」の「行間」には、いまここに生きていること自体が奇跡なのであるという、あの時代において作家と読者が共有していた驚きと慈しみが込められていたのではないだろうか。
⑷ 治者の文学
この点、戦後日本を代表する批評家の一人である江藤淳氏はその主著「成熟と喪失(1967)」において、本作を「治者の文学」であると称揚した。
江藤氏の整理によれば「戦後派」が「父」との葛藤を軸とした文学なのだとすれば「第三の新人」とは「母」との密着を軸とした文学である、ということになる。この点、安岡氏の「海辺の光景」は近代社会に直面した「母」の動揺と崩壊を描き出した作品であり、同時に「母」の肉感的な世界の中で「自由」を享受していた「子」が「個人」になることを強いられて無限に「不自由」になっていく過程を描き出した作品でもあった。
こうして「母」の「喪失」に直面した「子」には「波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬ杙が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立つてゐた」という風景に表象された「喪失感の空洞」だけが残ることになる。
そして氏は、このような「喪失感の空洞」の中に湧いてくる「(母を見棄てるという罪悪感としての)悪」を主体的に引き受ける態度こそがまさしく戦後日本社会における「成熟」の感覚であり「母」を喪失した「子」が「自由」を再び回復する道なのであると主張した。
それゆえに氏は、こうした「悪」を引き受ける「成熟」の主体を「治者」と呼ぶ。この点、伝統的に父性原理の強い西欧社会における「成熟」とは「子」が「父=近代的市民」になる事を指している。けれども氏によれば、伝統的に母性原理の強い日本社会における「成熟」とは「子」が「父=近代的市市民」になるのではなく、むしろ「母=前近代的世界観」を見棄てるという「悪」を引き受ける事で、あたかも「父」である「かのよう」に振る舞う点にある。
すなわち、このような意味での「母」が既に崩壊してしまった世界であたかも「父」である「かのよう」に日々を生きる「治者」の姿を、江藤氏は本作の大浦の中に見て取ったのではないか。この点、江藤氏は、大浦が存在証明としているものに「怯えの感覚」と「「不審寝」の意識」があることを指摘した上で「もしもわれわれが「個人」というものになることを余儀なくされ、保護されている者の安息から切り離れておたがいを「他者」の前に露出しあう状態に置かれたとすれば、われわれは生存をつづける最低の必要をみたすために「治者」にならざるを得ない。つまり「風よけの木」を植え、その「ひげ根」を育てあげて最小限の秩序と安息とを自分の周囲に回復しようと試みなければならなくなるからである」と述べている。
もっとも実際に本作を読めば、その随所には様々な形で「母」の影が付き纏っていることが容易にわかる。言うなれば、ここで江藤氏のいう「治者」という存在は、究極的には自身が「母」に依存していることを「知っている」にもかかわらず、それでも「あえて」見棄てるふりをするパフォーマンスをもって「成熟」と見做す構造から成り立っているともいえる。ここには、たとえそれが究極的には無意味である事を知りつつも「あえて」それを行うところに何かしらの強度性を見出すという極めて戦後日本的アイロニズムひとつの変奏曲を見出す事ができるだろう。
5 機動戦士ガンダム
⑴ アニメブームの起爆剤
「宇宙戦艦ヤマト」のヒットを契機として1970年代後半以降のアニメは従来の子供番組としての立ち位置を脱して当時のユースカルチャーの一つに成長しつつあった。そしてこの流れを決定的にした作品が富野由悠季氏が手掛ける本作「機動戦士ガンダム」であった。
人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになってから半世紀あまりが経った宇宙世紀0079年、地球からもっとも遠いスペースコロニー群サイド3はジオン公国を名乗り地球連邦政府に独立戦争を起こす。こうした中でサイド7に暮らす少年アムロ・レイはジオンの空襲で焼け出されたことがきっかけで連邦軍の新兵器「ガンダム」と出会い、ジオン対連邦が繰り広げる「一年戦争」にその身を投じることになった。
主人公アムロは自意識と社会との距離に悩み傷つきやすい内向的な少年として設定されている。そしてアムロ最大の宿敵であるシャア・アズナブルもまた「赤い彗星」という二つ名で知られるジオン軍のエースパイロットという表の顔とは別に亡父の復讐を目論むジオン公国建国者の息子という裏の顔を持ち、さらにその内面は戦争の大義も復讐の価値にも自身の生の意味を見出すことができないというニヒリズムに蝕まれている。そして、こうしたアムロの内向やシャアのニヒリズムは共に「政治の季節」が終わり、今や「革命なき時代」を生きる当時の若年層の気分と見事に同調していったのである。
⑵ ガンダムの示した革新性
ここからさらに本作の革新性として以下の三点を挙げることができるだろう。
第一に本作は「宇宙世紀」という架空年代記を構築して、この偽史に基づき登場人物たちの行動を徹底的にシュミレートすることで、極めて高度なリアリズムに裏打ちされた物語を生み出すことに成功した。また「宇宙世紀」の緻密な設定はこの時期のオタク系文化に顕著であった個々の作品の背景にある世界観設定を消費する「物語消費」の要請に結果的に対応することになった。
第二に本作は「モビルスーツ」という名の工業製品へとロボットを再定義することで、従来の「鉄人28号」や「マジンガーZ」に代表されるロボットアニメにおいて反復された主人公の少年が機械仕掛けの身体を操り仮初めの社会的自己実現を成し遂げるという戦後日本的なアイロニズムに規定された成熟観をより批判的に継承することになった。
第三に本作は「ニュータイプ」という概念を導入することで、従来の戦後日本的成熟観に規定された主体に代わるオルタナティブな主体を提示することになった。ここでいう「ニュータイプ」とは宇宙環境に適応した超空間的コミュニケーション能力を持った主体のことを指しており、もともとはただの少年兵であるはずのアムロが短期間でエースパイロットに急成長する展開に説得力を与えるための設定に過ぎなかったが、やがて本作が社会現象と化していく中で当時の新しい情報環境の台頭と消費社会の進行に適応した新しい感性を持つ新人類世代の比喩として理解されるようになった。
確かに本作が描きだす「ニュータイプ」という主体は同時代に一世を風靡したポストモダニズムが称揚する「パラノ・ドライヴからスキゾ・キッズへ」「ツリーからリゾームへ」というパラダイムシフトにも共鳴しているといえるだろう。こうした意味で「虚構の世界(宇宙世紀)」において「虚構の身体(モビルスーツ)」を操る「虚構の主体(ニュータイプ)」を提示した本作はまさしく「虚構の時代」の申し子のような作品であったといえる。
6 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(村上春樹)
⑴ デタッチメントという倫理--政治と文学の切断
1970年代末、村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から始まるいわゆる「鼠三部作」においては「鼠」と「僕」という二人の対照的な青年が登場する。この点「鼠」は「理想の時代」の終焉に戸惑いを隠せない。これに対して、村上氏の分身としての「僕」は「虚構の時代」を自覚的に受け入れていこうとするのであった。
ここで鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」と後に呼ばれる倫理である。すなわち、これは「政治と文学」における「政治」から「文学」を一旦切断して「第三者の審級」から距離を置く態度である。
こうした「デタッチメント」という美学がいよいよ完成を見ることになったのが「鼠三部作」に続く長編第4作目となる本作である。
⑵ 二つの物語
全40章からなる本作は「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」というそれぞれ世界を異にする二つの物語が交互に進行し、やがて両者の関係性が徐々に明らかになるという構造となっている。
この点「ハードボイルド・ワンダーランド」は、現実世界を生きる「私」の物語である。「計算士」という暗号処理の仕事を生業として、やはり「やれやれ」が口癖である「私」は、ある日、謎の老博士から秘密の研究所に呼び出され「シャフリング(自らの深層心理をブラックボックスにした情報の暗号化)」を用いた仕事の依頼を受けたのがきっかけで計算士と記号士の抗争に巻き込まれていく。そして「私」は老博士の孫娘から「世界の終り」を告げられる。
そして「世界の終り」は、周囲を壁に囲まれ、一角獣が生息する謎の街で生きる「僕」の物語である。この街の人々は「心」を亡くし安らかな日々を送っている。一方「影」を引き剥がされ、記憶のほとんどを失っている「僕」は図書館で「夢読み」として働く一方で「影」の依頼により「街の地図」を作る作業を続け、少しずつ街の謎に迫っていく。
⑶ 世界の終わりで責任を取るということ
果たして「世界の終り」の正体とは「ハードボイルド・ワンダーランド」における「私」が意識の消滅によって閉じ込められた無意識世界であった。そして本作の結末で「僕」は「世界の終り」からの脱出の機会(=意識の復活)を得ながらも、自らが産み出した「世界の終わり」の中に留まる道を選択する。
それも街の人々のように「心」を亡くして永遠の時間を生きるのではなく「心」を持ったまま永遠の時間に耐えるという恐るべき過酷な道である。けれども「僕」はそれが「責任」をとることなのだという。
世界の終りで責任を取るということ。すなわち、それは「政治(ハードボイルド・ワンダーランド)」と「文学(世界の終り)」の切断であると同時に「現実(ハードボイルド・ワンダーランド)」ではなく「虚構(世界の終り)」に留まる道でもある。そして、こうしたデタッチメントの美学は後に一千万部のベストセラーとなった「ノルウェイの森(1987)」で更なる深化を遂げ、ここに国民的作家、村上春樹が誕生したのであった。
目次に戻る