物語とデータベース⑵ 作品論


1 新世紀エヴァンゲリオン

⑴ 僕はここにいてもいいんだ

周知の通り、本作は1995年10月から全26話がテレビ東京系列で放送された。原作はガイナックス。総監督は庵野秀明。舞台は「セカンド・インパクト」と呼ばれる大災害から15年後の西暦2015年。中学2年生の少年、碇シンジは、長年別居していた父、碇ゲンドウから突然、秘密組織NERVに呼び出され、巨大ロボット、エヴァンゲリオンに乗って「使徒」と呼称される謎の敵を倒すよう命じられる。葛藤の末、シンジは「逃げちゃダメだ」と自分に言い聞かせてエヴァに乗る。

エヴァは当初「究極のオタクアニメ」として始まった。細かいカット割りや晦渋な言い回しの台詞。随所に垣間見える、宗教、神話、小説、映画からの膨大な引用。こうした要素が渾然一体となり形成されたカルト的世界観はオタク層の快楽原則を最大限に刺激した。

ところが後半、制作スケジュールの逼迫からエヴァの物語は破綻をきたして行く。映像の質は回を追うごとに落ちて行き、それまで散々ばら撒き散らした伏線は一切回収されることはなく、最後に物語は唐突に放棄される。

こうして最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」においては、碇シンジが延々と自意識の悩みを吐露し続け、他のキャラクターとの問答を繰り返した挙句、最終的には「僕はここにいてもいいんだ」という結論(?)に達し、皆から「おめでとう」と祝福されるあの伝説的な結末を迎えることになる。

⑵ 究極のオタクアニメから究極のオタク文学へ

いわばエヴァは土壇場で「究極のオタクアニメ」から「究極のオタク文学」に唐突に転向したわけである。ここで展開される会話ゲーム的なダイアローグは、確かに大塚英志氏のあの有名な批判にあるように「自己啓発セミナー」のプログラムそのものである。

こうした幕切れは、当然のことながら多くの顰蹙を買う事になる。しかし一方で、もはや制作スケジュールは完全に破綻し、最終回を物語としてまとめることは現実的に不可能であった。

もはや何も手の内が残っていない以上、最終話では「エヴァに乗らないシンジ=物語を放棄した庵野氏自身」をそのままフィルムに曝け出すしかない。

この点、放送直後の庵野氏のインタビューや関係者座談会などにおいては、庵野氏の根本には「変わりたくないんだ」という自己愛があり、その補償作用としてあの「逃げちゃダメだ」という強迫観念があるのではないかという議論が見られる。

そうだとすればシンジの「僕はここにいてもいいんだ」という宣明は「変わりたくないんだ」という庵野監督の咆哮そのものでもあったと言えるのではないか。


2 Kanon

⑴ 「泣きゲー」の登場

1980年代に登場したアダルトゲームは当初、ゲームの進行と共にエロティックな画像が表示されるといった性的快楽の描写に重きが置かれていた。ところが1990年代に入るとこうした傾向に変化が生じてくる。

ゲームブランドエルフから発売された「同級生(1992)」辺りから、性的快楽の描写よりも恋愛関係の描写が重視される傾向が生じ、ゲームブランドLeafより発売された「雫(1996)」以降は、シナリオとキャラクターデザインが重視される傾向が生じたと言われる。こうしてアダルトゲームは次第に美少女ゲームと呼ばれるようになっていく。

こうした傾向変化の中で、プレイヤーを泣かせるような感動的なシナリオを特徴とする「泣きゲー」というジャンルが確立されていく。その起源とされているのが、ゲームブランドTacticsから発売された「ONE〜輝く季節へ〜(1998)」である。そして同作の主要スタッフによって新たに立ち上げられたゲームブランドKeyより発売された「Kanon(1999)」は「泣きゲーの金字塔」と呼ばれ、美少女ゲームの枠を超えて幅広い層の支持を獲得した。

⑵「雪の街」の記憶

本作の主人公、相沢祐一は両親の海外赴任に伴い叔母の水瀬家に居候させてもらうことになり「雪の街」へ7年ぶりに帰ってくる。そこで幼馴染である水瀬名雪に再会するところから物語は始まっていく。

なぜか7年前の記憶を思い出せずにいる祐一は「雪の街」で出会う5人の少女達との交流を通じて、幼い頃の大切な記憶を取り戻していく。

⑶ 萌えと泣き

本作がまさにそうであるように「泣きゲー」と呼ばれる作品では多くの場合、前半部でヒロインとの他愛のない日常が綿密に描写される。そして後半部において苛烈な悲劇的展開へと突入することになる。

これはいわば「萌え」と「泣き」に支えられた文法である。前半でヒロインとの関係性を通じて、プレイヤーの中に「萌え」と呼ばれるキャラクターへの愛情が生じることになる。この「萌え」に紐付けられた関係性は後半で無残に引き裂かれ、ここで「泣き」と呼ばれる痛みが生じることになる。

そして、この「泣き」を経由する事で、かつての「萌え」がもはや取り戻せない何か崇高なものに昇華される。「泣きゲー」における感動性はこうした「萌え」と「泣き」のコントラストの中で生じるのである。

⑷ セカイ系の先駆け

また、本作は「泣きゲー」というジャンルの先駆けであると同時に「セカイ系」の萌芽ともなった作品である。なるほど、Kanonの少女達は皆それぞれがセカイ系ヒロインの特性を極めてバランスよく担っている。

主人公を全面的に庇護する幼馴染の少女(水瀬名雪)、主人公に依存する難病少女(美坂栞・沢渡真琴)、主人公の盾となる戦闘美少女(川澄舞)、そして主人公に奇跡をもたらす少女(月宮あゆ)。

つまり、Kanonという作品は「ヒロインによる母性的承認」によって「セカイからの承認」を仮構しているという点で正しくセカイ系の構造を内在させていると言える。


3 AIR

⑴ 動物の時代と美少女ゲーム

先述したようにLeafやKey(両者を合わせてしばし「葉鍵」という)が台頭した1990年代後半以後の美少女ゲームはもっぱらシナリオ分岐型の恋愛ADVが主流となる。この種の「泣きゲー」とも呼ばれる美少女ゲームにおいてプレイヤーは多くの場合、一方で、主人公のキャラクターに同一化してひとつの物語の中で一人の少女と「純愛」を遂げつつ、他方で複数のシナリオを攻略して複数のヒロインに「萌え」ることになる。

ここにキャラクターレベル(シナリオの水準)における反家父長的な「純愛」とプレイヤーレベル(システムの水準)における超家父長的な「萌え」の解離的共存を容易に見出すことができる。そしてこのような特性を持つ「美少女ゲーム」というジャンルのいわば「臨界点」を示した作品が本作「AIR」である。

⑵ 病みゆく少女と擬似母娘関係のドラマ

本作原作ゲームは三部構成となっています。まず第一部「DREAM」では「空のどこかにいる翼の生えた少女」を探して放浪を続ける法術使いの青年、国崎往人と海辺の田舎町で出会った少女達とのひと夏の交流譚が描かれる。

本作のメインヒロインである神尾観鈴は母親と死に別れ、叔母の神尾晴子の元に預けられている。観鈴は誰かと仲良くなれそうになると癇癪を起こしてしまう不安発作を抱えながらも、往人と出逢ったこの夏を特別なものにしようと健気に無理を重ねていく。やがて観鈴は原因不明の病で倒れてしまい、往人は観鈴をどうにか延命させるべく全ての法術の力を使い果たし消滅してしまう。

続く第二部「SUMMER」では、観鈴はまさに往人の探していた「最後の翼人」である神奈備命の転生体であり、観鈴の病の正体は神奈にかけられた「翼人の呪い」に由来していることが明らかになる。そして第一部をカラスの視点で反復する第三部「AIR」では、往人の消滅後に観鈴と晴子が織りなす擬似母娘関係のドラマが描き出されるのである。

⑶ 萌えの手前にある不能性

このAIRというゲームはプレイヤーを二重の意味で疎外する。まず第一部において国崎往人は観鈴を延命させる代償として物語からの退場を余儀なくされる。ここでプレイヤーはキャラクターレベルで物語から疎外されることになる(父の不在)。

さらに、第三部においては主人公は一羽のカラスでしかなく、観鈴が壊れていく様をなすすべもなく傍観するしかない。ここでプレイヤーはプレイヤーレベルにおいてAIRというゲームそれ自体からも疎外されることになる(プレイヤーの不在)。

こうしたAIRのレベルの異なる二重の疎外は美少女ゲームにおける「父=プレイヤー」の持つ「全能性」としての「萌え」の手前にある「不能性」を突き付けられる。こうしたことから東氏はAIRを、あるジャンルの可能性を極限まで引き出そうと試みるがゆえに逆にジャンルの条件や限界を図らずも顕在化させてしまう「臨界的=批評的な作品」と呼んでいる。


4 ひぐらしのなく頃に

⑴ 原作ゲームの特異性

本作の原作ゲームはかなり特異なスタイルを取っている。本作の原作ゲームは見かけ上は典型的な美少女ゲームのインターフェイスを踏襲している。ところが本作の原作ゲームでは、選択肢によるシナリオ分岐が発生しない。その代わりに昭和58年6月の雛見沢村という同一の場所と時間を舞台に異なる物語が何度も反復されることになる。そしてそのほとんどの結末が惨劇で終わるわけだが、これは典型的な美少女ゲームにおける数々のバッドエンドに相当する。すなわち本作は選択肢によるシナリオ分岐こそ生じないものの、その物語の中に美少女ゲームの構造を内在させているのである。

⑵ プレイヤーの隠喩としての羽生

本作中盤において、これまで繰り返されてきた物語は本作の真の主人公といえる少女、古手梨花の繰り返してきた平行世界だった事が判明する。そして本作終盤では梨花の随伴者であるオヤシロさま=羽入が物語へと介入することになる。

この羽入というキャラクターは原作ゲームにおけるプレイヤーの隠喩である。選択肢によるシナリオ分岐が生じない本作の原作ゲームにおいてプレイヤーは繰り返される惨劇をただ眺める事しかできない。すなわち、これまで梨花が繰り返してきた平行世界において生じる惨劇をただただ傍観する事しかできなかった羽入はプレイヤーのアバターとして機能する。

そして本作の最終章「祭囃し編」において、ついに羽入=プレイヤーはゲーム世界へと降り立ち、物語内のキャラクターだけでは解決不可能であった事態を見事に解決する。ここに本作のゲームとしてのカタルシスがある。

⑶ ゲームのような小説のようなゲーム

この点、東浩紀氏は本作を一方で「小説のようなゲーム」であり、かつ他方で「ゲームのような小説」でもあると評している。つまりこの作品は単純にゲームとしては大きく退化した上で再びゲームの要素を導入し直した「ゲームのような小説のようなゲーム」とでも呼ばれる作品であるといえる。

この点、そもそも美少女ゲームとはゲームを通じプレイヤーが擬似的に「父になる」という欲望を叶えるメディアである。こうした美少女ゲームにおける欲望をより純化したものが、東氏のいうところの「ゲーム的リアリズム」を駆動させる「世界をやり直す」という欲望である。そして、本作はこの「世界をやり直す」という欲望を真正面から無邪気なまでに肯定する。いわば、これが本作における「構造的主題」をなすのである。

こうした本作の「構造的主題」を現実逃避を夢想するイノセントな想像力として片付けることは容易いだろう。けれども本作が描き出すような一見して荒唐無稽な奇跡への祈りこそが、むしろこの現実を生きていくための処方箋として機能することもまた確かである。

奇跡への祈りは決して無駄ではない。たとえこの世界が救いなき世界であったとしても、次の世界はきっと素晴らしい世界なのかもしれない。そして、この世界で積み重ねた努力は、きっと次の世界につなぐ事ができるかもしれない。だから人は時としてこうした御伽噺に救われるのである。


5 化物語(西尾維新)

⑴「異端な」ライトノベル

本作は西尾維新氏の「〈物語〉シリーズ」における第一作目にあたり、ゼロ年代におけるライトノベルを代表する作品の一つに位置づけられている。

本作は当初「メディアミックス不可能な小説」を謳っていたが、実際にはその後「〈物語〉シリーズ」は、アニメ、ゲーム、映画、漫画、スマートフォンアプリといった様々なメディアミックス展開を経ることで幅広い支持を獲得し、その絶大な人気は今もなお変わることはない。

このような華々しいメディアミックス展開を経由した現在からみると忘れがちであるが、本作はそもそも「ライトノベル」としては異端の位置にあった。この点、世間一般でいう「いわゆるライトノベル」とは特定のライトノベル系レーベルから出版され、作中で萌え絵的なイラストレーションを多用する作品を指している。ところが本作は当時、どちらかといえば一般文芸レーベルと見做されていた講談社BOXから出版されており、何より「いわゆるライトノベル」における最大の特徴であるイラストも扉絵等を除きほとんど使用されていない。

こうした点からいえば本作は「いわゆるライトノベル」から外れた作品になるはずである。したがって本作が「ライトノベル」と呼ばれる理由をメディアミックス展開以前に求めるとすれば、それはまさしく本作の持つ「文体」にあるといえるのではないか。なお実際に作者の西尾氏にとって本作の執筆は「活字だけでライトノベルは実現できるのか」という実験的意味合いもあったようだ。

⑵ ライトノベルの成立条件

この点、東氏によればライトノベルの本質は「キャラクター小説」であり、その制作においては「いかに魅力的な物語を生み出すか」という課題と同じくらいに「いかに魅力的なキャラクターを生み出すか」が重要な課題となる。ここでいう「キャラクター」とは仮想的なデータベースを参照して構成される人物類型であり、東氏の定義で言えば「様々な物語や状況の中で外面化する潜在的な行動様式の束」をいう。

この点「いわゆるライトノベル」では登場人物をキャラクター化するにあたってはイラストによる助けを多いに借りる事になるわけだが、本作はイラストをほとんど用いない代わりに莫大な量の「会話劇」を投入する事で登場人物をキャラクター化していくのである。

ここではライトノベル特有の文体である「半透明」な言葉が極めて濃厚に充溢している。すなわち本作のキャラクターはイラスト以前に言語によって成立しているのである。こうした意味で本作はライトノベルの成立条件が極めて純度の高い形で現れている作品といえる。

⑶ 美少女ゲーム批評としての「化物語」

本作のあらすじは基本的には、主人公の阿良ヶ木暦が5人の少女たちとの交流の中で超自然的存在である「怪異」と関わり、彼女たちの抱えるトラブルを解決していくというものである。

このあらすじだけでわかるように、本作ではいわゆる「美少女ゲーム」の構造が導入されている。実際、作中で阿良ヶ木は美少女ゲームを念頭においた台詞を発している。もちろん実際の美少女ゲームはヒロイン全員が各ルートにおいて攻略可能なマルチエンドシステムとなっているが、小説である本作は当然ながらひとつの結末しかあり得ない。

そこで本作を「美少女ゲーム」という構造から読解した時、阿良ヶ木=プレイヤーには特定のヒロインとのルート以外のいわば幽霊的なルートが常に取り憑いているのである。こうした幽霊的なルートについては作中において幾度となく言及が繰り返されている。そして物語の後半において阿良ヶ木はこの切り捨てられた未来に対してどう責任を取るのかという問題を背負わされることになるのである。

すなわち、本作は自然主義的読解のレベルにおいては「ある少女を救った物語」ということになるが、環境分析的読解のレベルにおいては「ある少女を救わなかった物語」といえる。こうしたことから本作は物語的には極めて美少女ゲーム的な作品でありながらも構造的にはある種の美少女ゲーム批評として読める作品でもある。そしてその主題の二重性からは誰かを助けるという事は誰かを助けない事であるというゼロ年代中盤以降のポスト・セカイ系的な思潮との共鳴を聴くこともできるのである。





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