セカイと日常⑵ 作品論


1 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

⑴「劇場版エヴァ」という劇薬

戦後50年目にあたる1995年という年は戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であった。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は、平成不況の長期化により戦後日本を支えた経済成長神話の崩壊が決定的となり、社会的自己実現への信頼低下による若年層の実存的不安が前景化した年でもあった。

この1995年以降、日本社会ではいわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況が急速に進行することになった。もはや社会共通の価値観である「大きな物語」の支えがない以上、人はそれぞれ何らかの「小さな物語」に回帰して自らの生を基礎付けていくしかないということである。そして、こうした時代の転換点に見事なまでのシンクロを果たした作品が「新世紀エヴァンゲリオン」であった。

エヴァTV版最終話における「おめでとう」という「承認」は「大きな物語」なきところで生じる実存的不安に対してひとまずの処方箋として機能した。エヴァになんて乗らなくてもいい。僕はここにいてもいい--社会的自己実現なんてどうでもいい。引きこもって何もしなくても、いつかきっと奇跡が起きて天使が舞い降りるから--当時、あのラストにこうした祝福を見出した人も少なくなかったと思う。

しかし、これはもちろん空虚な現実逃避でしかない。これは極めてあたり前の話であるが、現実において人は何もしないわけにはいかず、何かしらの形で他者と関わって生きていかなければならない。

この点「エヴァTV版」に対する鋭いカウンターとなったのが97年に公開された「エヴァ劇場版」である。この劇場版においてもシンジは相も変わらず心を閉ざし他者の恐怖を語り続けるが、その土壇場において「人類補完計画」による単一の完全生命体への進化ではなく、バラバラの群体に留まることを選択した。そしてシンジはアスカに「キモチワルイ」と拒絶され、あの有名な「終劇」を迎える事になる。

⑵ セカイ系--アスカにキモチワルイと言われないエヴァ

エヴァ劇場版が示した倫理とは、よく言われるように「現実へ帰れ」という一言に極まる。これは確かにメッセージとしては疑いなく正しいのかもしれない。引きこもって何もしない人生には奇跡は起きないし天使も舞い降りない。結局のところ何はともあれどんな形であれ、人はこの正解のない現実を何かしらの試行錯誤をしながら生きていくしかないのである。

けれどもエヴァ劇場版は「おめでとう」の祝福に縋る「エヴァの子供達」に拒絶されることになった。こうして90年代末からゼロ年代初頭においてはTV版的想像力を色濃く引き継ぐ「セカイ系」と呼ばれる作品群が一世を風靡することになる。別言すれば「セカイ系」とは「アスカにキモチワルイと言われないエヴァ」なのである。

TV版と劇場版。この二つのエヴァの物語で提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」であった。ここで提示された両極端な「他者」の中に「物語の中で他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」を見出すことができるだろう。そして、この「エヴァの命題」こそがある意味で現代サブカルチャーの想像力を今日に至るまで規定してきたともいえるのである。


2 空の境界(奈須きのこ)

⑴ 二つの人格を持つ少女--式と織

物語の始まりは1995年3月--そう、まさにあの1995年--本作の主人公、黒桐幹也は街で一人の少女に心を奪われる。少女の名は「両儀式」。そして2人は翌月、高校の入学式で再会することになる。やたら人懐っこい幹也に極度の人間嫌いの式は困惑していたが、そんなある日、式のもう一つの人格である「織」が幹也の前に現れた。

式はもともと「式」と「織」という男女のふたつの人格を持っていた(原作では解離性同一性障害と説明されている)。式は「陰」と「肯定」を担当し、織は「陽」と「否定」を担当していた。これは「退魔四家」の1つに数え上げられる両儀家に代々伝わる遺伝であり、正統な後継者の条件でもあった。いわば式は両儀の家に囚われていたのであった。

その後、幹也への想いを持て余してしまった式は自ら道路に飛び出して事故に遭い、その際に式の身代わりとなって「織」が消滅してしまう。そして2年もの昏睡状態から目覚めた式は織を失ったことでそれまでのアイデンティティが切断され「生の実感」を失ってしまう一方で「死の線」が見える特殊能力「直視の魔眼」が発現する。魔術師、蒼崎橙子と邂逅した式は、自ら織の人格を補完し、生の拠り所を求めて異能者との闘争に身を投じていく。

⑵ 影の主人公--荒耶宗蓮

同作は「第一章俯瞰風景」から「第四章伽藍の洞」まで過去と現在の物語が相互に描かれていき「第五章矛盾螺旋」において一つの山場を迎える。本章では同作の黒幕であり、いわば影の主人公ともいえる荒耶宗蓮の「根源」への渇望と挫折が描かれる。

「根源」とはTYPE-MOON作品における「魔術師」が目指す最終到達地点であり、万物の始まりから終わりまでの全てが存在する境域をいう。Fate/stay nightにおける聖杯戦争の起源もこの「根源」に至るための儀式である。

かつて台密の僧であった荒耶は誰も救えない自身の無力さに絶望し「根源」への到達を渇望した。荒耶は「根源」への到達を妨害する世界からの「抑止力」の発動を回避するため、元々「根源」へ繋がる式を求め、式を「根源」へ近づけるために3人の駒を用意する。そして小川マンションでのコルネリウス・アルバとの共同実験に式が関わったことを奇貨とした荒耶は当初の予定を繰り上げて、小川マンションに式を取り込んで、いよいよ「根源」へ至る準備に取り掛かりますがその野望は結局、式に阻まれてしまう。

いわば荒耶は「小川マンション」という「太極」の中に「両儀式」という「太極」を取り込むも、自らの実験が生み出した臙条巴というトリックスターの働きにより、結局その自我は「集合的無意識=阿頼耶識」という「太極」へと呑み込まれていくのであった。まさに矛盾するこの世界の螺旋の中で荒耶の物語はその円環を閉じることになる。

⑶ 三者三様のアイデンティティ不安--霧絵・藤乃・里緒

ところで、荒耶が用意した3人の駒はそれぞれ三者三様の実存的不安を抱えていた。

その1人目。「第一章俯瞰風景」に登場する巫条霧絵はかつては両儀家と同じく退魔四家の一角であった巫淨家の最後の一人である。難病を抱え余命幾ばくもなく、外の世界を憎悪しつつも空への憧憬を抱く霧絵は荒耶の力を借り、視力を代償に霊体を得て廃ビル「巫条ビル」を霊体で目的もなく浮遊し、その結果、集まってきた他の浮遊者を巻き込み連続飛び降り自殺事件を引き起こす。霧絵は自身と同じ病院に入院していた式を頻繁に見舞いに来ていた幹也に仄かな好意を持っていたが「巫条ビル」に調査にやってきた幹也の魂を奪ったことで、彼を取り戻しに来た式に霊体を殺されることになる。そしてその後、霧絵自身も無関係の人を自殺させた罪悪感と一度経験した死を再び経験するため、巫条ビルから身を投げることになった。

その2人目。「第三章痛覚残留」に登場する浅上藤乃はやはり退魔四家の一角である浅神家の末裔であり「歪曲の魔眼」の持ち主である。藤乃は式とは別の意味で世界に棲まえていない。彼女は「無痛症」という異常を得ることでしか世界に存在することを許されていなかった。「痛い」という痛覚が欠如した藤乃は「いたい」という「生の実感」を持つ事ができなかったのである。そんな藤乃の支えとなっていたのが、かつての幹也との取るに足らないような思い出であった。ゆえに幹也と再会した時、藤乃は思わず発した「はい、とても--とても痛いです、私泣いてしまいそうで--泣いて、いいですか?」という言葉は彼女の「いたい」という「生の実感」の叫びでもあった。なお、藤乃は後の「Fate/stay night」における第三のヒロイン(ある意味では真のヒロイン)である間桐桜の原形ともなるキャラでもある。

その3人目。「第七章殺人考察(後)」に登場する白純里緒は荒耶が本作の「表のラスボス」だとすれば「裏のラスボス」といえる(もっとも荒耶の駒としては失敗作)。高校時代、大人しく目立たない生徒だった白純は式に告白するも「弱い人は嫌いです」という一言で振られたことで「強い自分」になるべく、その辺の不良に喧嘩をふっかけた挙句に意図せず相手を殺害してしまい、その死体を「食べる」ことで処理しようとしていたところを荒耶に声をかけられ「食べる」という起源に覚醒してしまう。以後、白純は式へと同一化して、式へ自身の存在を誇示すべく「殺人鬼」となり、式をギリギリまで追い詰めるが、最後は式にボロ雑巾のように始末されることになる。

⑷「特別」に対する「普通」--黒桐幹也

霧絵、藤乃、里緒。この3人はある意味において、1995年に地下鉄サリン事件という形で顕在化した若年層の実存的不安を体現する存在でもある。そして、彼らは荒耶宗蓮という名のカルト思想に救いを求めた結果、連続自殺や連続殺人を引き起こすテロリストになってしまうのであった。

彼らの実存的不安の根底には「特別」への憧憬がある。そして同作は「特別」の側ではなく「普通」の側に賭け金を置く。こうした「普通」を体現する存在が同作の主人公、黒桐幹也である。

「第六章忘却録音」では幹也が「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」という変わった起源を持っていることが明らかになる。彼は誰にでも差別なく普遍的に接する一方で誰かに対して「特別」な感情を持つことができない。こうした幹也の抱える「誰とでも解りあえるかわりに得た、誰にも気付いてもらえない空っぽの孤独」に禁断の恋心を抱いたのが幹也の実妹であり「禁忌」を起源とする少女、黒桐鮮花であった。また幹也は霧絵、藤乃、里緒といった「特別」を憧憬する人間たちからも羨望され、あるいは執着されることになる。ここには徹底的に「普通」である事こそが「特別」となる逆説を見る事ができるように思える。

⑸「95年の思想」から考える

思うに本作が幹也に与えた「普通」という起源は「ゼロ想」において宇野氏が「95年の思想」と呼んだアプローチに極めて近いものがある。「終わりなき日常を生きろ(宮台真司)」「新世紀エヴァンゲリオン劇場版」「脱正義論(小林よしのり)」に代表される「95年の思想」に共通する問題意識とは、90年代の「引きこもり/心理主義」をカルト思想に陥ることなく、いかに克服するかというものであった。そして「95年の思想」の提示する成熟モデルは特定の「小さな物語」に依存せず価値観の宙吊りに耐える強固な個の確立というある種の物語批判的な、あるいはニーチェ主義的な傾向を持っていた。

けれども「95年の思想」はその後加速する「引きこもり/心理主義から開き直り/決断主義へ」という物語回帰の欲望の前に夭折してしまった、と宇野氏はいう。人は「小さな物語」から自由ではあり得ない。例え「物語」を「何も選択しない」という立場を選択してもそれは「『何も選択しない』という物語の選択」でしかない。そうである以上、問題は「物語」からの自由などという不可能な外部の仮構ではなく「物語」の不可避を受け入れた上で「物語」への「自由で慎重なアプローチ」の成立条件の検討にあったということである。

こうした意味から言えば「カルト思想(=荒耶宗蓮)」に依存しない個の確立を問う同作から「決断主義(=聖杯戦争)」の解除条件を問う「Fate/stay night」への転回とは、まさしく「95年の思想(=物語批判)」から「ゼロ年代の想像力(=物語回帰)」への転回という文脈の上で理解することができるように思えるのである。


2 最終兵器彼女(高橋しん)

⑴ 最終兵器降臨

北海道の高校に通うシュウジとちせは、ほんのちょっとした偶然からカップルになってしまう。いつもおどおどしているちせについ、強い言葉を投げてしまうシュウジ。お互い付き合うといっても何をしていいのかわからず、無理にカップルらしいことをしようとしてぎくしゃくしてしまう。こうして早々に別れ話が持ち上がる中で、シュウジとちせはお互い本音を吐露し、改めて彼氏彼女として「好きになっていこう」と歩み寄る。そんな初々しく、ぎこちない恋愛描写からこの小さな物語は始まっていく。

しかしその矢先、札幌に現れた謎の爆撃機の大編隊が都市部を無差別に空爆。10万人以上の死者、行方不明者が発生する。その最中でシュウジは戦場で身体から金属の翼と機関砲を生やして「敵」と戦うちせと遭遇する。

果たしてちせの正体は自衛隊により改造された「最終兵器」であった。

⑵ セカイ系の母

同作最大の特徴は登場人物が吐露する極めて繊細な心理描写にある。同作では時にページを埋め尽くすほどの濃密なモノローグが展開され、そこでは「生きていく」「恋していく」という人の生の営みの根源が繰り返し問われている。しかし、その一方で本作の「戦争」の目的や「敵」の正体などについては一切説明がなく、また、ちせの最終兵器としての技術的メカニズムもほとんど不明なままである。要するに「世界観設定」の構築が完全に放棄されているのも本作の特徴である。

激しい自意識語り、少女と世界の直結、世界観設定の排除。こうした点で言えば、本作はセカイ系という概念に極めて忠実な作品と言える。そもそも「最終兵器(現実界)」と「彼女(想像界)」を並置させたそのタイトルがすでにセカイ系の本質を正面から名指している。

もっとも「セカイ系」という言葉が一般化したのは2002年以降であり、本作が連載されていたのはそれ以前の2000年から2001年の間であることから、本作はセカイ系を代表する作品というより、むしろセカイ系という概念を産み出した作品の一つと呼ぶ方が正確なのかもしれない。

⑶ シュウジとちせの「サヴァイヴ感」

けれども同時に、本作は上記のような「洗練」されたセカイ系の概念では決して捉え切れない、ある種の「過剰さ」をも抱え込んでいる。

例えば同作の後半、シュウジとちせは故郷を離れて、海の見える街で暮らし始める。そこでちせはラーメン屋、シュウジは漁協で大人達に混じって泥まみれになって働き、日々の生計を立てていく姿が仔細に描き出される。「戦争」という非日常が二人の日常を侵食していき、徐々にちせが人格崩壊を起こしていく中で、二人は最後の最期のぎりぎりまで日常の側に留まりに「戦争」という非日常に抗おうとしていた。こうした過酷な現実と格闘する二人の姿は「セカイ系=引きこもり」というイメージからは最も遠い姿であるといえるのではないか。

ここにはまさに「引きこもっていたら殺される」という「サヴァイヴ感」が全面的に打ち出されている。そういった意味で同作は「世界の果て=外部」を仮構する想像力に依拠しつつも、その一方でいわば「世界の片隅=内部」で格闘する想像力をも胚胎させていたといえる。

⑷「その後」を描いた物語

そして本編の連載終了から5年後に公刊された短編集「世界の果てには君と二人で」では、まさにこの「世界の片隅=内部」で格闘する想像力をもって「世界の果て=外部」を仮構する想像力に抗っていく光跡を見出す事ができる。

まず本編の連載終盤に執筆された一つ目の短編「世界の果てには君と二人で。あの光が消えるまでに願いを。せめて僕らが生き延びるために。この星で。」では、ちせが戦場に飛んで行く瞬間を偶然一緒に見た中学生の男子と女子の小さな物語が描かれる。その不自然なまでに長大なタイトルが示すようにセカイ系的自意識に極めて自覚的な同作では、そのバカバカしさを承知の上で「世界の果て=外部」をあえて仮構することで「世界の片隅=内部」を生き抜いていく想像力が打ち出されている。

次に本編の連載が終了した翌年に執筆された二つ目の短編「LOVE STORY ,KILLED.」では、とある兵士と女子高生の交流とその末路が兵士の「お守り」である「銃弾」の視点から語られる。ここでは「世界の果て=外部」なき「世界の片隅=内部」における端的で無惨な現実が描き出されている。

そしてこの短編集が公刊された年に執筆された三つ目の短編「スター★チャイルド」はなんと本編の「その後」を描いた物語である。

⑸「セカイ」から「せかい」へ

世界が滅びた後、生き残った僅かな人類は争いを亡くし武器を棄て、かつての最終兵器であったちせを破壊の神と畏れ奉り、地底の「セカイ」で細々と暮らしていた。そして、この星の中で子ども達は神の名をもつ御子「ちーちゃん」、鬼っ子と呼ばれて蔑まれた「あーちゃん」、唯一の男の子で御子の許嫁の「マーちゃん」の3人しかいない。

ある日「ちーちゃん」が死に、やむなく最後の御子として「あーちゃん」が選ばれる。御子に選ばれる事は死を意味することを直感した彼女は偶然起こった地震に乗じて地底の「セカイ」から逃走し、神の偶像である一振りの剣を片手に追いかけてくる大人達を皆殺しにする。

こうして、この星に存在する人間は「あーちゃん」と「マーちゃん」の二人きりとなった。そして光の射す大地の割れ目を通じて二人が地底の「セカイ」から外の「せかい」に出たその時に「あーちゃん」は神の御名「チセ」を名乗り、再びこの星に「人」が生まれることになるのである。

この短編では「セカイ」と「せかい」という言葉が明確に書き分けられている。すなわち、ここには「世界の果て=外部」を仮構する「セカイ」を内破して「世界の片隅=内部」しかない「せかい」の歴史をゼロから紡ぎ始めるという想像力を見出すことができる。そういった意味でこの短い後日譚は最終兵器彼女という作品自体にある種の救いをもたらすと同時に、同作を規定し続けてきた「セカイ系」という呪縛を自ら乗り越えようとした作品であるように思えるのである。


4 イリヤの空、UFOの夏(秋山瑞人)

⑴  自覚的なセカイ系

本作は第二次世界大戦終了直後に史実から分岐した世界が舞台となっており、冷戦集結後も日米は「北」と呼称される国家との敵対関係が続いている。「北」の脅威に備え、航空自衛軍とアメリカ合衆国空軍が常駐する園原空軍基地の近辺ではUFOの目撃談が後を絶たなかった。

園原中学校二年生、浅羽直之は非公式のゲリラ新聞部に所属し、部長である水前寺邦博と共に夏休みの間、山にこもってUFOを探す日々を送っていた。しかし夏休み全てを費やしても何の成果も得られなかった。夏休み最後の夜、学校のプールへと忍び込んだ浅羽は伊里野加奈と名乗る謎めいた少女と遭遇する。そして翌日の始業式の日、伊里野は転校生として浅羽のクラスに編入してくる。こうしてあの夏の終わりが始まった。

物語が進むにつれ、やがてイリヤが軍の秘密兵器のパイロットであり、世界の命運を賭けた戦争に動員されていることが明らかになる。そのためイリヤの身体はどんどん弱っていく。見かねた浅羽は、イリヤを連れて逃走。こうして浅羽は世界かイリヤかの二択を迫られる。

⑵  セカイ系批評としてのイリヤ

この点、「イリヤの空」は「最終兵器彼女」や「ほしのこえ」と共に「三大セカイ系作品」として位置付けられてはいる。けれども前二者が結果的にセカイ系と呼ばれたのに対して、本作はセカイ系構造自体に相当に自覚的であり、むしろ「セカイ系批評」という側面すら併せ持っている。

本作はクライマックスまでは、まさに見事なまでのセカイ系展開となっている。果たしてイリヤの正体は地球侵略を目論むUFOに唯一対抗できる超音速戦闘機ブラックマンタの最後のパイロットであった。しかし浅羽へ恋心を抱いたイリヤの中には、初めて「死にたくない」という感情が芽生えていた。こうして少年少女と世界の命運は直結し「世界か少女か」の二択が示される。

ここで浅羽は世界ではなくイリヤを選ぶ。そしてイリヤはそんな浅羽を守るためブラックマンタでUFOへ特攻をかける。こうして世界は救われイリヤは最期を迎えるのであった。

しかし話はここで終わらない。本作は最後の最後にて大きなどんでん返しを用意していた。それまで描き出してきた浅羽とイリヤの関係性自体が「子犬作戦」なる組織的陰謀であり、結局「浅羽とイリヤの小さな物語=想像的関係と現実的極限の直結」は「大人たち=象徴的秩序」によって仕組まれた出来レースにすぎなかったという事実が明らかになるのである。

⑶  セカイ系におけるアイロニズム

本作はセカイ系構造を十分に意識して物語を設計しているため、セカイ系の特徴がきれいに描き出されていると言える。この点、セカイ系作品には「社会」が欠如しており、故に「社会」と向き合う事から逃げる幼稚な想像力だと批判される。しかし、こうした批判とセカイ系作品はむしろ共依存関係にある。

セカイ系作品群においては何かしらの形で「社会」の欠如が言及されており、ここから「ああ全く同感だ、極めてバカバカしい。だがしかし、そのバカバカしさの中にこそ価値がある」というアイロニズムが生み出される。こうなると先のような批判はむしろ作品に倫理的強度を与える作用を引き起こしてしまうことになる。

本作がセカイ系に批判的視点を持った小説であるにもかかわらず、むしろ典型的セカイ系として位置付けられる理由がまさにここにある。すなわち、セカイ系というジャンルは作者の自覚、無自覚にかかわらず「社会」が欠如しているという批判をすでに織り込み済みのものとして成立しているということである。

5 Fate/stay night

⑴  正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ

2004年にTYPE-MOONより発売された「Fate/stay night」は発売以来、漫画・小説・アニメ・映画・スマホゲームなど多彩なメディアミックス展開によって、その度に幅広い支持層を開拓してきたゼロ年代を代表するPCゲームの一つである。

とある地方都市「冬木市」に数十年に一度現れるという万能の願望機「聖杯」。聖杯を求める7人のマスターはサーヴァントと契約し、聖杯を巡る抗争「聖杯戦争」に臨む。聖杯を手にできるのはただ一組。ゆえに彼らは最後の一組となるまで互いに殺し合う。

10年前の第四次聖杯戦争によって引き起こされた冬木大災害唯一の生き残りである衛宮士郎は、自分を救い出してくれた衛宮切嗣への憧憬からいつか切嗣のような「正義の味方」となり、誰もが幸せな世界を作るという理想を追いかけていた。

そんなある日、士郎は偶然にサーヴァント同士の対決を目撃してしまったことから聖杯戦争に巻き込まれてしまう。士郎が呼び出したサーヴァントは「セイバー」と呼ばれる見目麗しい少女であった。

聖杯戦争の説明を受けるため、遠坂凛に連れられて監督役である言峰綺礼の教会を訪れる士郎。長々とした説明の後、最後に神父はこう告げる。

喜べ少年、君の願いはようやく叶う」「正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだ。


この言峰の台詞はまさに決断主義の本質を端的に言い表している。そしてこうした本作が持つ決断主義的傾向が最も先鋭に現れるのがいわゆる「桜ルート」である。

⑵ Fate/stay nightの裏街道

本作は選択肢次第で展開が変わるビジュアルノベルゲームであり、ルートはメインヒロイン毎に大きく3つに分岐する。すなわち、第1のセイバールート(Fate)、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)、そして第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)である。

第1のセイバールート(Fate)は早くも2006年にTVアニメ化され、第2の遠坂凛ルート(Unlimited Blade Works)も2010年に映画化、さらに2014〜2015年にTVアニメ化された。

こうした中、最後まで残されていたのが第3の間桐桜ルート(Heaven's feel)であった。

桜ルートはまさしくFate/stay nightの裏街道である。今までのルートで華々しい活躍を見せたキャラがあっけないくらいに早々と退場していき、聖杯戦争という舞台設定そのものが軋みはじめる。やがて非日常と日常は反転し、重苦しい展開がプレイヤーの精神を容赦なく抉りに来る。

こうした事情もあり桜ルートの映像化は相当な困難が予想されていたが、ついに満を持して2017年秋より劇場三部作としての公開が開始された。

⑶「不人気ヒロイン」から銀幕の大女優へ

まず第一章(I.presage flower)の最大の特徴は、世界観設定の説明や序盤の部分をばっさり省略し、その代わりに原作にはない士郎と桜の馴れ初めを描く前日譚が追加されるという大胆な構成を採用した点にある。

おそらく初見の方はあらかじめ何らかの形でFate/stay nightの世界観を予習しておかないと何が何だかサッパリわからないはずである。そして、こうしたリスクを取ってまで生み出した余剰リソースほとんど全てが、原作ゲームにおいて長らく「不人気ヒロイン」の不遇を託っていた間桐桜という業の深い少女を文字通りの銀幕の大女優へ押し上げるという、ただその一点に投入される事になった。

そういうわけで第一章は劇場映画の設計としては完全に狂っていると言うしかないが、映画全体を駆動させる莫大なその熱量はまさにこの「狂い」によって生み出されているのである。

⑷ 暗転する日常

桜ルートが示すのはまさに「正義とは何か」という問いに他ならない。セイバールートで提示された大文字の正義は凛ルートで問いに付され、桜ルートにおいてまさに脱構築されることになる。こう言ってよければ、セイバールートも凛ルートも、この桜ルートに向けた壮大な助走に過ぎなかったようにさえ思えるのである。

桜はこれまでのルートにおいて「穏やかな日常の象徴」として描かれてきたが、実はその体内には聖杯(小聖杯)の器としての機能を宿しており、桜ルートではこの機能が覚醒し、桜は聖杯の器として、大聖杯の中に潜む反英雄アンリマユとリンクしてしまう。

このまま桜を放置すれば「この世全ての悪」と呼ばれる災厄が顕現することになる。こうして第二章(II.lost butterfly)の終盤において、黒幕である間桐臓硯は士郎に桜の正体を明かしこう告げる。

万人のために悪を討つ。お主が衛宮切嗣を継ぐのなら、間桐桜こそお主の敵だ。


⑸ 正義の味方と正義の在り処

正義の味方には倒すべき悪が必要である。誰かを助けるという事は誰かを助けないという事である。こうした「正義の現実」が容赦なく士郎に襲いかかる。こうして士郎には「正義の味方か、桜の味方か」というという究極的な二択が突き付けられることになる。

本作の劇場版が繊細な手つきで描写するように、桜を前に包丁を手にする士郎の脳裏に浮かぶのはこれまでの思い出達である。士郎は改めて自らの幸福の在り処は、桜と過ごした何でもない日常にあったことを思い知らされる。

ここで第一章冒頭に置いた前日譚がじわじわと効いてくる。あのエピソードを通じて観客である我々は、士郎にとって桜との絆が何者にも代え難いものであることを単なる「設定」ではなく「体験」として知ってしまっている。

我々はここでの士郎の決断に「変節」とか「挫折」などとという言葉で軽々しく非難できない重さがある事を痛いほど理解できるし、むしろその決断の尊さに心からの共感を寄せる事さえもできるであろう。

こうして「(これまでの理想を)裏切るのか」という内なる問いに対して、さばさばした口調で「ああ、裏切るとも」と笑みさえ浮かべて答える士郎の姿に我々は借り物でも偽善でもない、まさしく決断主義者の正義をはっきりと見て取ることができるのである。

⑹ 贖罪と幸福の脱構築

もっとも、こうした士郎が見出した「正義の在り処」が直ちに桜への免罪符となるわけではない。こうした意味で第三章(III.spring song)では桜の「罪と罰」が問われる事になった。

周知の通り、原作ゲームにおける桜ルートにはトゥルーエンドとノーマルエンドいう二つの結末が用意されている。この点、桜の「罪と罰」を問うという事であれば、よくある意見のように、桜が静謐な生を慎ましやかに送りながら年老いていくノーマルエンドこそが真の終幕に相応しく、一応の大円団を迎えるトゥルーエンドは安易な予定調和のようにも思えます。こうした事から、劇場版がどちらの結末に依拠するかが注目されていた。

けれども劇場版は原作をただ単純に反復するような事はしなかった。むしろ原作が示した二つの結末--贖罪と幸福--は劇場版において脱構築される事になった。

そもそも桜はセイバーや凛と決定的に違う。セイバーはブリテンの騎士王として、凛は名家遠坂の魔術師として、それぞれ自身のアイデンティティを記述してる。たとえ士郎がいようがいまいがこの二人のアイデンティティは揺るがないだろう。

けれども桜には士郎以外には何もない。幼い頃から虐待を受け続けてきた桜にとって世界とは悪意に満ちたものであり、かろうじて手に入れた「衛宮家の日常」というリトルネロさえも、世界はよってたかって彼女から取り上げようとする。これはメンタルを拗らせない方がどうかしている。いわば、桜の「罪」とはこれまでの「罪なき罰」の結果でもある。

それでも罪は罪なのか?もし仮にそれを「正義」と呼ぶのであれば、もはやそれは週替わりのアンリマユを探し出して来ては安全圏から石を投げつける現代ネット社会の「正義」と何も変わらない。「罪と罰」の十字架を背負った以上、人は幸せになってはいけないのか?多分、こうしたアポリアに対する見事な回答が今回の劇場版であったように思えるのである。そして、そこには原作に対する敬意と桜に対する愛情を確かに感じ取れた。こうした意味で本作の結末もまた、決定不可能性を引き受けた決定としてのひとつの「正義の在り処」なんだと思えるのである。


6 CLANNAD

⑴  美少女ゲームの新境地

本作の原作ゲームは「Kanon」「AIR」に続くKeyの3作目として、2004年に全年齢対象版として発売された。本作は、かつてアダルトゲームの「売り」であったはずの性的描写を完全に排除した形で世に問われたにも関わらず、前2作に劣らない高い評価を獲得し「CLANNADは人生」という名言も生み出した。

⑵  桜咲く坂道から

主人公の岡崎朋也は、バスケの特待生として高校に入学したが、父親との喧嘩で右肩を負傷して選手生命を絶たれ、部活動を辞め今は遅刻やサボりを繰り返す不良となっていた。

ある日、朋也は学園前の桜並木の坂道で同じ高校に通う女子生徒、古河渚と出会う。幼少時より病弱な渚は病気による長期欠席のため高校3年を再度繰り返し、今のクラスでは孤立していた。

渚は演劇部の復活を目指しており、朋也は成り行きから、友人の春原陽平や、藤林杏、一ノ瀬ことみをはじめとしたヒロイン達と共に演劇部の再建に協力することになる。

⑶  「父」になるということ

夢に挫折し現実から逃げ回っていた主人公がヒロインの母性的承認のもとで再び人生に向き合っていくという本作の構図はセカイ系的想像力をある部分では色濃く引き継いでいる。

もっとも、多くのセカイ系作品が「無力な少年」の位置に留まり「自己反省」する事に終始していたのに対して、本作の特徴は「無力な少年」が、その位置を脱して曲がりなりにも「父」の位置を引き受ける所までを描き切った点にある。「CLANNADは人生」と言われる所以はおそらくこの点にあると思われる。

⑷ 性愛的なものから友愛的なものへ

そして本作のもう一つの特徴は主人公とヒロインの性愛的関係性のみならず、ヒロイン相互の友愛的関係性にも光を当てている点にある。こうした想像力の中には、ゼロ年代後半に花開いた「日常系」の萌芽を見る事もできるであろう。

性愛的なものから友愛的なものへ。こうして見ると本作は「セカイ系」という「母」から「無力な少年」が曲がりなりにも「父」として自立を果たし、さらに「日常系」という「娘」へと、その想像力のバトンを渡すというその役割を、ある意味で正しく全うしたとも言える。


7 涼宮ハルヒの憂鬱(谷川流)

⑴  ただの人間には興味ありません

東中出身、涼宮ハルヒ。ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上。


本作のヒロイン、涼宮ハルヒは高校入学早々の突飛な自己紹介を始めとして、その奇矯な性格と言動のせいでクラスの中で孤立していた。そんなハルヒに本作の主人公、キョンは好奇心でつい話しかけてしまう。

校内に自分が望む部活がないことに不満を抱いたハルヒはキョンの言動をきっかけに自分で新しい部活を作ることを思いつき、たまたま奇縁を得た長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹を巻き込んで「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと」を目的とした新クラブ「SOS団」を発足させる。

ところがキョン以外の3人は、それぞれ本当の宇宙人(長門)、未来人(朝比奈)、超能力者(古泉)であった。こうしてSOS団の「非日常」と「日常」が交差する日々が始まった。

⑵  洗練されたセカイ系 本作のヒロインのハルヒは極めてセカイ系的な思考の持ち主であり、なおかつ実際に世界を改変できる力を持っているという二重の意味でのセカイ系ヒロインである。

そしてそのハルヒに慕われるキョンという二者関係という構図はある意味で、極めて洗練されたセカイ系的な回路を持っているといえる。

⑶ セカイ的回路を内破する想像力

しかし本作は同時にこうしたセカイ的回路を内破する想像力をも持ち合わせている。当初は荒唐無稽な「セカイ=非日常」を希求し平凡な「日常」を唾棄していたハルヒは、市内散策、野球大会、夏季合宿、学園祭などのごく当たり前の高校生らしい青春イベントを通じて、周囲との交流の中で徐々に日常の中にある瑞やかさに気づいていく。

求めるものは「セカイ」ではなく「日常」の中にある--こうしたハルヒの世界に対する過剰防衛的な態度が徐々に緩和されていく過程はゼロ年代的想像力の変遷を見事に体現していると言えるだろう。

ハルヒという作品がもたらしたのは「生きる意味」とは「ここではない、どこか」という彼岸ではなく「いま、ここ」の此岸の中にこそあるという価値観の転換であった。

そして、このハルヒが示したポスト・セカイ系というべき想像力を引き継ぐ作品群がゼロ年代中盤以降、一躍脚光を浴びる事になる。これがいわゆる「日常系」と呼ばれる作品群である。


8 ひだまりスケッチ(蒼樹うめ)

⑴ 交歓の中で芽生える可能性に対する信頼

本作の主人公、ゆのは憧れのやまぶき高校美術科に合格後、学校の前にある学生アパート「ひだまり荘」に入居する。

ゆのは自分の夢が見つからない事に対して密かなコンプレックスを抱えている。けれど同じひだまり荘に住む同級生の宮子、上級生の沙英やヒロ、下級生の乃莉やなずな、そして茉里たちとの賑やかしい日々を過ごして行く中で、ゆっくりと、しかし着実に自分の在り方を見出していく。

ひだまり荘の面々は同じ高校に通うというゆるい括り以外、生まれ育ったバックボーンも違えば、それぞれが描く未来図も違う。

こうした異なる物語を生きる者同士の交歓の中で芽生える可能性に対する信頼こそが、本作を支えている思想であり、これは一種のフォーマットとして後に続く日常系作品に大きな影響を与えているのである。

⑵「ひとまずの気づき」としての「ひだまり」

ゆのは「自分の夢」を見つけ出せない事から、しばしば周りに抽象的な問いを投げかけます。これはいわばポストモダン的な「自意識の問い」の変奏に他ならない。

こうした「自意識の問い」に対して「人類補完計画」とか「優しいセカイ」などという「決定的な答え」を与えたのがかつてのエヴァやセカイ系であった。

これに対して、ひだまり荘の面々を始めとした本作のキャラ達は、ゆのに「決定的な答え」ではなく「ひとまずの気づき」を与えるのである。

「決定的な答え」はある意味で唯一無二の道標を照らし出す光明となるかもしれない。けれども、そのあまりにも強烈な眩しさの中に絶対的な信仰を見出してしまうと、それ以外のものが見えなくなってしまうという危険と表裏にあるとも言える。

一方で「ひとまずの気づき」は、自分と周りを見つめ直す場所をその都度、創り出す柔らかなひだまりとなるのである。

絶対的な「光明」ではなく暫定的な「ひだまり」。そう、本作はまさしく「ひだまり」を描き出しているという事である。

こうしてみると「ひだまりスケッチ」というタイトル以上に本作に相応しいタイトルはないのではないか。


9 らき☆すた(美水かがみ)

⑴  朋也のいない「CLANNAD」

本作はマニアックな小ネタを交えながら高校生女子の他愛のない会話劇を中心としたまったりとした日常を描き出す。

先の述べたように「CLANNAD」の一つの特徴が、主人公とヒロインの性愛的関係性のみならず、ヒロイン相互の友愛的関係性にも光を当てている点にあった。この点、らき☆すたの構図はまさしく朋也のいない「CLANNAD」とも言える。

彼女達はかつての美少女ゲームのヒロインやセカイ系ヒロインのように男性主人公との性愛的関係性を軸に自らのパーソナリティを記述したりはしない。彼女達は同性間の友愛的関係性の中で自らのパーソナリティを記述することができるのである。

⑵  らき☆すたが切り開いた境地

また、アニメやゲームが大好きなオタク的メンタリティを持つ主人公の泉こなたはオタクの新たな分身とも言える。本作が白日のもとに曝しているのは、かつてのセカイ系のように、もはや「世界の果て」でヒロインと究極の純愛を添い遂げる必要性など今や無く、この日常という「世界の片隅」で友達と楽しくゆるやかにオタクトークをしていれば人生それはそれで幸せなのだというある種の新たな幸福感や成熟感なのかもしれない。

そして、本作の舞台の一つである鷲宮神社は「らき☆すたの聖地」となり、地元自治体の鷲宮町が本作を使った町おこしに取り組んだことはよく知られている。そういった意味で本作はアニメーションという「虚構」と我々の生きる日常という「現実」の新たな関係性を切り開いた作品とも言える。


10 けいおん!(かきふらい)

⑴  「いま、ここ」という「当たり前」

「目標は武道館」とか言いながらも楽器の練習はそこそこにまったり皆でお茶。平沢唯、田井中律、秋山澪、琴吹紬、そして中野梓。彼女達軽音部の日常はぐだぐだと瑞やかに続いていく。

第1期最後の学園祭ライブにおいて唯がMCで宣明した「でもここが、いまいるこの講堂が、私たちの武道館です!」という台詞は本作の想像力を端的に言い表している。

放課後ティータイムはロックという音楽がかつて内包していたメッセージ性を全て剥ぎ取り、あくまでこの日常を祝福するために歌う。本作は日常系における「いま、ここ」というコンサマトリーな感覚に徹底して内在した作品である。

象徴的なのはアニメ2期の17話である。部室が使えなかったり妹の憂が風邪をひいたりするという出来事を通じて唯は「当たり前」がいかに大切なものであるかを思い知る。結果、放課後ティータイム後期を象徴する2つの名曲が産み出された。

⑵  「いま、ここ」から別の「いま、ここ」へ

そしてここから全てが始まることになる。日常系4コママンガ原作史上初の長編映画となった本作の劇場版は、興行収入19億円を叩き出し、後の深夜アニメの大規模上映への道を切り開いた。また、ライブイベント「〜Come with Me!!〜」は日本武道館の収容人数の倍以上の3万人が来場した。

本作は「いま、ここ」を徹底することによってまた別の「いま、ここ」の地平を切り開くことに成功した作品ともいえる。過去に囚われるのでもなく、未来に生のリアリティを先送りするのでもなく、文字通りの「いま、ここ」により深く潜ることで、ありきたりな日常の風景の中にも、いくらでも瑞やかな歓びを汲み出していけるのである。そういった意味で本作は日常系におけるひとつの頂点に位置する作品といえるであろう。





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