現実と幻想⑴ 総説
1 現代の反現実としての「不可能性」
戦後社会学を牽引した社会学者の見田宗介氏によれば「現実」という言葉は3つの反対語をもっている。すなわち「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」である。そして見田氏はこれらの反対語を「反現実」と呼び、人の「現実」は「反現実」によって規定されるという。こうした観点から、見田氏は、プレ高度成長期(1945年から1960年頃)を「理想の時代」として、高度成長期(1960年頃から1970年前半)を「夢の時代」として、ポスト高度成長期(1970年後半以降)を「虚構の時代」として、それぞれ規定した。
そして、見田社会学を継承した大澤真幸氏は見田氏の三区分を1970年を境として「理想の時代」と「虚構の時代」の二区分へ整理し直した上で、1995年以降を「不可能性の時代」として規定する。ここでいう「不可能性」とは何か。
この点、大澤氏は「理想の時代」から「虚構の時代」への転換は「理想の時代」の徹底化によって、そこに内在していた自己否定性が引き出されることによって生じたものではないかとして「虚構の時代」から次の時代への移行に関しても、同じことが言えるのではないかと述べている。
すなわち「虚構の時代」に内在していた傾向性の純化や徹底化が、やがて「虚構の時代」そのものの自己否定を帰結するということである。そして、氏はその純化や徹底化を全く相反するかに見える二つの現代的欲望の中に見出すことができるという。すなわち、過剰な刺激と危険に満ちた「現実の中の現実」へ回帰する欲望と、逆にあらゆる刺激や危険を排除しようとする「極端な虚構化」を推し進める欲望である。
氏によれば、これらの相互に矛盾するかの如き二つの欲望は同一の事態の表裏をなしているといす。つまり「現実の中の現実=究極の現実」こそが「極端な虚構化=究極の虚構」であり、こうした「究極の現実=究極の虚構」という決して到達できない「不可能性」がまさしく、現代における「反現実」であるという。すなわち、我々はいま「究極の現実=究極の虚構」という「反現実」に規定された「不可能性の時代」を生きているということである。
2 第三者の審級の撤退
そして、大澤氏はこの「不可能性」を規定するメカニズムを「第三者の審級の撤退」という概念で説明する。すなわち、超越的他者たる「第三者の審級」が、社会における「規範の制定者」の位置から撤退した時、我々の社会は「リスク社会」となる。リスク社会とは人が「真の意味で」自己選択と自己責任を強制される社会である。「真の意味で」というのはその選択の責任を「神の名」や「父の名」といった「第三者の審級」に帰することができないという意味である。
こうして「リスク社会」においてはもはや「第三者の審級」が機能しない以上、必然的に個人の行為は己の享楽の最大化へ向かうことになる。そして、ここでは「規制の規範者」から撤退したはずの「第三者の審級」が今度は「享楽の強制者」としていわば裏口から回帰することになる。
こうして回帰してくる「第三者の審級」が隠蔽するものこそが、まさに「究極の現実=究極の虚構」としての「他者性なき他者」に至る「不可能性」ということになる。こうして我々は日々、ありもしない「他者性なき他者」などという「不可能性」をめぐってひたすら空回りし続ける徒労を強いられて生きていくことになるのである。
3 不可能性をめぐる欲望と別の仕方での欲望
「第三者の審級」という概念は文学やサブカルチャーを社会学的文脈で読み解く上での強力な手がかりとなる。
例えば「理想の時代」を象徴する作家である大江健三郎氏の前期の代表作「万延元年のフットボール(1967)」においては「理想(安保闘争)」に挫折した主人公の実存的苦悩が描き出される事になります。ここではアンガージュマンの「理想」を担保する「第三者の審級」が未だに機能しているといえる。
次に「虚構の時代」を象徴する作家である村上春樹氏の前期の代表作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」では「虚構(世界の終わり)」と「現実(ハードボイルド・ワンダーランド)」の二つの世界の物語が交差しながら進行するという構成となっており、そのラストで「虚構」か「現実」かの選択を迫られた主人公は「虚構」の世界に留まる道を選び取る。ここでは「第三者の審級」への明確なデタッチメントが表明される事になる。
そして「不可能性の時代」の幕開けを象徴するアニメである「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」では、主人公の少年碇シンジが「理想(エヴァに乗り使徒を倒す)」との葛藤を繰り返し、やがてその「理想」は仕組まれた「虚構(ゼーレの策謀)」でしかない事が明らかとなり、最後にシンジが「不可能性(人類補完計画)」の世界で救済されて物語は幕を閉じる。ここでは「第三者の審級」はもはや機能しておらず「何もしないことこそが正しいのである」という否定神学的な倫理だけが残るのであった。
4「ここではない、どこか」と「いま、ここ」
大澤氏の「不可能性」とはいわば「ここではない、どこか」を徹底的に純化した反現実といえる。これに対して「いま、ここ」に賭金を置く反現実を提出したのが宇野常寛氏である。
宇野常寛氏はそのデビュー作「ゼロ年代の想像力(2008)」において、2001年前後から米同時多発テロや小泉政権が主導した新自由主義的構造改革といった時代情勢を背景に「引きこもっていると殺される」という「サヴァイヴ感」が社会的に広く共有されるようになった結果「たとえ無根拠でもあえて中心的な価値観を選び取る」「信じたいものを信じる」という態度が支配的になったとして、このようなゼロ年代的的態度を90年代後半における「引きこもり/心理主義」との対比から「開き直り/決断主義」と名付けた。
すなわち、ここで氏はいわゆる「大きな物語(リオタール)」が失墜したポストモダン状況が加速するゼロ年代とは決断主義的に選択された「小さな物語」同士が動員ゲームを繰り広げる「バトルロワイヤル」の時代であるという認識に立った上で、こうした決断主義的な「バトルロワイヤル」を解除するためのアプローチのひとつとしてポストモダン的な郊外的空間で成立する「つながり」が自己目的化したコミュニティが生み出す物語の可能性に注目した。
そして、こうした「ゼロ想」で提示された想像力のパラダイム転換は次著「リトル・ピープルの時代(2011)」では戦後日本社会というより広いパースペクティヴの中に位置づけられることになった。
5 ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル
同書において氏は「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という独自の概念を使って議論を整理する。ここでいう「ビッグ・ブラザー」とは「国民国家イデオロギー」のメタファーであり、ジョージ・オールウェルの小説「1984」に登場する国民統合の象徴としての疑似人格体に由来する概念である。かたや「リトル・ピープル」とは「グローバル資本主義」のメタファーであり、村上春樹氏の小説「1Q84」に登場する超自然的幽体に由来する概念である。この対概念は、大澤氏のいう「第三者の審級」が持つ二面性(社会規範の制定者/享楽の強制者)をより際立たせたものとも言える。
こうした観点から氏は戦後社会は「ビッグ・ブラザーの時代」「ビッグ・ブラザーの解体期」「リトル・ピープルの時代」に区切っていく。これはそれぞれ大澤氏のいう「理想の時代」「虚構の時代」「不可能性の時代」に概ね対応する。
「ビッグ・ブラザー」から「リトル・ピープル」への変遷とは、言うなれば単一的な「大きな物語」を唱導する「偉大な父性」が君臨する時代が終わり、複数的な「小さな物語」を扇動する「矮小な父性」が乱立する時代への変遷を意味するのである。そしてこの時代区分を前提に、氏はサブカルチャーの評論家らしい手つきで、村上春樹作品と現代サブカルチャーの比較考察を通じて現代(=リトル・ピープルの時代)における反現実を取り出してくるのである。その議論の概略は以下のようなものである。
⑴ デタッチメント--政治と文学の切断
1970年代末、村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から始まるいわゆる「鼠三部作」と呼ばれる初期作品において鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理であった。 ここでいう「デタッチメント」というのは、近代文学を規定してきたいわゆる「政治と文学」の問いから「政治=正義と悪の記述法」を一旦切り離し「文学=ナルシシズムの記述法」に特化する態度である。こうしたデタッチメントの美学は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」においていよいよ完成を見て、1000万部のベストセラー「ノルウェイの森(1987)」ではさらなる深化を遂げる。こうして国民的作家、村上春樹は誕生した。
⑵ デタッチメントからコミットメントへ--政治と文学の再統合
このように村上氏は「政治=正義と悪の記述法」から「文学=ナルシシズムの記述法」を切り離すことでビッグ・ブラザーの解体期における暫定解を提示した。ところが新たに迎えたリトル・ピープルの時代は村上氏に再び両者の再統合を要求した。こうしてあの1995年前後において氏は「デタッチメントからコミットメントへ」というよく知られた転回を果たすことになる。 当時執筆された大作「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」にはこうした氏の問題意識が強く打ち出されている。もっともこの時点ではまだリトル・ピープルの産み出す新しい「悪」の形は朧げにしか捉えられていなかった。けれど同作の刊行中、あの地下鉄サリン事件が発生し、新しい「悪」の形は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現する。その後、氏は事件関係者への綿密な取材を経て、改めてリトル・ピープルの生み出す「悪」に対峙したのが超大作「1Q84(2009〜2010)」である。
⑶ コミットメント=「父」になるということ?
では、そこで提示される「コミットメント」とはいかなるものなのか。両作に共通する構造は、端的に言えば「戦闘美少女方式」である。これは主人公の代わりに「他者性なき他者」を体現するヒロインが現実的なコミットメント(作中で「悪」を体現する人物の誅殺)を遂行することで、主人公の「政治=正義と悪の記述法」と「文学=ナルシシズムの記述法」が同時に遂行されるという構造をとる。
ところが、宇野氏に言わせれば、氏の提示した「コミットメント」はリトル・ピープルの本質を的確に捉え切れていないことになる。すなわち、村上作品におけるコミットメントとは、ヒロインへそのコストを転嫁することで主人公を「父」にさせる想像力に他ならない。ところがビッグ・ブラザーという偉大な父が死に絶えて、リトル・ピープルなる非人格的システムが支配するこの世界においては、我々個人はすべからく自動的に「父」として機能させられている(すべて自己責任のリスク社会!)。
ゆえにいま問われているのは、もはや「父」になるとかならないとかではなく、自動的に機能してしまう「複数の父達」の衝突を調整する想像力に他ならない。こうして宇野氏は、村上氏はビッグ・ブラザーの衰退については誰よりも敏感であったけれども、このリトル・ピープルに対応する想像力はいまだに提出できてないと結論する。
⑷ ウルトラマンと仮面ライダー
では、現代サブカルチャーの想像力はどうなのか?ここで氏がビッグ・ブラザー的想像力とリトル・ピープル的想像力を体現した典型的ヒーロー像として取り上げるのがウルトラマンと仮面ライダーである。
この点、ウルトラマンは宇宙の彼方の光の国から来訪し、次々と攻めてくる怪獣から日本社会を守ってくれるヒーローである。これに対して、仮面ライダーは悪の秘密結社ショッカーの改造人間でありながらも、人間の自由のためショッカーに反旗を翻したヒーローである。
すなわち、ウルトラマンとは秩序の外部から文字通りの超越者として介入するビッグ・ブラザーであり、仮面ライダーとはシステムの内部から生成されたリトル・ピープルという位置付けになる。
1960年代(=ビッグ・ブラザーの時代)に登場したウルトラマンは日米安保の寓話として機能し「怪獣ブーム」を牽引した。けれども1970年代(=ビッグ・ブラザーの解体期)になると、ウルトラマンはかつての超越者の地位から引き摺り下され後続シリーズは様々な試行錯誤を余儀なくされた。その一方で、この時期に登場した仮面ライダーは脱物語化した勧善懲悪の娯楽劇(=デタッチメント)に徹する事で、当時の児童文化を席巻する「変身ブーム」を巻き起こしたのであった。
⑸〈変身〉の再定義と仮面ライダーの複数化
このように仮面ライダーが当初から持っていたリトル・ピープル的ヒーロー像は、まさに現代(=リトル・ピープルの時代)においてその真価を発揮する事になる。こうして「仮面ライダークウガ(2000〜2001)」から始まる「平成仮面ライダーシリーズ」は、ヒーロー番組に対する商業的要請に対応する中で劇的な進化を遂げていく。
まず「仮面ライダーアギト(2001〜2002)」「仮面ライダー龍騎(2002〜2003)」「仮面ライダー555(2003〜2004)」の三部作においては、村上作品で言うところの「世界の終わり(ナルシシズムの記述法)」と「ハードボイルド・ワンダーランド(正義と悪の記述法)」の問題系を「〈変身〉の再定義」と「仮面ライダーの複数化」へとそれぞれ位置付け直すことで、両者を接続させたままでリトル・ピープルの世界観を記述することに成功する。
その後「〈変身〉の再定義(ナルシシズムの記述法)」と「仮面ライダーの複数化(正義と悪の記述法)」の問題系は分裂し「仮面ライダー電王(2007〜2008)」では前者が洗練され「仮面ライダーキバ(2008〜2009)」では後者が肥大化した。
そして、両者はシリーズ第10作目の集大成的作品である「仮面ライダーディケイド(2009)」において「ディケイド=過去の仮面ライダーシリーズというデータベース」というメタフィクショナルな形で再統合される。
ディケイドが提示したのは、いわば「変身」という名のシステムの更新/ハッキング(=コミットメント)であった。ここに氏は「外部=ここではない、どこか」を失った世界で「内部=いま、ここ」を多重化していくリトル・ピープルの時代における反現実を発見する。このような反現実を氏は「拡張現実」と名付けるのである。
6 仮想現実から拡張現実へ
拡張現実とは「虚構」によって多重化された「現実」のことをいう。かつての「虚構」はもっぱら現実からの逃走先である「仮想現実」へと位置付けられていたが、今日の情報テクノロジーの進展によって「虚構」は現実に介入するための「拡張現実」へと位置付け直されるのである。すなわち、ここで「虚構と現実」は従来のように対立関係ではなく統合関係として捉えられるのである。
こうして1995年以降、インターネットの普及とともに「拡張現実」は日本社会に「反現実」として胚胎し、その流れはゼロ年代後半においてスマートフォンとソーシャルメディアの登場により一層、加速しはじめて、あの2011年の東日本大震災で顕在化したといえる。
いまや我々はかつてのような意味での「理想」も「夢」も追うことができず、さりとて「虚構」に引きこもるだけの余裕もない時代を生きている。けれどもしかしその一方で、我々は「虚構」の力で「現実」に介入するための強力な情報環境がこの手のひらの中にある。そして、そこにはかつてとは違った形での「理想」や「夢」を見出すことができるのである。
もちろん、これはあくまでも一つの前提条件に過ぎない。確かに我々は「いまここ」を多重化させるための情報環境を手に入れた。けれども、そこで「いま、ここ」を灰色のディストピアに多重化してしまうのか、あるいは色鮮やかな日常へと多重化していくのかはまったく別の問題なのである。すなわち、いま問われるべきなのは、こうした情報環境を積極的に活かし切るための瑞やかな想像力なのであることは言うまでもない。
7 母性のディストピア
そして、この「拡張現実の時代」において「政治と文学」はいかなる形で再設定されるのかという問題を、氏が戦後アニメーションと戦後日本思想との連関の中で論じた大著が「母性のディストピア(2017)」である。
かつて日本を占領したGHQの司令官、ダグラス・マッカーサーは当時、日本社会の精神性を「12歳の少年」と呼び、そして、その後「アメリカの影(サンフランシスコ体制と日米安保)」の下で「12歳の少年」に留め置かれた戦後日本はその経済的身体だけをぶくぶくと肥大化させた。こうした状況を氏は「幼形成熟(ネオテニー)」と呼ぶ。
そこで戦後日本が見出した成熟像とは「12歳の少年」による成熟の仮構であった。それは「アメリカの影」による実質的な「政治」の消去を「文学」内部での自己完結的な「政治ごっこ」運動で代替し、あたかも表面的には政治と文学が接続されているように見せるという極めてアイロニカルな成熟像である。そこでは見田氏のいうところの「現実」を規定する「反現実」は徹底的に「現実」と分裂し、現実にはありえないことだけが真正な「理想」や「夢」あるいは「虚構」の条件となった。
ここでは徹底的に私的なことだけが公的であり、現実的には無価値なものこそが反現実的な価値を生むという逆説が機能する。戦後日本を長らく規定した左右のイデオロギーにおいて、こうした偽物こそが本物であるというような逆説は「(現実的にはそれが不可能と知りながら)あえて」その「偽悪(例えば憲法9条改正/再軍備)」ないし「偽善(例えば憲法9条護持/武力放棄)」を引き受けるという「あえて」の論理として現れた。
このような「あえて」の論理の下で、いわば空位の玉座を守るが如き自己完結運動によって「矮小な父性」が「偉大な父性」を仮構するという戦後日本的な「成熟」には、その不毛なる演技を無条件に承認してくれる「肥大化した母性」を必要とした。このような「矮小な父性」と「肥大化した母性」の結託構造を氏は「母性のディストピア」と呼ぶ。
8 戦後アニメーションにおけるアトムの命題
この点、戦後日本において奇形的な発展を遂げた「アニメーション」という表象文化は「アメリカの影」を抱え込みながらも戦後日本的「成熟」の形式を追求する表現ジャンルでもあった。
19世紀が「文学の世紀」であるならば、20世紀とは「映像の世紀」と呼べる。19世紀末に発明された「映像」という新たな技術は、20世紀という時代を映し出し、劇映画は世界と個人をつなぐ物語的な回路としての役割を担った。そしてあらゆる事物と事象が作家の意図なしには存在できないアニメーションとは、いわば究極の劇映画であり「映像の世紀」の臨界点に位置しているのである。
そして手塚治虫氏により確立されて以降、我が国の戦後アニメーションを無意識のレベルで支配する「記号によって成長や死をいかに描くか」という「アトムの命題」とは「12歳の少年」のまま成熟を仮構せざるを得なかった戦後日本のネオテニーの変奏でもある。
すなわち、戦後アニメーションの中には戦後日本を規定してた「母性のディストピア」が強く表現されているといえる。こうした視点から氏は宮崎駿、富野由悠季、押井守といった戦後アニメーションを代表する作家の軌跡を検証する。そして、その評価は概ね以下のようなものである。
宮崎駿氏は自らを「飛べない豚」と位置付け、母の胎内でしか飛ぶことのできない少年たちの物語(カリオストロの城/天空の城ラピュタ/紅の豚)を反復する一方で、少女たちに「飛ぶこと」の希望を託していた(風の谷のナウシカ/魔女の宅急便)。それは戦後日本の根底に存在したアイロニカルな成熟像そのものでもあった。いわば宮崎氏は「母性のディストピア」を「母性のユートピア」として読み替えた作家であった。
富野由悠季氏は「母性のディストピア」を「モビルスーツ(偽の身体)」と「宇宙世紀(偽の歴史)」による成熟の仮構装置として描き出し、その巨大なシステムを内破する希望を「ニュータイプ」に見出してた(機動戦士ガンダム)。しかし富野氏はこの「ニュータイプ」たちの生を「呪われたもの」として描き続け、ニュータイプが持つ可能性を自ら放棄してしまう(機動戦士Zガンダム/機動戦士Vガンダム)。
押井守氏は「母性のディストピア」の呪縛(うる星やつら)を情報論的アプローチに変換して突破しようとした(機動警察パトレイバー)。しかしいまや時代は「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へと変遷する(攻殻機動隊)。こうした情報環境の変化の中で氏は「ネットワークの世紀」に対しては消極的なモラルの提示にいまだとどまっている(イノセンス/スカイ・クロラ)。
そしていまや「ネットワークの世紀」においては、もやは戦後的アイロニズムによる成熟の仮構という方法論すら成立していないと同書は述べます。情報技術という新しい「母」の膝元で、人々は信じたい物語(というよりも情報)だけを享受してネットワークの海から承認を調達することができる。すなわち現代において「母性のディストピア」はますます肥大化しているのである。
9 ゴジラの命題
そして氏によれば、いまや戦後アニメーションの批判力は失われつつあるという。それはグローバルなレベルでは「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」へという情報環境の変容による劇映画そのもの批判力の低下による。そしてローカルなレベルでは今や経済大国=ネオテニーですらなく、単なる成熟=近代化に失敗しただけの「12歳の少年」でしかない日本における「アトムの命題」の機能停止による。その結果、現代のアニメーションは「震災」の記憶を忘却すること(君の名は。)や、喪われた「終わりなき日常」のノスタルジーへ逃避すること(聲の形)や、あるいは「母性のディストピア」のルーツを追認することしかできなくなっているとされる(この世界の片隅に)。
しかし一方で、戦後アニメーションには怪獣映画から継承したもう一つの命題を内在させている。かつて怪獣映画とは常に戦後社会そのものを潜在的に問い直す装置でもあった。ここには戦後という偽り(偽善/偽悪)の時間の中で結果的に生まれたもう一つの命題がある。虚構を経由することでしか捉えられない現実を描くということ。この逆説を同書は「ゴジラの命題」と呼ぶ。
そしてこの「ゴジラの命題」を現代において再生したのは他ならないゴジラ自身であった。かつての怪獣映画が「核兵器」や「サンフランシスコ体制」という「現実」を描き出したように、庵野秀明氏が手掛けた「シン・ゴジラ(2016)」においては「原発」という「現実」が極めてアクロバティックなポリティカル・フィクションとして、すなわち「あり得たかもしれない3.11」として描き出された。
10 拡張現実の時代における政治と文学の再設定
一方「映像の世紀」から「ネットワーク世紀」へという情報環境の変化は、虚構が現実の一部に回収された新たな虚構観を生み出した。すなわち現代における反現実としての「拡張現実」である。その申し子と言えるのがカルフォルニアン・イデオロギーを体現する「Google /ジョン・ハンケ的なもの=ポケモンGO的なもの」だと氏は位置付ける。
「拡張現実の時代」においては人は「自分を変える」のみならず「世界を変える」可能性を再び手にしました。ここでかつて失われた「政治と文学」の接続可能性は別の仕方で開かれる。
この点「シン・ゴジラ」とは「拡張現実の時代」における虚構=劇映画からの優れた回答であったが、その一方で同作には徹底して「政治」しかなく「文学=人間ドラマ」が消去されており、いわば「世界と個人」「公と私」「政治と文学」の関係を描くという点では難点を抱えていた。では「拡張現実の時代」においては「政治と文学」はいかなる形で再設定されるべきなのか。
11「共同幻想論」から考える
戦後最大の思想家とも呼ばれる吉本隆明氏はその主著「共同幻想論」において国家を一つの幻想として捉えている。すなわち、人間の社会像は自己幻想(個人)、対幻想(家族的な関係性)、そして共同幻想(国家的な共同体)から形成され、これらの幻想が接続されることで、社会の規模は個人から家族へ、家族から国家へと拡大していくことになる。
この点、家族を成立させている「対幻想」は「夫婦/親子的対幻想」と「兄弟/姉妹的対幻想」のに種類がある。子を再生産する前者は時間的永続性を司り、子を再生産しない後者は空間的永続性を司る。そしてこの二種類の対幻想を「宗教」とか「イデオロギー」などと呼ばれる操作で組み合わせる事で、対幻想は共同幻想に拡大されていく。すなわち、人は疑似人格としての国家との間に国民として「夫婦/親子関係」を結び、そして国民相互は同じ親(国家)を持つ「兄弟/姉妹関係」となる。
この点、吉本氏は「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」の各幻想は原理的には「逆立」するものと考えた。「逆立」とは各幻想が反発しつつも独立している状態の事である。そして、ここで氏は「自己幻想」が「共同幻想」に「逆立」する為の起点として、それ自体で二者間の閉じた世界の中に完結する「夫婦/親子的対幻想」に着目した。
その後、消費情報社会の進展により「国家」という共同幻想が零落し、その一方で「市場」という非幻想の存在感が増していった。吉本氏はこうした消費情報社会の到来を予見しており、なおかつ、こうした社会を「夫婦/親子的対幻想」の拡大として肯定的に捉えていたが、その評価は今日からみると決定的に誤ってもいた。吉本氏は今日の情報社会が陥った下からの全体主義に接近していくことを、すなわち情報技術により肥大化した「母性のディストピア」が出現することを予見できていなかったからだ。
12「政治と文学」から「市場とゲーム」へ
この点、宇野氏はこうした「母性のディストピア」を解除する鍵を「もう一つの対幻想」に、すなわち「兄弟/姉妹的対幻想」に見出している。
かつての「国家という共同幻想」が書き手と読み手が固定化された一方通行的な「物語的存在」であったとすれば「市場という非幻想」とはプレイヤーとデザイナーが常に流動的に入れ替わる双方向的な「ゲーム的存在」である。つまり「国家」という共同幻想が零落し「市場」という非幻想(非物語的なデータベース)が浮上する現代においては「政治と文学」は「市場とゲーム」として再設定されることになる。
そして、こうした「市場とゲーム」において、もし我々が他のプレイヤーに「夫婦/親子的対幻想」を見出すのであれば、それは「家族」「国家」といった相対的に零落した共同幻想へと回収される事になる。しかし一方、我々が他のプレイヤーに「兄弟/姉妹的対幻想」を見出すのであれば、それは共同幻想に回収される事なく、対幻想のままに対象を拡大させる事が可能となる。ここで個人と個人は共同幻想を媒介とすることなく、お互いが「相補性の片割れたちによる、寄り添いのアイデンティティ・ゲーム」によって繋がりをもっていく。
この点「シン・ゴジラ」においてはこの「兄弟/姉妹的対幻想」の拡大を見出すことができる。そして「アトムの命題」が機能停止した現代において台頭する想像力の中にも様々な形で「兄弟/姉妹的対幻想」の拡大を確認できるのである。
このような「兄弟/姉妹的対幻想」を用いる想像力は今ところ「父」になるの「でない」という記述法にとどまっているが、これが「である」という形で記述できた時「アトムの命題」は決定的に更新されると氏は述べる。すなわち、そこで我々は「政治と文学」ならぬ「市場とゲーム」の関係性を記述しうる物語を手にする事ができるのである。
そしてそれは、世界を非物語的な情報の束として捉えるオタク的感性と、その成熟としての左右のイデオロギーに回収されないリアル・ポリティックス的な「(父を演じるでもなく母の膝下に甘えるのでもない)第三の道」を体現する存在として構想される。そしてこのような成熟像に氏は「ニュータイプ」という名を与えている。それはかつて富野氏が見出した理想の再定義であると同時に、カリフォルニアン・イデオロギーの東洋的な形での批判的継承ともなる。そしてこうした想像力の提示こそが、今日における(Google /ジョン・ハンケ的なものとは別の形での)虚構に宿る可能性であり、それはすなわち、現代アニメーションが開く新たな想像力の境域なのである。
13 AnywhereとSomewhereの分断
そして、宇野氏は近著「遅いインターネット(2020)」で現代における民主主義の機能不全をいかに是正するかを問い直していく。
本書はグローバル化と情報化の極まった今日の世界において人々は、新しい「境界のない世界」に適応した「Anywhere」な人々と、古い「境界のある世界」を志向する「Somewhere」な人々に分断されていると指摘する。そして本書は両者を本質的に分かつのは「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」であるという。
「Anywhere」な人々の典型は「カルフォルニアン・イデオロギー」を起源に持つシリコンバレーの起業家をはじめとした情報産業のプレイヤーたちである。これに対して「Somewhere」な人々の典型は「境界のない世界」の拡大によって既得権益を失いつつある(日本を含む)旧西側諸国の労働者階級である。
「Anywhere」な人々はグローバルな市場に情報技術を用いたイノベーティブな商品やサービスを投入することで、世界中の社会を、人々の生活を一瞬で変革できる可能性を信じる事が出来る。すなわち、彼らは「世界に素手で触れているという感覚(幻想)」を持っているのである。
一方で、「Somewhere」な人々はその多くが「組織の歯車」でしかなく、日常の中でこうした感覚を持つことは難しいだろう。それどころかグローバル化と情報化の進展の中、これまで積み上げてきたスキルが秒速でゴミになるという不安にも晒されているのである。
こうして「境界のない世界」で疎外された「Somewhere」な人々は「境界のある世界」を希求する事になる。そして、自らに都合の良いフェイクニュースを掻き集め、フィルターバブルの中に閉じ籠り「世界に素手で触れているという感覚」を回復しようとする。
それは愚かな現実逃避でしかないと「Anywhere」な人々はきっと言うのだろう。けれども、こうした彼らの「意識の高い語り口」はますます「Somewhere」な人々のカンに触るだけでしかない。そして、こうした「Somewhere」な人々の受け皿となるのが「民主主義」というシステムである。このようなフェイクニュースとフィルターバブルに汚染された民主主義の機能不全が、2016年に米国で「トランプ/プレグジット」という現象を生み出したと同書は分析する。
では日本はどうかというと、同書はこの国は世界的な「グローバル化→その反作用」というターンそれ自体に乗り遅れているというかなり辛辣な評価を下し、平成という時代を「失敗したプロジェクト」であると断じ去る。すなわち、平成という「失われた30年」とは、政治的には政権交代可能な二大政党制の実現に失敗した時代であり、経済的には20世紀的工業社会から21世紀的情報社会への転換に失敗した時代であるということだ。
そしてこうした失敗の原因を同書はテレビ/インターネット・ポピュリズムによる民主主義の機能不全にあると分析する。ここでいうホピュリズムとは、週替わりで失敗した人間に安全圏から石を投げつけるワイドショー的ポピュリズムと、特定のイデオロギーから世界を単純に友敵に切り分けるカルト的ポピュリズムである。
14 情報社会下における民主主義の機能不全
こうして同書の立場からは「トランプ/プレグジット」に代表される世界的なグローバル化へのアレルギー反応の噴出も、平成という時代が「失敗したプロジェクト」に終わったのも、ともにその根底には情報社会下における民主主義の機能不全があるということになる。
ウィンストン・チャーチルがアイロニカルに述べるように、もとより民主主義は軍国主義や独裁主義など様々な政治体制と比較して、よりマシな制度であることは間違いないのだろう。けれど、今日において民主主義という名の宗教が世界を分断し、自由と平等を圧殺する装置と化している事もまた事実であるといえる。
同書は「境界のない世界」の拡大は不可避であるという前提に立つ。そして、その変容過程において、フェクニュースとフィルターバブルの中で「境界のある世界」を夢想する民主主義の機能不全をいかに是正していくか?これが本書の問いということになる。
情報社会における民主主義の機能不全をいかに乗り越えるか。この点、本書は三つの処方箋を提示する。
まず第一の処方箋は民主主義と立憲主義のパワーバランスを後者に傾けるということである。具体的には現在の違憲審査制を付随的審査制から抽象的審査制に近づけて、基本的人権をはじめとする立憲主義を擁護する体制を強化するということである。
次に第二の処方箋は情報テクノロジーを用いて新しい政治参加の回路を構築することである。それも個人が「(意識の低すぎる)大衆」でも「(意識の高すぎる)市民」でもない「(ありのままの)人間」として、選挙やデモという「非日常」ではなく生活という「日常」の中で、政治に参加する事が可能となる回路である。その例として本書は台湾の「vTaiwan」や「Join」などインターネットを介して市民が公的ルールの設定に参画するクラウドローというサービス群を挙げている。
そして第三の処方箋が本書独自の提案である「遅いインターネット」である。すなわち、それはインターネット以前の人の知的活動の基本、すなわち「読む」「書く」という根源的なレベルまで立ち戻り、ここからインターネットという言論空間を「量」から「質」へと転換させていく取り組みである。端的に言えば「インターネットの育て直し」である。
15 日常における自分の物語を紡ぐということ
この点、本書では「文化の四象限」という枠組みで議論を整理している。
まず「拡張現実の時代」において人の欲望の重心は「他人の物語」への没入から「自分の物語」の発信へと移動することになる。そこで次なる問題は「自分の物語」をどの領域で発信するかということになる。ここで同書は上図における第三象限の「日常×自分の物語」に注目するのである。
例えば別に仕事でもないのにフェイクニュースの拡散に熱心に従事する人々の多くは「生活」という「日常」の領域が満たされていないが為に「政治」という「非日常」の領域で仮初めの承認欲求を満たそうしているわけである。
要するに問題の本質は語れるだけの「日常」がないという事に他ならない。すなわち、いま必要なのは「非日常」ではなく「日常」の領域において同書のいう「世界に素手で触れているという感覚」を成立させるということなのである。
ここで本書は吉本隆明氏の共同幻想論を参照枠として、今や問題は「(零落した)共同幻想」からの自立ではなく「(肥大化する)自己幻想」のマネジメントであるとして、いま必要なのは「世界に対して適切な進入角度と距離感を試行錯誤し続ける」ことにあると述べる。
これはかつて「ゼロ想」で示された「小さな物語」の関係性をいかに考えるかという問いに対する洗練されたアンサーとも言える。そして、こうした試行錯誤を環境的に支援する装置が本書の提示する「遅いインターネット」なのであろう。
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