現実と幻想⑵ 作品論1


1 ねじまき鳥クロニクル(村上春樹)

⑴ メッセージを探す営みとしての小説

村上春樹氏にとって「小説を書く」というのは一つの自己治療の営みであったという。氏にとって何かメッセージがあるから小説を書くのではなく、自分の中にどのようなメッセージがあるかを探し出すために小説を書くそうである。

時は1970年代後半、20代も終わりに差し掛かった村上氏は、自分でもうまく言えないこと、説明できないことを小説という形にしてみたいという思いに駆られたという。こうして生み出された村上氏のデビュー作「風の歌を聴け」は、従来の文学とは一線を画した全く新しい文学を提示した。

アフォリズムに満ちたスタイリッシュな文体により鮮明に打ち出されたのが、あの「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」という倫理である。「デタッチメント」とは「かかわりの無さ」ということである。では氏は何かからデタッチメントしようとしたのか。

⑵ ビッグ・ブラザーからのデタッチメント

村上氏が早稲田大学に入学したのは1968年だが、この時期の日本は学生運動の最盛期であった。日本中の多くの若者が「革命」を夢見て政治へのコミットメントを志していた。

村上氏はおそらく当時の学生運動のあり方についていけない部分があったのではないか。氏は当時を振り返り、必ずしもはっきりしない政治的意思をどうコミットするかという方法論としての選択肢がものすごく少なかった事が悲劇だった気がするという趣旨を述べている。

そして、周知のように学生運動は1972年の連合赤軍事件を境に下火になり、時代の気分は瞬く間にコミットメントからデタッチメントへと切り替わった。そして次第に消費社会の爛熟により、革命の欲望は消費の欲望によって代替されていった。

いわば当時は「ビッグ・ブラザーの解体期」にあった。そして、村上氏はこうした時代の変遷をいち早くとらえ、勝手に解体していく「ビッグ・ブラザー」からの「デタッチメント」を志向した。つまり「デタッチメント」とは「政治と文学の切断」である。そして、ここには「既にもうそうなっているのだから仕方がない」という諦観の境地もあった。

⑶「影」を切り離すということ

「風の歌を聴け」では1970年の夏の出来事が8年後の視点から語られる。同作では「僕」と「鼠」という二人の対照的な青年が登場する。この点、村上氏の分身としての「僕」は「ビッグ・ブラザー」からのデタッチメントを志向する一方、「鼠」は時代の変化に戸惑い、何かにコミットメントしようと足掻いている。

「鼠」という存在は「僕」の影のような存在である。いわば「僕」の「生きられなかった半面」が影として「鼠」に投影されている。そして続く「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」と作を重ねるごとに「鼠」の存在感は次第に薄れていく。

そして「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では「鼠」のイメージを引き継ぐ「影」が登場する。「影」は主人公である「僕」の文字通りの「影」である。物語冒頭で「僕」の意識内世界である「世界の終わり」において「僕」と「影」は切り離され、同作ラストで「僕」はついに「世界の終わり」から「影」を放逐してしまう。こうして「政治(鼠=影)」と「文学(僕)」は完全に切断され、村上文学におけるデタッチメントの美学は完成したかのように見えた。

⑷ リトル・ピープルへのコミットメント

ところが「鼠=影」の亡霊は生きていた。村上氏はコミットメントから逃れることができなかった。結局「デタッチメント」というのはそれ自体既にコミットメントの一種である。ビッグ・ブラザーの解体期であった1980年代だからこそ、終わりゆくものを葬送する「デタッチメント(という名のコミットメント)」は有効に機能したといえた。

けれども1990年代に入り「大きな物語の失墜」は決定的となり「ビッグ・ブラザー」は完全に解体されてしまう。そして、ここから「リトル・ピープル」が産み出す「悪」へいかにコミットメントするかという問題が生じるのである。

ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ。時代のさらなる変化は村上氏に(一旦切り離したはずの)「政治(鼠=影)」と「文学(僕)」の再統合を要請した。かくして1995年前後に氏は「デタッチメントからコミットメントへ」というあの有名な転回を果たすことになった

⑸「悪」と対峙するということ

本作「ねじまき鳥クロニクル」はこうした問題意識のもとで執筆された。同作のあらすじはこうだ。主人公、岡田亨はある日突然失踪した妻クミコの消息を辿る過程で、次々に奇妙な人物たちと邂逅し、やがて岡田はクミコ失踪の裏には彼女の兄である綿谷昇の暗躍があることを突き止める。

新進気鋭の政治家として今や時代の寵児である綿谷には人の精神を汚染し、欲望を暴走させる特殊な能力を持っていた。果たしてクミコは綿谷が支配する闇の世界の中に囚われていた。クミコの声にならない声を聴き取った岡田は、綿谷を斃しクミコを闇の世界から光の世界へと連れ戻すべく、リトル・ピープルが産み出す「悪」と対峙する。そしてそれは具体的には「壁抜け」として遂行された。

⑹ 二つの世界のコンステレーション

本作終盤の展開はこうである。岡田は近所の曰く付きの空き家の枯れた井戸の底から「壁抜け」により精神世界へと入り込む。そこで岡田は(精神世界の)綿谷が何者かにバットで殴打され意識不明の重体となっており、犯人は岡田とよく似た特徴を持っている事を知る。

そしてホテルの一室で岡田は(精神世界の)クミコと邂逅する。クミコの傍らにはなぜか綿谷を殴打したと思われるバットがあった。

そこにナイフを持った謎の男が現れる。バットを手にした岡田は男の執拗な攻撃を潜り抜け、ついに岡田は男を「完璧なスイング」で捉え撲殺する。その後、現実世界に帰還した岡田は、現実世界でも綿谷が突然、脳溢血を起こし再起不能になっている事を知る。

多分この男こそがリトル・ピープルの産み出す「悪」そのものである。そしてこの精神世界での「悪」の撲殺と現実世界での綿谷の再起不能は、ユング心理学でいうところのコンステレーション(共時的布置)を描き出しているように思える。

⑺ 暴力とつながりの物語

このように本作が極めてアクロバティックな想像力で描き出すのはコミットメントにおける二つの位相である。

第一に本作はリトル・ピープルの「悪」に対して「暴力」によってコミットメントする。もちろんそれは暴力の単純な肯定ではない。というよりも人間とはそもそもが暴力的な存在である。本作ではノモンハンでの皮剥ぎだとか新京での脱走兵虐殺などといった「歴史的な暴力」が執拗に描き出される。人の歴史とは本質的には暴力の歴史である。問題なのはその暴力性に無自覚な事だ。そして、こうした逃れられない「暴力」を引き受ける倫理的な態度こそがリトル・ピープルが産み出す「悪」から一線を画する正義となる。その意味で本作は「暴力」の物語である。

第二に本作はリトル・ピープルの「悪」に対して「つながり」によってコミットメントする。一旦は断絶したクミコとの「つながり」は、加納マルタとクレタの姉妹、笠原メイ、間宮中尉、そして赤坂ナツメグとシナモンの母子といった、様々な人との奇妙な「つながり」の連鎖によって再び回復する。そして、こうした予期せぬ「つながり」から生じる誤配は「井戸」や「バット」といった形となり、リトル・ピープルが産み出す「悪」を迎え撃つ武器となった。その意味で本作は「つながり」の物語である。

暴力とつながりの物語。こうしたコミットメントにおける二つの位相はリトル・ピープルがもたらすコミットメントのあり方を真正面から問うたゼロ年代的想像力を先取りしたものと言えるのではないか。


2 海辺のカフカ(村上春樹)

⑴ 近代教養小説的成熟と「別の仕方」での成熟

夏目漱石の中編に「坑夫」という作品がある。恋愛沙汰のゴタゴタの末、すっかり世の中が厭になって家出をした東京の世間知らずの学生が怪しげな男の誘いのままに半ば自殺するつもりで鉱山労働に身を投じるといったあらすじの小説である。

本作「海辺のカフカ」における主人公の少年、田村カフカはこの「坑夫」について次のような感想を述べている。
この小説は一体何を言いたいんだろう。でもなんていうのかな、そういう『何を言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ。うまく説明できないけど


カフカ少年は「坑夫」の主人公同様、家出の真っ最中である。もっとも彼の場合、恋愛沙汰のゴタゴタの末の家出ではなく、父から掛けられた「呪い」から逃れるための家出である。

東京の実家を出奔して四国高松までたどり着いたカフカは「甲村記念図書館」という地元の私立図書館に何とはなしに通うことになる。「甲村記念図書館」の司書を務める「大島さん」はカフカに今の自分を「坑夫」の主人公に重ねているのかと問い、カフカは「そんなことは考えもしなかった」と否定する。けれど本作は確かにわりと「現代版坑夫」のような趣きがある。

大島さんが言うように「坑夫」という作品は例えば、漱石の代表作「三四郎」のようないわゆる近代教養小説とは随分と様相を異にした小説である。三四郎は目の前に立ち現れる壁について真面目に考えて、なんとかこの壁を乗り越えようとする能動的な主体である。これに対して「坑夫」の主人公は周囲で生じる出来事をただぐだぐだと受け入れていくだけの受動的な主体である。

確かに「坑夫」の主人公には近代教養小説的意味での成熟というカタルシスはない。けれどもカフカは「人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないんじゃないかな」と言う。つまりここでは近代教養小説的成熟とは「別の仕方」での成熟の可能性が示唆されているのである。そして「坑夫」の主人公が事の成り行きから鉱山で働き出したように、カフカもやはり事の成り行きから甲村記念図書館で働くことになる。

⑵ エディプス・コンプレックスの回帰としての「異界体験」

ところでカフカが父親からかけられた「呪い」とは「いつか父親を殺し、いつか母親と姉と交わる」というものである。一見してわかるようにこの「呪い」はギリシア悲劇のオイエディプス物語が下敷きとなっている。そして周知の通り、精神分析の始祖、ジークムント・フロイトはこのオイエディプス物語と同様の構造を幼児期の心的葛藤に見出して、これを「エデェプス・コンプレックス」と名付けた。

こうしたフロイト流「エデェプス・コンプレックス」の筋書きに従えば、子どもは父親からの「去勢の脅威」に屈して母親への近親相姦欲求を断念し、むしろ父親を理想化することになる。フロイトによれば男児の「正常な」発達過程とは、このような「エディプス・コンプレックスの克服」にある。

ところがカフカは父親からの「いつか父親を殺し、いつか母親と姉と交わる」という父親の「呪い」をことごとくメタフォリカルなレベルで実現させていく。これはかつて「(フロイトに言わせれば)克服」したはずのエディプス・コンプレックスが思春期における「異界体験」として回帰しているとも言える。

⑶ 思春期における性と暴力

我々は「こちら側」と「あちら側」の二つの位相が折り重なる多層的な現実を生きている。 「こちら側」とはこの端的な日常のことであり「あちら側」とはその日常の中に唐突に「不気味なもの」として現れる、いわば「異界」ともいうべき非日常である。

多くのこころの不調や逸脱行動は「こちら」への最適化の失敗に起因する。こうした時、問題を「こちら側」だけの視点で考えても解決しないことが多く、一旦は「こちら側」だけでなく「あちら側」の視点から考えないといけないことがある。

そしてこのような意味での「異界」に最も接近する時期が心身の急激な変化の途上にある思春期である。思春期における「異界体験」は具体的には「性」や「暴力」といった形で現れる。カフカが父親から刷り込まれた「いつか父親を殺し、いつか母親と姉と交わる」という不吉な予言は来るべき思春期における「性と暴力」のメタファーとも言える。

思春期における「性と暴力」はしばし子どもを圧倒してしまう。こうした「性と暴力」への対峙は子どもの人格形成において極めて重要ではあるが、そのまま「あちら側」の非日常に魅入られてしまったりすると、今度は「こちら側」の日常に戻って来れなくなる。

そこで必要なのは「あちら側」への回路を開きつつも、なおかつ「こちら側」に折り返すということである。こうして「あちら側」の非日常と「こちら側」の日常という多層的な現実の中に自分を位置づけていく。この過程こそが自分なりの生の〈物語〉を見出して、その〈物語〉を生きていくということなのである。

⑷「悪」に抗うための物語

ここでいう自分なりの生の〈物語〉とは、この世界の布置を自分なりに物語るということである。こうした意味で、かつてのような社会共通の〈物語〉が失墜した現代には様々な〈物語〉が溢れてかえっている。中には「カルト」とか「原理主義」などと呼ばれるとんでもない〈物語〉もある。

こうした状況において村上氏は常に時代が産み出す「悪」に抗うための〈物語〉を提示しようとしてきた。ここでいう「悪」とは、かつては国家主義的なビッグ・ブラザーとして、いまは市場主義的なリトル・ピープルとして、個人の生を規定してきたシステムのことに他ならない。

もっとも「悪」の形の時代的変容に伴い村上氏の〈物語〉を支える倫理的作用点も変化した。放って置いても衰退しつつあったビッグ・ブラザーに対しては「やれやれ」と突き放しておけば良かったが、これに代わって台頭し始めたリトル・ピープルに対しては何らかの関わり合いを避けては通れない。こうして生じたのが周知の通り、あの「デタッチメントからコミットメントへ」と呼ばれる転換だった。

⑸「世界の終わり」からの帰還

本作終盤でカフカは村上氏の代表作である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を彷彿させる外部から隔絶した幻想的な世界を訪れる。

かつて「世界の終わり」では幻想世界という「虚構」にとどまることで「責任」を取る「デタッチメント」の美学が貫かれた。しかし本作では「虚構」にとどまることなく現実を生きることで「責任」を取る「コミットメント」の倫理が鮮明に打ち出されるのである。こうしてみると本作は三四郎的成熟観=近代教養小説的成熟の影に隠れていた坑夫的成熟観=別の仕方での成熟を、ビッグ・ブラザーなき後のリトル・ピープルの時代における「コミットメント」の倫理へと洗練させた〈物語〉と言えるのではないか。


3 スカイ・クロラ

⑴「終わりなき日常」の告発者

1970年代末、当時まだ大学生だった新人漫画家、高橋留美子氏が「少年サンデー」で連載を開始した「うる星やつら」は、消費化/情報化社会へ突入した当時の日本社会を象徴する作品の一つといえる。無限のループを繰り返すかのような世界で際限なきドタバタラブコメディを繰り広げる同作は、モノがあっても退屈な「終わりなき日常」を生きる当時の若年層から絶大な支持を得ることになった。

ところが、こうしたうる星やつら的な「終わりなき日常」という世界観に真っ向から反旗を翻したのが同作TV版と劇場版の監督を務めた押井守氏であった。氏はその出世作となった「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー(1984)」において、際限無くループし続ける学園祭前日からの脱出を描きだし「終わりなき日常」と言う名の「虚構」が抱え込む欺瞞を告発した。

⑵「虚構」の外部としての「現実」

以降、長らくのあいだ押井映画のダイナミズムを駆動させてきたのは「虚構」の外部としての「現実」を示すという否定神学的な倫理であった。こうした「虚構と現実」をめぐる問いは「天使のたまご(1985)」「紅い眼鏡(1987)」「ケルベロス・地獄の番犬(1991)」といった前期押井作品においては「少女の夢」からの逃走として遂行された。

これに対して「機動警察パトレイバー the Movie(1989)」における「虚構」の舞台は乱開発を繰り返して肥大化していく巨大都市東京であり、ここで「虚構と現実」の問いは「虚構」の「外部=現実」からの「テロリズム/ハッキング」として遂行されていく。同作は未だインターネットが一般開放されていなかった当時において、コンピューターウィルスによる大規模テロをシュミレーションするという恐るべき先見性を持った作品である。

そしてこうした情報論的アプローチをさらに洗練させたのが「機動警察パトレイバー the Movie 2(1993)」です。同作において「虚構と現実」をめぐる問いは「映像体験と実体験」という媒介を経由して「平和と戦争」という問いに置き換えられ、押井作品がそれまで一貫して問うてきた「外部=現実」という倫理はある種の戦後社会論へと昇華されることになる。

そして「攻殻機動隊(1995)」においては電脳化/義体化による自我の「虚構」と広大なネッワークの果てにある「外部=現実」が描き出されることになった。そして、そのラストにおいて草薙素子は不敵な笑みをたたえて「さて、どこへ行こうかしらね」と嘯くのであった。

⑶「外部」なき世界を生きるということ

しかし「アヴァロン(2001)」においては、広大なネッワークの果てにあるのは絶対的な「外部=現実」などではなく、それは畢竟、陳腐なありきたりの日常でしかなかったというある種の諦観が描かれることになる。そして「イノセンス(2004)」で描き出されたのは、もはや「外部=現実」を目指すことなく、ネットワークの守護天使としての素子に見守られつつ、愛犬と銃器に耽溺するバトーの姿であった。

世界中がネットワークで接続された情報環境下においては「虚構と現実」は融解し、もはや「外部=現実」は存在しない。あらゆる彼岸が此岸となりあらゆる此岸が彼岸となる。そしてそれは同時に「平和と戦争」の区別の消滅であり、我々の生きるこの「終わりなき日常」とは「終わりなき戦場」の別名に過ぎない事を意味している。こうした認識論的変化は現代社会においてはまさにアクチュアルに進行しつつある事態でもある。

こうして時代においては、もはや「外部=現実」を示すというかつての否定神学的倫理は作動しない。こうして「外部=現実」なきネットワーク社会における新たな倫理とは何か?という問いが立てられる事になる。こうした問いに対するひとつの答えを提示しようと試みたのが、あるいは本作であったように思えるのである。

⑷ ショウとしての戦争

恒久平和が実現し、すべての戦争がショウとなった近未来。「キルドレ」と呼ばれる少年兵たちは、市民に平和を実感させるための「ショウとしての戦争」を演じ続けていた。人体改造実験により生み出された「キルドレ」は老いる事を知らない永遠の子供たちであり、たとえ戦闘で死亡しても記憶をリセットされた上で新しい身体を与えられ、再び戦場に駆り出されていくのであった。

同作の主人公であるキルドレ、函南優一は、戦争請負会社ロストック社に所属する戦闘機パイロットである。前線基地ウリスに配属された優一はどういうわけかジンロウという前任者が気になってしまう。

一方、ウリスの女性司令官、草薙水素はかつて数々の戦闘を生き延びてきた優秀なエースパイロットであり、彼女は長きにわたり多くの仲間が死んでは生まれ変わり、また再び死んでいく様を何度も目の当たりにしてきた。そんなある日、水素は自社の保養所で優一を誘い男女の関係を持つ。果たして前任者のジンロウは水素の恋人であり、その生まれ変わりである函南に水素は特別な感情を抱いていたのだった。

そしてその後「ショウとしての戦争」はさらに激しい展開を要求され、大規模な攻勢作戦が企画される。ロストック社とラウテルン社の両軍が激突した空戦では多数のキルドレが戦死。幾度も無意味に繰り返される無限ループに絶望する水素は優一に自分を殺してくれと懇願する。かつて水素もキルドレの生に絶望したジンロウを彼の求めに応じて殺害していたのであった。

けれども優一は水素の求めに応じなかった。そして優一は「君は生きろ。何かを変えられるまで」と水素に言い残し、最強の敵「ティーチャー」へと戦いを挑むのであった。

⑸ いつも通る道だからって景色は同じじゃない

キルドレ達は、まさに「外部=ここではない、どこか」を失った「終わりなき日常(戦場)」を生きる若者たちの比喩といえる。そして、本作のメッセージは終盤に登場する優一の以下の独言に集約される。

いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない。それだけではいけないのか?それだけのことだからいけないのか?


このメッセージが言わんとするところは極めて明快である。「終わりなき日常(戦場)」という「内部=いま、ここ」の中で様々な差異を見出すという事。それこそが現代を生きる我々にとっての実存の在り処、すなわち「生きている手ごたえ」に他ならないということである。

「外部=ここではない、どこか」を喪失した現代における超越性とは、ありもしない世界の外部をただ祈る事ではなく、むしろこの世界の「内部=いま、ここ」へ潜っていく事によって獲得できる逆説があるという事である。こうした本作のメッセージはゼロ年代後半以降強調されつつあったいわゆる「日常の価値の再発見」というコンサマトリー的な成熟感とも共鳴するものがある。

⑹ エディプスからマゾヒズムへ

もちろんこのメッセージ自体は疑いなく正しい。では、その直後に行われるティーチャーとの対決は何を意味するのか?「絶対倒せない敵」であるティーチャーは「キルドレ」ではない「大人の男」であることが強調されており、ここには「父殺し」のイメージを容易に重ね合わせることができる。

けれども「父殺し」とはまさしく「ここではない、どこか」へ向かう典型的な否定神学である。そうであれば、この敗北を約束された対決が果たして本作の示すメッセージの具現化として相応しいものかは疑問符がつく。

もっとも別の見方をすれば、この「対決」の中にあるのは「父殺し」へ向かうエディプス的欲望というよりも、むしろ敗北を義務付けられながらも自己破壊の饗宴を演じるマゾヒズム的享楽のようにも思える。そうであれば優一はティーチャーとの対決の中に、確かな「いま、ここ」にある「生きている手ごたえ」を見出していたのかもしれない。


4 1Q84(村上春樹)

⑴ ワクチンとしての物語

村上春樹作品というのは、少なくとも長編作品に関しては基本的に決して読みやすい小説ではないように思える。あの圧倒的な飛距離を持つメタファー、随所に仕込まれた複雑怪奇な文学的実験。こういった諸々の要素が渾然一体となった「村上ワールド」を前に、我々読み手は至る所で困惑し狼狽させられ、自らの想像力の限界を思い知らされることになるのである。

ところが本作「1Q84」は従来の村上作品とは決定的に違う。徹底的に平易で洗練されたリーダビリティ、読み手の快楽原則を重視したストーリーテリング、ゼロ年代サブカルチャーにおける「萌え」と「燃え」を体現するキャラクター。ここにイラストが付けばもはやライトノベルと言っても過言ではない恐るべき突き抜け方である。

このなりふり構わなさは一体何なのか?言うまでもなく村上春樹という作家が何かを書けば黙っていてもそれなりに勝手に売れる。それはもとより疑いない。けれど本作は「それなりに」ではなく「それ以上に」多くの人たちに届ける必要があったのではないか。なぜならば、本作は村上氏が「今、一番恐ろしいと思う」という存在に対抗する為の「ワクチン」だからである。

⑵ あらすじ

舞台は1984年の日本。物語は青豆と天吾という2人の男女を軸に展開する。主人公の一人である青豆はスポーツインストラクターの仕事の傍らでDV加害者の暗殺に従事する。ある日、青豆は空に月が二つ浮かぶパラレルワールドに迷い込んでいることに気づく。彼女はその世界を「1Q84年」と名付ける。

そして、もう一人の主人公である天吾は予備校で数学を教える傍らで小説家を目指している。知己の編集者、小松から与えられた新人賞応募作の下読みの最中、天吾は「ふかえり」こと深田絵里子という少女の書いた「空気さなぎ」という小説に強い印象を受ける。

小松の企みにより天吾によってリライトされた「空気さなぎ」は新人賞を得て空前の大ヒットとなる。そんな中で天吾は青豆と同じパラレルワールドに迷い込む。果たしてその世界は「空気さなぎ」の世界そっくりであった。こうして2人は迷い込んだ世界の中で、それぞれの立場で「さきがけ」なるカルト教団に関わる事件に巻き込まれていく。

⑶ ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ

村上氏は本作に執筆動機について次のように述べています。

僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻(おり)というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる

(僕にとっての〈世界文学〉そして〈世界〉/毎日新聞2008年5月12日)


ここでいう「枠組み」というのは端的にいうと、ポストモダンの思想家、ジャン=フランソワ・リオタールのいうところの「大きな物語」のことを言っている。すなわち、ポストモダン的状況においては、社会共通のイデオロギーや価値観といった「枠組み=大きな物語」の解体が加速する。こうした状況を本作では「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」という比喩によって示している。本作の章題にあるように「もうビッグ・ブラザーの出てくる幕はない」。つまり現代社会を規定するのは「国民国家」というビッグ・ブラザーではなく「グローバル資本主義」というリトル・ピープルに他ならない。

⑷  一番恐ろしいと思うもの

そして村上氏によれば、現代において「一番恐ろしいと思う」のは、こうした「リトル・ピープル」から不可避的に生まれる欲望と暴力、すなわち「いろんな檻(おり)というか囲い込み」に他ならない。

この点、本作に登場するカルト教団「さきがけ」のモチーフとなっているのは連合赤軍とオウム真理教である(どうやら村上氏の中では、物語なきアイデンティティ不安の受け皿として機能していた点で、両者は同じ系譜に連なっているようである)。

すなわち、リオタールのいう「大きな物語」なき社会において、人々は、それぞれ任意の「小さな物語」に依拠して自らの生を意味付けていくしかない。村上氏が「一番恐ろしいと思う」のは、ここでとんでもないカルト的物語に魅入られてしまうことにある。そうした意味で本作は表題通りオーウェルの小説「1984」を更新する試みとなる。現代のシステムが生み出す欲望と暴力に抗うための主体的倫理をいかに確立するか。これが本作の主題となる。

これはおそらく氏が懇意にしていた臨床心理学者、河合隼雄氏の影響が大きいと思われる。人はそれぞれその人なりの生の物語を生きている。物語は人を救う事もあれば殺す事もある。従って現代人に必要なのはカルト的な物語に自己を乗っ取られない為の「物語に対する免疫」である。ゆえに本作はまさに「空気さなぎ」のように「ワクチン」の如く広く世間にばら撒かれなければならない。本作が「わかりやすさ」に徹したのはそういう事情に由来しているのではないか。

⑸ デタッチメントからコミットメントへ

しかし一方、ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへと遷移していく時代の変化は村上氏に新たなる課題を突きつけます。すなわち、新しい時代の変化を作家としていかに記述するのかということです。

周知の通り、氏は1995年前後に「デタッチメントからコミットメントへ」と呼ばれる大きな展開を果たしている。この転回はビッグ・ブラザーの退潮とリトル・ピープルの台頭と対応する。そして、こうした問題意識から執筆されたのが「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」であった。これまでの村上作品は、挫折、失敗、喪失といったものに向き合う「諦観の物語」という側面が強かったが、この「ねじまき鳥クロニクル」には、失った物は何が何でも取り返すんだという明確なコミットメントの意志が満ちている。いわば本作は「奪還の物語」といえる。

ただ同作においては、肝心のコミットメントすべき対象、すなわちリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」を的確に捉えきれていないきらいがあった。同作において「悪」として設定されたワタヤ・ノボルはどう見ても80年代的ニューアカ系文化人とか当時台頭しつつあった新保守系の政治家のイメージでしかなく、新しい「悪」のイメージとしては今ひとつ迫力に欠けているのである。

ところが奇しくも同作の刊行中、新しい「悪」は現実世界の方から氏の予想を超える形で出現した。あのオウム真理教による地下鉄サリン事件である。こうして氏は一旦は時代に追い抜かれるのであった。

その後、村上氏は事件関係者への綿密な取材をまとめた「アンダーグラウンド(1997)」「約束された場所で(1998)」を公刊する。そして本作「1Q84」において再びリトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙することになった。

⑹ 戦闘美少女スタイル

では本作において、リトル・ピープルの生み出す新しい「悪」に対峙する「正義」はいかなる形で示されるのか。

この点「ねじまき鳥クロニクル」においては、主人公オカダ・トオルが夢の世界でワタヤ・ノボルを「完璧なスイング」で撲殺し、その同時刻、失踪中の妻クミコがオカダに成り代わり入院中のワタヤを現実世界で殺害する。つまり、同作で示された「コミットメント」のモデルとは、氏がこれまで洗練させてきた「ナルシシズムの記述法」を「正義の記述法」へ応用したものと言える。

すなわち「他者性なき他者としての女性性」あるいは「母性的存在」を体現するヒロインが現実的なコミットメントを代行し、これにより主人公の「ナルシシズム」と「正義」が同時に記述されるという構造である。

これは端的に言えば「戦闘美少女スタイル」である。換言すれば村上氏が同作で示したコミットメントのモデルはゼロ年代以降のサブカルチャー文化圏の中で広く引き継がれているということになったといえる。

そして「1Q84」もある面でまた、こうしたコミットメントの図式を踏襲していると言える。物語中盤の雷雨の夜、天吾はふかえりから「ヒツヨウなこと」であると告げられ、彼女との性行為に及ぶ。そして行為の後、ふかえりは「わたしはニンシンしない。わたしにはセイリがないから」という。

一方で同夜、青豆はふかえりの実父でもあるカルト教団「さきがけ」のリーダー深田保を暗殺する。そしてその後、彼女は教団から追われる中で、天吾の子供を性行為抜きで妊娠する。

要するに、ここでも「ねじまき鳥」の構図が(よりあからさまな形で)反復されている。これに対しては当然、コミットメントから発生するコストをヒロインに押し付けているという批判が生じる事になる。確かにある面でここには母性的承認の下で「政治と文学」の問題を接続する父権主義的な構造があることは否めないように思える。

⑺ コミットメントのコストを払ったのは誰か

ただ、本作はもう一つの側面があると思う。牛河の存在である。それまで「さきがけ」のエージェントとして青豆や天吾の周辺を嗅ぎ回っていた牛河という人物が〈BOOK3〉において突如、第3の主人公に昇格する。

ここまでの牛河は醜い外見と卓越した知性を持つ不気味な存在でしかなかった。ところが牛河パートにおいては牛河の内面描写に重点がおかれることになる。

その外見故に全く愛されずに育った少年時代や短かった家庭生活といった過去。嫉妬、憧れ、哀しみといった複雑な感情。ここで描き出される牛河はもはや不気味なエージェントではなくただの孤独な中年男性である。

そして、その存在を青豆サイドに覚知された牛河は最終的には青豆の同僚タマルによって惨殺されることになる。一方、牛河の介入をきっかけに青豆と天吾は再会を果たし、2人はパラレル・ワールドからの脱出に成功。この新しい世界で自分たちの子供を育てていくことを誓い合う。 牛河はその能力以外はいわゆるいわゆる弱者男性そのものです。要するに、主人公の「ナルシシズム」と「正義」を実現するためのコミットメントのコストは最終的にはヒロインではなく弱者男性が支払っているということになります。牛河の唐突な主人公昇格と惨めな最期の描写はおそらくこの構図をはっきりと示すためのものだったのではないか。

⑻ リトル・ピープルの時代における想像力

本作が突きつけるのはコミットメントのコストは常に他者に転化され続けられるという端的な現実である。これはゼロ年代以降のサブカルチャーにおいても共通する問題意識である。それは例えば「正義の在り処(Fate/Zero)」や「希望と絶望の相転移(まどか☆マギカ)」として、描き出されることになった。

この点、本作終盤にて牛河の死体からリトル・ピープルたちが出現したのは示唆的といえる。コミットメントのコストを押し付けられた他者から新たなリトル・ピープルの暴力が生じてくることになるのである。

また本作においてはリトル・ピープルの暴力には連合赤軍やオウム真理教のイメージが重ねられていますが、現在においてリトル・ピープルはさらに恐ろしい暴力を生み出しているといえる。それは例えば、世界レベルで見ればグローバル化の反作用としてのテロリズム、日本国内レベルで言えば格差社会の反作用としての「無敵の人」による無差別殺人事件という形で噴出する。

こうした現代の暴力は「大きな物語」無きところで生じるアイデンティティ不安というより、むしろ「小さな物語」同士の衝突として捉えるべきではないか。もはや「大きな物語」の失墜は自明となり、グローバリズムとネットワークが極まった世界から「外部」は消失し、この閉ざされた世界の中で人は好むと好まざるとそれぞれが信じる「小さな物語」を生きていくしかない。そこでは人々は強制的にコミットメントさせられている。ゆえにいまや問題はデタッチメントかコミットメントではなく、リトル・ピープルから不可避的に生じる「コミットメントのコスト」を収束させることなく如何に緩やかに処理できるかという点にある。おそらくそれこそが現代の「政治と文学」に求められる想像力ではないか。


5 風立ちぬ

⑴ 反戦平和思想と戦闘兵器への憧憬

宮崎駿氏は本作「風立ちぬ」の公開前後に行われた半藤一利氏との対談において、戦艦大和をかっこいいと思う自分と戦ってきた、かっこいいと思ってはいけないんじゃないかという気持ちがあったという趣旨の言葉を述べている。この発言にあるように宮崎氏は表向きの反戦平和思想の裏にある戦闘兵器への憧憬というある種の矛盾を抱え込んだ作家でした。そうした矛盾がまさに前景化した作品が本作ということができる。

⑵「美しい飛行機」をめぐる夢と現実

零戦の設計者として知られる堀越二郎の半生を堀辰雄の同名小説に着想を得て脚色した本作は関東大震災から太平洋戦争前夜に至る時期を舞台にした物語である。本作の主人公、二郎は少年期から飛行機の魅力に取り憑かれ、イタリアの航空技術者、カプローニへの憧憬を募らせるようになり、いつかカプローニのような「美しい飛行機」をつくることが人生の目標となっていく。

ところが二郎が実際に追求した「美しい飛行機」とは、カプローニが夢見た大勢の家族を乗せて飛ぶ大型旅客機ではなく、ただひたすら「飛ぶ」という機能美に特化した戦闘機であった。

⑶ ファンタジーとフェティシズム

ここには現代を代表するアニメーション作家、宮崎駿の建前と本音がそのまま表出しているように思える。従来のスタジオジブリ作品は多くの観客へ夢と希望を与えるファンタジー(=建前)と宮崎氏個人の戦闘兵器へのフェティシズム(=本音)という微妙なバランスの上で成り立っていた。そして本作はこの本音の部分をいよいよ隠すことなく全面化させているのである。

問題は本作がファンタジーではなく脚色されているとはいえ基本的に史実をベースにしたノンフィクションであるという点である。いよいよここにきて、宮崎氏が長年抱えてきた矛盾が--公的には反戦平和を唱えつつ私的には戦闘機や戦艦を愛でるという矛盾が--露呈することになった。

もちろんここで宮崎氏は自身のフェティシズムをそのまま肯定はしない。そこでこのいわば政治と文学の分裂に承認を与える役割を担うのが本作のヒロインである菜穂子である。

⑷ 菜穂子というヒロインは何を担っていたのか

関東大震災の折、二郎は菜穂子と初めて出会い、その後ドイツ留学から帰国した二郎は避暑地にて菜穂子と運命的な再会を果たし、二人は恋に落ちる。菜穂子は重い結核にかかっていることを告白するが、二郎はそれを受け入れて二人は婚約する。その後、二郎は主力戦闘機の設計者に抜擢される一方で、菜穂子の症状は悪化の一途を辿っていく。

先が長くないことを覚った菜穂子は無理を押して療養先の病院を抜け出し二郎の元に駆けつける。こうして二人は短くも幸せな結婚生活を営む事になる。菜穂子は自らの身を顧みず妻として二郎を献身的に支え、果たして二郎は新型戦闘機(九試単座戦闘機)の開発に成功する。

けれどもまもなく菜穂子は亡くなり、二郎の畢竟の作ともいえる零戦はあの戦争における破壊と殺戮の象徴となった。それでも二郎は、菜穂子の存在を支えに「生きねば」と決意する。ここでこの映画は幕を閉じる。

⑸ 母なるもの

つまり、ここで菜穂子は「美しい飛行機」を作るという二郎の物語に無条件の母性的承認を与える役割を担っている。ここには従来の宮崎作品において幾度となく反復されてきたあるひとつの構造を見出すことができる。

これまでの宮崎作品においては「飛ぶ」という行為が、自己実現のメタファーとして幾度となく反復されてきた。これはまさに実家が戦闘機工場だった宮崎氏自身のルーツに根ざしていると思われる。

けれども思い返してみれば、従来の宮崎作品における男性主人公は皆、ヒロインからの無条件の母性的承認の下で初めて「飛ぶ」ことができている。すなわち、二郎にとっての菜穂子はコナンにとってのラナ、ルパン三世にとってのクラリス、パズーにとってのシータ、ポルコ・ロッソにとってのジーナ、ハウルにとってのゾフィーの系譜に連なる「母なるもの」を体現するヒロインへと位置付けられる事になる。

⑹ 母性の空を飛ぶということ

こう言ってよければ、これまでの宮崎作品の歴代男性主人公が飛んでいたのは徹頭徹尾、母性の空だったのではないか。そうであるとすれば、ここに男性的自己実現の不可能性を母性的承認によって疑似的に回復するという否定神学的な構造を見出すことができるように思えるのである。そしてこれは宮崎映画におけるホピュラリティを超えた、おそらく戦後日本社会における文化空間を、隠然と規定してきた構造であるともいえるのではないか。

こうしてみると、本作は戦闘兵器へのフェティシズムと母性的承認への依存という従来の宮崎映画を根底で駆動させて来た欲望を隠すことなく開陳した作品といる。そこにはある種の開き直りのようなものすら感じられ、ある意味で清々しいものがある。そういった意味で本作は宮崎氏の自己批評的作品ともいえる。





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