現実と幻想⑵ 作品論2


6 シン・ゴジラ

⑴  歴代ゴジラ映画と原子力

2016年に公開されるや否や、各界において大きな反響を呼び起こした映画「シン・ゴジラ」。総監督・脚本には「新世紀エヴァンゲリオン 」で知られる庵野秀明氏。監督・特技監督には庵野氏の盟友にして「平成ガメラシリーズ」の功労者、樋口真嗣氏。そしてその宣伝コピーは「現実対虚構」である。

ビキニ環礁水爆実験が行われた年に公開された「ゴジラ(1954)」はまさしく核兵器時代の恐怖を象徴する映画であった。ところがその後ゴジラ映画はシリーズ化され、5作目の「三大怪獣地球最大の決戦(1964)」辺りから、シリーズを重ねる毎にゴジラは「正義の味方」としての側面が強くなる。その背景には「原子力の平和利用」という今では欺瞞としか言いようのないキャッチコピーの下で「夢のエネルギー」「希望のテクノロジー」として原子力に未来を託す時代的空気があった事とは決して無関係ではない。

そしてシリーズ15作目「メカゴジラの逆襲(1975)」以降、長期の中断を経て久々に制作された「ゴジラ(1984)」においてゴジラは再び人類の敵として登場する。同作公開に先立つ1979年にはスリーマイル島原発事故が起こり、当時は原子力が持つ「夢のエネルギー」「希望のテクノロジー」というイメージに対して疑問符が付き始めた時代であった。

このように歴代ゴジラ映画と原子力は切っても切り離せない関係にあった。そして「ゴジラFAINAL WARS(2004)」以来、12年ぶりの国産ゴジラ映画として制作された「シン・ゴジラ」の背景には東日本大震災と福島第一原発事故があることは明らかである。

⑵  理想的なプロジェクトX

この点「シン・ゴジラ」はヒューマンドラマ的要素を徹底して排除し、その主題を「もしも現代日本に巨大不明生物が現れたらどうなるか」という一点に絞り切る大胆な構成を取り「理想的なプロジェクトX」として我々の生きる社会に巨大な問いを突きつけた。

この作品に内在する想像力をもっとも具象化した存在として市川実日子氏演じる尾頭ヒロミの名前が挙げられる。高速でキーボードを叩きながら自説を独り言のように早口でまくしたてる変人ぶりと、ゴジラの上陸可能性や核分裂可能性をいち早く指摘する優れた分析能力を併せ持った彼女の存在感は曲者揃いの「巨災対」の中でもひときわ強烈な印象を残す。

ある意味、尾頭はこの作品に内在する想像力をもっとも具象化した存在とも言える。すなわち徹頭徹尾、ゴジラを「敵」でも「災厄」でもなく「情報の束/データベース」として捉える。

本作の「現実対虚構」というキャッチコピーもそういった文脈に位置づけて読むことが出来るであろう。本作は経済大国の威風はもはや過去のものとなり今やすっかり自信を失った日本の「現実」に映画という「虚構」の力で介入しようとした。そして我々の生きるこの日常にも「原発」「テロ」「貧困」といった様々な形で「ゴジラ」は現れる。

こうした理不尽な「現実」と対峙する上で必要なのは、この世界と時代の光彩を「情報の束/データベース」として見はるかし、そして読み替えていく「虚構」の力なのではないのだろうか。


7 君の名は。

⑴  風景の発見

新海映画を特徴付けるもの。それは言うまでもなくあの緻密なまでに構築された美しい「風景」である。柄谷行人氏が「近代日本文学の起源」で述べるように、明治20年代の言文一致から始まった日本近代文学はごくありふれた無意味な風景を「写生」することで、その中に固有の意味を投射する「内面」を備えた〈わたし〉という鏡像を転倒した形で見い出そうとした。

これがいわゆる「風景の発見」と言われるものである。新海誠氏の作家的特異性は「セカイ系」という文脈を通じて現代アニメーションの中に新たな形での「風景の発見」をもたらした点にあるのは疑いない。

写真資料をもとにトレースされたその背景美術は正確な空間性と細密なディテール感からなる莫大な情報量を持ちつつも、現実の風景に含まれる余計なノイズを周到にオミットする事で高度な美的緊張と独特の叙情を生み出す新海映画における「風景」は現実の風景を幾重にも多重化させていくのである。

⑵  横切っていくもの

そして、新海映画における「風景」の最大の特徴が「横切っていくもの」にある。「雲のむこう、約束の場所」における「塔」然り、「秒速5センチメートル」におけるNASDAのロケット然り。キャラクターと背景美術が複雑にレイヤードされたその画面の上を一つの軌跡が突き抜けていくあのダイナミズム感溢れる構図である。

もっとも、初期新海作品おいて「横切っていくもの」は専ら「遥か彼方にある憧憬」を象徴する役割を担っていた。けれども「君の名は。」におけるティアマト彗星は「今、ここにある危機」を象徴するものとして描かれている。

⑶  新海映画におけるデタッチメントとコミットメント

このような変化は新海作品におけるストーリーテリングの作用点が変化した事と決して無関係ではない。本作のあらすじはこうである。東京に住む男子高校生の立花瀧と飛騨の山村に住む女子高校生の宮水三葉はある日、お互いの体が入れ替わってしまう。以来、突如始まった週何度か訪れる「入れ替わり生活」を戸惑いつつもそれなりに楽しむ2人。しかしこうした生活に突然終止符が訪れる。

三葉の身を案じた瀧は、記憶をもとに描き起こした糸守の風景スケッチを頼りに飛騨へ向かう。果たして三葉の住む糸守町は3年前にティアマト彗星の破片が直撃し、三葉を含めた住民500人以上が死亡していた。瀧は時空を超えて生前の三葉と入れ替わっていたのである。

「少年少女の関係性の断絶」。初期新海作品で幾度となく反復されたモチーフである。この点、初期の主人公達が取る態度は自己完結的なデタッチメントであった。「ほしのこえ」の昇は美加子との別離を「心を硬く冷たく強くする」ことで耐え「雲のむこう、約束の場所」の浩紀はヴァイオリンに佐由理の面影を求め「秒速5センチメートル」の貴樹は明里を想いながら宛先のないメールを打ち続けることになる。

これに対して本作の瀧と三葉は中期新海作品の流れを汲む「コミットメントする主人公とヒロイン」といえる。糸守の消滅と三葉の死という現実に直面してもなお諦めない瀧はかつて入れ替わり時に「口噛み酒」を奉納した糸守山上にある「あの世」ーーー宮水神社の御神体へ向かい、三葉の遺した「口噛み酒」の力を借り再び三葉と入れ替わりを果たす。そして彗星落下当日の糸守町での奮闘した後に「かたわれどき」において三葉と時空を超えて邂逅する。ここで見せる瀧の執念は「星を追う子ども」において、亡妻リサを蘇らせるため地下世界アガルタの果てを目指す森崎を想起する。

そして瀧と再び入れ替わった三葉は町長である父親を説き伏せ全町民の避難に成功。こうして大惨事は紙一重で回避される。ここでの三葉も泥臭いまでにコミットメントするヒロイン振りを演じる。こうした三葉の姿は「星を追う子ども」でアガルタを駆け回る明日菜や「言の葉の庭」で孝雄に追いすがる百香里に通じるものがある。

ここに我々は新海映画における「デタッチメントからコミットメントへ」という変遷を見る事ができる。こうして、かつての秒速5センチメートルにおいて描き出された「断絶とすれ違い」の構図は、本作ラストにおいて「断絶とめぐりあわせ」の構図として更新される。

このように本作は、新海作品の原点であるセカイ系構造を基盤としつつも、ストーリーテリングの作用点を「デタッチメントからコミットメントへ」と転回することで、作家性を手放すことなく幅広い共感を紡ぎ出すことに成功したのである。


8 この世界の片隅に(こうの史代)

⑴  自然主義的リアリズムの極致

本作は戦時下の日常を細やかに描きだし、その隙間に脱力した笑いを配置していく。本作の数々の日常描写は当時の配給事情や食料事情の綿密な調査に基づいており「楠公飯」をはじめとした「戦時レシピ」は原作者、こうの史代氏自身が実際に作ったみたという徹底ぶりである。

そして、周知の通り、本作はクラウドファンディングという当時としては斬新な資金調達により映画化され、ミニシアター系作品としては異例の大ヒットを記録した。本作の監督を務めた片渕須直氏は原作を読むや否や「これをアニメーションにしない手はないし、他のひとに委ねたくない、絶対に自分でやらなければいけない」と確信したらしく、映画の製作にあたっては徹底的な調査が行われ、当時の広島や呉の風景が恐るべき精密さでシュミレートされている。

このような「風景のリアリティ」を追求する手法は「アルプスの少女ハイジ(1974)」で高畑勲氏が確立した日本アニメーションにおける「自然主義的リアリズム」に由来する。

「自然主義的リアリズム」に基づく空間演出は写実的な背景と記号的なキャラクターの間にインタラクションを生み出すことで、キャラクターに「まさにそこに立っている」という確かな存在感、実在性を与えると言われる。そういった意味で本作映画は戦後の日本アニメーションが築き上げてきた伝統の到達点に位置している。

こうして徹底的に再現された当時の風景は映画と現実の壁を融解させていく。いわば半ば戦時日常ドキュメンタリーというべき本作は、次第に遠ざかりつつある「あの戦争」とこの現代を歴史的記述でもイデオロギーでもない「共感」という名の想像力によって接続しているのである。

⑵  戦時下の日常

昭和18年12月、18歳の浦野すずは草津の祖母の家で海苔すきの手伝いをしている時、突然縁談の知らせを受ける。急ぎ帰宅したすずが窓際から覗き見た相手は、呉から来た北條周作という青年だった。翌年2月、呉の北條家に嫁いだすずの新しい生活がはじまる。いつもぼんやりしていて危なっかしいすずは、北條家で失敗を繰り広げながらも、次第に周囲の人々に受け入れられていく。

本作は形式こそ4コマでは無いものの、そのテンポ感はいわゆるまんがタイムきらら的な「日常系」に極めて近いものがある。本作の描く戦時下の日常がどこまで当時の一般的な日常だったのかはわからない。けれどもこうした描写のひとつひとつが「あの戦争」と今の時代は地続きの日常であるという当たり前の事実を我々に再認識させるのである。

⑶  居場所のなさ

このように本作が前半で細やかに描き出した日常は、後半で容赦なく破壊されていく。すずは時限爆弾の爆発に巻き込まれ義理の姪である晴美を死なせてしまい、自身も右手を失ってしまう。

異郷の嫁ぎ先ですずを慕ってくれる妹のようでも娘のようでもある晴美はすずに間違いなく「居場所」を差し出していた存在であった。また、すずは右手を失うことで絵が描けなくなり、世界の中に自らの「居場所」を描き出す手段を失ってしまった。

よく知られているように、すずが右手を失って以降の本作の背景はほとんどが左手で描かれている。こうした左手で描き出された歪んだ世界の中で、すずが直面しているのはまさしく「居場所のなさ」である。

「居場所のなさ」。あの戦争が多くの人から奪ったのはまさしく「居場所」という人の生を規定する物語だったのではないかと。そう本作は問うているように思えてならない。

そして、こうした「居場所のなさ」から生じる感情が「生きづらさ」である。これは現代を生きる我々にもある程度、理解可能な感情ではないか。すなわち、本作は「生きづらさ」という比較的身近な感情を媒介項として「あの戦争」に思いを至らせるを可能とする。

⑷ 「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事

そして、故郷である広島への原爆投下。終戦を告げる玉音放送。出会い損なった記憶、飛び去った正義。こうした様々な喪失をすずは「記憶の器」としてこの世界に在り続ける事で乗り越える。忌まわしい記憶から目を背けず思い出を手放さないという選択である。

そして、本作の物語はすずが偶然広島で出会った原爆孤児を引き取る所で静かに幕を下ろす。こうした本作の結末は戦後の一時期盛んだった原爆孤児国内精神養子運動とも大きく共鳴している。すずと孤児を繋げたのは互いの境遇に想いを至らせる想像力であった。こうしてすずは新たなめぐりあわせを得ることで再び自らの「居場所」を取り戻したのである。


9 3月のライオン(羽海野チカ)

⑴  母性のユートピア

本作の主人公、桐山零は幼少時に事故で両親と妹を失い、父の友人であるプロ棋士、幸田に内弟子として引き取られた後、血の滲むような努力を重ね、若干15歳で見事プロとなる。けれどその一方で、幸田の実子である香子や歩との軋轢から幸田家に居場所を無くしてしまった零は幸田家を出て六月町にて1人暮らしを始め、1年遅れで高校に編入するも校内では孤立してしまい「本業」である対局でも不調が続いていた。

そんな折、零は橋向かいの三月町に住む川本あかり、川本ひなた、川本モモの三姉妹と出会う。彼女らとの交流を重ねる中で他者の温もりを知った零はこれまでの自分の殻を破り、先輩棋士である島田開との対局を機に島田の研究会に参加したり、担任である林田高志の勧めで学校の部活動に参加したり、徐々にではあるが他者へと心を開き始めるようになる。零にとって川本三姉妹とはいわば「母性のユートピア」を体現する存在である。

⑵ 一生かかってでも僕は君に、この恩を返す

こうした中、零の前に決定的な形で「母」として現れたのが川本家の次女、ひなたである。ひなたはクラスでいじめられていた親友を庇ったことで今度は自分がいじめの標的にされてしまう。それでもひなたは皆の前で「私がしたことは、ぜったいまちがってなんかない」と涙ながらに叫ぶ。そんなひなたの姿を見て、幼い頃に抱えた精神的外傷が「嵐のように救われる事」に気づいた零は「一生かかってでも僕は君に、この恩を返す」と静かに決意する。

こうして零はひなたのいじめ問題の解決に奔走し、ひなたの高校受験を支援し、果たしてひなたは無事志望校に合格した。けれども、ひなたがその高校生活のスタートを切った矢先に、川本姉妹の祖父、相米二が不整脈で入院してしまい、その間隙を縫うように、かつて不倫が原因で家を出て行った三姉妹の実父、誠二郎が唐突に現れる。

今もまた別の不倫問題を抱え込んでいる誠二郎は川本家に体よく現在の家族の世話を押し付けようとするが、その目論みを阻止するため零は誠二郎と真っ向から対決します。他人には関係ないと零の当事者適格性を論難する誠二郎に対して、零は(恐るべきことに当人にすら何の相談もなく)自分はひなたと結婚を考えていると宣言する。

⑶ 母性のディストピア

こうした零の奮闘と三姉妹の結束の前に誠二郎は去っていく。しかし同時に川本家に伏在する別の問題が浮き彫りになる。父に逃げられた後、母と祖母を立て続けに喪ったあかりはひなたとモモを育てるべく自らが「母」の役割をこれまでずっと負ってきた。しかしあかりが「母」の役割を全うしようとすればするほどに、あかり自身の幸福は遠のいていく。すなわち、これまで零が川本家に見た「母性のユートピア」とは、実は長年にわたり、あかりが「母」としてのコストを背負う事で成り立っていた「母性のディストピア」だった。

こうした状況を打開するための解決策としてあかりの伴侶を探すことを思いたった零は、先輩棋士である島田と恩師である林田に白羽の矢を立てる。しかしその一方で零の「婚約者」であるひなたは、あろうことか零があかりと結婚してくれることを願っていることが判明する。

⑷ ひなたの想い

ひなたの想いは複雑だ。ひなたも零に対して恋愛感情めいたものがないわけではないが、実父のトラウマを抱えるひなたは零の心もまた、あっけなく変わることを恐れていた。けれども、あかりという「母」ならば、きっと零を手離すことがあるわけがないという確信を持つひなたは、そこには皆がバラバラにならずにいつまでも一緒にいられる未来があると信じることができた。

つまり、ひなたもまたここで「母性のユートピア=母性のディストピア」を永続させる夢に囚われている。けれども文化祭の後夜祭、燃え盛るキャンプファイヤーの前で、零とひなたはあの「結婚宣言」以来のお互いのコミュニケーションの誤配を解きほぐしていき、ついにひなたは零の告白を受け入れていく。

こうしてみると、ある一面で零は自らが「父=治者」になる「コミットメント」から生じるコストを川本姉妹という「母=他者性なき他者」へと転嫁している。けれども、もう一面で零はひなたやあかりという「母」が背負ったコストを何かしらの形で分かち合い、誰もが幸福でいられる未来を、まさにそれは文字通り無敵の未来を手にするための「最善の一手」を探して今も必死になって足掻き続けているように思える。こうした意味で本作は「母性のディストピア」に規定されつつも、その発展的な解体を志向する作品であるといえる。


10 かがみの孤城(辻村深月)

⑴「願い」をめぐる物語

この点、第31回メフィスト賞を受賞した辻村深月氏のデビュー作「冷たい校舎の時は止まる(2004)」は宇野氏のいうゼロ年代的な「サヴァイヴ感」に彩られた作品であった。同作のあらすじは大学受験を控えたある冬の日に無人の校舎に閉じ込められた8人の生徒達が、なぜか皆が一様に忘却してしまっている学園祭で自殺したクラスメイトの名前を探し続けるというものだ。そして同作を構成する主要ないくつかのモチーフを発展的に継承した上で、そこに「バトルロワイヤル=リトル・ピープル」における「つながり=兄弟/姉妹的対幻想」という想像力を全面に導入した辻村氏の作品が2018年に本屋大賞を受賞して昨年にはアニメーション映画にもなった本作「かがみの孤城」である。

本作の主人公である中学1年生の安西こころは中学に入学した4月以来、とある理由で学校に行けなくなっていた。そんなある日、こころは部屋の鏡を通じて異世界の城の中に引き摺り込まれてしまう。狼のお面を被り「オオカミさま」を自称する謎の少女は次のように状況を説明する。

こころはこの城にゲストとして招かれた7人の子どもたちの1人であること。この城には1人だけ入れる「願いの部屋」があり、今日から3月30日までの期間中、こころたちは城の中で「願いの部屋」に入る鍵探しする権利があること。「願いの部屋」が開いた時点で3月30日を待たずこの城は閉じるということ。

城が開くのは毎日9時から17時の間で、17時を過ぎた時点で誰かが城に残っていると、ペナルティーとしてその日に城に来た全員が狼に食べられるということ。城にはゲスト以外出入り不可であり、ゲスト以外の前で鏡は光らないということ。

そして以上のルールを守る限りここでの過ごし方は自由であること。

⑵ ゼロ年代的決断主義の超克

このような設定は例えば辻村氏のデビュー作と同時期に発表され、ゼロ年代を代表するPCゲームとなった「Fate/stay night(2004)」における「聖杯戦争」のような状況を想起させる。けれどもここから熾烈な「願いの部屋」をめぐる「鍵探し」の「バトルロワイヤル=リトル・ピープル」に突入するかというと、そうはならないのである。こうした意味で本作はゼロ年代的な決断主義を超克したすぐれて2010年代的な想像力で描かれている。

この「願いが叶う城」に招かれた7人は、平日の日中に「ここ」にいることから、全員がこころと同じように学校に行っていない子どもたちと推測された。こころたちは基本的に来たい時に城に来て、その時たまたま居合わせたメンバーとゲームをしたりお茶をしたりして、城の中での時間をそれなりに満喫している。

もとより、こころも自分を不登校に追い込んだ女子生徒をこの世から消し去りたいという薄暗い「願い」を持ってはいたが、それ以上にこころの中で、この城で皆で過ごす時間がかけがえのないものとなっていた。

⑶ 新たに判明したルール

そして「鍵探し」が始まってから半年が経った10月のある日、皆での話し合いの結果「鍵探し」は共同でやることにして、仮に鍵が見つかってもすぐに使わずに、3月いっぱいまで城を使える状態にしておくことが決まった。ところがそこに「オオカミさま」が突如現れ、一つ言い忘れていたなどと言いながら次のようなルールを告げる。

それは鍵を使って誰かが「願い」を叶えた時点で全員がこの城で過ごした記憶を失うけれど、誰も「願い」を叶えなかった場合は「城の記憶」は引き継がれるというルールである。

この新たに判明したルールを巡り、あくまで「願い」に執着するメンバーと「城の記憶」を優先するメンバーとで意見が割れてしまう。ところがある出来事をきっかけに、メンバー全員がこころと同じ「雪科第五中学」に通うはずで、通えていない生徒であることが判明します。こうしてこころ達は現実世界でも「助け合える」かもしれない可能性を見出していく事になる。

⑷「つながり」よりもさらに深いところで

私たちは、助け合える--本作を貫くこのテーゼはひとまずはゼロ年代の想像力の到達点である「つながり=兄弟/姉妹的対幻想」の思想の系譜に属するものといえる。もっともその一方で本作は「つながり」の中で泡立つ「他者性」を幾度となく強調する。こころ達は当初全員がそれぞれ「同じ」ような境遇にあると推測していたが、交流を重ねるうちにお互いの「違い」に直面し、その度に戸惑ったり苛立ったりする。

そして全員が「同じ」中学にゆかりのある生徒だと判明した後にも決定的な「違い」が突きつけられることになる。けれども本作は、こうした「つながり(同じ)」の中で泡立つ「他者性(違い)」があるからこそ「つながり」よりもさらに深いところでお互いに「助け合える」という逆説を描き出していくのである。


11 天気の子

⑴  あなたとともに乗り越える

「天気」という題材は、繊細な美術や光の表現において他の追随を許さない新海作品にとってはまさに独壇場といえる。実際に本作における灰色の雨天を切り裂き、突き抜けるような青空が現れるシーンのコントラストは息をのむほど美しい。

また本作では歓楽街や廃虚といったこれまでの新海作品ではあまり描かれなかった「猥雑な風景」や「退廃的な風景」がクローズアップされているのも特徴である。これは本作の扱うテーマと深く関係しているものと思われる。

本作の副題である「Weathering with you」。これは「天気」という意味と何かを「乗り越える」というダブルミーイングになっている。本作の物語に照らし合わせれば「あなたとともに乗り越える」という訳がふさわしいのかもしれない。

⑵  100%の晴れ女

令和3年夏、関東地方は降りしきる雨の日々が続いていた。高校1年生の森嶋帆高は離島を飛び出し上京するもネットカフェ暮らしの末に経済的に困窮し、上京途中のフェリーで偶然知り合った須賀圭介が営む零細編集プロダクションでオカルト雑誌のライターとして雇われる。そこで耳にしたのは「100%の晴れ女」という都市伝説であった。 そして、とあるきっかけで帆高が出会ったのが天野陽菜という少女である。果たして彼女こそが短時間、局地的にせよ、確実に晴れ間を呼び寄せる「100%の晴れ女」であった。

⑶ 「世界か少女か」

多くの人が指摘するように本作は「雲のむこう、約束の場所」への再挑戦でもある。本作のクライマックスにおいては、あの古典的なセカイ系二択、すなわち「世界か少女か」という問いが更新されることになる。

新海作品初の長編映画として2004年に公開された「雲のむこう、約束の場所」はまさにセカイ系の臨界点に位置する作品と言える。ヒロインの沢渡佐由理は南北に分断された世界の命運を握る「塔」の抑制装置として夢の世界に閉じ込められている。佐由理の目覚めは世界の滅亡と同義である。ここに「世界か少女か」というセカイ系的二択が示される。

この点、主人公の藤沢浩紀はあくまで二兎を追う。自作飛行機ヴェラシーラを3年越しで完成させ、南北開戦の間隙を縫って佐由理との「約束の場所」である「塔」へと飛び、佐由理を夢の世界から連れ戻すと同時に「塔」をPL外殻爆弾で見事破壊する。

ここでは一見、浩紀は世界も佐由理もどちらも救ったかのように見える。けれども、佐由理は目が覚めると夢の世界で抱いていた浩紀への想いも全て忘れてしまっていた。要するに、浩紀は世界を救った代償として佐由理のセカイを救えなかったということである。 ⑷  狂った世界でセカイを生きる

これに対して今作の帆高には二兎を追う選択など微塵もない。帆高は迷いなく陽菜のセカイを救い、その代償として世界を狂わせる。ただ、ここで重要なのは本作が世界を「完全に」壊したのではなく「部分的に」壊した点にある。

つまり本作が問うているのは「世界か少女か」などという青臭い二択ではないということである。端的に人ひとり救うために世界を「部分的に」壊すという決断を我々は倫理の問題として「どの程度まで」受け入れるべきかという極めて現実的な問いがここにはあるのである。





目次に戻る