現実と幻想⑵ 作品論3


12 鬼滅の刃(吾峠呼世晴)

⑴ 王道回帰と現代的批判力

時は大正。世の中では夜になると鬼が人を襲うという事件が起こっていた。主人公、竈門炭治郎は炭焼きをして家族の暮らしを支えていたが、ある日いつものように町に炭を売りに行った炭治郎が家に戻ると、一家は鬼に惨殺されており、唯一生き残った妹、竈門禰󠄀豆子は鬼と化していた。

禰󠄀豆子に襲われかけた炭治郎を救った鬼狩り、冨岡義勇は禰󠄀豆子を退治しようとするも、禰󠄀豆子は普通の鬼と何かが違う事に気づき、炭次郎に鬼殺隊へ入ることを勧める。「育手」である鱗滝左近次の下で2年間もの厳しい修行を積んだ炭次郎は見事、最終選別を突破して「鬼殺隊」に入隊する。こうして炭次郎は禰豆子を人間に戻す方法を探すため、同期の我妻善逸、嘴平伊之助とともに鬼狩りとして鬼との戦いに明け暮れる。

本作は2019年4月のアニメ放送がきっかけで人気に火がつき、単行本はアニメ放送以降、飛ぶように売れまくり、4月の時点で350万部だった発行部数は、11月には2500万部、2020年1月には4000万部、5月には6000万部、劇場版「無限列車編」が公開された10月には史上最速で1億部を突破する。そして周知の通り劇場版の興行収入は「千と千尋の神隠し」の316億円を抜き、日本映画史上最高の404億円に達した。

まず本作はジャンプ作品の系譜的には「NARUTO」「BLEACH」「銀魂」といった「和風剣戟奇譚」の後継的な立ち位置になるが、本作の随所に感じるのはむしろ90年代ジャンプ作品の影響である。

具体例を思いつくままにあげれば、炭次郎の熱さや実直さは「聖闘士星矢」の星矢や「ダイの大冒険」のダイの面影があり、敵である鬼の不気味さや儚さは「幽☆遊☆白書」の妖怪を彷彿させる。また「柱」や「十二鬼月」といった強キャラ集団はやはり「聖闘士星矢」の黄金聖闘士だったり、あるいは「るろうに剣心」の十本刀や「封神演義」の十天君などを想起させる。あと本作のギャグセンスはどことなく「セクシーコマンドー外伝・すごいよ‼︎マサルさん」のナンセンスに通じるものがある。

こうした様々な「90年代感」が流れ込み、渾然一体となって蠢いているような空気感を本作には感じるところがある。本作は親子でファンになるケースが多いと側聞するが、これも本作の持つ「90年代感」と無関係ではないだろう。おそらく本作に親世代の方は懐かしみを覚え、子供世代の方は新しさを感じたのではなかろうかと思われる。

そして同時に本作は「魔法少女まどか☆マギカ」や「進撃の巨人」と同様「外部からの脅威」を描く「絶望系ファンタジー」の構造を持っている。もっとも「まどか」における「魔女」や「進撃」における「巨人」の正体は当初のうちは不明であり「進撃」の主人公、エレン・イェーガーの「駆逐してやる!」という有名な台詞が象徴するように、ここで作動するのはもっぱら「排除」の論理であった。これに対して、本作における「鬼」の正体が人間である事は当初から自明であり、むしろ炭治郎は禰󠄀豆子を始めとする鬼達を人間に戻すために奮闘する。すなわち、ここでは「排除」に対して「包摂」の視点が導入されている。

グローバル化の反作用としてのテロリズムやプレグジット、様々なクラスターや格差による社会の寸断、見たい現実と信じたい物語の中に引きこもるポスト・トゥルース的欲望など、2010年代はまさしく「排除の時代」であった。この点「魔法少女まどか☆マギカ・叛逆の物語」「この世界の片隅に」「天気の子」など、2010年代を象徴するアニメーション作品の多くは程度の差はあれ、こうした「排除の時代」に対する批判力を宿していた。そして「排除」に対して「包摂」の視点を導入する本作もまた、この系譜に連なると言える。そういった意味で本作は少年漫画の王道に回帰しながらも現代的な批判力を備えた作品と言える。

⑵ ソーシャルスキル入門としての「鬼滅」

また一方で本作は、その設定や描写において、現代的なソーシャルスキルが導入されている点も大きな特徴である。例えば鬼殺隊の操身術である「全集中の呼吸」は、近年、精神医療からビジネスシーンに至る様々な分野で注目を集める「マインドフルネス」を容易に連想できる。マインドフルネスにおいては呼吸に意識を集中する「集中瞑想」や身体反応に気づく「洞察瞑想」といった訓練により脳の機能を活性化させて、注意制御能力、身体知覚能力、情動調整能力などのメンタルスキルを向上させていく。本作でも炭次郎が修行の一環として瞑想を行うシーンが描かれている。

劇場版において一騎当千の圧倒的存在感を見せつけた炎柱、煉獄杏寿郎の「呼吸を極めれば様々なことができるようになる。なんでもできるわけではないが、昨日の自分より確実に強い自分になれる」という言葉が端的に示すように、全集中の呼吸が鬼に立ち向かうための有用な技術であると同様、マインドフルネスもストレス過剰な現代社会でメンタルを壊さないための有用な技術である。

また炭次郎の振る舞いはアドラー心理学における「勇気づけ」そのものである。ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユングとともに「心理学の三巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーは、神経症を形成する歪んだライフスタイルとしての「劣等コンプレックス」から健全なライフスタイルである「共同体感覚」へ変容させていくための実践として「勇気づけ」の技法を提唱した。

この点、本作はまさに「勇気づけ」の実践例集のようである。炭治郎は様々な場面で、自らを勇気づけ、仲間を勇気づけ、さらには敵である鬼さえも勇気づける。こうした炭治郎の振る舞いは少年漫画の本来の読者層である子ども達に確実に良い意味での影響を与えていると思う。また炭次郎のみならず、鬼殺隊を統括する「お館様」こと産屋敷耀哉も「勇気づけ」に基づいたマネジメントを実践する組織のリーダー像を提示しているといえる。

マインドフルネスに勇気づけ。おそらくこうした本作の「実用的」「教育的」「自己啓発的」な側面が普段漫画やアニメを嗜まない層にまで訴求する一つの要因になったのではないではないか。こうしてみると 本作の中には少年漫画やアニメーションといった「虚構」によって「現実」を多重化させる「拡張現実」の回路を見出すことができるのである。


13 空の青さを知る人よ

⑴ 母なるものへの囚われ

ユング派分析家としても知られる臨床心理学者、河合隼雄氏は不登校児における「グレートマザー」の元型作用を指摘していたが、岡田麿里さんの自伝「学校に行けなかった私が『あの花』『ここさけ』を書くまで(2017)」はまさにこうしたユング的な臨床例として読めてしまう。

同書で岡田氏がユーモアを交えながらかなり赤裸々に綴る不登校時代の屈折したエピソードの中には、後に岡田麿里脚本をしばし彩る「母なるものへの囚われ」とでもいうべきモチーフの原風景を見出す事ができる。

ここでいう「母なるもの」とは実際の母親に限らず、いわば河合氏が言う「グレートマザー」を体現する存在をいう。自伝から拝察するに岡田さんの場合は周囲を山に囲まれた盆地である秩父という土地自体がグレートマザーとして立ち現れていたようにも思えるのである。そして、グレートマザーは「育て慈しむ」という明の部分のみならず「呑み込む」という暗の部分を持ち合わせている。こうしたグレートマザーの暗の部分が「母なるものへの囚われ」として、しばし岡田脚本を規定しているように思えたりもするのである。

⑵ 母と子の物語たち

例えば「true tears(2008)」のヒロイン石動乃絵は祖母の死別をきっかけに泣けなくなってしまい、もう1人のヒロイン湯浅比呂美は主人公の母親である仲上しをりと折り合いが悪かった。また「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(2011)」の主人公宿海仁太は幼馴染の本間芽衣子の死がトラウマになっていた。あるいは「心が叫びたがっているんだ。(2015)」のヒロイン成瀬順は両親の離婚がきっかけに喋れなくなり、以来実母との折り合いが悪い。これらの作品は「母なるものへの囚われ」を「子」の視点から描き出していると言える。

そして「さよならの朝に約束の花をかざろう(2018)」においては、不老長寿の種族、イオルフの少女マキアは人間の孤児エリアルを拾い育てるが、エリアルは長じるにつれて歳を取らず実母でもないマキアとの関係に葛藤を抱えることになる。同作は「母なるものへの囚われ」を「母」の視点から描き出していると言える。

⑶「母なるもの」からの解放としての「失恋」

そして本作でも「母なるものへの囚われ」というモチーフはしっかり生きている。主人公、相生あおいは高校を卒業したら地元秩父を出て東京でバイトしながらバンドで天下を取ると決めていた。あおいは山に囲まれた地元秩父を(まるでかつての岡田さんのように)「巨大な牢獄」だと呼び、両親が他界して以来親代わりになってくれた姉あかねに対して感謝と反発が入り混じるアンビバレントな感情を懐いていた。

あおいは乃絵や順と同様、思い込みで世界を色々と勝手に決めつける実に岡田麿里的少女であるといえる。そしてやはり乃絵や順がそうであったように、あおいもまた「失恋」によって「母なるもの」から解放される。ここには岡田麿里的失恋譚の美しい反復を見ることができる。

⑷「母なるもの」を祝福する「失恋」

もっとも、あおいの「失恋」には乃絵や順のそれとは決定的に異なる点がある。ここでトリックスターとしての役割を果たすのが、かつて姉の恋人であった金室慎之介の「生き霊」として現れる「しんの」である。

超平和バスターズ三部作の特徴のひとつに、主人公あるいはヒロインの心的世界における幻想が現実世界に実体化して登場する点にある。「あの花」では不登校になった仁太の前に芽衣子が「幽霊」として帰ってくる。また「ここさけ」で順は「玉子の妖精」の呪いにより声が出せなくなる。そして本作であおいの前に「しんの」は13年前の高校生の姿で「生き霊」として登場するのであった。

あおいにとってしんのは「生き霊」であるが、しんのからすれば13年後へのタイムスリップである。状況を理解したしんのはあかねと現在の慎之介が寄りを戻せば自分は慎之介と融合できると推測するが、その一方であおいはかつてと変わらず自分を可愛がってくれるしんのに想いを寄せていく。

けれども、あおいは自分を育てる為にあかねが日々綴っていた養育ノートを発見し、自分はしんのと同じくらいにあかねのことが大好きなんだと自覚する。こうしてあおいの奮闘によりしんのはあかねと再開し、果たして慎之介とあかねは結ばれる。そして物語は「ああ空--くっそ青い」というあおいのモノローグによって静かに幕を下ろす。

ここには「true tears」や「ここさけ」を乗り越えた瑞やかな結末がある。乃絵や順の「失恋」は相手から「選ばれなかった」結果としての、いわば受動的な失恋である。これに対して、あおいの「失恋」は姉の幸せを願い、自らが「選び取った」結果としての、いわば能動的な失恋である。こうした意味で本作は「母なるもの」からの解放と同時に「母なるもの」を祝福する「失恋」の物語であったように思えるのである。


14 ジョゼと虎と魚たち

⑴ 物語の力を描き出した物語

人が世に棲まうためには、その人の生を基礎付けるための内的幻想、すなわち「物語」を必要とする。「物語」は人が生きていく中で生じる様々な出来事を了解する媒介となる。この点、現代における最も強力な「物語」は「科学」である。「科学」はさまざまな出来事に対して明晰な説明を与える。けれども、人は自らが遭遇したあらゆる出来事を「科学」だけで割り切れるとは限らない。とりわけ不幸な出来事に直面した時、人は「科学的説明」という客観的な「物語」とは別に、その出来事が「その人にとって」どういう意味を持つのかという主観的な「物語」を必要とする。

アニメーション映画「ジョゼと虎と魚たち」は、こうした意味での「物語」が持つ力を、まさに「物語」として描き出した作品であった。


⑵ 全く新しいジョゼの物語

芥川賞作家、田辺聖子氏による同名の短編集(1985年刊行)に収録された本作の原作小説は、僅か30頁足らずの分量ながら極めて耽美的かつ退廃的な世界観を持った珠玉の小品である。そして犬童一心氏が監督を務めた同作の実写映画(2003年公開)は、原作の持つ特異的な世界観をさらに深め押し広げることで、ゼロ年代初頭に一世を風靡した「セカイ系」の臨界点へと到達した日本映画史に残る傑作となった。

正直「ジョゼ」がアニメーションとして再び映画化されるという話を聞いた時は本当に驚いた。今更何を作ろうというのか、どう考えてもあの映画以上のものが作れるはずがないと、普通にそう思った。けれども他方でティザービジュアルとして提示された、気だるそうに机に突っ伏していながら強い何かを宿した眼差しをこちらへ向けるジョゼの姿にはどこか惹かれるものがあった。そのうち、もしかしてこの映画はただの懐古趣味ではなく、これまでのジョゼを打ち破る、全く新しいジョゼを本気で描き出そうとしているのではないかという、そんな気もしてきた。

果たしてその予感は的中した。これまで原作小説と実写映画が築きあげてきた世界観を踏まえた上で、現代的なアップデートを成し遂げた「物語」として、ジョゼは再びスクリーンに帰ってきた。

⑶ 転倒するセカイ

本作の中盤までのあらすじはこうだ。海洋生物学を専攻する大学生、鈴川恒夫は、自身の夢である留学の資金を貯めるため、バイトを掛け持ちする日々を送っていた。そんなある日、バイト帰りの恒夫は坂道を転げ落ちてきた車椅子の女性、山村クミ子こと「ジョゼ」を偶然助け出す。

生来、下肢に障害を持つジョゼは祖母である山村チヅの庇護の下、これまでずっと他人と関わらず自分だけの閉じた世界の中で生きてきた。24歳らしからぬ少女めいた髪型と服装。その性格は高飛車かつ人見知りで情緒不安定。ジョセにとって外の世界とは「恐ろしい猛獣ばかり」の世界でしかなかったが、恒夫は成り行きからチヅにジョゼの世話を託され「管理人」としてジョゼを外の世界に連れ出していく。

「難病少女」と「優しい青年」の「心温まる交流」。こうした本作の中盤までの展開は、確かに典型的な「セカイ系」構造の反復といえる。けれども、本作は中盤以降でその構造を見事に転倒させてしまう。

⑷ 夢と現実と物語

本作中盤において、恒夫はこれまで彼の生を基礎付けてきた「物語」を完全に破壊される事になる。この点について本作は、極めて詳細な医学的説明を行なっている。けれど、むしろその説明が詳細であればあるほど、まさに医療技術は「身体」は修復できても「物語」を修復できないということが如実に描き出されることになる。

けれども恒夫が機能回復訓練をやり抜き、再び留学のチャンスを掴むには新しい「物語」が必要だった。そうした中で、ジョゼが優しい絵と共に紡ぎ出したのはまさしく、恒夫にとっての新たな「物語」であった。

そして、こうした「物語」の創造はジョゼにとっても大きな転機となった。庇護者であった祖母が逝去した後、1人になったジョゼは今後の身の振り方を考えなくてはならなかった。「絵で生きていく」という仄かな夢を懐き始めていたジョゼに対して、近所の民生委員は夢ではなく現実を見ろと説教する。また「恋敵」である舞は恒夫はジョゼに同情しているだけだと言い放つ。こうした容赦なき「現実」を前に、ジョゼは「夢」を切り捨て「自立」しようと決意する。

けれど恒夫を救うため「物語」を創造する中で、自らの「夢」を再発見したジョゼは「夢」を手放さないままに「現実」を生きていく「自立」の道を選び取る。すなわち、ジョゼもここで祖母の死を乗り越える為の自らの「物語」を様々なめぐりあわせの中で紡ぎなおしていったという事であった。

⑸ 物語を紡ぎなおすという事

物語を紡ぎなおすという事。それはいわば内的意味での「死と再生」に他ならならない。そしてそれは、お仕着せの「正しい物語」なき現代を生きるすべての人にとっての普遍的なテーマと言える。

そういった意味で、本作はセカイ系の臨界を突破して、瑞やかな「愛のかたち」を提示するとともに、現代に相応しい「死と再生」を描き出した作品だといえるのである。

原作が「昭和のジョゼ」であり、実写映画が「平成のジョゼ」だとすれば、今回のアニメーション映画は疑いなく名実ともに「令和のジョゼ」と呼ぶに相応しい作品である。「物語」は人を救えるんだということを、本作から改めて教わった。


15 シン・エヴァンゲリオン

⑴ 時に、西暦1995年

戦後50年目にあたる1995年という年は戦後日本社会が曲がり角を迎えた年であった。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件に象徴されるこの年は、平成不況の長期化により戦後日本を支えた経済成長神話の崩壊が決定的となり、社会的自己実現への信頼低下による若年層の実存的不安が前景化した年でもあった。

この1995年以降、日本社会ではいわゆる「ポストモダン」と呼ばれる状況が急速に進行することになる。もはや社会共通の価値観である「大きな物語」の支えがない以上、人はそれぞれ何らかの「小さな物語」に回帰して自らの生を基礎付けていくしかないことになる。そして、こうした時代の転換点に見事なまでのシンクロを果たした作品が「新世紀エヴァンゲリオン」であった。

⑵「おめでとう」と「キモチワルイ」

周知の通り、エヴァは1995年秋よりTV版全26話が放送され、1997年春夏には劇場版2作(旧劇場版)が公開された。この二つのエヴァの物語で提示されたのは「おめでとう」と「キモチワルイ」という両極端な「他者」であった。

エヴァTV版最終話における「おめでとう」という「承認」は「大きな物語」なきところで生じる実存的不安に対してひとまずの処方箋として機能した。エヴァになんて乗らなくてもいい。僕はここにいてもいい--社会的自己実現なんてどうでもいい。引きこもって何もしなくても、いつかきっと奇跡が起きて天使が舞い降りるから--当時、あのラストにこうした祝福を見出した人も少なくなかったはずだ。

もちろん、そんなものは所詮まやかしでしかなく、結局のところ何はともあれ、人はこの正解のない現実を試行錯誤しながら生きていくしかない。こうしてエヴァ旧劇場版は「おめでとう」の祝福に縋る「エヴァの子供たち」を突き放すかのごとく「キモチワルイ」という「拒絶」によって終劇する。

「おめでとう」と「キモチワルイ」。ここで提示された両極端な「他者」の中に「物語の中で他者をいかに描くか」という、いわば「エヴァの命題」を見出すことができる。そして、この「エヴァの命題」こそがある意味で現代サブカルチャーの想像力を今日に至るまで規定してきたとも言えるのである。

⑶ ポスト・エヴァの想像力

この点、ゼロ年代における想像力は、90年代後半における社会的自己実現の信頼低下を背景に、エヴァTV版が描き出したような「他者性なき理想郷としての世界=セカイ」を無条件に擁護する想像力から出発した。その後、米同時多発テロや新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢を背景に、セカイとセカイがお互いの正義を賭けて衝突する「バトルロワイヤル」を生き抜くための想像力が台頭した。そんな中で、スマートフォンとソーシャルメディアの登場を背景に、セカイとセカイのあいだに新たな社会的紐帯としての「つながり」を見出していく想像力が生まれた。

わたしのあなたのセカイは違うけど、それでも互いにつながることができる。物語の交歓から芽生える可能性としてのつながり。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思える。

けれども、こうした「つながり」が一度閉じたものになるのであれば、それは「新たな小さな物語」となり、その内部には同調圧力を発生させ、その外部には排除の原理が作動する。これはいわば「つながりのセカイ化」としての「つながり過剰」である。いわばセカイとセカイの紐帯であったはずのつながりに再びセカイが回帰してくるという事である。

こうした「つながり過剰」の病理はとりわけ東日本大震災以降、年々加速傾向にあり、そういった意味で2010年代とは様々な「つながり」たちによる「動員と分断」の時代でもあった。要するこの10年は「つながり」の希望が次第に失望に変わっていった10年であった。

⑷ 再起動するエヴァ

セカイからバトルロワイヤルへ。つながりから動員と分断へ。こうしてみると、ゼロ年代以降の想像力は「おめでとう」と「キモチワルイ」の両極を振り子のように揺れ動いてきたともいる。そして、こうした振り子運動の中にエヴァ新劇場版の展開も位置付けることができるのである。

2007年、エヴァは全4部作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」として再起動した。その第1部「序(2007)」はTV版の6話までをほぼなぞるような構成であるが、シンジやミサトの台詞の言い回しなど、その随所に僅かながらも旧作からの変化の兆しが見て取れる。

続く第2部「破(2009)」では、新たなキャラクター、マリが登場し、ここから新劇場版はTV版と異なる展開へと突入する。何よりも本作で驚かされるのがシンジ、アスカ、レイの変化である。かつてのチルドレン達は三者三様、何かしらの心の歪みを抱えていた。しかし本作では一転して三者三様、それぞれが不器用ながらも他者を思いやり、手を差し伸べようとする。まさしく、ゼロ年代後半における「つながり」の希望と同調し「おめでとう」へ向かったのが「破」の物語であった。

そして第3部「Q(2012)」では、ニアサードインパクトによって破滅した14年後の世界が描かれた。14年ぶりに目覚めたシンジはアスカやミサトから敵視され、この世界のレイはかつて救ったはずのレイとは別人であり、唯一の理解者であったカヲルは最後に惨殺されてしまう。ここでシンジは様々な「つながり」から疎外される事になります。すなわち、2010年代における「動員と分断」における絶望を体現し「キモチワルイ」へ振り切れたのが「Q」の物語であった。

こうして「Q」から8年余りの歳月が過ぎた2021年3月、ついにエヴァの物語は完結を迎えることになる。

⑸ この「答え」をどう受け止めるか

総上映時間2時間35分。詰め込めるものは詰め込めるだけ詰め込もうとする制作サイドの強い意思を感じる圧巻のボリュームである。筆者は公開されてすぐに某シネコンで本作を鑑賞したが、まずシアター内の空気感からしてもう、いつもと全然違うのである。

あの異様な空気感を言葉にするのはなかなか難しいが、話題の映画だから早速観に来ましたとか、そういうお気軽な感じとは明らかに異なった、なんというか全人格を賭けてこの作品と「対決」しようする並々ならぬパッションが至る所からひしひしと伝わって来た。本当に創る方も尋常じゃなければ観る方も尋常じゃない。やはり25年という歳月は重いと言わざるをえない。

筆者自身はお世辞にもコアなエヴァオタとは言えないが、それでも自分自身のこれまでの生を「エヴァンゲリオン」という固有名詞を抜きにして語ることなど到底不可能だと思う。この生の然るべき時期にエヴァという作品に出逢ったということ。そして冒頭から長々と書き連ねたようにエヴァの置き残した「問い」にずっと囚われ、導かれ、魅了されてきたということ。そうした諸々の事実は少なくとも筆者の中では数少ない確かな真実であったと思う。

そして今回、かつてエヴァの置き残した「問い」に対する一つの「答え」が今ついに、他ならぬエヴァ自身から提出されるというのであれば、その事実こそがまさに重要であり、正直なところ「答え」の中身はわりとどうでもよかった。だからあの2時間35分を観終わった後の偽らざる感想は肯定でも否定でもなく、ただただ感謝しかなかった。おめでとう、そして、いままでありがとう、この瞬間に立ち会えてうれしかった--本当にそれしかなかったと思う。

⑹「現実」とは何か

果たして本作はこれ以上なく爽やかな「おめでとう」という「終劇」を描き出した。けれども、それは万人にとっての「おめでとう」ではない。むしろメタレベルでは旧劇以上にわかりやすくスマートに「キモチワルイ」を突きつけられたと感じる人も少なからずいたはずである。

本作はこれ以上ないくらいに「現実」を肯定する。これはある意味で例の「現実に帰れ」という旧劇におけるメッセージの反復でもある。けれども旧劇が虚構批判を反転させた形での現実回帰だったのに対して、本作は屈託のない手放しの現実賛歌という点で決定的な差異がある。

現実に帰れ、そしてこの現実をまっとうに生きろ--こうした本作のメッセージに対して、それは時代錯誤の理想論だとか、あるいは自己愛的な懐古趣味だとか色々と批判したくなる気持ちもそれはそれでわからなくもない。けれども、そもそも我々が「現実」と思っているものは、所詮は我々自身が現象と言語で構成した人それぞれの特異的な「現実」に過ぎないのである。本作の肯定する「現実」が必ずしも我々の肯定すべき「現実」とは限らない。

それぞれの「現実」をまっとうに生きていくということ。それはもちろん様々な「キモチワルイ」に直面する「現実」を耐え忍ぶ事でも諦める事ではなく、むしろ我々一人ひとりが自分なりに「おめでとう」といえる「現実」を「発明」するということではないだろうか。


16 竜とそばかすの姫

⑴ 公共性と普遍性

よく知られるように細田守氏は映画制作における「公共性」と「普遍性」への志向をしばし公言している。過去の発言をみるに、氏にとって「公共性」とは、いわゆる「アニメファン」を超えた幅広い層への訴求力を意味しており、一方で氏にとって「普遍性」とは、明るく楽しい娯楽性と映像史における革新性の両立を意味しているようである。

そして氏の作品を観れば、少なくとも細田映画の志向する「公共性」と「普遍性」とは誰も傷つかない「無難な作品」とは程遠いところにあることがわかるだろう。だからこそ氏の新作が公開されるたびに様々な文脈で激しい賛否両論が巻き起こり、我々はその度に社会における公共性とは何か、人としての普遍性とは何かを考えさせられる事になるのである。

⑵ インターネットの病理と希望

細田氏の代表作の一つ「サマーウォーズ(2009)」はソーシャルメディアが普及し始めたゼロ年代後半という時代における「公共性」と「普遍性」を志向した作品であるといえる。 同作では近未来的な情報ネットワークと前近代的な大家族ネットワークという一見すると相反的な二つのネットワークの連関が産み出す力で、情報ネットワークの暴走の産み出す「悪」へと抗っていく構図が提示された。

このような構図はゼロ年代初頭に世界的ベストセラーとなったアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの手による政治哲学書「帝国」が描き出したグローバル環境化における市民運動モデルとしての「マルチチュード」を容易に想起させる。 おそらく同作にはソーシャルメディアの普及した未来が産み出すある種の希望が託されていたのではないか。

そして今年公開の最新作「竜とそばかすの姫」は、端的に言えばサマーウォーズのアップデート版となる。あの頃は多分に未来予測的であったインターネットの病理が今回は現実認知的に描き出されるのである。

グローバル資本主義とポリティカル・コレクトネスを至上原理として戴く2010年代のインターネットは世界を共感と排除で切り分ける二分法的思考を加速させた。本作はこうしたインターネットの病理に焦点を当て、その上で「つながるはずのないものをつなげる」という、インターネットの原点にあるはずの希望を再び肯定しようとした物語といえる。

⑶ 細田映画のベストアルバム

こうした「SW2.0」とも呼べる基本的構図の上に、本作では歴代細田映画を駆動させた様々な要素がこれでもかというくらいに投入されていく。

例えば「時をかける少女(2006)」において真琴は偶然手に入れたタイムリープ能力で何度も同じ時間を繰り返すが、本作の主人公、すずもまた現実世界で失った歌声をインターネット上の仮想世界〈U〉で取り戻す。ここには「世界を作り直す欲望」が引き継がれている。

また「おおかみこどもの雨と雪(2012)」では「おおかみおとこ」と結ばれ子をもうけた花は都会を離れ農村へ移り住み、周囲の支援を受けて2人の「おおかみこども」を育てあげる母へ成長した。こうした「異形の者との邂逅」「少女から母へ」「地域社会の絆」というモチーフは本作でもしっかりと反復されている。

あるいは「バケモノの子(2015)」の終盤で九太が、長らく疎遠だった父と向き合ったように、本作でもすずは終盤でやはり長らく溝ができていた父との対話を再開するのであった。

そして「時かけ」以降から前作「未来のミライ(2018)」に至るまで、細田映画の中で徐々に前景化してきた彼岸と此岸の二層往還構造は本作においては現実世界と〈U〉の世界という、全く別様のリアリズムで描き分けられる二つのアニメーションの往還へと昇華されるのであった。

そういった意味で本作は細田映画のベストアルバム的集大成、あるいは幕の内弁当的詰め込みの上にさらに新たな境地を切り拓いた作品であるとも言える。

⑷ つながるはずのなものをつなげるということ

そして今回、もっとも賛否両論を呼んだのが終盤の展開である。それまでが映画的カタルシスにそれなりに満ちた展開だっただけに、終盤を駆動させる一見独特の倫理観は、多くの観客を当惑させることになった。けれど、いま改めて考えてみると、ここで提示される細田氏の倫理観は2010年代的な時代思潮と本質的な部分ではリンクしているようには思えるのである。

「つながりこそが、ボクらの武器。」というキャッチフレーズを掲げたサマーウォーズから本作の間に横たわる2010年代とは、まさにその「つながり」の希望がやがて失望に変わっていった時間であった。それゆえに2010年代の現代思想やサブカルチャーには「つながり過剰」がもたらす同調圧力と排除の病理を乗り越えたところで「つながるはずのないものをつなげる」ための想像力が要請されてきました。このような時代的潮流が本作終盤では極めて先鋭的な形で表出しているようにも思えるのである。

おそらく本作は綺麗にまとめようとすれば、それこそいくらでもやりようがあったはずだ。ただ、そうやって本作を綺麗にまとめてしまうと、ここまでの賛否両論は巻き起こらず、本作は夏休み娯楽大作に相応しい、文字通り一夏限りの「無難な作品」となったのではないか。

そういった意味で本作は、2020年代におけるつながりと個の関係性を問い直した作品であり、ここに細田映画の志向する公共性と普遍性を見ることができる。おそらく本作は記録に残り記憶に刺さる細田映画の代表作となるように思える。


17 すずめの戸締まり

⑴ 村上春樹から考える

現代を代表する作家である村上春樹氏はかつて1995年前後に「デタッチメントからコミットメントへ」という文学的転回を果たしていることで知られている。

村上氏のデビュー作「風の歌を聴け(1979)」から始まるいわゆる「鼠三部作」と呼ばれる初期作品において鮮明に打ち出されたのが、例の「やれやれ」という台詞に象徴される「デタッチメント」と呼ばれる倫理である。すなわち、ここでは近代文学を規定してきたいわゆる「政治と文学」の問いから「政治(正義と悪の記述法)」を一旦切り離し「文学(自己の記述法)」へ特化するという選択が取られている。 そしてこの「デタッチメント」の倫理は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」においていよいよ完成を見ることになり、1000万部のベストセラー「ノルウェイの森(1987)」ではさらなる深化を遂げた。

ところが1995年前後において氏はそれまでの倫理的作用点を大きく転回して、かつて切り離した「政治と文学」の再統合を志向するようになる。こうした文学的転回の下で世に問われた長編小説が「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」である。これまでの村上作品は喪失したものを静かに受け入れていく「諦観の物語」という側面が強かったように思える。けれども、この「ねじまき鳥クロニクル」という作品は全く違う。いわば本作は、喪失したものを何が何でも奪い返そうとする明確な「コミットメント」の意志に満ちた「奪還の物語」といえる。

そして、この1995年は阪神大震災と地下鉄サリン事件に象徴される年としても記憶されている。この二つの出来事は因果的には何の関連性もないはずであるが、もしもこれを共時的に見るとすれば、そこには日本社会において長年のあいだ厳重に「戸締まり」されてきたはずの「何か」が一気に噴出してきたかの如き観を呈しているようにも思えてならない。

⑵ かえるくん、東京を救う

こうした意味で村上氏の短編集「神の子どもたちはみな踊る(2000)」で描き出されたものたちは、いわば「1995年的なもの」としての「何か」に他ならない。そして同書を構成する6つの短編のうちの一つに「かえるくん、東京を救う」という作品がある。

そのあらすじはこうである。東京で銀行員として働く冴えない中年男性である片桐はある日アパートに帰るとそこには人間大の巨大なカエルが待ち構えており、彼は自分がここにきたのは東京を壊滅から救うためだという。「かえるくん」と自称する彼によれば片桐の勤める信用金庫の地下には「みみずくん」と呼ばれる大地震を起こす巨大ミミズが棲息しており「みみずくん」との闘いには片桐の持つ「勇気と正義」が必要なのだと力説する。この点、東京に壊滅的な災厄をもたらす存在である「みみずくん」について「かえるくん」が語る次の一節は、1995年の日本社会で噴出した「何か」の本質を極めて明晰に言語化しているといえる。

誤解されると困るのですが、ぼくはみみずくんに対して個人的な反感や敵対心を持っているわけではありません。また彼のことを悪の権化だとみなしているわけでもありません。友だちになろうとか、そういうことまでは思いませんが、みみずくんのような存在も、ある意味では、世界にとってあってかまわないのだろうと考えています。世界とは大きな外套のようなものであり、そこには様々なかたちのポケットが必要とされているからです。しかし今の彼は、このまま放置できなくらい危険な存在になっています。みみずくんの心と身体は、長いあいだに吸引蓄積された様々な憎しみで、これまでにないほど大きく膨れ上がっています。おまけに彼は先月の神戸の地震によって、心地の良い深い眠りを唐突に破られたのです。そのことで彼は深い怒りに示唆されたひとつの啓示を得ました。そして、よし、それなら自分もこの東京の街で大きな地震を引き起こしてやろうと決心したのです。

(「かえるくん、東京を救う」より)


そして、この一節は、今年公開された新海誠氏の最新作である「すずめの戸締まり」という映画を読み解く上で極めて重要な示唆を含んでいるように思えるのである。

⑶ 新海映画におけるデタッチメントとコミットメント

おそらくは村上氏の作風変遷と同様に、これまでの新海映画における作風変遷も、端的に言えばやはりまた「デタッチメントからコミットメントへ」として名指すことができる。

この点、ゼロ年代における「ほしのこえ(2002)」「雲のむこう、約束の場所(2004)」「秒速5センチメートル(2007)」といった作品では、当時しばし「セカイ系」と名指されたように、喪失したものを浄化的反省によって受け入れていくという「デタッチメント」が描き出された。

ところが2010年代前半における「星を追う子ども(2011)」「言の葉の庭(2013)」といった作品では喪失したものを強い意志をもって奪還しようとする「コミットメント」が打ち出された。さらに2010年代後半における「君の名は。(2016)」「天気の子(2019)」といった作品では、その「コミットメント」の対象は「災害」や「天気」といった公共的なものへ向けられていくことになった。

そして、この新海映画における転換期にあたる2011年は東日本大震災と福島第一原発事故に象徴される年として記憶されている。

この点「神の子どもたちはみな踊る」という短編集は「1995年的なもの」に対する村上氏からのひとまずの回答であった。こうした意味で本作「すずめの戸締まり」は新海映画における「コミットメント」の現時点での到達点であり、かつ「2011年的なもの」に対する新海氏からのひとまずの回答であったともいえるのではないか。

⑷ 災厄を鎮める「戸締まり」の旅

本作のあらすじは次のようなものである。九州は宮崎の静かな町で叔母と暮らす17歳の少女、岩戸鈴芽(すずめ)は登校中に長髪の青年とすれ違う。その青年は「このあたりに廃墟はありませんか?」とすずめに尋ねる。彼の後を追ってすずめが迷い込んだ山中の廃墟には、ぽつんとたたずむひとつの古ぼけた扉があった。

この「後ろ戸」と呼ばれる扉は「現世(現実世界)」と「常世(全ての時間が混ざり合う幻想空間)」をつなぐ扉であり、この扉が開くと、そこから巨大なミミズ(一般人には不可視の存在)が出現して地震を起こすのである。

そして青年、宗像草太は「後ろ戸」に鍵をかける「閉じ師」として各地を旅していた。そして二人の前に突如現れた謎の喋る猫のダイジンは「すずめすき」「おまえはじゃま」といい、果たして草太は小さな椅子に姿を変えられてしまう。

逃げるダイジンを追って草太とすずめはフェリーに乗り込み宮崎を離れ愛媛に向かう。こうして不思議な扉と小さな猫に導かれ、日本各地の厄災を鎮めていくすずめの「戸締まり」の旅が始まった。そして最後に辿りついた場所ですずめを待っていたのは、長らく忘却していたある真実であった。

⑸ 本作は何にコミットメントしたのか

本作において地震をもたらす巨大ミミズは村上氏の「かえるくん、東京を救う」に登場した「みみずくん」を容易に想起させる存在である。この点「みみずくん」は、1995年1月17日に起きた阪神大震災を契機として深い眠りから目覚めた存在として設定されていた。 翻って本作の根底には2011年3月11日に起きた東日本大震災の記憶がある。主人公のすずめ自身も幼少期に震災で親を亡くしており、そのため彼女は長年にわたり自分の命などいつどうなってもいいというある種のサバイバーズ・ギルトに囚われていた。

そして何より「後ろ戸」が出現する廃墟という場所は風化した記憶が滞留する場所であり、そこで「後ろ戸」を「戸締まり」するには、その場所にかつていた人々の声を傾聴し、その生の記憶を弔う必要があった。

こうしたことから、本作からは「あの3.11にいかに向き合うのか」といった問いが強く鳴り響いてくるのである。「君の名は。」や「天気の子」でも常に伏在していたこの問いを、ついに本作では真正面に押し出してきたといえる。

けれども、その一方で本作は東日本大震災という「出来事それ自体」のみならず、あの震災を契機に噴出した日本社会における「2011年的なもの」へのコミットメントを志向した作品である。そしてここに村上氏と新海氏の作風変遷を重ね合わせるのであれば、この「2011年的なもの」の本質を捉えるためには、やはりあの「1995年的なもの」の本質に再び立ちかえる必要があるだろう。

⑹ 1995年におきた社会像の変化

国内批評において1995年とは日本社会においてポストモダン状況がより加速した年として位置付けられている。ここでいうポストモダンとは社会全体を規定する「大きな物語」が失墜して、社会全体が共有する規範や価値を見出せなくなった時代をいう。ではこうしたポストモダン状況が加速した社会においては何が起きるのか。

この点、哲学者/批評家の東浩紀氏は「動物化するポストモダン(2001)」において1995年における変化を「ツリーからデータベースへ」という転回から捉える。東氏は近年におけるオタクの消費行動傾向が「物語消費」から「データベース消費」へ移行していることを指摘した上で、オタク系文化における「シュミラークル」と「データベース」の二層構造は、そのままポストモダンにおける世界構造と対応しているという。すなわち、近代とは「小さな物語」の後景には「大きな物語」があり、人々は「小さな物語」を通じて「大きな物語」にアクセスする「ツリー型世界」であったのに対して、ポストモダンとはもはや「大きな物語」が機能しておらず、その代わりに無数の「小さな物語=シュミラークル」が「データベース」から読み込まれる「データベース型世界」となっているということである。

また、社会学者の大澤真幸氏は「不可能性の時代(2008)」において1995年における変化を「第三者の審級の撤退から回帰へ」という観点から捉える。ここでいう「第三者の審級」とは特定の共同体を意味づけ正当性を付与する超越的他者を指す。そしてこのような意味での「第三者の審級」が、社会における「規範の制定者」の位置から撤退した時、我々の社会は「リスク社会」となる。リスク社会とは人が「真の意味で」自己選択と自己責任を強制される社会である。「真の意味で」というのはその選択の責任を「神の名」や「父の名」といった「第三者の審級」に帰することができないという意味である。こうして規範なき「リスク社会」における自己選択と自己責任の帰結として、必然的に個人の行為は己の享楽の最大化へ向かうことになる。そして、ここでは「規範の制定者」から撤退したはずの「第三者の審級」が今度は「享楽の強制者」としていわば裏口から回帰することになるのである。

そして、批評家の宇野常寛氏は「リトル・ピープルの時代(2011)」において1995年における変化を「ビック・ブラザーからリトル・ピープルへ」という変化から捉える。氏は村上氏が2009年にエルサレム賞受賞式において行った「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを引きつつ、かつて近代における「壁」とは、単一のイデオロギー(大きな物語)の語り手としての「ビッグ・ブラザー(疑似人格体)」であったが、ポストモダン状況の加速する現代においては、かつての「壁」である「ビッグ・ブラザー」が解体されていく一方で、新たな「壁」として無数の「卵」たちの無限連鎖によって形成される不可視の環境である「リトル・ピープル(非人格的システム)」が浮上するとして、このような「リトル・ピープル」から解き放たれた不可視の力こそが、現代においては時に「悪」として作用するという。

なお、ここで宇野氏のいう「リトル・ピープル」とは村上氏の長編小説「1Q84(2009〜2010)」に登場する超自然的な幽体に由来する概念であり、その意味で「かえるくん、東京を救う」に登場する「みみずくん」とはまさに後の「リトル・ピープル」の前駆的存在であったといえるであろう。

⑺「正しさ」と「正しくなさ」の脱構築

以上の三者の議論はそれぞれが対立する箇所も少なくない一方で、その議論の中にはある種の連続性を見出す事もできる。

すなわち、東氏が「大きな物語」なきポストモダンにおいて個人がその生を基礎付ける「小さな物語」を生成するシステムとして「データベース」を想定したのであれば、大澤氏はこうした物語を生成するシステムの作動原理として「(享楽の強制者としての)第三者の審級」を想定し、宇野氏は物語とシステムの共犯関係が生み出す病理現象を「リトル・ピープル」と名指したことになる。

そして、無数の「卵」の無限連鎖からなる「リトル・ピープル」は表面的には「壁」に対峙する「卵」が掲げる「正しさ」を伴うものとして出現する。こうした「正しさ」という名の「リトル・ピープル」は2011年の震災以降、ソーシャルメディアの普及により日本社会において一層加速していき、果たして2010年代は無数の「正しさ」がこの世界を友敵に切り分けていく「動員と分断の時代」であったといえる。

こうしたことから本作が真に「戸締まり=コミットメント」しようとしたものとは、ある面ではこの「2011年的なもの」として噴出した「正しさ」だったのではないかと思えてならないのである。

この点、特筆すべきは本作では2022年現在における一般的な「正しさ」からすると、おおむね不適切だったり不道徳であると見做されそうな数々の行動や風景が肯定的に、あるいは誇張的に描き出されている点である。

ここにはひとつの「正しさ」ですべてを統べようとするのではなく、むしろ無数の「正しくなさ」がゆるやかに共存していくための一つの倫理が提示されているようにも思える。こうした意味で、いわば本作は「正しさ」と「正しくなさ」という二項対立的価値観にある種の脱構築を志向する物語であったといえるのではないだろうか。





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