欲望と享楽⑵ 作品論2


3 魔法少女まどか☆マギカ

⑴ 魔法少女なる構造

日本における魔法少女の黎明期は1960年代に遡る。当時一世を風靡した「魔法使いサリー」や「秘密のアッコちゃん」といった作品は当時の少女漫画的文法に即しており、そこで描かれるのは「お姫様」や「大人の女性」への素直な憧憬であった。まさに魔法少女という存在が万能の願望器であった時代である。

ところが1980年代における「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」では「夢は魔法では叶えられない」「大人になるとは魔法を失うことである」という魔法少女の限界性が問題意識として前景化する。そして1990年代に入り「魔法少女」というジャンルに一大転換をもたらしたのが、戦隊ヒーロー的文法に則って描かれた一連の「美少女戦士セーラームーン」シリーズである。ここで変身バンクやお助けマスコットという「魔法少女」を構成する「お約束」が確立する。

かくして「魔法少女」とは「物語」ではなく「構造」へと変容する。以後「魔法少女なる構造」に依拠したパロディ的作品群が急増することになった。この点、このような「魔法少女なる構造」に自覚的でありながらも、正統派少女マンガ的文法へ回帰を果たした成功例が「カードキャプターさくら」であり、逆に「魔法少女なる構造」にロボットアニメ的文法を接続した成功例が「魔法少女リリカルなのは」である。

そして2011年1月、こうした「魔法少女なる構造」それ自体を脱構築するかの如き、ひとつの作品が世に問われることになった。

⑵ 現代アニメーションの到達点

「魔法少女まどか☆マギカ」。本作は周知の通り、新房昭之氏、虚淵玄氏、蒼樹うめ氏を中心にシャフト、梶浦由記氏、劇団イヌカレーといった多彩な才能のコラボレーションが成し遂げた現代アニメーションにおける到達点を示した作品である。

その社会的反響は凄まじく、BD第1巻の初週売上はテレビアニメ史上最高(当時)の5万3000枚。関連グッズは100社近くものメーカー(2012年春時点)によって制作され、グッズの累計売上総額は約400億円(2013年時点)。最終回放映後は特集記事が世に溢れかえり、各分野の名だたる著名人が本作に言及し、2011年12月には第15回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞。まさしく記録と記憶、両方に残る作品といえる。

⑶ 僕と契約して、魔法少女になってよ

物語は鹿目まどかが街を蹂躙する巨大な怪物と戦う少女、暁美ほむらを目撃し、謎の白い生物、キュゥべえから「僕と契約して、魔法少女になってよ」と告げられる夢を見るところから幕を開ける。直後、ほむらはまどかと同じクラスの転校生として現れ、ほむらはまどかに「魔法少女になるな」と警告する。

その後「魔女の結界」に迷いこんでしまったまどかと友人の美樹さやかは魔法少女、巴マミと出会う。マミに救われたまどかとさやかは、キュゥべえから魔法少女になるよう勧誘を受ける。マミの勇姿を目の当たりにした2人は魔法少女へ強い憧れを抱くが、まもなくマミは魔女との戦いで惨殺される。

マミの死により、魔法少女への憧れと現実の間で葛藤するまどか。一方で、さやかは想い人の怪我を治す為、キュゥべえと契約して魔法少女となる。そこに新たな魔法少女、佐倉杏子が現れ、さやか、更にほむらを加えた魔法少女同士の仁義なき抗争の火蓋が切って落とされる。

刻々と悪化する情況を、まどかはただおろおろと傍観するしかなかった。こうした中で、やがて魔法少女の秘密、魔女の正体が徐々に明かされていく。

⑷ 魔法少女観の根本的転倒

「まどか」という作品がまず斬新だったのは、従来の魔法少女観を根本的に転倒させた点にある。当初、作中において魔法少女とはキュゥべえと契約することで「ひとつの願い」を叶える代価として、呪いを生み出す魔女と戦う存在であると説明される。ここで提示されるのはいわゆる「正義の味方」としての魔法少女のイメージである。しかし物語が進むにつれて、次第に「魔法少女の真実」が明らかになっていく。それは次のようなものである。

地球外生命体、インキュベーターはこの宇宙の寿命を伸ばす為、エントロピーに逆らうエネルギー源として人類の、それも二次性徴期における少女の「希望と絶望の相転移」による感情エネルギーに着目する。そして、そのエネルギー源を効率的に採掘する為「魔法少女」というシステムが開発された。

このシステムにおいて少女達は「ひとつの願い」と引き換えに、その魂は身体から引き剥がされ「ソウルジェム」に具象化されて「魔法少女」を構成する。

このソウルジェムは何もしなくても徐々に穢れを溜め込み濁っていく。やがて極限まで濁ったソウルジェムは魔女の卵である「グリーフシード」へと相転移し、かくて魔法少女は「魔女」となる。インキュベーターの狙いはまさにその際に生まれる莫大なエネルギーの回収にあった。

つまり、魔法少女達の末路はソウルジェムを濁らせて「魔女」になるか、ソウルジェムを破壊され死ぬという二択しかない。その末路を少しでも先延ばしする為、彼女達はソウルジェムの濁りを緩和させるグリーフシードを求めて魔女討伐に奔走し、他の魔法少女とはグリーフシードの争奪戦に明け暮れる事になる。

⑸ 魔法少女の抗争にみるポストモダン的構図

本作は基本的に異なる思想信条を持つ魔法少女同士が殺し合うバトルロワイヤル状況が展開される。興味深いことに、その展開はまさしく「大きな物語」に規定された近代が失墜し「小さな物語」が乱立するポストモダンが加速していく構図そのものでもある。

マミは「正義の味方」という魔法少女の「大きな物語」を決して疑わなかった。もっとも、その信念は結局のところ、家族の中で自分1人だけ生き残ってしまった罪責感とずっと1人で魔女と戦ってきた孤独感の補償作用に他ならない。しかし彼女はその事実を自覚する前に早々に物語から退場させられる事になる。

そしてマミの志を継承したさやかも「奇跡も魔法もある」という「大きな物語」を当初はイノセントに信じていた。けれども「魔法少女の真実」が徐々に明らかになっていく中で、やがて自らの信じる理想が単なる無根拠な幻想に過ぎない事に気づいてしまう。そして愛の対象を喪失し、この世界に守るべき価値を見出せなくなったさやかは希望と絶望の相転移を起こし魔女化する。

これに対して自身の願いで家族を破滅させた杏子は魔法少女の「大きな物語」などもはや信じておらず、この終わりなき日常を欲望の赴くままに生きていく。けれども「魔法少女の真実」に直面した杏子は、かつて自身が情景した「愛と勇気が勝つ」という「大きな物語」を(それがもはや無根拠である事を承知しつつも)仮構するしかなかった。そして一度は見限ったはずの神に縋り、最後は魔女化したさやかと差し違えることになった。

さらにほむらに至っては最初から魔法少女の「大きな物語」自体にそもそも初めから興味がない。呪われた運命からまどかを救い出すこと。この「小さな物語」こそが彼女にとっての唯一絶対の正義であり、その道を阻むものは誰であろうとすべからく悪ということになる。

そういった意味でほむらはまさにゼロ年代的主体を体現するセカイ系から出発した決断主義者である。けれどもやがて彼女が時間遡行を繰り返して世界をやり直せばやり直すほどに、様々な平行世界の因果が束ねられ、まどかはますます「最高の魔法少女=最悪の魔女」へ進化していく事が明らかになるのである。

まさに退くも地獄で進むも地獄のアポリアである。こうして今やほむらは「まどかを救う」というたったひとつの「最後に残った道標」に縋りつく哀れな決断主義者と成り果てて、この際限なき徒労を繰り返すしかなかった。

そしてこのような閉塞的状況に終止符を打ったのが「まどかの願い」であった。

⑹ まどかの願いと円環の理
全ての魔女を、生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、この手で。

神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる、変えてみせる。

これが私の祈り、私の願い。さあ!叶えてよ、インキュベーター!!

(「魔法少女まどか☆マギカ」最終話より)


「まどかの願い」は魔法少女が希望と絶望の相転移により魔女となる魔法少女システムのルールそのものの改変であった。まどかによる改変後の世界では、魔法少女は魔女化することなく最期はソウルジェムとともに消滅し、その魂は「円環の理」と呼ばれる「概念となったまどか」により別の次元へ導かれることになる。

本作において示されるのは、もはや魔法少女が万能の願望器でもなんでもなく、少女達の「願い」がただただシステムを稼働させるための動力源として搾取されていく世界観である。それはまさしく、グローバル化とネットワーク化がますます加速する中、アーキテクチャによる環境管理型権力の統制のもとで人間がモルモットのように飼い慣らされる現代社会の構造それ自体の鏡像でもある。

そして、まどかが行ったのは、言うなれば「魔法少女」というシステムのルールによるシステムそれ自体の書き換えである。そしてここには現代における「政治と文学」が極めて高次元で再統合された一つの優れた記述法を見出すことができるのである。

⑺ 政治と文学の切断から再統合へ

かつて社会共通の価値観といえる「大きな物語」が機能していた近代社会においては「政治(=公共観)」と「文学(=成熟観)」はほとんど等価なものとして捉えられていた。ところが日本社会において「大きな物語」が徐々に失墜し始めた1970年代以降から、徐々に「政治と文学」の問題は乖離を見せ始めた。

現代文学を代表する作家である村上春樹氏は、こうした時代思潮の変化にいち早く気付き、その初期作品において早くも「デタッチメント」という倫理的作用点を打ち出しました。そしてその前期の代表作である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」においては「政治(=ハードボイルド・ワンダーランド)」と「文学(=世界の終わり)」が完全に切断された結末が提示された。

そして日本社会において「大きな物語」が決定的に失墜したと言われる1995年に放映されたTVアニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」において、主人公の碇シンジは終始「政治(=エヴァに乗る)」と「文学(=エヴァに乗らない)」の間を往還し続けて、最後には「政治(=エヴァに乗る)」を完全に放棄して「文学(=人類補完計画)」に引きこもる道を選ぶ。こうしたTV版エヴァの結末は90年代末からゼロ年代初頭にかけて漫画・ライトノベル・アニメ・ゲームといったポップカルチャーの領域で一世を風靡した「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群において様々なクリシェとして奏で続けられることになった。

しかしその一方で「大きな物語」の決定的な失墜は、無数の「小さな物語」の乱立と衝突を招来し、時代は再び「政治と文学」の再統合を志向する想像力を要請することになった。こうした時代の要請をやはり誰よりもいち早く察知した村上氏は、その中期の代表作となる「ねじまき鳥クロニクル」以降、その倫理的作用点を「デタッチメント」から「コミットメント」へと転換させ、その文学的運動は畢竟の超大作「1Q84」において「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」という形でひとつの頂点を迎えることになる。

そして、ゼロ年代におけるポップカルチャーの領域においても、やはり「セカイ系」以後、無数に立ち上がる「セカイ(=小さな物語)」同士のバトルロワイヤル状況を様々に描き出す中で、この不毛な決断主義的動員ゲームを終わらせるための「政治と文学」の再統合が模索されるようになった。では「まどかの願い」はこの「政治と文学」をいかなる形で再統合したのか。

⑻「まどかの願い」における「政治」--コミュニタリアニズム

この点「まどかの物語」はまさに現代政治哲学の縮図でもある。言うなれば、キュゥべえは最大多数の最大幸福を重視する「功利主義」の立場を、マミとさやかは不遇な人々の救済を重視する「リベラリズム」の立場を、杏子とほむらは自由意志による主体的選択を重視する「リバタリアニズム」の立場をそれぞれ代弁している。

ではこうした中で、まどかの立ち位置はどこにあるのか。この点、あの「まどかの願い」とは、いわば魔法少女という「コミュニティ」の物語を書き換える願いであったといえます。こうした「まどかの願い」は現代政治哲学においては「コミュニタリアニズム」と呼ばれる立場に相当する。

コミュニタリアニズムの代表的論客として知られるアメリカの政治哲学者、マイケル・サンデルによれば、我々の「生の物語」は常の我々の属するコミュニティの物語と結びついており、それゆえにある制度が「正義」に値するか否かは、当該コミュニティを規定する名誉や美徳といった「共通善」に照らしあわせなければならないとされる。

まさしく、まどかは魔法少女というコミュニティの物語を書き換える事で、彼女が「希望」と呼ぶ魔法少女の名誉や美徳としての「共通善」を称揚したといえるのである。

⑼「まどかの願い」における「文学」--アンチ・エディプス

また「まどかの物語」はある種の精神分析的な寓話として読める。本作において魔法少女の魂は周知の通りソウルジェムという宝石として結晶化される。このソウルジェムの形状は精神分析でいうところの「欲望」の象徴的等価物である「ファルス(Φ)」を想起させる。ここから、本作における魔法少女とは「その願い(=欲望)」によって「ソウルジェム(=ファルス)」を仮想する「ファリック・ガール」であるというエディプス的な解釈も成り立つだろう。

ここでいう「エディプス」とはもちろん精神分析の創始者、ジークムント・フロイトの提唱した「エディプス・コンプレックス」の事である。事実、さやかや杏子は極めてわかりやすくエディプス的な欲望に駆動されて魔法少女になっている。これに対して「まどかの願い」はこうしたエディプス的な欲望とは一線を画した別の欲望によって駆動されているように思えるのである。

この点、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンは「性別化の式」において、女性のセクシュアリティ(∃xΦx/∀xΦx)を一方では「男性の享楽(=ファルス享楽)」に規定されたファリック・ガール(La→Φ)として位置付けつつも、他方ではファリック・ガールに回収される事のない「女性の享楽(=〈他〉の享楽)」への超越可能性(La→S(Ⱥ))を示唆するアンチ・エディプス的な議論を展開している。こうしたラカン的構図からいえば「まどかの願い」とはまさに「魔法少女(=ファリック・ガール)」から「円環の理(=女性の享楽)」への超越を果たすものであったといえる。

また、スイスの分析心理学者、カール・グスタフ・ユングは意識の中心である「自我」とは別にこころ全体の中心である「自己」という概念を想定し、無意識における「コンプレックス」や様々な「元型」との対決を通じて、相対立する葛藤が相補的かつ共時的に再統合されていく過程を「自己実現」の過程と呼んだ。

ユングはフロイトから早々に離反して自身の心理学を創始した人物として知られているが、ここでユングの提唱する「自己実現」の過程もまたやはりアンチ・エディプス的な議論と言える。

この点、本作はまどかというコンプレックスの強い少女を中心に元型的な布置が見事なほどに描き出されている。ここで魔女は「呑み込む母(=グレートマザーの元型)」を、他の魔法少女はまどかの「生きられなかった半面(=影の元型)」を、キュゥべえは「道化師(=トリックスターの元型)」と「ロゴスの象徴(=アニムスの元型)」を体現している。

このような布置の中でまどかは「正しくあろう」とするのではなく「間違えること」を徐々に学ぶ。そして、こうした「正しさ/間違い」を相補的かつ共時的に再統合した「自己実現」の先にあの「まどかの願い」は位置しているといえるだろう。

こうしてみると「まどかの願い」とは「ファリック・ガール」というエディプス的欲望ではなく、むしろ「女性の享楽」や「自己実現」として名指されるアンチ・エディプス的欲望に駆動されていたと言える。

⑽「希望」という名の想像力

こうして「まどかの物語」において「政治(=コミュニタリアニズム的正義)」と「文学(=アンチ・エディプス的欲望)」は「希望」という言葉によって再統合されることになる。そしてそれは社会が無数のクラスターや格差へズタズタに引き裂かれ、苛烈なシステムの統制の下で人間があたかもモルモットか何かのように飼い殺されていくこの「絶望」の時代ともいうべき現代を照らし出した文字通りのひとつの「希望」でもあったように思えるのである。

希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。

(「魔法少女まどか☆マギカ」最終話より)


先述したように、かつて村上春樹氏は近代的な「大きな物語」の失墜以後の「政治と文学」を再統合する上で「デタッチメント」から「コミットメント」へという倫理的作用点の転換を志向した。けれども無数の「小さな物語」が乱立し、グローバル化とネットワーク化の加速する現代においては、むしろ人々はお互い否応なく自動的に「コミットメント」に巻き込まれているというべきである。

それゆえに現代における「政治と文学」には、もはや「デタッチメント」か「コミットメント」かなどといった二項対立ではなく、むしろこの「コミットメント」の過剰性から生じるコストの処理をどのように引き受けて記述していくかという問いが課されている。そして「まどかの物語」とは、まさにこうした「政治と文学」における問いに対して「希望」という極めてシンプルな答えを提出した想像力であったといえるだろう。


4 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない

⑴  もう一つのゼロ年代の想像力の到達点としての「あのはな」

こうした「まどか」の放映直後の2011年4月から放映され、気鋭の脚本家、岡田麿里氏の出世作として知られる本作は「まどか」とは別の形でゼロ年代の想像力の到達点を示している。

宿海仁太(じんたん)、本間芽衣子(めんま)、安城鳴子(あなる)、松雪集(ゆきあつ)、鶴見知利子(つるこ)、久川鉄道(ぽっぽ)。彼ら彼女ら6人は「超平和バスターズ」の名の下で少年少女時代の、何物にも代え難い「あの時」を共にした間柄だった。しかし芽衣子の死をきっかけに、超平和バスターズは決別。それぞれが「芽衣子の呪縛」を抱えつつ、中学卒業後の現在では互いに疎遠な関係となっていた。

しかしある日、高校受験に失敗以来引きこもり気味の生活を送っていた宿海の元に、突然、死んだはずの芽衣子が現れる。

芽衣子の姿は宿海以外の人間には見えない。そして宿海は彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。これを契機に、それぞれ別の生活を送っていた超平和バスターズの面々は再び集まり始め、皆は「めんまの願い」を叶え、彼女を「成仏」させるために奔走する。

なお、本作のタイトルは通常「あの花」と略されるが、公式には「『あ』の日見た花『の』名前を僕達『は』まだ知ら『な』い」を略して「あのはな」である。

⑵ 「欲望とは〈他者〉の欲望」である

物語終盤、超平和バスターズの面々は様々な障害をどうにか乗り越え「めんまの願い」とされる「花火の打ち上げ」に見事成功する。

けれど、芽衣子は「成仏」しなかった。何故なのか?ここで皆は初めて「めんまの願い」の意味を真剣に考え始める。

この点、ラカンは「欲望とは〈他者〉の欲望」であると言う。人の生のリアリティを支える「欲望」の根源には「Che vuoi?--あなたは何を求めているの?」という問いに対する欲望があるという事である。彼らは「めんまの願い=〈他者〉の欲望」と向き合う事で、己の抱えている自らの欲望に向き合う事になる。そして、芽衣子の「本当の願い」とはまさにこの点に関わってくるのである。

⑶  セカイ系と決断主義

果たしてその後、神社の境内に皆で集まり話し合いを続けていくうちに、各人は次々に「めんまの成仏」に奔走する裏にあった自らのドロドロとした打算とエゴイズムを吐露し始めるのである。

ここで詳らかにされる構図は何気にゼロ年代における「セカイ系」から「決断主義」に至る総括になっている。一方で、芽衣子を成仏させず独占し続けたい宿海の欲望はセカイ系主人公のメンタリティそのものであり、他方でそれぞれの打算とエゴイズムから「めんまの成仏」を企てる他の超平和バスターズ達の欲望は、いわば決断主義者達のそれに他ならない。

このように芽衣子亡き後をめぐる各人のスタンスの対立という本作の構図はまさしく「大きな物語」亡き後をめぐる「小さな物語」同士の対立というゼロ年代的想像力とパラレルな関係で捉えることができるのである。

けれども、やがて皆が自分の胸のうちを洗い晒しにして、お互いの苦しみを分かち合ったその時、そこにはとぎれとぎれで歪ながらも確かな「きずな」があったことに気づく。

ここに来てようやく「この6人で超平和バスターズなんだ」という極めて単純な、けれども何物にも代え難い、たったひとつきりの真実に行き当たり、終わりなき決断主義ゲーム、欲望のバトルロワイヤルに終止符が打たれる事になる。

そしてあの日以来、凍り付いていた時が再び動き出した。こうして「きずな」の再生を見届けた芽衣子は皆に見送られ、天に還っていった。

⑷ 「きずな」を紡いでいく力

本作は東日本大震災の直後、2011年4月から放映された。あの未曾有の大災害をきっかけに堰を切ったようにして世に溢れ出した一つのキーワード。それは「きずな」という言葉であった。

確かに「震災」という文脈で言えば、あの言葉は問題の本質に蓋をするような胡散臭い側面があるのはもちろんである。ただ「ポスト・ゼロ年代」というパースペクティヴの中でこの「きずな」という言葉を捉えた時、それはおそらく、様々なクラスターや格差などによってズタズタに寸断されてしまった今の日本においてオルタナティブな社会的紐帯と自分の居場所を希求する人々の願いでもあったのではないか。

寸断されたものをつなぎあわせる「きずな」を紡いでいく力。仮にもし、そんな力があるとすれば、人はそれを「愛」と呼ぶのかもしれない。先のラカンは「愛とは常に持っていないものを与えるものである」という有名な言葉を残している。そういう意味で本作はポスト・ゼロ年代における「愛の物語」だと、そう呼べるのではないだろうか。


5 とある科学の超電磁砲

⑴ 「サヴァイブ系」と「日常系」を架橋する想像力

周知の通り本作は「とある魔術の禁書目録」のスピンオフである。ゼロ年代のサブカルチャー文化圏の潮流の中でいえば「禁書」がいわば典型的な「サヴァイブ系」の想像力をベースにしているのに対して、本作は禁書の世界観を引き継ぎつつも、そこに「日常系」の想像力を導入していると言える。

本作が本家禁書を凌駕する人気を誇るのは「サヴァイブ系」への批判力としての「日常系」の台頭というゼロ年代サブカルチャー文化圏の潮流を物語レベルで内在化させる事に成功したからなのであろう。そういった意味で本作は「まどか」「あのはな」と同様のポスト・決断主義的な想像力を内在させている作品といえる。

⑵  異質な他者の間における関係性のあり方

本作の舞台は総人口230万人の内8割を学生が占める「学園都市」。そこでは学生全員を対象にした超能力開発実験が行われており、全ての学生は「無能力者(レベル0)」から「超能力者(レベル5)」の6段階に分けられる。

本作の主人公、御坂美琴は、学園都市でも7人しかいないレベル5の1人であり「超電磁砲(レールガン)」の通り名を持つ。御坂は後輩の白井黒子、初春飾利、佐天涙子達と共に学園都市で起こる様々な事件を解決していく。

この点、御坂・白井と初春・佐天の間にはエリート/ノンエリートの断絶があり、また白井・初春と美琴・佐天の間にも風紀委員/一般人の断絶がある。いわば超電磁砲メンバー4人はそれぞれが異なる世界を生きる他者といえる。本作が描き出すのはこうした異質な他者の間における関係性のあり方といえる。

⑶  学園都市の光と闇

本作の舞台となる学園都市はICTやAI、再生エネルギーを駆使する未来都市というユートピア的側面と、厳格な監視社会、苛烈な格差社会というディストピア的側面を併せ持っている。

こうした学園都市の光と闇はグローバル資本主義や環境管理型権力といったシステムが支配する現代社会の構図とパラレルに捉えることもできる。このように捉えた場合、木山春生や布束砥信は己の正義からシステムに叛逆する点でテロリストの立ち位置に近く、テレスティーナ=木原や有冨春樹らスタディは己の欲望からシステムを利用する点でカルフォルニアン・イデオロギーの立ち位置に近い。

では、こうした中で御坂の立ち位置はどこにあるのだろうか。この点、第2期前半「妹編」での御坂は事態を一人で抱えこんでしまい学園都市の闇の中で孤軍奮闘するが、後半「革命未明編」での御坂は前回の反省から皆に事態の真相を打ち明けて助力を乞う。このようなコントラストが表すように、本作が強調するのは他者間における連帯の可能性である。こうしたことから、本作における御坂達は「マルチチュード」の立ち位置に相当するように思える。

⑷  帝国の体制とマルチチュード

「マルチチュード」とは、今世紀初頭に出版され世界的ベストセラーとなった「〈帝国〉」においてアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートが概念化した現代における新しい市民運動のスタイルである。

まず、ネグリたちは現代においては「国民国家の体制(ナショナリズム)」というイデオロギーに代わり「帝国の体制(グローバリズム)」というシステムが世界を席巻しつつある指摘する。

そして、この「帝国の体制」というフィールド上には、国家、国際機関、非営利組織、企業、個人などが並列的なプレイヤーとして配置されることになる。

そして、こうした「帝国の体制」を逆手にとり、帝国内部のインフラ、ネットワークを積極的に活用する新しい市民的連帯の形を、ネグリたちはスピノザの哲学を参照して「マルチチュード」という概念で肯定的に捉えるのである。

本作終盤においてテレスティーナが御坂に対して言い放った「学園都市は実験場、生徒はすべてモルモット」「その実験動物にすらなれない連中の闇がどれだけ深いか」という言葉は「帝国の体制」の端的な比喩と言える。

これに対して御坂は「それでも私はこの学園都市を嫌いになれない」と言う。そして超電磁砲メンバーを始め、ミサカネットワーク、婚后航空、さらには一般学生達といった学園都市内の多様なプレイヤー達と連携し、まさしく「帝国の体制」に「マルチチュード」の力で抗っていくのである。

⑸  このディストピアを肯定するということ

もちろん、こうした御坂達の奮闘にも関わらず学園都市の闇の深さは1ミリも変わらない。これからも御坂達は学園都市という実験場でモルモットとして生きて行かなければならない。

けれども祝祭感に満ちた最終話が象徴するように本作が打ち出すメッセージは世界の限りない肯定である。こうした本作の想像力は現代における幸福感と大きく共鳴しているのではないか。

この点、社会学者の古市憲寿氏は「絶望の国の幸福な若者たち」において、ゼロ年代以降前景化してきた若年世代の捉えどころのない幸福感の源泉を「コンサマトリー化」と「仲間の存在」にあると分析している。

すなわち、この不安と閉塞に満ちたディストピア的現実を生き延びる最適解は「ここではない、どこか」を夢想することではなく「いま、ここ」を丁寧に積み重ねていく幸福感受性の深化にあるということである。こうした現実が良いか悪いかは別として、いずれにせよ本作は「幸福の規制緩和」というべき今の時代に必要な想像力をウェルメイドな物語として示しているのである。


6 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語

⑴ 傑作か?問題作か?

本作は大きな反響を呼んだ「魔法少女まどか☆マギカ」の正統な続編となる完全新作劇場版であり、公開前から大きな注目を集めていた。果たして本作は期待に違わず大ヒットを成し遂げ、深夜アニメ劇場版としては史上初の興行収入20億円を突破した。確かに映画としてみれば本作は紛れもない圧倒的傑作と言うしかない。アニメ史に残る絢爛豪華な映像空間とサービス精神に満ちたシナリオ展開で、本作は観客をフルコースで歓待した。

ところが同時に本作の結末は多くの人に困惑をもたらす事になるのである。

⑵  あなたに理解できるはずもないわね、インキュベーター

鹿目まどか、美樹さやか、巴マミ、佐倉杏子、そして暁美ほむらは5人組の魔法少女ユニット「ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテッド」として人の悪夢が具現化した怪物「ナイトメア」退治に明け暮れていた。見滝原で繰り広げられる多忙で騒がしくも、ある意味で幸せな日々。しかしほむらはこうした日々に徐々に違和感を覚え始める。

私たちの戦いって、これで良かったんだっけ?

(「魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」より)


こうしてほむらは真相を見極めるべく調査に乗り出した。結果、この見滝原は「魔女の結界」の内部にある偽りの閉鎖空間であり、しかもそれを創り出したのは他でもなく、魔女となったほむら自身であったことが判明。そしてそこには効率的な感情エネルギーの収集方法の確立を目論むキュゥべえ=インキュベーターの思惑が関与していた。

かつて、ほむらとの会話の中で「魔女」と「円環の理」の存在を知ったインキュベーターはその存在を検証するべく、外部の干渉を遮断するフィールド内にほむらのソウルジェムを隔離して、その経過を観測していたのであった。

インキュベーターの目的は「円環の理」の制御である。キュゥべえは、ほむらに対して「円環の理」に救済を求めるよう促す。しかしインキュベーターの思惑に激昂したほむらは「円環の理」の救済を拒絶。ただ魔女としての破滅を選ぶ。

しかしその時、まどか、さやか、マミ、杏子、なぎさがほむらを救うべく動きだす。かつて魔女であったさやかとなぎさは「円環の理」の記憶と力を秘かに預かっていた。結果、干渉遮断フィールドは破壊され、インキュベーターの企みは失敗に終わる。

こうして「円環の理」の記憶と力はまどかに戻る。そして今まさに、ほむらは「円環の理」に導かれる----はずであった。ところが物語はここから反転する。まどかが、ほむらのソウルジェムに手を差し伸べたその瞬間、ほむらは不敵な笑みを浮かべて次のように述べる。

「この時を、待っていた。----やっと、摑まえた

(「魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」より)


あろうことか、ほむらは「円環の理」からまどかの人間としての記録を切り離してしまう。そして、ほむらのソウルジェムはダークオーブへと変貌する。こうして「悪魔」となったほむらは世界を改変する。状況理解に苦しむキュゥべえに対してほむらは高らかに宣明する。

あなたに理解できるはずもないわね、インキュベーター」「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの----愛よ」「たしかに今の私は魔女ですらない。あの神にも等しく聖なるものを貶めて蝕んでしまったんだもの」「そんな真似ができる存在は----もう悪魔とでも呼ぶしかないんじゃないかしら

(「魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」より)


⑶ ループ構造から考える

周知の通り「まどか」のTVシリーズ終盤では物語が「ループ構造」となっていたことが明らかになった。「ループ構造」という形式自体は古い海外SFでもよく見られるもので、本邦のアニメ作品においても1984年に公開された押井守氏の傑作「うる星やつら2-ビューティフル・ドリーマー」が有名である。

こうしたループ構造はゼロ年代において急速に漫画、アニメ、ゲームのサブジャンルとして定着する事になる。その背景には周知の通りKey作品などをはじめとした美少女ゲーム(恋愛ADV)の隆盛がある。恋愛ADVにおいては通常、選択肢次第で異なった物語に分岐していくマルチエンドシステムが採用されている。そこでプレイヤーは各エンドを回収する為、ゲームをクリアする度に最初の「共通ルート」に戻り、同じ時間軸を何度も延々とプレイする事になる。そうするうちにプレイヤーはあたかもこの世界が果てしないループを続けているかの如き錯覚に陥ってくる。このように恋愛ADVのシステムはループ構造と極めて親和性を有していた。

この点、ループ構造のパターンは大きく分けて「世界全体のループ」「閉鎖空間内のループ」「特定キャラのタイムリープによるループ」の3つがあり、まどかTVシリーズは最後の部類に当たる。そして同作の特徴は、このループ構造が物語終盤に明らかになり、かつループの主体は主人公のまどかではなく、むしろこれまで敵役として描かれてきたほむらであった点にある。ここで視聴者はこれまでの世界観をひっくり返される事になる。

⑷ ゲーム的リアリズムと環境分析的読解

ここで重要なのは、TVシリーズでのほむらは物語の「キャラクター」であると同時に、この物語を延々と反復するゲームの「プレイヤー」でもあるという点である。

その意味で本作は東浩紀氏がいうメタ物語的想像力に侵食された物語的想像力、すなわち「ゲーム的リアリズム」の文法で記述されていると言える。ゆえに本作は物語を素直に読み解いていく「自然主義的読解」とは別に、物語と現実の間に「物語が読まれる環境」を挟み込む読解技法、東氏のいう「環境分析的読解」が機能するケースに該当する。

この点「自然主義的読解」からすれば本作は後述の通り、物語の主人公であるまどかが自らのコンプレックスを克服し、究極の願いを成し遂げた「成長の物語」であり「自己実現の物語」となるだろう。

しかし「環境分析的読解」からすれば本作は、ゲームの「プレイヤー」であるほむらが、ゲーム内の「ヒロイン」であるまどかに「勝ち逃げ」されて、一人残された状況で幕を閉じる「挫折の物語」となるのである。

そう、ほむらにとってゲームはまだ終わっていなかった。こうして、ほむらにとっての「トゥルーエンド」を目指したのがこの「叛逆の物語」であったといえる。

⑸ 「ハッピーエンド」という欺瞞

本作の結末はいまでも賛否両論が分かれており「最悪のハッピーエンド」「メリーバッドエンド」などと両義的な評価が多く見られる。果たして本作は一体、何を示そうとしたのか?

ほむらはまどかが崇高な願いによって作りあげた秩序を自らの狂った欲望で破壊した。そしてこれを事もあろうに「愛」などと嘯くほむらの言動は極めて一見、理解に苦しむものがある。

けれどもその一方で、次のようにも言えるかもしれない。まどかの作り出した「円環の理」はまさに「力の一撃」「原エクリチュールの一撃」によって創設された「法」に他ならない。すなわち「円環の理」とはいわば「希望と絶望の形而上学」であり、ほむらはこれを「愛」の名の下に脱構築したということである。

結果、新たな世界の中で、まどかはもちろん、さやか達も日常へ還り、平凡で幸福な日々が戻ってきた。一方、キュゥべえはほむらの完全な支配下に置かれボロ雑巾のように酷使される。

これは物語的には(キュゥべえ以外は)幸せな結末のはずである。こうした光の側面を強調すれば、シナリオをほとんど変えずに本作を「ハッピーエンドの物語」に仕立てあげる事も充分に可能なはずである。

しかし本作はそういう安易な選択に逃げなかった。ほむらの「欲望」はまどかの「秩序」にきっぱりと拒絶される。そして、ほむらはまどかと世界を狂わせた責任を引き受けてひとり「魔なる者」として孤独に生きていくのである。

こうして見ると本作の後味の悪さはむしろ「ハッピーエンドの物語」の形而上学的欺瞞を暴露していると言えるのではないか。そして、ここに我々はほむらの末路にひどく気高い正義の在り処を見る事ができるのである。


7 ラブライブ!/ラブライブ!サンシャイン

⑴ みんなで叶える物語

人は誰もが「物語」によってその生を基礎付ける。社会共通の「大きな物語」が失効し、それぞれが「自分の物語」を選んで生きるしかない現代においては、時として「わたし」と「あなた」の物語は衝突する。いわゆるゼロ年代的想像力とは、こうした「物語」同士の関係性を問うものであった。

そして2010年代のサブカルチャーを象徴する作品の一つとなったラブライブ!シリーズは、その副題に「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズを掲げている。この言葉はユーザー参加型企画としてのラブライブの性格を言い表すものでもあると同時に、ゼロ年代的想像力における問いに対する2010年代からの回答としても読める。

「わたし」と「あなた」は違う物語を生きている。だけども「わたし」と「あなた」の間には「みんな」を見出すことができる。こうした意味での「みんな」がゼロ年代的想像力の到達点としての「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯である。

これに対して本作の特徴はこうしたゼロ年代的「つながり」としての「みんな」から出発しつつも、他方で「つながり」としての「みんな」がある種の全体性をもって「わたし」や「あなた」という「個」を抹消するホーリズム的な危険性について相当に自覚的なところにある。

⑵「動員の時代」のアイコンとして

2010年代前半という時代はしばし「動員の時代」として名指される。スマートフォンとソーシャルメディアの普及は、人々の消費傾向をモノからコトへと変化させ、そこから新しいビジネスモデルや市民的連帯の形が生み出された。「ラブライブ!(以下1st)」にはこうした時代の気分が反映されている。

迫り来る母校の「廃校」を回避するため高坂穂乃果は「スクールアイドル」となり「μ's」を結成。穂乃果たちは「スクールアイドルの甲子園」と呼ばれる「ラブライブ!」を目指す。古き伝統を持ちながら今や廃校の危機に瀕する音ノ木坂学院が経済的凋落と少子化に喘ぐ現代日本の象徴だとすれば、スクールアイドルの頂点である「A-RISE」を戴き、今や飛ぶ鳥落とす勢いのUTX学院はグローバル資本主義の象徴のようだ。このコントラストは、音の木坂側に和菓子屋、神社、弓道といった「日本的なもの」を配置する事でさらに強化される。

こうした構図の中で、動画配信を駆使したアイドル活動で母校の危機に立ち向かうμ'sはさながら「動員の革命」の時代における新しい市民運動のスタイルを体現するマルチチュードの如き存在です。抵抗運動としてのスクールアイドル。このような様々な「つながり」への信頼こそが1st第1期中盤までを駆動させた想像力に他ならないだろう。

⑶「つながり」に回収されない「個」の「まとまり」として

ところが1st第1期後半では一転して「つながり」の限界性が描き出される。ラブライブにさえ出れば奇跡が起きる。「つながり」で世界は変えられる。こうした究極的には無根拠な「つながり」の幻想が機能不全に陥った途端、土壇場でμ'sは瓦解し、ラブライブ出場を断念。穂乃果は自分を見失ってしまう。

その後、さまざまな紆余曲折を経て穂乃果はラブライブの手前にあった自らの歓び--歌うことが好き--に立ち返る事で自分を取り戻すのであった。こうしてみると本作は「つながり」の持つエネルギーを体現した作品であるとともに、その限界性までも描き出した作品ともいえる。

そして1st第2期では、再びラブライブ出場を目指しつつ、穂乃果たちは生徒会の活動をやり抜いたり、これまで逃げていた自分に向き合ったりといった「個」の物語が掘り下げられていく。こうして「みんなで叶える物語」のいう「みんな」には、ゼロ年代的「つながり」の全体性に回収されない、ばらばらな「個」の「まとまり」が含意されることになった。

そして同時に、このような視点からすれば、あのμ'sの結末も腑に落ちるのである。μ'sという固有名はあの9人の「個」の「まとまり」を指すものであり、ひとりたりとも欠けては成立しないものだったという事なのだろう。

⑷「輝き」の自己探究

ゼロ年代的「つながり」の全体性に回収されない2010年代的「個」の「まとまり」。こうした1stにおいて胚胎した想像力は、続く次作「ラブライブ!サンシャイン!!(以下2nd)」において「輝き」という概念により名指された。

同作の主人公、高海千歌は今や伝説のスクールアイドルとなったμ'sの「輝き」に漠然と憧れて、普通の日常に埋没する「普通怪獣」としての自身から脱却すべくスクールアイドルを目指し「Aqours」を結成。そして千歌は「廃校」というまさしくμ's的な危機に好機到来とばかりに嬉々として飛び込んでいく。こうして千歌はあたかも哲学者のように「輝き」を自己探究していく。

しかし、東京でのスクールアイドルイベントや入学説明会参加希望者数において突きつけられたのは「ゼロ」という数字であった。こうした試練を経て千歌は「輝き」の本質とは「ゼロを1にする」ということに気づく。そして、音の木坂学院を訪れた千歌はμ'sは後の世代に何も残していかなかった事を知り「輝き」の源泉とはμ'sの見た景色に囚われることのない「自分だけの景色」にあることに気づく。

⑸「差異」の肯定

こうした千歌と好対照を成しているのが、Aqoursの中でも一際強烈な言動で異彩を放つ厨二病少女、津島善子である。善子は幼い頃からの劣等コンプレックスを拗らせて自分を「神が嫉妬した特別な存在」と思い込み「堕天使」を名乗るも、周囲と上手くいかず一時は「堕天使」と決別しようとする。

けれども千歌たちから「堕天使を好きなら隠さず表現していい」と諭された善子はAqoursに加入。その後、善子は自らのうちにいる「堕天使」を隠すことなく肯定できるようになる。この点、千歌が一般性の側から特異性の側へ向かったのに対して、善子は特異性を手放さないまま一般性と調和しようとする点で二人は対照的な存在といえる。

「0と1」「一般性と特異性」。その間にあるのは「と」という「差異」である。本作の根底にあるのはこうした「差異」を明確に肯定する思想である。「0と1」の「差異」は「特異性と一般性」の「差異」から生み出される。そしてその「差異」は同時に「みんな」に回収されない「わたし」と「あなた」の間にある「と」という「差異」でもある。

⑹ アポステリオリに生じる「輝き」

そして2nd2期。前回惜しくも全国に届かず再び迎えたラブライブ。猛特訓の結果、極めて難易度の高い新フォーメーションを会得したAqoursは今度は見事、地区予選を突破する。けれどもノルマであった入学希望者100人には惜しくも届かず、浦の星の廃校が正式に決まる。目標を見失い「ラブライブなんてどうでもいい」と自暴自棄となった千歌だったが、浦の星の生徒たちの「ラブライブで優勝して浦の星の名を残す」という願いを託され、再びラブライブの頂点を目指す。

物語は一旦破壊されて、再び紡ぎ直された。果たしてAqoursはラブライブで優勝し卒業式/閉校式を迎える。そしてついに千歌は自ら発した「輝き」の問いに対して「自分たちの過ごしたかけがえのない時間こそが輝きである」であるという結論を得た。ここで「輝き」とは「ここではないどこか」にあるアプリオリなイデアではなく「或るいまここ」と「別のいまここ」の間にある「差異=時間」の中にアポステリオリに生じる実存として見出されることになった。

⑺「つながり」から「輝き」へ

1stは「動員の時代」を体現する「つながり」の想像力から出発しつつ、いち早くその限界性を描き出し「つながり」の全体性に回収されない個の「まとまり」としての「みんなで叶える物語」を提示した。こうした「つながり」のオルタナティブとしての想像力は、続く2ndにおいて「輝き」という言葉により深化を遂げた。

「つながり」から生じる接続過剰の「輝き」による切断と再接続。この到達点は優れて2010年代中盤以降の気分に共鳴しているだろう。いま振り返れば、2010年代という10年は「動員の時代」における「つながり」の希望が次第に失望へと変わっていった10年であった。ゆえに2010代中盤以降のサブカルチャーには「つながり」のオルタナティブとしての想像力が求められてきた。本作が従来のアニメファンに止まらない幅広い支持を集めてきた理由は、遷移していく時代の気分を常に鋭くかつ繊細に捉え、優れた物語として提示し続けるその想像力にあるのではないか。





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