欲望と享楽⑵ 作品論3
8 イエスタデイをうたって(冬目景)
⑴ 否定神学--冬目景作品の通奏低音
冬目景作品の魅力は、その退嬰的な心理描写と瑞々しい日常描写が織りなす独特な世界観にあるが、その作品世界の多くはある種の否定神学的な幻想によって規定されている。そしてこうした想像力の源泉はおそらく氏のデビューした90年代前半という時代性に由来すると思われる。バブル経済と冷戦構造の崩壊によって幕を開けた1990年代はそれまでの日本社会を規定していた「戦後」という名の「大きな物語」の失墜が明らかになり始めた時代となった。その結果、いわゆる「象徴界の機能不全」による「政治と文学」の断絶と呼ばれる問題が生じることになった。
かつて文学(実存)を語ることは、これすなわち政治(社会)を語ることであった。ところが象徴界が機能不全に陥ると、政治(社会)の問題は家族や恋人や友人といった身近な小世界へ矮小化される一方で、文学(実存)の問題は象徴界の外部という接近不可能な領域へと旋回することになる。こうしたことから90年代においては「性愛」「死」「心的外傷」「近親相姦」「世界のおわり」といった文学的記号を導入する事で象徴界の外部としての「不可能性」を描き出す否定神学的な想像力が台頭した。こうした想像力は後に「セカイ系」という言葉によりひとつのジャンルとして名指される事になる。
冬目氏の初の連載作品「ZERO(1995)」もまた、こうした否定神学的な幻想に強く規定された作品であった。同作では退学処分になった少女が学校に立て篭もり生徒を惨殺し、最後は学校もろとも自爆して死ぬという悲劇的な結末を迎える。そして、こうした冬目景作品における否定神学幻想の到達点をなす作品が初期の代表作といえる「羊のうた(1996〜2002)」である。
同作のあらすじはこうである。本作の主人公、高城一砂は幼い頃に母親を亡くして以来、父親の友人である江田夫妻の元で育てられ、現在ではごく普通の高校生活を送っていたがある日、一砂は同級生の八重樫葉の左手の赤い絵の具を見て奇妙な感覚に襲われる。そして久しぶりに訪れた高城の家で、一砂は1歳違いの姉、高城千砂と再会。そこで一砂は吸血鬼のように発作的に他人の血が欲しくなるという「高城の病」を知る。千砂は幼少期から「高城の病」に犯されており、加えて生来病弱で余命幾ばくもない。そして一砂もまた「高城の病」の発病を感じていた。千砂は自らの手首を傷つけ一砂に血を与え、やがて2人はお互い寄り添うように暮らし始める。そして一砂に仄かな想いを抱く八重樫はただ状況を傍観するしかなかった。
このように「羊のうた」という作品においては、ひたすら破滅へと向かうかの如き重苦しい物語が展開される。そしてその根幹にあるのは「死」という絶対的な「外部」が作品世界の全てを駆動させている否定神学幻想である。そして、このような否定神学幻想をさらに洗練させた形で反復させつつも、その乗り越えを図った作品が、長期連載となった代表作「イエスタデイをうたって(1998〜2015)」であった。
⑵ ロストジェネレーション世代の応援歌
本作は魚住陸生(リクオ)、野中晴(ハル)、森ノ目榀子、早川浪の4人の主要登場人物の人間模様を軸として、ゆるやかな空気感の中で展開される恋愛群像劇である。リクオは大学卒業後も「やりたい事」が見つからず、就職せずにコンビニでフリーター生活を続けている。リクオはなんとなくカメラが趣味ではあるが、なぜか「人物は撮らない」という妙な主義がある。けれどもリクオはそのポリシーがどこから来たのか自分でもわからない。
そんなある日、リクオは偶然知り合った映画研究部の高校生達が撮った8ミリのラッシュフィルムを目にする機会を得る。さしたる技術もなくほぼ情熱だけで撮られたその拙い映像の中にリクオは自分はなぜ人物を撮らないのかの答えを見い出すことになる。
その答えは「人物を撮らない」のではなく「人物を撮れない」という事であった。リクオは連続の中にある一瞬の輝きをーーーおそらくは「まなざし」をーーーカメラで捉える事が出来ない自分を正当化するための言い訳を無意識的に作り出していた。つまりそこにはそれだけの「人物を撮りたい」という欲望があるわけである。
こうして自身の中にある「やりたい事」を発見したリクオはその後、機縁を得て、写真スタジオへ正社員として就職を果たす。リクオはいわば回り道をしたからこそ自分の本当にやりたいことが見つかったと言える。レールから外れたからこそ見えてくるものがある。長い目でみれば数年間の回り道は無駄ではなかったのである。
本作の連載がスタートした90年代後半は、平成不況の長期化により就職氷河期が深刻化し、世にはリクオのように大学を出ても就職するあてのないフリーターが急増した時代であった。ただ、いま思うとあの時代は、これまでのように新卒一括採用で就職し、終身雇用や年功序列のレールの上で生きて行くという昭和的ロールモデルが崩壊して行く中で、新たな社会的自己実現のオルタナティブが模索されはじめていた過渡期でもあった。そういう意味で本作は時代とのめぐり合わせ悪く不遇をかこった多くのロストジェネレーション世代への応援歌でもあったといえる。
⑶ 宮廷愛から誤配へ
リクオは大学時代の同級生である榀子に恋心を抱いている。けれども榀子は早逝した幼馴染、早川湧との思い出にしがみついてそこから前に進めないでいる。一方、偶然の出会いからリクオを慕うハルは、かつての副担任でもあった榀子にリクオを巡って「宣戦布告」をするが長らく二番手の位置から動けない。また、湧の弟である浪は榀子を追いかけて上京してくるが榀子は浪に対して弟以上の感情を持てないでいる。
なかなかもどかしい人間模様である。ここでは「羊のうた」で確立した否定神学構造が洗練された形で反復される。榀子は死んだ湧を、リクオはかつての榀子を、それぞれ至高の何かへと昇華してしまい、そこからなかなか動けない。このようにある他者を絶対的な「外部」と同一視してしまう否定神学的な恋愛観を「宮廷愛」という。
けれどもイエスタデイはこうした羊のうた的なもの、否定神学的な宮廷愛を乗り越える物語であったといえる。
ハルは「コイなんて錯覚じゃん?一度錯覚したら何らかの結果が見えるまで止まんないんだと思う」と言う。恋は錯覚、単なる誤配。おそらくこれが身も蓋もない現実なのかもしれない。けれど人は面倒な生き物であり、こうした偶然的な現実の中にも何がしかの必然的な真実を見出したがったりするのである。
こうした意味で、宮廷愛とはある意味で現実の隠蔽装置に他ならない。真実とは所詮、虚構にすぎない。恋は錯覚、単なる誤配。リクオも榀子も散々周り道をした挙句、土壇場でようやくこうした身も蓋もない現実を、2人は受け入れていくのであった。
誤配を誤配として素直に肯定する事は案外と難しい。翻って考えるに我々の人生も誤配の連続ではないか。けれども誤配を愛でるところから始まる関係性だってある。イエスタデイの物語はそんな誤配だらけのぐだぐだな周り道を穏やかに肯定しているようにも思えたりもするのである。
9 ゆるゆり(なもり)
⑴ 「ゆるゆり」という革命
ゼロ年代以降における百合文化を語る上で欠かせないのが「コミック百合姫」の存在である。その前身である「百合姉妹」が2003年、マガジン・マガジンから業界初の百合専門誌として創刊され、翌年には早速休刊の憂き目に遭うも編集長の中村成太郎氏の尽力により2005年には一迅社から実質的な後継誌である「コミック百合姫」が創刊される。当初は季刊誌からスタートし、2010年には隔月刊発行、2016年には月刊発行へと順調に規模を拡大させていく。そしてこの「百合姫」から初のアニメ化を成し遂げたのが「ゆるゆり」である。
本作はその名の通り中学生女子の日常の中でのゆるい百合を描いていく。「ゆるゆり以前ゆるゆり以後」と呼ばれるように、本作はキレ味鋭いギャグと繊細な感情描写を武器に、これまでどこか敷居が高く後ろ暗いイメージが付きまとっていた百合というジャンルを明るく楽しい肯定的なものへと変えて行った。
もちろん、こんなゆるいものなど断じて百合ではないという意見もある事は百も承知している。確かに、本作が描く人間関係の大半は何だかんだ言っても女の子同士の友愛の延長線上でしかなく、そこに性愛的な感情の自覚は希薄である。
ただ、本作はちなつや千歳というやや濃いめのキャラの視点を通じて、読み手の百合的な感性や想像力を徐々に「教育」していく仕掛けになっている。つまり本作は読者を本格的な百合の深遠へ誘う為の教育漫画であると捉えるのが妥当かもしれない。教育である以上は「教育的配慮」もそれなりに必要だという事である。
しかし、それでもやはり、本作の成功は百合というジャンルに誤配を招く可能性を拡大させてしまった事も確かである。具体的にはゆるゆりみたいな作品を期待して百合姫に手を出しだ結果、その「ガチっぷり」に戦慄するというパターンである。
こうした誤配から生じるもっとも危惧すべき事態はジャンルの再定義である。すなわち、百合というジャンルに深く根ざしている性や身体の問題が切り離され、単に思春期の女の子同士の甘やかな交歓という上澄みを掬い取ったものだけが「百合」であるとされてしまう可能性である。これは従来からの百合ファンにとっては自分の居場所を奪われるに等しい危機にもなりなねない。
⑵「解放区」「居場所」としての「百合」
ただ、デリダや東浩紀氏を引くまでもなく「誤配」は時に良い方向にも作用する。ゆるゆりの成功は、サブカルチャー作品全体における百合描写のハードルを大きく引き下げ、また近年の「おねロリブーム」など「百合」というジャンル自体を活性化させる契機を持ち込んだ事は確かである。
「百合」という概念は一ジャンルコードに留まらず、エディプス的規範に収まり切れなかった「過剰な何か」に「解放区」や「居場所」という物語を差し出してきた。その根底にあるのは「排除」ではなく「包摂」の原理なのである。
10 ゆるキャン(あfろ)
⑴ 日常系という想像力
「日常系」と呼ばれる作品群は多くの場合は4コマ漫画形式を取り、そこでは主に10代女子のまったりとした何気ない日常が延々と描かれる。ここで描き出されるのはいわば作品世界の「空気」そのものであり、このことからしばし「日常系」は「空気系」とも呼ばれたりもした。
こう言ってしまうと、なんとも他愛のないジャンルのようにも聞こえてしまうが、その一方で大きくいえば「日常系」には、まさしくゼロ年代における「つながり」の思想の申し子ともいえる側面がある。
いわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効し「終わりなき日常(宮台真司)」「データベース構造(東浩紀)」「不可能性の時代(大澤真幸)」「郊外化した世界(宇野常寛)」などと様々に名指されるポストモダン的状況が加速する現代における想像力は「大きな非物語(アーキテクチャー)」から生成される様々な「小さな物語(コミュニティ)」同士の関係性をいかに描き出すかという課題を背負い込んだ。
この点、ゼロ年代初頭のオタク系文化においてはポスト・エヴァンゲリオン的潮流に属する「セカイ系」と呼ばれる想像力が一世を風靡したが、やがて「セカイ系」は複数のセカイが無根拠な正義を巡って不毛な抗争を繰り広げる決断主義的な想像力へと先鋭化することになった。
こうした中でゼロ年代中葉以降のオタク系文化において「セカイ系」の限界を乗り越える形で台頭し始めたのが「日常系」と呼ばれる想像力であった。その代表として4期に渡りアニメ化された「ひだまりスケッチ」やアニメによる地域振興のロールモデルとなった「らき☆すた」、そして劇場版が大ヒットして当時は社会現象とまで呼ばれた「けいおん!」が挙げられる。
このような日常系作品の想像力を支えていたのは当時、ソーシャルメディアの登場とともに前景化しつつあった「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯を寿ぐ思想であった。わたしとあなたは違う物語を生きているけれど、それでも互いにつながることができる。異なる物語の交歓から芽生える可能性としての「つながり」への信頼。それは一見して「大きな物語」なきところでの「小さな物語」同士の理想的な関係性の有り様に思えた。
いわば「セカイ系」が理想化されたひとつの「小さな物語」への引きこもり/開き直りに依拠した想像力であったとすれば「日常系」は異なる「小さな物語」同士が紡ぎ出す「つながり」の中で瑞やかな日常を再発見していく想像力であるといえる。
⑵ つながりとつながりの外部
こうしてゼロ年代の日常系作品は理想的な「つながりの楽園」を描き出してきた。ゼロ年代における日常系が現代サブカルチャーにおける新たな想像力の地平を切り開いた功績はもはや疑いないだろう。
ただその一方で、日常系の描き出す「つながり」とはなんだかんだ言っても、限定されたコミュニティ内部における同世代女子同士の甘やかな交流であり、こうした「つながり」をひとたび絶対至高な尊いものとして描いてしまうと、そこにはたちまち「ひだまり荘」とか「放課後ティータイム」などという名でかつての「セカイ」のような「つながり過剰」の物語が再帰してしまう。そして2010年代の現実世界もまさに様々な「つながり」同士が同調圧力と排除の原理で世界を友と敵に切り分けあった「つながり過剰」の時代であったといえる。
こうしたことから2010年代における日常系作品の多くでは「つながり」を「つながり過剰」に閉じることなく外に開くため、例えば「お仕事(ご注文はうさぎですか?/NEW GAME!/こみっくがーるず/おちこぼれフルーツタルト)」「留学や留年(きんいろモザイク/スロウスタート)」「アウトドア(アニマエール!/恋する小惑星)」「家族や地域社会(まちカドまぞく/スローループ/RPG不動産)」といった形で何らかの「つながりの外部」というべき回路の導入が試行錯誤されてきた。
⑶ 2010年代日常系の代表作
そして、こうした2010年代における日常系作品が希求し続けた「つながりの外部」を極めて決定的な形で切り開いた作品が「ゆるキャン△」である。2015年から「まんがタイムきららフォワード」で連載が開始された本作は、2018年のアニメ化をきっかけに人気が高騰。さらにはアニメのみならずテレビドラマ化も果たし、原作の累計発行部数はかつて「社会現象」とまで呼ばれた「けいおん!」を遥かに凌駕する600万部を突破している。本作は名実とも2010年代の日常系を代表する作品といえるだろう。
本作は山梨県とその周辺地域を舞台にキャンプをゆるく楽しむ女子高生たちの日常が描き出される。そのあらすじはこうである。主人公、志摩リンは趣味の1人キャンプの最中に、ふとしたことから遭難しかかっていたもう一人の主人公、各務原なでしこを助ける事になる。リンとの出会いをきっかけにキャンプに興味を持ったなでしこは早速、高校のキャンプ同好会「野外活動サークル(通称野クル)」に入り、メンバーの大垣千明や犬山あおいとともにキャンプ三昧の日々を送る。一方、なでしことリンは同じ高校の同級生だったことが判明し、なでしこはリンを野クルに勧誘するも、1人キャンプが好きで、かつ野クルのノリが苦手なリンはなでしこの誘いをにべなく断ってしまう。しかしその後、リンはなでしこと二人でキャンプにいくなど交流を重ね、また千明たち野クルのメンバーともSNSを介して徐々に関わるようになる。
本作は掲載雑誌の性質上、日常系作品定番の4コマ漫画形式を取っていない。それゆえに本作では見開きのページによるキャンプ場からの眺望など、通常の日常系作品ではあまり見かけることのないダイナミックで臨場感のあるコマ割りもその特色の一つとなっている。
⑷「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係
では「ゆるキャン△」において「つながりの外部」はいかなる形で導入されているのか。
この点、そもそも本作の題材とする「キャンプ」とは普段の日常を離れた非日常の経験を通じて、普段の日常では出会うはずのない人や物や事に出会い、考えないような事を考え、欲望しないような事を欲望する契機である。ここには「日常=つながり」に対する「非日常=つながりの外部」という関係性が成り立っている。
さらに決定的であるのは、本作では「グルキャン(多人数キャンプ)」と「ソロキャン(1人キャンプ)」をそれぞれ等価的なものとして描き出している点である。リンは野クルと合同のクリスマスキャンプに参加したことで「グルキャン」に「ソロキャン」とは「違うジャンルの楽しさ」を見出した。けれどその一方で、リンは改めて「ソロキャン」における「寂しさも楽しむ」という価値を再発見する。そしてリンに触発されたなでしこも「ソロキャン」に興味を持ち始め、バイトで資金を貯め、リンのアドバイスで計画を立て、果たして富士川キャンプ場における初めての「ソロキャン」を見事成功させることになる。
このように本作は「グルキャン」を決して「ソロキャン」の上位互換に位置付けるのではなく、両者それぞれが異なる価値を持ったものとして捉えている。ここには「グルキャン=つながり」に対する「ソロキャン=つながりの外部」という関係性が成り立っているのである。
日常に対する非日常。グルキャンに対するソロキャン。本作ではこのような形で「つながりの外部」を二重に導入した上で、「つながり」と「つながりの外部」が織りなす理想的な並走関係を描き出して行く。こうした意味で本作は、2010年代における日常系が様々な形で希求してきた回路を完成させた作品であると同時に、日常系というジャンルがこれまで至上価値としてきた「つながり」の思想へ批評性な介入を試みた作品といえる。そしてそこには、我々の現実における「つながり過剰」を解毒するためのある種の処方箋を見出すことができるのではないだろうか。
11 カードキャプターさくら(CLAMP)
⑴ 思春期における少女の物語
「少女漫画」というメディアは従来から思春期における少女の心身変化を基礎付ける「物語」としての役割を担ってきた。こうした意味での伝統的な「少女漫画」へと回帰すると同時に、まったく想定外だった「大きなお友達」を熱狂させ「魔法少女」という現代視覚文化を語る上で不可欠なカテゴリーを確立した記念碑的作品が創作集団CLAMPの不世出の名作「カードキャプターさくら」である。
同作は1996年から少女雑誌「なかよし」で連載が開始され、2000年に一旦連載が終了するも、2016年より再び「なかよし」でまさかの連載再開となり、その人気は全く衰える事がないどころか年を追うごとに着実に支持層を拡大させて現在に至っている。
⑵ かつてのさくらの物語(1996年〜2000年)
伝説の魔術師クロウ・リードの作り出したクロウカード。その「封印」が解かれる時、この世に「災い」がもたらされる。友枝小学校の4年生、木之本桜はふとしたきっかけから、クロウカードの守護者である選定者ケロベロスによって、散逸したカードを再び「封印」するカードキャプター(捕獲者)に選ばれてしまう。
こうしてさくらはクロウカードの「災い」なるものからご町内を守るため、ケルベロス、親友の大道寺知世、そして後に相手役となる李小狼とともにクロウカードの封印に奮闘する。そして全てのクロウカードを集めたさくらはクロウカードのもう一人の守護者である審判者月(ユエ)の「最後の審判」を見事クリアしてクロウカードの正式な主となる。ここまでがいわゆる「クロウカード編」である。
それからしばらく経ったある日、さくらの前に謎めいた転校生、柊沢エリオルが現れる。そして、その直後より奇妙の事象が続けて発生。クロウカードはなぜか事象に対して効果が無効化されてしまう。そこでさくらは「クロウカード」を自らの魔力を込めた「さくらカード」に変えて行くことで事件を解決していく。これがいわゆる「さくらカード編」である。
⑶「好き」という感情
そして物語もいよいよ佳境に入る中、さくらはずっと慕っていた月城雪兎へその想いを告げる。けれども雪兎は自分に向けられた「好き」がさくらの父に対する「好き」の反復であることを見抜いており、さくらの言う「好き」とはまた違う「好き」がこの世界にはあることを気付かせようとする。
果たしてその後、さくらは小狼から告白され、それ以降自分の中で新たに生じたよくわからない感情に困惑するが、小狼が香港に帰ることを知った時、その感情こそが家族愛的な「好き」とは違う、異性に対する恋愛感情としての「好き」であることに気づく。
こうして、さくらは帰国直前の小狼に自作のテディベアを渡し「一番好きな人」であることを伝えたところで物語はその幕を閉じるのであった。このように、さくら旧編は「好き」という感情を言葉へと紡いでいく物語であり、また同時に家族愛や異性愛に留まらない様々なかたちの「好き」という感情を肯定していく物語であった。
⑷ 新たなさくらの物語
物語は前作の最終回から再びスタートする。友枝中学校に進学したさくら。長らく離れ離れになっていた小狼とも再会して、これからの中学校生活に期待を膨らませる矢先、さくらはフードをかぶった謎の人物と対峙する奇妙な夢を見る。目を覚ますと新たな「封印の鍵」が手の中にあった。そして「さくらカード」は透明なカードに変化して、その効果を失っていた。
以後、立て続けに魔法のような不思議な現象が起こり出す。さくらは新たな「夢の杖」を使い、一連の現象を「クリアカード」という形に「固着(セキュア)」していく。
そんな折、さくらのクラスに詩之本秋穂という少女が転入してくる。さくらと秋穂はお互い惹かれあうように交友を深めていく。その一方で、小狼は秋穂の傍らで執事を務めるユナ・D・海渡の正体に疑念を抱く。
果たしてクリアカードを生み出していたのはさくらの魔力暴走だった。この事を事前に見越していた小狼はさくらの魔力暴走を抑制するため、さくらカードをあらかじめ隔離していたのであった。
一方で、海渡の正体は人並外れた魔力を持つイギリス魔法教会の魔術師であることが判明する。海渡は幼少より「時の魔法」の優れた使い手として知られていたが、現在は門外不出の「魔法具」を持ち去った事で協会を破門されていた。
海渡は「時の本」を動かして「禁忌の魔法」を発動させるため、さくらに「あるカード」を生み出させようと画策していた。そして、海渡がかつて協会から持ち去った「魔法具」の正体こそが他でもない秋穂であることが判明する。
⑸ さくらと秋穂
本作は4巻くらいまでは比較的ゆっくりとした展開が続いていたが、5巻以降ようやく物語の見晴らしが開けてきた。おそらく、いま思えば本作が中盤序盤のうちはあまり物語を動かさず、さくらと秋穂の交歓を極めて繊細に描いて来たのは、おそらくは秋穂というキャラへ読者が感情移入を深めていく為の準備作業だったのかもしれない。
秋穂は欧州最古の魔術師達と呼ばれる一族に生まれるも、全く魔術を使うことができず周囲を失望させることになる。両親はすでに亡く、秋穂は一族の中で孤立していた。だが海渡が幼い秋穂を「真っ白な本」と何気に評したことがきっかけで、秋穂はその身に様々な魔術を記録させることができる魔法具に改造されてしまうのであった。
こうした中、海渡は秋穂の監視兼護衛を名乗り出て、彼女を外の世界に連れ出し、そのまま協会から離反する。しかし協会と一族の術からは逃れることができず、秋穂の意識は徐々に魔法具に乗っ取られつつあった。
幸せな棲家、幸せな人達、幸せな思い出そして未来。海渡はこれらの全てが秋穂にはなく、さくらにはあるという。海渡が禁忌の魔法に執着するのは、こうした秋穂の境遇と何かしらの関係があるのだろう。
この点、前作では、さくらが小狼への恋愛感情の芽生えを発見していく過程に描写の重きがおかれていた。一方、今作においては、さくらと秋穂という二人の少女が同性間の交歓を深めていく過程に描写の重きが置かれている。さくらと秋穂。二人の関係性はかつての少女小説における「エス」を想起させるものがあり、ここには近年拡大しつつある「百合的な対幻想」の影響を見出すことができる。そして本作の特色は、こうした二人の関係性に「アリス」のイメージを重ね合わせている点にある。
⑹「アリス」というイメージ
本作では、ルイス・キャロルの児童文学「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のモチーフが幾度となく反復されているのがその特徴である。
まず物語の鍵を握る「時の本」を秋穂は「時計の国のアリス」と呼んでいる。また秋穂はさくらが活躍する夢を、さくらは秋穂の過去の夢を、お互いに「アリス」の夢としてみていた。またさくらは幻想の中で「ここはアリスの物語、アリスが語る物語、アリスが綴る物語」と虚げに語る秋穂を目にしている。
一方で、海渡は小さくなったさくらが生み出した「影像」のカードを「鏡」に出てくるジャバウォックだと評して、そこから彼は秋穂と初めて会った庭を「不思議」のアリスが迷い込んだ世界のようだったと回想する。また、かつて秋穂の母は将来生まれてくるさくらと秋穂を「ふたりのアリス」と呼び「時の本」の守護者であるモモに2人を託していた。
こうしたエピソードの他、さくらと秋穂はしばしアリスの服を着た幻想的なイメージとして幾度となく描かれている。
⑺ 二人のアリス
そして12巻ではさくらと秋穂はついにアリスのイメージと自覚的に向き合う事になる。全校交流会での劇の脚本と演出を任されたさくら達の同級生である柳沢奈緒子は桜と秋穂の姿にインスパイアされて「二人のアリス」という物語を思いつく。
果たして奈緒子が書き上げてきた脚本は「『夢』の世界に迷い込んでしまう『アリス』」と「元居た世界に戻れなかった『もうひとりのアリス』」の物語である。そしてその参照先がまさかの「時計の国のアリス」こと「時の本」である。
さくらと秋穂は奈緒子に依頼されアリス役を受けることになるが、それぞれがどうも何かしら思うところがあるようで、特に秋穂は「もうひとりのアリス」の役にやたらと拘る様子を見せる。その一方で、海渡は時の魔法の使い過ぎで、自分にあまり時間がない事を悟りつつ、この「二人のアリス」という物語に何かを期しているようでもあった。こうして虚構と現実の双方において「二人のアリス」が並走をはじめるのであった。
⑻ ていねいに日常を生きるということ
本作の特徴は前作以上に、さくらの学校や家庭での日常が極めて煌びやかな筆致で描写されていく点にある。いま思えば本作が中盤序盤のうちはあまり物語を動かさず、さくらと秋穂の同性愛的な交歓を極めて繊細に描いて来たのは、おそらくは秋穂というキャラクターへ読者が感情移入を深めていく為の準備作業だったのかもしれない。
そして、さくらの魔力暴走はおそらく思春期における少女の心身変化のメタファーなのだろう。そうであれば、本作の随所に登場するていねいな日常描写はひとつの「物語」として読めるではないか。
ていねいに日常を生きるということ。前作が様々な「好き」を限りなく肯定する物語だとすれば、今作はこの何気ない「日常」をこの上なく祝福する物語のようにも思えるのである。
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