欲望と享楽⑵ 作品論4


12  女のいない男たち(村上春樹)

⑴ 村上春樹作品における母的ヒロインと娘的ヒロイン

精神分析における「男性」とは基本的に「去勢」された存在であるとされている。ラカンが「性別化の式」で示したところによれば「(精神分析的な意味での)男性」とは「言語の世界(象徴界)」における主体となる代償として「言語以前の世界(現実界)」における「絶対的享楽」の喪失を齎す「去勢」に、すなわち「(象徴的な)ファルス」の欠如に直面した存在である(ファルス関数)。その結果、男性は「絶対的享楽」の残滓としての「対象 a 」に切り詰められた享楽で満足するほかなくなるのである(ファルス享楽)。

この点、男性がこの「対象 a 」の位置に、ある任意の女性を置いた時、その「幻想($♢a)」は一般的に「恋愛」とか「性愛」などと呼ばれることになる。そして男性が「対象 a 」としての女性を喪失した時、これまでのささやかな「幻想」は破綻し、彼は再び「ファルス」の欠如に直面することになるのである。

この点、村上春樹作品においてはしばしこうした意味での「対象 a =ヒロイン」を喪失した男性主人公が「幻想=生の物語」を記述し直していくという構図が見られる。そして、ここで鍵を握るのが「もう一人のヒロイン」である。

例えば「ノルウェイの森(1987)」では、ヒロインの直子が精神病になり最後は自死してしまうが、その間、主人公のワタナベを支える存在が大学の同級生である緑である。また「ダンス・ダンス・ダンス(1988)」では、失踪したヒロインのキキを捜索する途中で知り合ったユキという娘が主人公 の「僕」を振り回しながらも、その特殊能力でキキの消息を突き止める。

あるいは「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」では、主人公であるオカダ・トオルは突然失踪した妻、クミコを取り戻すため、彼女の兄であるワタヤ・ノボルと対決することになるが、その過程においてオカダは笠原メイという近所に住む不良少女から多くの示唆を受けている。そして「1Q84(2009〜2010)」では主人公の天吾がもう一人の主人公にしてヒロインである青豆と再会する上で鍵となる存在が「空気さなぎ」という物語を生み出したふかえりという不思議少女であった。

これらの村上春樹作品においては直子、キキ、クミコ、青豆が主人公にとっての「母的ヒロイン」だとすれば、緑、ユキ、メイ、ふかえりは主人公にとっての「娘的ヒロイン」である。要するにこれらの作品では「母的ヒロイン」の喪失を「娘的ヒロイン」が一時的に埋めわせているかのような構造が共通しているのである。

⑵「女のいない男たち」の悲喜劇

そして6つの短編からなる本作「女のいない男たち(2014)」における男性主人公も何らかの形でヒロインの喪失に直面する。けれども、そこには都合の良い「もう一人のヒロイン」は登場しない。すなわち、本作の主人公達は「娘的ヒロイン」の支援なしで「母的ヒロイン」の喪失を受け入れていき、あるいは受け入れることができずにいる。本作はこうした意味での「女のいない男たち」の悲喜劇が描き出されていくでである。

この点、戦後日本を代表する文芸評論家である江藤淳氏は主著「成熟と喪失」において、近代的な「成熟」の感覚を「母」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を引き受ける事だと定義しました。そして江藤氏は「父」になれない自覚の下にあえて「父」である「かのように」振る舞う成熟の主体を「治者」と呼んだ。

江藤氏のいう「治者」とは確かに「成熟と喪失」刊行当時の高度経済成長期においては適合的な成熟モデルであったかもしれない。けれども戦後的なロールモデルが崩壊した現代においては、むしろ「治者」とは異なった成熟モデルが要請されているといえるのである。

こうした意味で、本作における主人公たちは、それぞれが「母(的ヒロイン)」を見棄てるという「喪失感の空洞」の中に湧き出でる「悪」を「治者」とは別の仕方で引き受けていく複数人の「女のいない男〈たち〉」であったといえるのではないだろうか。

⑶ 映画「ドライブ・マイ・カー」と原作小説の相違点

本作の冒頭を飾る短編「ドライブ・マイ・カー」は周知の通り2021年に映画化され、カンヌ映画祭脚本賞やアカデミー賞国際長編映画賞をはじめとした数々の賞を受賞し、日本映画史上歴史的な作品となった。

この点、映画では、原作短編以外の別の短編の要素も取り込まれており、ストーリー自体も原作とはかなり異なるものとなっている。

原作小説の方は主人公の中堅俳優、家福が彼のドライバーを務めるみさきに、かつて自身の妻を寝取った後輩俳優である高槻という男との妻の死後から始まった奇妙な交流を回想録的に語るという流れになっている。この時点で家福が過去に負った精神的な傷は既に自身でほとんど克服しており、基本的にみさきは家福の回想の聴き役に留まっている。

これに対して映画版で家福と高槻の交流が始まるのはみさきが家福のドライバーになった後のことである。映画版で家福は売れっ子の舞台演出家という立ち位置になっており、彼は自身が演出を務める多言語演劇の主役に高槻を抜擢して、そこから2人の交流が始まるのである。

つまり、この時点で家福の精神的な傷は未だ癒やされてはいない。そして家福は高槻との交流ではなく、むしろ、みさきとの交流の中で自身の傷を癒していくのである。

この点、原作小説の中核的テーマは先述のとおり、主人公が従来の村上春樹作品のように「もう一人のヒロイン」の支援のないところで自らの生の物語を記述し直していく点にあった。

ところが映画はむしろ従来の村上春樹的な構図に積極的に回帰しているように思われる。映画において家福の妻、音が「母的ヒロイン」だとすれば、みさきは「娘的ヒロイン」である。しかも原作でも映画でも、みさきは家福の夭折した実娘と同い年という設定なので、いわば彼女は緑やユキやメイやふかえり以上の「娘的ヒロイン」といえる。

おそらく原作小説の中核的テーマからすれば、映画におけるこうしたアレンジには賛否があるところだろう。けれども見方を変えれば、従来の村上春樹的な構図へ積極的な回帰を志向した映画「ドライブ・マイ・カー」はある意味で、原作小説以上に村上春樹的な作品になったともいえるかもしれない。


13 星か獣になる季節(最果タヒ)

⑴ セカイ系の継承者としての最果タヒ

ゼロ年代の現代詩シーンに彗星の如く現れた最果タヒ氏の作品はしばし「セカイ系」と呼ばれることがある。当初セカイ系とは「新世紀エヴァンゲリオン」の強い影響下にあったゼロ年代初頭のオタク系文化で「自意識」を過剰に語る作品群を指していたが、やがてセカイ系という言葉が文芸批評の分野で用いられるようになると「社会」や「組織」といった「世界観設定(象徴界)」を積極的に排除して「ヒロイン(想像界)」と「世界の果て(現実界)」を直結させる構造として再定義されることになった。そしてこうした構造の下では主人公の実存はヒロインの母権的承認によって担保され、主人公の「自意識」をめぐる問いはヒロインを救えない己の無力さへと向けられることになる。この点、2015年に公刊された最果氏初の小説となった本作『星か獣になる季節』もまた、こうしたかつてのセカイ系を継承した物語である。けれども同時に本作はその「外部」を開く物語でもあった。

⑵「かわいい」だけで「平凡」なアイドルをめぐる物語

君はかわいいだけだ。凡庸で貧弱な精神、友達だけが社会で、ぼくらのことを光のかたまりぐらいにしか見ていない。だからぼくは軽蔑ができた。遠くにいたって踊っていたって、きみのことを好きだと思たんです。どうして、人を殺したんですか。

(「星か獣になる季節」より)


本作の主人公、山城翔太は誰一人友達がおらず孤独で灰色の青春を送る男子高校生である。そんな彼の唯一の生きがいと呼べるものは自分と同い年の地下アイドル、愛野真実(まみちゃん)を応援することであった。

もっとも山城のまみちゃんへの愛情はかなり捻くれている。山城にいわせればまみちゃんは外見が「かわいい」以外にロクな特徴がないとことん「平凡」な存在である。だからこそ山城は愛野をただただ「かわいい」だけの「平凡」な存在として上から目線で愛でることができていた。

ところがそんなまみちゃんが殺人容疑で逮捕されたという衝撃的なニュースが入る。慌ててまみちゃんの家(!)に駆けつけた山城は盗聴器(!!)の向こう側から「ゆうちゃんを殺して、ばらばらにして、星の形に並べたの。このまえテレビが来ていた、痣山神社のパワースポットの木の下で。そしたらかわいいとおもって」などと殺人の動機を淡々と述べるまみちゃんの声を聴いてしまう。

山城にとって「かわいい」だけの「平凡」な存在であるべき彼女が独力で殺人という恐るべき所業を成し遂げたことは、安全圏から一方的に彼女を蔑むことで保たれていた彼の「自意識」を脅かす認め難いものであった。このねじくれた態度から山城はまみちゃんが殺人犯ではないということを確かめるべく行動に出る。

一方、同じくまみちゃんのファンである山城のクラスメイトの森下はまみちゃんの罪を肩代わりするため、一般には公開されていないまみちゃんの殺人の手口を模倣した連続殺人を始めるのであった。スクールカースト上位に君臨する森下とクラスの日陰者である山城は学校ではまるで接点がなかったが、その一方で山城はしばし森下がまみちゃんのライブに来ているところを目撃していた。やがて森下の計画を知った山城は彼に協力を申し出る。そして最終的に森下が自首する前の最後の被害者として自ら殺されることになるのである。

⑶ 宮廷愛としてのセカイ系

山城からまみちゃんへの長い手紙という形式で記された本作の構図はある面でいわゆる「宮廷愛」と呼ばれるものを想起させる。ここでいう「宮廷愛」とはもともとは12世紀ヨーロッパに起源を持つ詩歌の一つのジャンルであり、高貴な既婚女性を対象とする肉体関係抜きのプラトニックな愛をいう。そして、こうした「宮廷愛」をラカンはそのセミネール20「アンコール(1971~1972)」において「性別化の式」における「男性側の式」の中に位置付けているのである。

まず男性側の式の左下(∀xΦx)は「すべての男性はファルス関数に従属しており、彼らが得ることができる享楽はファルス享楽だけである」という「普遍」に関する命題を示している。 そして男性側の式の左上(∃xΦx)は「少なくとも一人以上、ファルス関数への従属を免れている例外が存在する」という「例外」に関する命題を示している。そしてその「例外」は「絶対的享楽」から去勢されておらず「ファルス享楽」ではない「〈他〉の享楽」を得ていると想定される。

そしてこの「例外」の位置には、典型的には精神分析の始祖であるジークムント・フロイトの論文「トーテムとタブー」に登場する「原父」のような存在が想定されるが、男性にとって「例外」として機能するのは何も「原父」とは限らない。「原父」と同様に「宮廷愛」における「La femme(女性なるもの)」も男性にとっての「例外」として機能する。ラカンは「La femme」は「〈父〉のバージョン違い」であると述べている。

すなわち、ここである女性を接近不可能な「La femme」の高みに引き上げる「宮廷愛」とは「性関係の不在」の隠蔽装置として作用することになる。この点につきラカンは宮廷愛を「性関係の不在を補填するためのまったく洗練された方法」「男性にとっては、性関係の不在からエレガントに抜け出すための唯一の方法」と述べている。

この点、かつてのセカイ系は「ヒロイン(想像界)」と「世界の果て(現実界)」の直結構造から、主人公にとってのヒロインは「La femme」に相当し、その物語は自ずと「宮廷愛」の構図となっていた。そして、本作においても山城はまみちゃんを「かわいい」だけで「平凡」な、いわば「無垢であり無能の極み」として「La femme」の位置に祭り上げてしまっているのである。

こうして本作はかつての「セカイ=宮廷愛」という構図を極めてねじれた形で反復するところから始まり、山城は自分の構築した「セカイ=宮廷愛」の崩壊をどうにか修復するために奔走することになる。けれども、やがて物語が進むにつれ彼の「セカイ=宮廷愛」は完全に破綻することになる。

⑷「かわいい」という言葉が孕むもの

けれどもその一方で、山城は最期になってまみちゃんにこれまでの「かわいい」ではない、別の仕方での「かわいい」を見出すことになる。

よく知られるように最果作品では「かわいい」という言葉が頻出する。この点、一般的に「かわいい」という言葉は普通は幼いものや未熟なものを指すときに用いられる。またイマヌエル・カント以降の西洋美学における「崇高(ある対象がもたらす壮大さや巨大さへの畏敬を伴う感覚)」と「美(ある対象がもたらす形式的調和への慈愛を伴う感覚)」という二項対立の中で「かわいい」とはひとまずは「美」の前駆体に相当するものであるといえる。

こうした意味での「かわいい」とは、対象がまるでドールハウスの人形か何かのようにある形式的調和の中で安らいでいる状態を上から目線で慈しむような鑑賞態度をいう。

もっとも、足立伊織氏は「最果タヒと『かわいい平凡』の詩学(ユリイカ2017年6月号)」という論考で最果作品における「かわいい」とは「平凡」との両面を成しているとした上で、最果氏はこの「かわいい」と「平凡」いう言葉に「なにか大きなものを賭けているように見える」と述べている。

この点「かわいい」という概念は美学的にも足立氏が指摘するように「客観的かつ主観的、性質の記述でもあり評価でもあり、概念的かつ感覚的」という両極の間で揺れ動く複雑な概念でもある。すなわち、さまざまな文脈において個々に発される「かわいい」という「平凡」な言葉たちには対象の属性の客観的な記述としての側面が強いものから、より主観的でまるで祈りの言葉のような発話行為として機能するものまでのグラデーションが存在するということである。

そして同論考において足立氏は「森下やまみちゃんのことを正しく理解することができないということを積極的に引き受けることこそが、その理解不可能性において森下とまみちゃんを共鳴させ、二人のどちらのためなのか判然としないような山城の決断を生んだのではないか」と主張する。どういうことか。

⑸ かわいい平凡の詩学
ぼくは、森下の言葉の意味がわからなかった。森下は何を思っているんだろうか。きみのことをなんだと思っているんだろうか。まるで崇拝するみたいな目をして、きみのなまえを呼んでいた。それで人すら殺せると、言っていた。恋じゃないと、言っていた。きみはアイドルだって言っていた。僕はどれも知っている、でも森下みたいな気持ちは知らない。どこにもない、そんな感情ぼくのどこにも、存在していない。森下がねじまがった空間みたいに、そこに立っているんだ。

(『星か獣になる季節』より)


この点、殺人を犯した当のアイドルはこの小説のテクスト上に直接その姿を表すことがなく、岡山というストーカーが仕掛けた盗聴器と盗んだ日記の声と文字を介してのみその姿を窺い知ることができ(山城と森下はさらにそれを盗み聴き、盗み見ているのである)。

従って、読み手の前には決してアイドルの姿それ自体は現前することなく、いわば本作はもっぱら「愛野真実」という「空虚な中心」の周りをめぐる山城と森下の言葉によって駆動されていくことになる。そして「愛の真実」とも読みうる名を持つまみちゃんが作品の冒頭から終始不在であることに対応するかのように、本作は「真実」が不在であるかのようなある種の断念が孕まれている。

まず、まみちゃんに対する山城の「かわいい」と森下の「かわいい」は異なる「かわいい」である。山城は森下の「かわいい」を理解できないし、逆もまた然りである。そして山城にせよ森下にせよ、一介のファンに過ぎない彼らにとって愛野真実の「真実」など理解しようがなく、彼らの発する「かわいい」はどう足掻いても「平凡」な言葉以上のものにはならないだろう。

もっとも「アイドル」とは--少なくとも現代においては--その対象自体が持つ若さとか美貌とか技術というような内在的な属性ではなく、むしろその対象が「アイドルファン」によって支持されているという外在的な関係性によって成立するものであるといえる。

すなわち、ここでは「アイドル」の内在的な属性の正しい把握を究極的には断念した上で「アイドルファン」が「アイドル」に向ける身勝手で結局のところは間違いにすぎないけれど何とか誠実であろうとする無数の「かわいい平凡」と、これらの「かわいい平凡」を受け入れる「アイドル」という二項の関係性が「アイドル」と「アイドルファン」を同時的に生み出すことになる。

そしてその「真実」を究極的に捉えることが不可能なアイドルは、その理解不可能性という空虚さによって、ファンのそれぞれが持つ相互に理解不可能な無数の「かわいい平凡」が交通する容れ物のように機能することになる。

こうして「かわいい平凡」の交通の場としての「アイドル=偶像」は「美」というよりも、むしろ有象無象の「かわいい平凡」の全体集合としての「崇高(数学的崇高)」を感じさせる存在となる。足立氏はこの出来事こそが最果作品における「かわいい平凡」の詩学ではないかと述べている。

⑹ セカイ系と「かわいい」の誤配

きみが好きです。かわいいだけの、かわいい、たったひとりのきみが好きです。きみがなにを得られるのか、なにを笑っていくのか、わからない。きみがこれから、釈放されて、えん罪ということになって、またアイドルにもどるのか、それとも死んでしまうのか、苦しむのか、悲しむのか、ぼくのことをただの被害者だと、森下を軽蔑するのかわからないけど。ぼくはきみのことが好きで、恨んでもいない。ほんとうは、ただまっすぐに努力をしてアイドルとして、階段をのぼって、失敗しても成功しても、ここまでやったもんね、って言ってほしかった、ありがとうなんていらないし、ぼくはその姿にありがとうと言いたかった。きみにありがとうと伝えて、それできみがちょっとでも、やってよかったとおもえるように、伝えたかったんだ。きみの微笑み、きみの努力、汗、涙、なにかがたくさんふりつもって、できていた、きみ。今だって十分に、君に言える。ありがとう。好きです。

(『星か獣になる季節』より)


本作は途中でまみちゃんの殺人の真相らしきものが明らかにされることになるが、何にせよいかに言い繕ったところで、まみちゃんも森下も山城も法律的にも倫理的にも決して「正しい」とはいえないだろう。けれども少なくともまみちゃんが山城の孤独で灰色の青春に生の手応えを呼び起こした存在であった事は彼の中では確かな「真実」であったのではないか。

こうして山城のまみちゃんに対する「かわいい」は当初の「無垢であり無能」を愛でる「かわいい」から「憧憬と感謝」としての「かわいい」へと変容することになる。言い換えればここで山城はこれまでの「セカイ」を内破して、その「外部」への跳躍を果たしているとも言えるである。

この点、かつてのセカイ系は概ね「ぼく」と「きみ」の二者関係に閉じていた。これに対して本作は「ぼく(山城)」と「きみ(まみちゃん)」の二者関係に第三項としての「他者(森下)」を介入させることで「セカイの外部」を切り開くのであった。そしてそれは「かわいい」というエクリチュールをめぐるコミュニケーションの誤配の結果に他ならないだろう。

こうした意味で本作は「かわいい」をめぐる誤配の物語といえる。そして最果作品が広く支持されるひとつの理由もまたこのような「かわいい」をめぐる誤配にあるのではないだろうか。


14 こちらあみ子(今村夏子)

⑴ 今村文学の原点にして頂点

本作は2019年に「むらさきスカートの女」で第161回芥川賞を射止めた今村夏子氏のデビュー作となる。2010年に「太宰治2010」に「あたらしい娘」という題で発表された本作は、同年第26回太宰治賞を受賞し、その後、本作は「こちらあみ子」と改題されて単行本化され、2011年には第24回三島由紀夫賞を受賞した。

当時、本作は書評家や書店員の間でかなりの評判を呼んでいた。平明でありながらもどこか「世界に棲めてなさ感」のある不穏さを孕んだ文体、純粋無垢な感性の持ち主であるがゆえに異端扱いされる主人公、しばし「世界文学」とも評される時代や地域を超越した普遍的寓話性。こうした今村文学に通底する諸特徴はすでに本作において極めて過激な形で表出している。まさに衝撃のデビュー作であり、原点にして頂点といえる作品である。

⑵「普通」ではない女の子の物語

本作のあらすじはこうです。現在田舎で祖母と暮らすあみ子は15歳までは両親や兄と一緒に暮らしていた。自宅では父親の再婚相手である母親が書道教室を開いており、兄もそこに参加していた。しかし、あみ子は母親の授業を受けることはもとより、教室をのぞくことさえ許されていない。また母親の教室に通う同い年ののり君という少年に惹かれていたあみ子は、彼と仲良くなろうと何かと話しかけるがのり君は全く相手にせず、むしろあみ子を避けているようでもあった。

10歳の誕生日に父親からトランシーバーをもらったあみ子は、今度生まれてくる「弟」とスパイごっこをするといい張り切っていた。けれども果たしてその年の冬、あみ子の待ち望んでいた「弟」は死んで生まれてきたのであった。

それでもあみ子の母親は家族の前ではどうにか気丈に振る舞い、あみ子にも優しく接していた。そんな母親を元気づけようとあみ子は「弟の墓」を作ることを思い立ち、他人の庭から勝手に引き抜いてきた立札に、のり君に「弟の墓」という字を書いてもらおうとする。当然、拒絶するのり君であったが、最後はあみ子の説得に折れてしまう。

のり君に「弟の墓」と書いてもらった立て札をあみ子は家に持ち帰り庭に立てて母親を喜ばそうとするが、立て札を見るや母親はその場で激しく泣き崩れてしまった。しかしあみ子には、母親が泣いている理由がさっぱり分からなかった。その後、あみ子の母親はやる気を無くし書道教室も閉じて寝込んでしまい、兄は不良になり家に寄り付かなくなった。そして、あみ子は中学生になった。

⑶ 発達障害から考える

あみ子はとても元気一杯で天真爛漫な少女であるが、その行動はどこか非常識で奇矯なところがある。本作における随所の記述から、あみ子はおそらく発達障害である事が想起される。発達障害とは先天的な脳の器質的異常により言語、行動、学習の発達過程に偏りが生じる障害をいい、現在では次のような三つのカテゴリーに分類されている。

a 自閉症スペクトラム障害(ASD)

先述のようにASDの主な症状としては「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」や「特定分野への極度なこだわり」があげられる。「コミュニケーション、対人関係の持続的欠陥」は、言葉の本音と建前がわからない、感情や空気が読めない、身振りや表情など非言語的コミュニケーションの不自然さ、四角四面な辞書的話し方などとして現れる。「特定分野への極度なこだわり」は、常動的・反復的な運動や会話、独特の習慣への頑なな執着、特定対象に関する限定・固執した興味として現れる。また、感覚刺激に対する過敏性ないし鈍感性が見られる場合もある。

b 注意欠如・多動性障害(ADHD)

ADHDの症例は不注意の多い「不注意優勢型」と、多動や衝動的な言動の多い「多動・衝動性優勢型」に大別される。「不注意優勢型」の場合、忘れ物、書類の記入漏れ、スケジュールのダブルブッキングといったケアレスミスが多く多く、また、仕事中に自分の世界に入ってぼーっとしたり、居眠りをしたりするので「やる気がない人」とみなされてしまうことがある。「多動・衝動性優勢型」の場合、計画性無くその場の勢いで物事を決めたり発言したりしてしまうため、周りを振り回してしまうこと多く、また衝動を抑えることが困難なので、順番待ちの列に割り込んでしまったり、他人の話を遮って一方的に喋りまくってしまうこともある。

c 限局性学習障害(LD)

知的な問題がないのに、読み書きや計算が困難な障害である。読み書きに関しては、カタカナやひらがなが混ざった文章で混乱する、小学生レベルの漢字が覚えられないといったケース、計算に関しては、暗算や筆算が苦手、九九が覚えられないといったケースがある。その他、空間認識が苦手で地図が読めなかったり、立方体が書けないなどいったケースもみられます。こうした読み書きと計算の両方が難しい場合もあれば、部分的に苦手なジャンルが生じる場合もある。

⑷ あみ子のケースをどう考えるか

  この点、あみ子は「弟の墓」のエピソードが端的に示しているように、基本的に空気を読むコミュニケーションが苦手です。それゆえにあみ子は相手から露骨に避けられたり邪険にされたりしても、構わずに話したいことを一方的にべらべら喋りまくったりする。

また、あみ子は「インド人のマネ」などと称してカレーを手で掴んで食べたり、チョコレートクッキーの表面のチョコレートの部分だけ綺麗に舐め取ったりと、その行動の端々に奇妙なこだわりが見られる。こうした奇妙なこだわりはのり君への関心の向け方にも現れている。あみ子はのり君の書く美しい字に異様に執着する一方で、中学に入ってから2ヶ月以上ものり君が同じクラスだった事に気づいていなかった。

そして、あみ子はある日から周囲がほとんど気にしてないような些細な物音が気になり、自分の近くに「霊」がいることを確信し、やがてそれは死んだ「弟の霊」に違いないと思い込むようになる。

それに加えて、あみ子は時間の把握が困難で学校をよく遅刻したり欠席したりすることも多く、何日も風呂に入らなかったり、シワだらけの制服を着て顔も洗わずに学校に行ったり、裸足で校内を歩き回ったりと、かなりルーズというか、だらしない行動が目立つ。さらに、あみ子は中学生になっても「私」や「朝」といった基本的な漢字が書けず、のり君の苗字である「鷲尾」の読み方も中3になるまで知らなかった。

こうして見ると、あみ子は発達障害におけるASD、ADHD、LDの全ての特性を満たしているように思える(実際にそういうケースは珍しくない)。

⑸ 自分の中にある「あみ子的なもの」と向き合うために

もっとも本作では「発達障害」という診断名が明示される事はない。それゆえに本作は発達障害というカテゴリを超えて、様々な形で生起する「生きづらさ」全般へと差し出された作品となっている。

本作文庫版の解説において町田康氏は「一途に愛する者は、この世に居場所がない人間でなければならない」と書いている。ここでいう「一途に愛する者」とはもちろんあみ子のことである。すなわち、ラカンの言葉に即していえば、あみ子は「〈一者〉の享楽」を純粋に反復し続ける「一途に愛する者」であるが故に「〈他者〉の欲望」とまるで折り合いがつかないため「この世に居場所がない人間」になってしまっているのである。

もっとも「〈他者〉の欲望」と折り合いが付くか付かないかというのは、その時代その社会の偶然的な条件に規定されているところがある。あみ子が周囲から疎まれるのは、現代日本では空気を読まない習慣とかカレーを手で食べる習慣とか何日も風呂に入らない習慣などが「たまたま」ないからである。その一方で多くの人が「普通」でいられるのは「〈他者〉の欲望」と幸運にも「たまたま」折り合いがついているだけ、あるいは折り合いがついているフリができているだけに過ぎない。

それゆえに誰もが環境や状況や立場の変化といった何かのきっかけである日突然「〈他者〉の欲望」と折り合いがつかなくなることだってあるだろう。そしてその帰結は我々の日常の上に様々な「生きづらさ」という形をとって現れてくることになる。

いわば人は誰もがどこかに「あみ子的なもの」を抱え込んでいるといえる。こうした意味で本作を発達障害を抱えるかわいそうな子の話などという「他人事」ではなく、自分自身に起きうるかもしれない出来事として読み解く時、我々読み手は自らの中にある「あみ子的なもの」と真摯に向き合うための知恵と勇気と希望を、他ならぬあみ子から教わることができるのではないだろうか。


15 推し、燃ゆ(宇佐見りん)

⑴ 間主観的な欲望と別の仕方での欲望 ラカンの提出した有名なテーゼに「人の欲望は他者の欲望である」というものがある。すなわち精神分析的な欲望=神経症的な欲望とは他者(社会的諸関係)とのネットワークの中で欲望するという「間主観的な欲望」ということである。ところがいわゆる「大きな物語」と呼ばれる社会共通の神話が失墜した現代社会では従来の「間主観的な欲望」のオルタナティヴとしての「別の仕方での欲望」の開放が加速した。この点、ドゥルーズ=ガタリの共著「アンチ・オイエディプス(AO)」では「別の仕方での欲望」の開放をいわば「神経症の精神病化」として肯定的に寿いだ。そしてドゥルーズ=ガタリの強い影響下にある日本の現代思想シーンでは、この「別の仕方での欲望」が様々な文脈の中で考究されてきた。1980年代における浅田彰氏のスキゾ・キッズ支持、1990年代における宮台真司氏のコギャル支持、ゼロ年代における東浩紀氏のオタク支持など、それぞれの時代をリードした言説はまさにこうした潮流の中に位置づけることができるであろう。

この点、千葉雅也氏は上記の議論を引き継ぐ形で、ドゥルーズ=ガタリはAOにおいて「神経症の精神病化」を誇張的に肯定したけれども、その背景には実はマゾヒズム的な倒錯論が潜んでいるとして「別の仕方での欲望」を間主観的なネットワークとは無関係なところで多方向に勝手に欲望するというある種の「メタ倒錯」として位置付けている。ここでいう「メタ倒錯」とはすなわち、ラカンのいうファルス、あるいは千葉氏のいう「性別化のリアル」を排除した〈かのよう〉に振る舞う態度=メタレベルで否認する態度である。

このようなメタ倒錯的な観点から千葉氏は東氏の「動物化するポストモダン」における議論を読み直し、同書のいう「動物化」とは、動物的(非-精神分析的)な異性愛(生殖規範性)をインフラとして、その上に認知的習慣化による対象へのアディクション(中毒的こだわり)としての「別の仕方での欲望」が便乗する構造になっているという。そして本作は、こうした意味での「別の仕方での欲望」の一つのラディカルな表出を描き出した作品として読むことができるように思えるのである。

⑵ 解釈学的循環へのアディクション

本作のあらすじはこうです。主人公のあかりは家庭にも学校にも馴染めず、いつも心身に不調を抱えた日常を送っていたが、ふととしたことがきっかけでアイドルグループ「まざま座」のメンバーの一人、上野真幸を熱狂的に「推し」始めることになる。あかりは「推し」の様々なグッズを買い漁り、ライヴにも熱心に足を運び、その作品と人物像の解釈をブログに記していく。こうした「推し」を続ける中でいつしか、あかりは「推しを推す」ことが自分の「背骨」と感じるようになる。それは様々な「生きづらさ」を抱えたあかりにとっての救いであり、生きる手立てであった。だがそんなある日「推し」がファンを殴って「炎上」する事件が起きる。

「推しを推す」という「推し活」のやり方は人それぞれである。本作の説明によれば、対象となる「推し」のすべてを信奉する人もいれば、その行動の良し悪しを批評する人もいる。また「推し」を恋愛対象として好きだけれど作品には興味がない人もいれば、逆に「推し」の作品だけが好きでスキャンダルなどには興味のない人もいる。また「推し」自体というよりむしろ「推し」のファン同士のコミュニティの交流が好きな人もいる。

この点、あかりは現実において「推し」との関係性を深める事などもとより求めていない。むしろ自分は「推し」にとっての有象無象のファンでありたいとあかりはいう。あかりにとって「推し活」とは、作品も人物像も含めた「推しの世界」を徹底的に「解釈」していくことである。

あかりは「推し」の基本情報は当然丸暗記しており、CD、DVD、写真集はそれぞれ保存用、鑑賞用、貸出用に常に3つ購入し、出演番組はダビングして何度も観返し、出演舞台はその時代背景に遡って調べ上げ、メディアでの発言を書き起こしたファイルは今や20冊を超え、その細かい言い回しのレベルまでほぼ完璧に把握している。こうした莫大な情報を基にあかりは「推しの世界」をとにかくひたすら「解釈」していく。その結果、ファンミーティングにおける質問コーナーでの「推し」の返答は大体予想がつき、裸眼だとまるで見えない遙か遠い舞台上でも空気感だけでそれが「推し」だとわかり、一度他のメンバーがふざけて「推し」のアカウントで「推し」に似せてつぶやいた時もすぐさまその違和感に気づくことができるという境域にまで到達している。

おそらく、あかりの「推し活」は対象である「推し」の断片的情報から全体的世界観を解釈して、そこからさらにまた断片的情報を解釈するという解釈学的循環へのアディクションに支えられているようである。ここであかりの「推し」への「愛」は、どこまでも自分の世界の中で円環的に閉じられている。ここにはまさしく「間主観的な欲望」とは無関係なところで欲望するメタ倒錯的な「別の仕方での欲望」の構造を見ることができるだろう。

⑶ 発達障害から考える

本作では随所の記述から、あかりはおそらく発達障害であることが想起される。まず、あかりは基本的に空気を読むことが苦手である。あかりは推し活の費用を捻出するため居酒屋でバイトをしていたが、仕事内容を「いくつも分岐する流れ」としていわばチャート的に把握している。それゆえに「ハイボール濃いめ」などといった曖昧な注文やマルチタスクに対しては臨機応変な対応ができず、すぐに混乱してミスを連発してしまう。また家庭でも姉や母が時折、推し活に熱中するあかりにキレることがあるが、あかりは姉や母がなんでキレているのかがよくわからず、どこかピントの外れた返答をしている。

次に、あかりの行動全般には不注意やだらしなさがかなり目立つ。学校の教科書や提出物などをよく忘れる、友達から借りた教科書を返し忘れる、体育祭の予行演習のための体操着を朝まで探し回り、その流れで学校をサボる、バイトの欠勤連絡を数日間ずっと忘れてしまう、道に迷う、バスを乗り間違える、もちろん生活能力は皆無で、あかりの部屋はゴミやら数週間前の食べ残しやら色々なモノが堆積して足の踏み場もない。

そして、あかりは勉強もできない。小さい頃は99や漢字やアルファベットをなかなか覚えられず、覚えてもすぐに忘れてしまっている。高校でも勉強について行けず、授業は寝てばかりで保健室の常連で、さらに推しのスキャンダルがきっかけで生活全般が推し活一色に染まって以降はこれまで以上に学校を休みがちになり、高校2年で留年。結局そのまま高校を中退してしまう。

こうしてみると、あかりはASD、ADHD、LDのすべてに該当していることがわかる。またあかりの推し活限定で発揮される驚異的な能力と熱意もやはりASDの特性である「特定分野への極度なこだわり」として理解できる。

もっとも本作では「発達障害」という診断名は、それとなくは示唆されているが、作中で明記されることはない。けれどその一方で、あかりが抱くような諸々の「生きづらさ」はその程度の差はあれ、我々がこの日常の中のどこかで感じている「生きづらさ」へと通じている。

そういう意味で本作は、発達障害を抱えた少女のリアルとか、そういう狭いジャンルに閉じた物語ではなくて、我々がこの日常のどこかで抱く諸々の「生きづらさ」を幅広く言語化し、包摂しようとした物語でもあるといえるのである。

⑷「推し」という名のリトルネロ

現代思想シーンにおける「別の仕方での欲望」とは、もっぱら旧来的な「間主観的な欲望」の外部に突き抜けるオルタナティブとして比較的肯定的に語られる事が多いように思える。けれど実際問題として我々は間主観的なネットワークから完全に逃れ切る事はできないだろう。我々が他者と関わりを持つ以上、ある間主観性の外部に出たとしても、そこには別の間主観性が待っている。そんな間主観的なネットワークの接続過剰の中で「別の仕方での欲望」を貫き通す事は、あかり的な「生きづらさ」と紙一重でもある。

この点、冒頭で取り上げたドゥルーズ=ガタリはAOの続編である「千のプラトー」において「リトルネロ」という概念を提出している。ここでいうリトルネロとは、ある特定の何かを常同反復する事で生成流転するカオスを相対的に減速させ、世界の中に暫定的な秩序を設立するための契機をいう。

そしてそれは、この世界を有限化することで、世界の中に「住み処」を見出すための技法でもある。こうしてみるとあかりの「推し」という営みからもまた、自身が「背骨」と表現する解釈学的循環のアディクションに自身の「住み処」を見出そうとする「リトルネロ」の響きが途切れ途切れながら聴こえてくるようにも思えるのである。


16 猫狩り族の長(麻枝准)

⑴ 美少女ゲーム的「泣き」の呪縛からの解放

本作は「泣きゲー」の第一人者、麻枝准氏の手による初の長編小説である。麻枝准氏といえば主にゲームブランドKeyのシナリオライターとしての仕事が広く知られている。「泣きゲーの金字塔」として名高いKeyの処女作「Kanon(1999)」において麻枝氏が手がけた「真琴シナリオ」は多くのユーザーの涙腺を決壊させた感動シナリオとして現在でも高く評価されている。

その後、氏は「AIR(2000)」「CLANNAD(2004)」「リトルバスターズ!(2007)」といったKey作品において企画、メインシナリオ、音楽を担当している。いずれの作品も従来のいわゆる「美少女ゲーム」の枠組みを超越した作風で幅広い支持を獲得し、氏はゼロ年代を代表するゲームクリエイターの一人としての地位を揺るぎなく確立することになった。

2010年代以降、麻枝氏は「Angel Beats!(2010)」「Charlotte(2015)」「神様になった日(2020)」といったオリジナルアニメーションの全話脚本の仕事でも知られるようになる。氏の脚本は放映されるたびに賛否両論を呼ぶ一方で「美少女ゲーム」にあまり馴染みのない新規ファンを多数獲得することになった。

麻枝氏はKanonの企画とメインシナリオを担当していた久弥直樹氏をしばし「天才」と形容する。インタビューなどから拝察するに、麻枝氏は久弥氏の退社後、keyの看板を背負って「泣ける作品」をファンのために創り続けなければならないという自身に課された使命を相当重荷に感じていたようである。

そんな氏が美少女ゲーム的「泣き」の呪縛から解放されたところで、純粋に自分の書きたいものを自由に書いたという作品が「猫狩り族の長」である。

⑵ この世界は生きるに相応しいのか

本作のあらすじはこうである。物語は本作の主人公、平凡でお人好しな女子大生時椿が自殺の名所で断崖絶壁に立つミステリアスな女性に声をかけるところから始まる。この女性こそが本作のもう一人の主人公、天才サウンドクリエイター十郎丸である。

時椿は十郎丸になんとか自殺を思い止まらせようと必死に説得を試みる。これに対して十郎丸は自分がなぜ死にたいのかという理由を饒舌に語り始め、逆に時椿に「この世界は生きるに相応しいのか」と問い返す。

ここから両者の交流が始まった。時椿は十郎丸にどうにか生きる意味を見出してもらおうと「楽しいこと探し」に奔走し、やがて十郎丸も時椿に心を開き始めたようにも思えたが・・・

⑶ 自己治療的な物語

麻枝氏のインタビューによれば、本作の執筆は2019年末にあまりに理不尽なことが起きて「負のエネルギー」がうっ積していた時、氏の所属するビジュアルアーツの馬場隆博社長から「小説を書け」と言われたことがきっかけだそうだ。

氏はかねてより自分は「負のエネルギー」で創作するタイプだとたびたび公言していたが、本作もやはりこの「負のエネルギー」で創作され、これまでの人生で氏が感じてきた様々な理不尽を書き連ねていった結果、思いのほか筆が走り僅か1ヶ月半で初稿が完成。氏曰く「呪いの書」が出来上がったという手応えを感じたそうだ。

作中で十郎丸は時椿相手に世界に対する膨大な呪詛を吐き散らし、偏屈な自説を次々に開陳していく。こうした十郎丸の思想は確かにこれまでの様々なインタビューやラジオなどで垣間見ることができる麻枝氏の思想と重なり合うものがある。

そして時椿は十郎丸の発した「この世界は生きるに相応しいのか」という問いに対して、あるときは言葉によって、またあるときは行動をもって真摯に答えようとする。この両者のやりとりはある面でカウンセリング的な対話のようにも読める。そういった意味で本作は麻枝氏の自己治療的な物語なのかもしれない。

⑷「神様になった日」から考える

麻枝作品には初期の頃から今に至るまで変わらず一貫した主題が通底している事は多くのKeyファンが指摘するところである。それは言うなれば、理不尽な世界で懸命に生きることを肯定する人生賛歌である。

こうした主題がかなりラディカルに表出した作品が2020年に放映された氏の全話脚本によるアニメ「神様になった日」だったように思える。

同作は周知の通り批判も多い作品である。確かに同作を普通に観ると、序盤で壮大な謎のようなものを提示して視聴者の期待値を吊り上げながらも、最後は典型的な美少女ゲーム的構図に回帰した作品のようにみえる。

けれど同作を主人公の「陽太の物語」ではなく、ヒロインの「ひなの物語」として読み解いてみると、その印象はまた違ったものになるようにも思える。同作の終盤はあの「AIR」と同様の擬似的母娘関係の布置を形成している。そして観鈴が〈母〉の下でゴールする事を選んだとすれば、ひなは〈母〉に呑み込まれることを拒絶して、外の世界で苛烈な日常を生きていく事を選び取った。その意味で同作はかつてAIRが乗り越えられなかった境域を乗り越えているともいえる。

そして、この「神様になった日」における「ひなの物語」を前景化させた上で、全く別の物語として新たにストーリーテリングしたものが本作であるともいえる。

思うに、これまでの麻枝作品の根底に流れていた「理不尽な世界を懸命に生きる」という人生讃歌的なテーマとはいわば麻枝氏自身の物語であり、本作はその物語をかなりの高純度で文芸作品へと結晶化させる事に成功した作品といえる。そして本作を経由した上で過去の麻枝作品を読み解く時、そこにはまた新たな瑞々しい数々の発見がきっと待っているようにも思えるのである。





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