欲望と享楽⑵ 作品論5


17 マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝

⑴ 「まどか」の名を冠するに相応しい物語

「魔法少女まどか☆マギカ」の世界観設定を引き継ぐ外伝作品である本作は「魔法少女」と「魔女」が存在する世界である。魔法少女の素養を持つ少女は、不思議な白い生き物、キュゥべえと契約を結ぶことで「願い」を一つ叶える代償として、魔法少女として魔女と戦う使命を課される事になる。

そして本作の主人公である環いろはは自分が魔法少女になる時の「願い」をなぜか覚えていない。その一方、いろはの日常にはいつもどこかに見知らぬ少女の影がちらついていた。

そんなある日、いろはは同じ街の魔法少女である黒江から「神浜に行けば魔法少女は救われる」という噂を聞く。「神浜」とはいろはたちが住む街から少し離れたところにある新興都市、神浜市である。魔法少女になった事を後悔していた黒江はその噂に縋り、今まさにその神浜市へ向かっている最中であった。しかしその時、いろはと黒江の乗る電車の中で魔女の結界が突如展開。いろは達は強制的に神浜市へ転送される。

魔女相手に苦戦を強いられるいろはの窮地を救ったのは神浜の魔法少女、七海やちよであった。そして、やちよはいろは達に神浜には近寄るなと冷たく言い放つ。翌日、いろはは夢を通じて、自分には環ういという妹がいた事、自分はういの抱える難病を治すために魔法少女になったことを思い出す。

なぜ自分は今まで妹を存在ごと忘却していたのだろうか?いま妹はどこにいるのだろうか?こうして、いろはは消えた妹ういを探すため、再び謎多き神浜へと向かう。そして彼女は未知の災厄「ウワサ」との邂逅、魔法少女結社「マギウス」との抗争を通じて「魔法少女の真実」を知ることになる。

⑵ ドッペルという福音

かつてまどかが命懸けで改変したのは、魔法少女が魔女化することのない世界であった。けれどもその代わり、ソウルジェムに穢れを溜め込んだ魔法少女は円環の理に導かれ、この世からは消滅してしまう。いずれにせよ魔法少女になった以上、悲劇的な運命から免れることはできない点では変わらない。

ところが、本作ではこうした魔法少女の運命に終止符を打つかの如き革命的発明が登場する。これがマギウスの開発した「ドッペル」である。「ドッペル」とは、端的に言えば「魔女化の代替行為」である。ソウルジェムに溜め込まれた穢れはドッペル発動により魔法少女の魔力へ変換され、魔法少女は魔女化することなく、むしろ魔女の力を制御できるのである。これこそが「神浜市に行けば魔法少女は救われる」という言葉の真意である。

こうした点で同作は「叛逆」における想像力を引き継いでいる。ほむらが「愛」という名の妄執によって成し遂げた奇跡ともいえる「悪魔化」を、ドッペルは部分的ながらもシステムとして実装することに成功した。これはいわば希望と絶望のマネジメントといえる。

一見、ドッペルは全ての魔法少女をその運命から解放する福音のようだ。けれどもマギウスの目的はあくまでも自らの欲望の成就にあり、魔法少女の救済など所詮、目的に至るための手段でしかない。その為、彼女達は魔法少女はもちろん、無辜の一般人も平気で犠牲にする。こうして、いろは達はマギウスと敵対せざるを得ないのであった。

⑶「動員と分断」の中で手を取り合える想像力

同作では魔法少女グループ同士の熾烈な抗争劇が展開される。ここには「動員と分断」と呼ばれる極めて2010年代的な構図が反映されている。こうした意味において、マギウスの首領である天才魔法少女、里見灯花がアニメ最終話で行った渾身の大演説はまさしく「動員と分断」を扇動するプロパガンダのようである。けれどもそれは同時に、その言葉はグローバル化とネットワーク化が極まった世界において、人間があたかもモルモットのように飼い慣らされていく現代社会の構造に対する告発状ともいえる。

これに対して、いろはは異なる思想信条を持つ魔法少女同士でも「手を取り合える」ための可能性をなんとか探ろうとする。手を取り合えるということ。それは他者とのつながりを「つながり過剰」の物語の内に閉じることなく、つながりをつながりのままで常に外に開き続ける社会的紐帯のあり方なのだろう。


18 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

⑴ 輝きは一つではない

2010年代のサブカルチャーを象徴する作品の一つとなったラブライブ!シリーズは、その副題に「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズを掲げている。この言葉はユーザー参加型企画としてのラブライブ!の性格を言い表すものでもあると同時に、ゼロ年代的想像力における問いに対する2010年代からの回答としても読める。

この点、社会現象にまでなった初代の「ラブライブ!」はゼロ年代的「つながり」の想像力から出発しつつも、いち早くその限界性を描き出し「つながり過剰」を解体するオルタナティブとしての想像力として「みんなで叶える物語」を掲げていた。そして続く「ラブライブ!サンシャイン!!」においては「つながり過剰」に回収されない差異が「輝き」という言葉で名指され美しい深化を遂げた。そして同作劇場版において「輝き」は「虹」というモチーフとして現れた。「輝き」は一つではないということ。ここで示された「虹=輝きの複数化」というテーマを全面的に展開したのが本作である。

⑵「あなた」の分身としての高咲侑

「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」というのは元々は「ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル ALL STARS」いうスマホゲーム用の企画として出発したグループであったが、動画やWebラジオなどでの地道な活動が予想外の人気を呼び、当初予定になかったアニメ化が決定したという経緯があるようである。こうした経緯から「スクスタ」におけるプレイヤーである「あなた」がアニメの世界に召喚されることになる。これが本作の実質的な主人公と言える高咲侑である。

平凡な日常に飽き飽きしていた侑は、ある日、スクールアイドル、優木せつ菜のステージを見たことがきっかけとなり、スクールアイドルに夢中になる。ところがニジガクのスクールアイドル同好会はどういうわけか廃部になっていた。残念がる侑に対し、幼馴染の上原歩夢は、自分がスクールアイドルになるから応援してほしいと依頼する。こうして侑と歩夢は、スクールアイドルを辞めようとしていたせつ菜を始め、かつての同好会メンバーや新規メンバーを巻き込んで、スクールアイドル同好会の再始動にこぎつけた。

⑶ ラブライブ!なんて出なくていい

ニジガクの物語はこんな風に始まるわけであるが、ニジガクがμ'sやAqoursと決定的に異なっているのは「廃校」という外的な障害がないという点である。そのため「廃校を阻止するためにラブライブ!で優勝する」という例のモチベーションが本作では生じない。各人のモチベーションは各人ばらばらで色とりどりである。

ラブライブ!を目指すには、こうしたばらばらな色を一つの色へまとめ上げなければならない。ここにニジガクの同好会が一度廃部となった原因がある。ばらばらな色を一つの色へまとめ上げるということ。それは結局、せつ菜が言うところの自分の「だいすき」で他人の「だいすき」を否定する「わがまま」であり、そして同時にこの10年の間で我々が繰り返してきた「つながり=セカイ(だいすき)」による「動員と分断(わがまま)」の病理そのものでもある。

けれども侑はこのアポリアをたった一言で解決してしまう。これがあの「ラブライブ!なんて出なくていい」という、ある意味でシンプルだけれども、ある意味ではアクロバティックな解決である。

こうした解決を可能としたのが侑の「観客」としての視線です。侑自身はスクールアイドルではなく、他のスクールアイドルを応援するという「観客」の立ち位置にいる。「観客」としての侑にとって重要なのはラブライブ!などではなく、あくまで目の前にいるスクールアイドルを応援することである。ゆえに侑はラブライブをめぐるコミュニケーションの誤配をそのままニジガクの持つ特異的な価値として肯定するのである。

⑷ ばらばらでいい

こうしたことから、ニジガクメンバーはそれぞれがソロアイドルとして活動することになる。本作ではたびたび「ばらばら」という言葉が肯定的に使用されている。ばらばらでいい。もちろんそれは互いが無関心でいると言う事ではなく、むしろ「仲間だけどライバル、ライバルだけど仲間」である。それぞれがばらばらな色とりどりの輝きを追求する事よって、そこに新しい共鳴が生まれてくる。つながりの物語の外で手を取り合うという事。ばらばらな色とりどりの輝きがアドホックにコラージュしていくという事。本作が肯定するこうした価値は、まさに「動員と分断」の病理を乗り越える可能性の在り処を示しているようにも思えるのである。

⑸ ラブライブ!の臨界点

本作は言うなれば「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」ということになります。しかしそうであるが故に本作は紛れもないラブライブ!であるとも言える。

そもそもラブライブ!が称揚する「みんなで叶える物語」とは「つながり=セカイ」を解体する想像力であった。そして、この想像力を徹底して推し進めたとすれば、その先には必然的に「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」という物語も生じてくるはずである。

実際にμ'sもAqoursも一度はラブライブ!を目指さないという方向に振れてはいる。けれども両者ともなんだかんだ言いながらも最終的には皆でラブライブ!を目指すという「つながり=セカイ」の予定調和から決定的に逃れる事はできなかった。

これに対してニジガクはついにラブライブ!それ自体を放棄してしまう。これをアニメでやったのはすごい事だと思う。ラブライブ!の中に可能性としては常に伏在していた「ラブライブ!を目指さないラブライブ!」という物語をとうとう実現してしまった。そういった意味で本作はラブライブ!それ自体を放棄することで、逆説的にラブライブ!の臨界点を極めた恐るべき作品といえる。


19 リコリス・リコイル

⑴ 管理社会の未来

フランス現代思想におけるポスト構造主義を代表する思想家ミシェル・フーコーは知と権力の関係を分析した「性の歴史1-知への意志(1976)」において従来型の権力形態である「規律権力」の傍らに、新たな権力形態として「生権力(生政治)」と呼ぶ新たな権力を描き出した。そしてフーコーと同じくポスト構造主義の代表格である哲学者ジル・ドゥルーズは晩年の著作である「記号と事件(1990)」において、こうしたフーコーの権力論を援用し、そう遠くない未来において従来の「規律社会」に取って代わり生権力が全面化した「管理社会」の時代が訪れ、個人の情報はコンピュータにおいてユビキタスに際限なく管理されていくと述べている。さらに世界的なベストセラーとなった「帝国(2000)」において、その共著者であるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは冷戦の終焉とグローバル資本主義の拡大はそれまでの国民国家とは別様の彼らが「帝国」と呼ぶ新たな世界秩序を生み出し、この「帝国」の時代においてはドゥルーズのいう「管理社会」の全面化が進行する事になると指摘している。

こうした「管理社会」がさらに高度に発達すれば、もしかして遠くない未来においては「犯罪」さえも「管理」が可能な社会が到来するかもしれない。本作「リコリス・リコイル」が描き出すのはまさしくそういう社会である。ある意味で本作は超高度に発達した「管理社会」のシミュレーションとして観ることができる。

⑵ 平和で安全で清潔で優しい社会の物語

大きな町が動き出す前の静けさが好き

平和で安全、きれいな東京

日本人は規範意識が高くて、優しくて温厚

法治国家日本、首都東京には危険などない

社会を乱す者の存在を許してはならない!

存在していたことも許さない!

消して消して消して・・・きれいにする!

危険はもともとなかった

平和は私たち日本人の気質によって成り立っているんだ

そう思えることが一番の幸せ!

それを作るのが私たちリコリスの役目!!

--なんだってさ

(「リコリス・リコイル」第1話より)


本作において日本は世界一の治安の良さを誇る国として描かれている。しかしその裏側では「DA」と呼ばれる秘密組織が暗躍しており、このDAのエージェントとして日本の治安を裏側から守る存在が「リコリス」と呼ばれる少女たちである。そして東京都内の和風カフェ「喫茶リコリコ」はDA支部としての裏の顔を持っており、この店の看板娘である錦木千束はDA内では歴代最強のリコリスとして知られていた。

ある日、DA本部から井ノ上たきなというリコリスがとある事件での命令違反を理由に左遷のような形でリコリコへ異動してくる。生真面目で合理主義者のたきなは妙な依頼ばかり引き受けるリコリコに当初は馴染めず、DA本部のリコリス寮こそが自分の居場所だと思っていた彼女は当初は一刻も早く成果をあげてDA本部に戻ることに固執していましたが、やがてリコリコで過ごす日々の中で千束のリコリスらしからぬ自由奔放な生き方に徐々に感化され、いつしかリコリコこそが彼女の新たな居場所となっていく。

その一方で「アラン機関」なる組織から依頼を受けた雇われテロリストの真島は日本の異常な治安の良さに不審を抱き、DAの内実を探る過程で千束やたきなと対峙することになる。

⑶ DAとアラン機関

本作の世界観設定を理解する上で鍵となるのが「DA」と「アラン機関」という二つの組織である。

まず「DA(Direct Attack)」とは犯罪者やテロリストへの武力を用いた先制攻撃による日本の治安維持を目的とした秘密組織で、その本部は都心から離れた山中の国有地にあり組織を統括する中枢AI「ラジアータ」が設置されている。

このDAのエージェントである「リコリス」は元孤児の少女達で構成され、銃器を用い犯罪者を処分することを任務としており、その起源は明治政府樹立以前から存在する治安維持組織「八咫烏」傘下の女系暗殺部隊「彼岸花」に遡る。

リコリスの存在は社会から秘匿されており、普段は周囲から警戒されないよう女子高生風の制服で活動している。リコリスにはファースト、セカンド、サードのランクがあり、それに応じて制服も赤、紺、ベージュとなっている。なお、千束はファーストリコリスでたきなはセカンドリコリスである。

次に「アラン機関」とはアラン・アダムズ名義で世界的に活動する謎の組織で、スポーツ、文学、芸能、科学など分野を問わず傑出した才能を持つ子供に対して無償の支援を行っている。フクロウのようなチャームをトレードマークとしており、機関の支援を受けた人々は「アラン・チルドレン」と呼ばれ最低でも国内に13名いるとされている。

その一方で、彼らのいう「才能」とは見境がなく、それが例え殺人の才能だろうが戦争の才能だろうがアラン機関にとっては神聖なるギフトであり、傑出した才能には手段を選ばず支援が行われるのである。

⑷ テロリストの問う「バランス」

そして、このアラン機関のエージェントである吉松シンジが呼び寄せた真島という人物は物語開始の10年前に旧電波塔(東京スカイツリー)を破壊するも当時若干7歳だった千束一人に殲滅されたテロリスト一味の生き残りであった。その後、日本を脱出した真島は世界を股にかけた雇われテロリストとして暗躍していたが、吉松からの依頼で再び日本に舞い戻り、自分と同様に吉松に雇われたハッカーのロボ太と組んでDA本部の所在を探るその最中に千束と邂逅することになる。

千束がかつて旧電波塔で自分を撃退したリコリスであったことを知った真島は、思わぬところでの仇敵との再会に狂喜して、以後千束を執拗につけねらうようになる。そしてDAによる真島掃討作戦の準備が進められる中、かつて自らが破壊した旧電波塔の代わりに建設された「延空木」の完成式典を電波ジャックした真島はその場で東京の市中に1000丁の銃をばら撒いたと宣言する。

真島自身は特定のイデオロギーを信奉しているわけではないが、彼は何より物事の「バランス」が保たれていることに異様な執着を持っていた。物語後半、DAのリコリス部隊が真島の潜伏先を強襲するが、そこは既にもぬけのカラで、モニターを通じて真島はDAの指令である楠木と対峙する。ここで行われるのが次のような問答である。

真島「ん?おお!引率の先生もいたか。何者だアンタ?」

楠木「お前を殺す指揮を執っている者だ。真島」

真島「自己紹介は不要みたいだな。つまりリコリスの親玉か」

楠木「目的は金か?」

真島「ハハッ、それもある。仲間の生活もあるしなぁ・・・だがそれ以上に興味のある仕事だから引き受けた」

楠木「興味・・・?マフィアに手を貸すことにか?」

真島「正義の味方気取りの悪党が、どんな奴らかってことだよ」

(・・・中略・・・)

楠木「要らぬ心配だ。真の平和とは悪意の存在すら感じない世界の事だ。お前も誰の記憶にも残らず、消える」

真島「お得意の情報操作か?だがなぁ、悲惨な現実を知らなければ、平和の意味さえ人々は忘れてしまうんじゃないのかぁ・・・?与えられるものではなく、勝ち取るものだってこともな」

楠木「賢しい事を言うじゃないか。悪党も自分が悪である認識には耐えられないのか?」

真島「心配してやってるんだぜ?善悪の天秤ってのはなぁ、どっちに傾くにしても、お前らみたいな存在に操られるべきじゃねぇ。バランスを取り戻さなきゃな」

楠木「それが延空木を狙う理由か」

真島「ははっ、そこまでお見通しかい!両方壊れてないとアンバランスだからなぁ!」

(「リコリス・リコイル」第10話より)


⑸ 押井映画のテロリスト達から考える

ここで真島というテロリストが述べている行動原理はかつて押井守監督が手がけた「機動警察パトレイバー」という作品を想起させるものがある。

氏の出世作となった「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー(1984)」以降、押井映画を駆動させたダイナミズムはうる星やつら的日常、80年代的終わりなき日常という「虚構」の欺瞞を告発し、その外部にある「現実」を突き付ける点にあった。こうした「虚構と現実」をめぐる問いは「天使のたまご(1985)」「紅の眼鏡(1987)」といった前期押井作品においては「少女の夢」というモチーフで表現されていた。

ところが、この「虚構と現実」をめぐる問いを巨大都市東京に対するテロリズム/ハッキングという情報論的アプローチとして遂行した作品が「機動警察パトレイバー the Movie(1989)」である。

同作のあらすじはこうだ。近未来の東京において首都改造計画「バビロンプロジェクト」が進行する中、多足歩行型重機「レイバー」を制御する新型オペレーティングシステム「HOS」を開発した天才プログラマー帆場英一はHOSにウィルスを仕掛け、ある条件下で操縦者の手を離れ暴走するプログラムを東京中のレイバーにインストールする。泉野明、篠原遊馬ら特車二課第2小隊はレイバーの一斉暴走がもたらす首都圏壊滅を回避すべく奔走し、第2小隊隊長、後藤喜一は旧約聖書に擬えた帆場のメッセージを読み解くことで暴走プログラムの発動条件を探っていく。本作は未だインターネットが一般開放されていなかった当時において、コンピューターウィルスによる大規模テロをシュミレーションするという恐るべき先見性を持った作品であった。

そして、こうした情報論的アプローチの一つの到達点と言える作品がその続編となる「機動警察パトレイバー the Movie 2(1993)」である。ここで「虚構と現実」をめぐる問いは「映像と実体験」という媒介を経由して「平和と戦争」という問いに置き換えられることになった。すなわち、本作がここで告発するのは他でもなく「戦争という現実」を「映像」の中に押し込めて「平和という虚構」を謳歌した戦後社会そのものであった。同作において、かつてはレイバー実装化の功労者でもあったテロリスト柘植行人は「虚構の外部=現実」に位置する〈他者〉として「情況=映像」を「演出」するのである。

柘植の目的はただ一つ。戦争情況を作り出すこと。首都を舞台に戦争という時間を演出すること。すなわちそれは「映像」によって切断された「前線=戦争という現実」と「後方=平和という虚構」を再接続させるという企てである。

そして、こうした押井映画における「虚構と現実」をめぐる問いを本作もまた真正面から引き受けている。本作において「真の平和とは悪意の存在すら感じない世界の事だ」と述べる楠木はいわば「虚構」を護持する立場にある。これに対して「悲惨な現実を知らなければ、平和の意味すら人々は忘れてしまうんじゃないのか?」と問い返す真島はまさに「虚構」に「現実」を突きつけたかつての押井映画のテロリストたちの後継者であるといえるのである。

⑹ ネットワーク時代における虚構と現実

もっとも、宇野常寛氏が「母性とディストピア(2017)」で述べているように、パトレイバーにおける押井氏の情報論的アプローチは当時の冷戦構造に規定された20世紀的戦争観の下で「映像」という当時の特権的なメディアが近代戦における「前線=戦争=現実」と「後方=平和=虚構」を切り分けていた「映像の世紀」であったからこそ成立するものであった。

ところが2001年の米同時多発テロ以降の世界的なテロリズムの拡大により、あらゆる場所がテロの対象となりうるという認識が広く浸透し、さらに情報ネットワークの拡大と通信技術の発達であらゆる場所から不特定多数の一般人が映像を含む情報を発信できる「ネットワークの世紀」となった現代においては、かつてパトレイバーの世界が前提とした「映像」による「前線」と「後方」の切り分け自体が無効となってしまっている。

こうした時代において本作は「DA」という強力な環境管理型権力を設定することで再び世界に「虚構と現実」という構図を再導入した上で、今や「外部」なき世界の「内部」における「虚構と現実」の「バランス」をめぐる動員ゲームを描き出していく。こうした意味で本作はかつて押井監督がパトレイバーで展開した情報論的アプローチの現代的なアップデートに成功した作品ともいえるだろう。

⑺ 秩序と逸脱のあいだ

そして、こうした虚構と現実がせめぎ合う本作の構図には社会における「秩序」と「逸脱」のバランスをどう取るかという主題が内在している。この秩序と逸脱のバランスとは具体的には、例えばコロナ禍以降声高に強調された「安心安全」と諸々の「安心安全に反するもの」とのバランスであったり、あるいはポリティカル・コレクトネスやSDGsが称揚する「多様性」とその「多様性」に決して回収されることのない「多様なもの」とのバランスであったりするわけである。

この点、本作においてDAが「秩序」の極に位置するのであれば、アラン機関は「逸脱」の極に位置している。そして、本作はもっぱら真島というテロリストがこの「バランス」を「逸脱」の側からラディカルに問い直す役割を担っているが、本作の主人公、千束もまたこの世界における「バランス」を真島とは別の仕方で、すなわち「秩序」の側から問い直す役割を担っているといえる。

両親を失い孤児となりDAに引き取られた千束は卓越した洞察力で銃弾の軌道を見抜く才能を開花させ、幼くしてファーストリコリスとなるが、彼女は先天性心疾患を抱えており、7歳になる頃には余命半年の状態であった。当時DAの教官であったミカの相談を受けた吉松は千束の持つ「殺しの才能」に惚れ込み、アラン機関特製の人工心臓により千束は延命する。

その後、千束は歴代最強のリコリスへ成長していくことになるが、その一方で自身の難病経験ゆえなのか人の生命を奪うことに強い嫌悪感を抱き、吉松の意図に反して「非殺」の主義を貫くようになり、やがて彼女はDAの下部組織でありミカが店長を務める喫茶リコリコに所属し、普段は店の看板娘を自称しつつ、DAから時折舞い込む依頼から市井の人々の困りごとの解決まで請け負う「何でも屋」として活動するようになる。

彼女は社会の「秩序」を担うリコリスでありながらもDA本部や他のリコリスほど「秩序」を自明視するわけではなく、DAのラジアータにハッキングを仕掛けた裏社会のトップハッカーであるウォールナットことクルミをリコリコで匿っていたり、テロリストの真島にさえもどこか相通じるものを見出したりと、いわば秩序と逸脱のグレーゾーンにあるリアリティこそを愛でるような生き方をしている。そして、こうした千束のしなやかな生き方を支えているのが他ならぬ「リコリコ」という居場所である。

⑻ リコリコという名のサントーム

千束「みんな、自分が信じた〈いいこと〉をしてる。それでいいじゃん」 真島「良くねえ、自然なバランスが・・・」

千束「うおおお、やっべええ!これめっちゃうまい!ちょっと飲んでみ!?」

真島「あ?おぉ・・・ちょっと甘すぎねえか・・・?」

千束「世界を好みのかたちに変えてるあいだに、おじいさんになっちゃうぞ?」

千束「今のままでも好きなものはたくさん」

千束「大きな街が動き出す前の静けさが好き」

千束「先生と創ったお店。コーヒーの匂い」

千束「お客さん、街の人、美味しいものとか綺麗な場所、仲間、一生懸命な友達」

千束「それがわたしの全部!世界がどうとか知らんわあ!」

(「リコリス・リコイル」第13話より)


本作におけるDA、アラン機関、真島、そして千束の四者の行動原理は政治理論的には「基礎付け主義」「反基礎付け主義」「ポスト基礎付け主義」にきれいに割り振られている。ここでいう「基礎付け主義」とは政治や社会は何らかの普遍的原理によって基礎づけられるとする立場であり、これに対して「反基礎付け主義」とは普遍的原理など何も存在しないとする立場である。そして「ポスト基礎付け主義」とは普遍的原理による基礎付けを自明の前提としているわけでもなく、さりとて基礎付けの不在に居直るのでもなく、政治や社会はひとまず暫定的な価値によって基礎付けられるという立場である。

この点、現代ラカン派を代表する精神病理学者の松本卓也氏は「享楽社会論(2018)」においてラカンの1950年代から1970年代における理論的変遷を参照し「基礎付け主義」は〈父〉という普遍的な理念を存在させようとするフロイト理論に依拠した50年代のラカンに対応し「反基礎付け主義」は〈父〉の不在を認める60年代のラカンに対応し「ポスト基礎付け主義」は〈父〉の不在を認めつつも同時に弱毒化された〈父〉を非抑圧的な仕方でサントーム(症状)として利用する70年代ラカンに対応するという。

そして本作においてDAやアラン機関が「秩序」とか「才能」といった特定の価値を普遍的原理とする「基礎付け主義」に依拠するのであれば、全ては「バランス」だという真島は「反基礎付け主義」に相当する。こうした中で真島とは別の仕方での「バランス」を生きる千束はいわば弱毒化した〈父〉としての「リコリコ」をサントームとする「ポスト基礎付け主義」であるといえる。

こうしてみると本作が千束に割り振った「バランス」は現実社会における「安心安全」とか「多様性」といった「秩序」から外れた「逸脱」をいかに掬い上げるかという問題に対する一つのメタフォリカルな回答であったような気する。もちろん本作には棚上げされた問題とか未回収な伏線とかが色々と残っていますので、今後の展開にもぜひ期待したい。


20 ぼっち・ざ・ろっく!(はまじあき)

⑴ 陰キャ少女はロックバンドの夢を見る

ゼロ年代の日常系が理想的な「つながり」を描き出したとすれば、2020年代の日常系は様々な形で「つながりの外部」を切り開いてきた。そして昨年、アニメ化をきっかけに様々な分野で大きな反響を呼んだ本作「ぼっち・ざ・ろっく!」は間違いなく2020年代の日常系を代表する作品の一つに数えられるだろう。本作もまた「つながりの外部」を描き出し、日常系というジャンルの持つ可能性を大きく拡大させた作品といえる。

本作の主人公、後藤ひとりは幼少よりいつも「ひとりぼっちな子」であり、いわゆる「陰キャ」である自分に強いコンプレックスを抱えていたが、中学1年のある日、たまたまテレビで観たロックバンドのアーティストのインタビューに触発されて、バンドをすればきっと陰キャな自分も輝けると思い、早速、父親からギターを借りて練習に猛烈に没頭する。

その結果「ギターヒーロー」なるアカウント名で投稿したひとりの動画(いわゆる「弾いてみた」)は動画投稿サイトにおいて絶大な人気を集めることになるが、その一方で現実世界の彼女は重度の人見知りとコミュ障が災いして、バンド活動や文化祭ライブに憧憬を抱きつつもバンドメンバーどころか友達すら作れないままで中学を卒業することになった。

そして高校に入って約1ヶ月たったある日、相変わらず高校でも友達を作れないひとりはギターを持って学校に行きクラスメイトから話しかけてもらうことを期待するが、結局誰からも話しかけてもらえず「私の居場所はネットだけ」と失意の中で帰宅する。

ところが、その帰り道にちょうど助っ人ギタリストを探していた「結束バンド」のドラマーである伊地知虹夏から声をかけられたひとりは、急遽その日のうちにライブハウスで演奏することになり、そのまま成り行きで正式メンバーとして「結束バンド」に加入することになる。この時「結束バンド」のベーシストである山田リョウが名付けたひとりのあだ名が「ぼっちちゃん」である。

念願のバンド活動が叶ったぼっちちゃんであったが「結束バンド」加入後も彼女は従来の人見知りでコミュ障な性格とバンドセッションの経験不足から「ギターヒーロー」としての実力をなかなか発揮することができない。けれども虹夏やリョウ、そして色々な紆余曲折を経て結束バンドのボーカルとなった喜多郁代との交流を通じて、ぼっちちゃんは次第にギタリストとして、そして人として成長していくのであった。

⑵ 放課後ティータイムと結束バンド

本作はゼロ年代日常系の代表作の一つ「けいおん!」と同じくバンドを題材とする作品であるが、ほぼ学内のみの活動だった放課後ティータイムに対し、結束バンドの主戦場はもっぱら学外のライブハウスである。しかも本作のスタンスはけいおん!とは完全に真逆ともいえる。

その象徴的なシーンがライブハウス「STARRY」の店長で虹夏の姉である伊知地星歌がライブ出演にあたり結束バンドにオーディションを課すところで、星歌は低いクオリティならライブには出さないと言い、不満げな虹夏に対して「一生仲間うちで楽しく放課後やっとけよ」と言い放つ。

ここで本作は放課後ティータイムとは一線を画するスタンスを端的に打ち出している。放課後ティータイムの面々は「目標は武道館」とか言いながらも楽器の練習はそこそこにまったり皆でお茶したりと、ぐだぐだと瑞やかに続いていく「放課後」を楽しんでいた。

そして学園祭ライブにおいて平沢唯が「でもここが、いまいるこの講堂が、私たちの武道館です!」と叫ぶシーンが象徴的であるが、放課後ティータイムは、あくまで「いまここ」の「つながり」を祝福するために歌うのであった。これに対して本作は「つながりの外部」でサヴァイヴする結束バンドの「成長」を描き出していくのである。

この意味で本作のスタンスは同じ日常系でもキャラクターデザイン志望の新入社員がゲーム業界で奮闘する「NEW GAME!」に近く、音楽アニメだとライバルグループとの切磋琢磨を通じて頂点を目指す「ラブライブ!」に通じるものがある(アニメでは出てこないが原作3巻以降では「SIDEROS」という強力なライバルバンドが登場する)。

ちなみに超絶ギターテクを持つバンド未経験の陰キャ女子が半ば成り行きでバンドに加入し、ライブハウスで奮闘するという本作と同様のモチーフを持つ作品として冬目景氏の隠れた名作「空電ノイズの姫君」と「(その続編である)空電の姫君」がある。

⑶ 青春コンプレックスと承認欲求

そして、本作の最大の「発明」は日常系としては革命的とさえ言える主人公のキャラ設定にあるだろう。日常系でもいわゆる「陰キャ」な主人公はこれまでも少なからず存在したが、ぼっちちゃんくらい極端にぶっ飛んだ「陰キャ」な主人公はちょっと見たことがない。

まず、ぼっちちゃんのコミュニュケーション能力は壊滅的で、基本的に他人と目を合わせることができず「あっ」というのが口癖で、切羽詰まった場面では顔面が(時には全身が)文字通り崩壊し、何かあるとすぐにゴミ箱とか段ボール箱に隠れる癖がある(初ライブでも「完熟マンゴー」と書かれた段ボール箱の中で演奏している)。

また、ぼっちちゃんは極めてネガティブ思考の持ち主で、自分の容姿や性格や境遇に自信が持てず、クラスでも外出中でもステージでも自分が周囲からどんな目で見られているかを常に気にしており、ひきこもりのニートになった将来を想像しては、よく発作を起こしている。

さらに、ぼっちちゃんの「青春」に対するコンプレックスは極めて重症で、彼女はいわゆる「陽キャ」とか「パリピ」などと呼ばれる人間を過剰に敵視し、中学時代の作詞ノートには呪詛のような歌詞が書きつけられ、体育祭のようにクラスが一致団結する学校行事を心底忌み嫌い、今でも一刻も早く高校を中退したいと考えている。

けれど、その一方でぼっちちゃんは別に人間嫌いなわけではなく、むしろ極めて強い承認欲求を抱いている。そもそもギターを始めた動機が周囲からチヤホヤされたいからであり、バンドを結成した時すぐに対応できるよう売れ線の曲は全て練習し、周囲からちょっと褒められたり認められたりすると過剰に反応し、初めて撮ったアー写で自分の部屋を埋め尽くしたり、自分のサインの猛練習をしたり、無理やり場を盛り上げようとして妙に張り切った結果、盛大に空回りするという一面も持っている。

⑷ 自傷的自己愛から考える

この点、ひきこもり支援の専門家として知られる精神科医の斎藤環氏は、思春期や青年期に多く見られる自己愛の否定的な発露として「自傷的自己愛」という概念を提唱している。斎藤氏は精神科医として30年以上に及ぶ臨床経験に基づき、往々にして「ひきこもり」の当事者は「困難な状況にあるまともな人」であるがゆえに「セルフスティグマ(自分は無価値な人間であるというレッテルの内面化)」を自身に貼り付けてしまっているといい、さらには「ひきこもり」の人々ばかりではなく、メンタルな問題を抱える若年層には「自分が嫌い」な人が多いように思うと述べている。

こうしたことから氏は「自分が嫌い」な人たちというのは、自己愛が弱いのではなくむしろ自己愛が強いのではないかと述べている。つまり、彼らの自己否定的な発言は自己愛の発露としての自傷行為なのではないかということである。その根拠の一つとして氏は彼らが自分自身について、あるいは自分が社会からどう思われているかについて、いつも考え続けているという点を挙げている。

だとすれば、それはたとえ否定的な形であり自分に強い関心があるという、紛れもなく自己愛の一つの形といえる。こうした逆説的な感情こそが斎藤氏のいうところの「自傷的自己愛」である。本作におけるぼっちちゃんの様々な言動や奇行はこの「自傷的自己愛」を誇張的に描き出したようなところがあるのである。

⑸ 自己愛と自己対象

そして、斎藤氏は自傷的自己愛をどのようにして健全な自己愛に変えていくかを考える上で米国の精神分析家、ハインツ・コフートの自己心理学を参照している。

ここでコフートのいう「自己」とは空間的に凝集し時間的に連続するひとつの単位であり、その人だけが持っている「パーソナルな現実」を産み出す源泉をいい、この自己の枢要(中核自己)は「野心の極」と「理想の極」という二つの極から成り立つ構造を持っているとされる。つまり、子どもは「野心の極」により生じる「認められたい」という動機に駆り立てられ「理想の極」により生じる「こうなりたい」という目標に導かれることで、初めて健全な成長が生じるということである。

そして、この「野心の極」と「理想の極」を確立させるに不可欠な要素、これが「自己対象」である。ここでいう「自己対象」とは自己の一部として体験される人や物といった対象をいう。

まず「野心の極」を確立させるのは賞賛や承認を与えてくれる自己対象である。これを「鏡映自己対象」という。次に「理想の極」を確立させるのは生きる目標や道標を与えてくれる自己対象である。これを「理想化自己対象」という。

そして、野心の極から理想の極へ至る緊張弓に生じる「技倆と才能の中間領域」を活性化させる作用を持つ自分と似たような自己対象を「双子自己対象」という。

こうして、さまざまな自己対象から多くの機能やスキルを取り込むことで自己の構造は複雑化し、安定したものに変わっていく。この安定状態をコフートは「融和した自己」と呼ぶ。そして、この「融和した自己」は一つのシステムとして周囲の他者と関わりながら、さらに他者の機能やスキルを吸収し、さらに安定度を高めていくのである。

⑹ 自己心理学的寓話としてのぼっち・ざ・ろっく

こうしてみると、本作はぼっちちゃんの不安定な自己(自傷的自己愛)が様々な自己対象と関わることによって徐々に安定した自己(融和した自己)へと変容を遂げていくという自己心理学的寓話としても読めるだろう。

折からの台風の影響でほぼ他バンド目当ての観客しかいないという逆境で迎えた「結束バンド」の4人での初ライブはぼっちちゃんの想定外の奮闘によって見事成功を収めた。

その打ち上げの最中で虹夏はぼっちちゃんに自分の抱く密やかな「夢」を打ち明け、今日のライブを成功に導いてくれたことに感謝の気持ちを述べ、そして「これからもたくさん見せてね、ぼっちちゃんのロック--ぼっちざろっくを!」と激励する。おそらく、虹夏はぼっちちゃんにとって「野心の極」を確立させる鏡映自己対象といえる(なお原作ではこの時に「売れて高校を中退したい」と言うぼっちちゃんに対して虹夏は「そんな重いのはバンドに託さないで」とややドン引きしているが、アニメでは「あはは重いなあ、でも託された!」という台詞に変更されている)。

また、新宿のライブハウス「FOLT」を拠点に活動する実力派サイケデリックロックバンド「SICK HACK」のベーシストである廣井きくりは、ぼっちちゃんの才能をいち早く見抜き、文化祭ライブ前に不安になっているぼっちちゃんを自分のライブに招待し、圧倒的なカリスマ性に満ちたステージを披露する。

そのステージ後、きくりは自分も高校の時は根暗だったといい、そして「初めて何かをするってのは誰だって怖いよ、でもぼっちちゃんは路上でも箱でのライブもできたじゃん!」と勇気づけるのであった。すなわち、きくりはぼっちちゃんにとって「理想の極」を確立させる理想化自己対象といえる。

そして、やがて結束バンドの当面の目標となる同年代のメタルバンド「SIDEROS」のリーダーである大槻ヨヨコは以前は目つきが悪く身長が低くて運動もできず友達もいないという自分に強いコンプレックスを抱いていたが、一念発起してテストで学年1位を取ったことが契機となり「もっと好きな事で一番になりたい」という想いからバンドを始めている。

上昇志向が強く努力家の彼女は順位や数字に異常にこだわり、自身の人気や知名度を周囲に誇示し、いつも上から目線で勝ち誇ったような態度を見せる一方で、ライブ前には緊張のあまり3日くらい眠れず、SNSでのフォロワー数増減に一喜一憂するなど、そのメンタルはかなり脆弱である。また、3人以上の集まりが苦手で、高飛車な物言いが誤解されやすく、これまで何人もメンバーが辞めていき、今も現メンバー以外友達がいないなど、ぼっちちゃんとは別な意味でコミュニケーション能力が残念な人でもある(ゼロ年代深夜アニメによくいたツンデレキャラを想起する)。ぼっちちゃんはヨヨコと初めて会ったとき、早くも自分と似た何かを感じ取っていた。こうしたことから、ヨヨコはぼっちちゃんにとって自分と似たような存在である双子自己対象といえる。

⑺ 日常系における虚構と現実

こうしてみると本作において、ぼっちちゃんはコフートのいう自己対象に恵まれていたといえる。もちろん、我々の生きる現実はこんな風に上手くいかない事の方が多いだろう。けれども、何事もやってみないとわからない。これもまた、ひとつの現実ではないだろうか。

この点、斎藤氏は「自傷的自己愛」の歪さを「プライドは高いが自信がない」という端的な言葉で表現しているが、当初のぼっちちゃんもやはり絵に描いたような「プライドは高いが自信がない」というキャラであった。けれどもその後、彼女は肥大化したプライドをかなぐり捨て、なけなしの自信を必死に振り絞り、幾多の逆境を突破していった。こうした彼女の生き様に共感したり勇気づけられた人は決して少なくないだろう。

現実は怖い。でも、これからとっても楽しいことが待ってそうな気がする

(「ぼっち・ざ・ろっく!」第1話より)


ぼっちちゃんに限らず人はそれぞれ、その人だけの特異性を抱えた存在として、社会における一般性との間で折り合いをつけながら生きている。そして、こうした一般性と特異性の巡り合わせが良ければ、それは「個性」として承認され、その巡り合わせが悪ければ「社会不適合者」などとして排除されるのである。

そしてこの差はおそらく、ほんの紙一重かもしれない。正義が勝つとは限らない。努力が報われるとは限らない。未来が素晴らしいとは限らない。所詮、世界は運と偶然に規定されたガチャに過ぎない。けれども、こうした紙一重の現実に恨み辛みを述べ立てるよりも、そのガチャを回す機会を1回でもより多く増やす努力をする方が遥かに実り多く希望のある人生ではないか。そういった意味で本作は日常系ならではの「虚構」を経由することで初めて捉えることのできるある種の「現実」を見事に描き出した物語であったように思えるのである。





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