思弁的実在論


1 ポスト・ヒューマニズムの時代における哲学

14世紀のルネッサンス期に起源を持つ「ヒューマニズム」という言葉は、これまで「人文主義」や「人道主義」や「人間中心主義」などといった微妙に異なるニュアンスで用いられてきたが、いずれにせよ「ヒューマニズム」はこの世界における「人間」という存在の優位性を示す自明の原理として近代社会における確固たる基盤を形成していた。

ところが20世紀後半以降における情報テクノロジーや生物工学の急速な進化はこのような従来の意味での「ヒューマニズム」の自明性を揺るがす「ポスト・ヒューマニズム」というべき事態を招来することになった。

こうした現代における「ポスト・ヒューマニズム」を体現する哲学的潮流として「思弁的実在論(Speculative Realism)」が位置づけられる。「思弁的実在論」とは狭義には2007年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行わ れた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントら4名の思想の総称を指しているが、広義には同ワークショップを発端として主にインターネット上で急拡大した哲学的潮流を含んでいる。


2 思弁的実在論の特徴

周知のように「実在論」とは哲学的には「観念論」と対立する概念である。すなわち、人間が事物を認識するとき心の中に何かしらの「観念」を抱くことになるが、その「観念」とは独立した事物の存在を肯定するのが「実在論」であり、これに対して「観念」とは独立した事物の存在を否定するのが「観念論」である。

そして「思弁的」とは「反常識的」という意味である。つまり「思弁的実在論」とはこの世界を構成する事物の「実在」を「思弁的」といえる反常識的な理路によって捉え直そうとする新種の実在論ということである。

もっとも「思弁的実在論」という名称はこのワークショップ向けの妥協案として選択されたものであり、その内部においてそれぞれの論者の主張は大きく異なっており、その後、数年も経たず彼らは内部分裂してしまう。この点「思弁的実在論」という名称を提案したブラシエは2011年のインタビューで「『思弁的実在論』なるものは、私が全く共感を抱かないアジェンダを掲げるブログ執筆者たちが抱く妄想の中にしか存在しません」と語っている。

こうして現時点から振り返ると「思弁的実在論」とは学派やグループではなく2007年の開催されたワークショップの「イベント名」と理解した方が適当かもしれない。結局のところ彼らは「思弁的実在論」という名の下で果たして一体、何を目指していたのだろうか。


3 相関主義批判

思弁的実在論において共有されていた問題意識とは端的にいえば「相関主義批判」にある。「相関主義」とは一般的に思弁的実在論の代表格とみなされるメイヤスーがその著書『有限性の後で(2006)』において使った言葉であり、ハーマンは同じ意味で「アクセスの哲学」と呼んでいる。

この点、メイヤスーによれば近代哲学を確立したイマヌエル・カント以後の哲学はすべて--現象学であれ分析哲学であれポストモダニズムであれ--いずれもカントのいう「物自体(客観世界)」にはアクセスが禁止されており、メイヤスーのいう「思考と存在の相関(主観世界)」のみにアクセスが可能とされていたという。そして彼はこうした「相関の乗り越え不可能な性格を認めるという思考のあらゆる傾向」を持つカント以後の哲学を「相関主義」と名指した。

そして、メイヤスーは「相関主義」は非合理な「信仰主義」の拠点になるという。要するに不可視の「物自体」の位置に非合理なテーゼを勝手に代入して、まさにそれこそが世界の真実であるなどと主張する陰謀論に対する反駁が困難となり、その帰結として(悪い意味での)ポストモダン的相対主義がもたらされることになるということである。

それゆえにメイヤスーは今日における常識的な自然科学的世界観を擁護するには「相関主義」を超克する必要性があると訴えた。けれどもその理路は極めてアクロバティック=思弁的なものとなっている。


4 この世界の偶然性

この点、メイヤスーは相関主義をスペクトラム的に捉える議論を展開している。具体的にいえば「素朴実在論(我々の精神から独立した世界が存在するという立場)」と「思弁的観念論(我々の精神が世界のすべてを包摂するという立場)」を両極として、その中間に「弱い相関主義(カントのように「物自体」を認識はできないが思考はできるという立場)」と「強い相関主義(ハイデガーやウィトゲンシュタインのように「物自体」を認識もできなければ思考もできないという立場)」という二つの相関主義を位置付けている。

そして、メイヤスーは「強い相関主義」における「思考=世界」の「事実性(非理由律)」を経由することで「絶対的なもの(他のものとは独立にそれ自体が存在するということ)」としての非相関的な世界を想定し、このような理由も必然性もない「ただあるだけ」のこの世界は数理的思考によってのみ記述可能であると主張した。

このようにメイヤスーは世界の揺るぎない客観性を数学をはじめとした科学的言説に依拠する一方で、まさにその世界の客観性を保証するために、この世界が現にこのようなあり方をしているという事実には全く必然性がなく、世界はたまたま偶然的にこうなっているのであり、木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則もすべては実際に崩壊し、世界は突然別様のものに変わるかもしれないという恐ろしく思弁的な主張を持ち出すのである。いわばメイヤスーは(悪い意味での)ポストモダン的相対主義に対して、より高次元での相対主義をもって対抗する理論を提出しているといえる。


5 自然・根源・オブジェクト--思弁的実在論の諸相

2007年に思弁的実在論のワークショップが開催された当時はもっぱらメイヤスーに注目が集まり、メイヤスーの考えが思弁的実在論の共通見解かのように理解されがちであった。しかし先述のように思弁的実在論の名を掲げる各論者の見解は鋭い対立を孕んでいる。以下、他の論者の見解の概要を示す。

まずレイ・ブラシエ。彼の思想のキーワードは「自然主義」と「ニヒリズム」である。ここでいう「自然主義」とは要するに認知科学をはじめとする自然科学に基づいて哲学を進めるという態度である。そしてこの「自然主義」が世界から「意味」とか「価値」を剥ぎ取った「ニヒリズム」としての「実在」を極大化させることになる。

次にイアン・ハミルトン・グラント。彼の思想のキーワードは「自然」である。もっともグラントのいう「自然」とはブラシエのような自然科学的な意味での「自然主義」ではなく、思考に先立ちかつ思考を生産する根源的な存在としての「自然」を指している。こうした意味でグラントの実在論はメイヤスーのスペクトラムでいう「思弁的観念論」にかなり近い位置にある。

そしてグレアム・ハーマン。ハーマンは思弁的実在論のスポークスマンとしてメイヤスーとは違った形で注目されてきた。この点、ハーマンは彼独自の哲学を「オブジェクト指向存在論(Object Oriented Ontology)」と呼んでいる。ここでいう「オブジェクト」とは「(主観と関係する)対象」というよりも端的な「(主観と無関係な)モノ」といった方が良いだろう。すなわち「オブジェクト指向存在論」とはいわば「モノに定位した存在論」である。

こうしたことからハーマンはメイヤスーと逆にカントの「弱い相関主義」を評価する。ハーマンはカントのいう「物自体」を「モノ」の独立性や超越性として位置付けている。さらにここでいう「モノ」とは創作物や概念としての「モノ」も含まれている。こうした色々な「モノ」に定位することでハーマンは人間と世界が「主観とその対象」といった形で関わるのではなく、いろいろな「モノ」たちが存在し、そうした「モノ」たち同士がさまざまに関係したり関係しなかったりする状況を想定する。

すなわち、あらゆるモノは本来、人の意識に決して現れることなく、一つ一つ絶対的にバラバラに存在しており、それ自体の中に引きこもっている=退隠しているといい、そして、その無関係性こそが本来の一次的なもののあり方であり、関係性というのは二次的で現象的なものであるとする。まさに世界を構成するひとつひとつのモノが他からアクセスできない孤独な闇であり、世界は様々な異質な闇によって構成されているということである。

こうしてみると四者四様、見事にその主張はバラバラであり、むしろ何で一時期でも活動を共にしていたかが不思議なくらいにも思えるが、いずれにせよ思弁的実在論がかろうじて共有していたテーマである「相関主義批判」はいわば「人間との相関物としての世界」の破棄を志向しており、こうした意味で思弁的実在論は従来の「人間中心主義」としての「ヒューマニズム」への根本的批判となる「ポスト・ヒューマニズム」の哲学を提示しようとしていたといえる。

そして、この「思弁的実在論」の源流にしてかつ発展形ともいえる思想が次に述べる「加速主義(Accelerationism)」である。




目次へ戻る