加速主義
1 加速主義とは何か
思弁的実在論が分裂を起こし始めた2010年、やはりあのゴールドスミス・カレッジで「加速主義(Accelerationism)」をめぐるイベントが開催された。このイベントには思弁的実在論のメンバーであるレイ・ブラシエやイアン・ハルミントン・グラントも参加し、このイベント後に「加速主義」という名は一気に広まることになる。
2014年に出版されたアンソロジー『加速主義読本』の序論において同書の編集者であるロビン・マッケイとアルメン・アヴァネシアンは「加速主義」を次のように定義している。
加速主義は政治的異端である。その主張はこうである。資本主義に対する唯一のラディカルな応答は、それに抵抗することでも、それを中断することでも、批判することでもなく、また資本主義が自らの矛盾によって崩壊するのを待つことでもない。唯一のラディカルな応答とは、資本主義の根を奪い、疎外し、脱コード化する抽象的な諸傾向を加速することである
(『加速主義読本』より)
要するに「加速主義」の主題は資本主義社会にいかにコミットメントするかにあり、その戦略の特徴は資本主義の矛盾を批判したり抑制しようせず、むしろ資本主義のプロセスをさらに「加速」させることでその「外部」へ突き抜けようとする点である。もっとも何をもって「外部」と見做すかは加速主義者の間でも大きな対立がある。
2 ニック・ランド--加速主義の始祖
そもそもこの「加速主義」という言葉はもともとはイギリスの哲学者ニック・ランドの思想的傾向を指すものであった。ニック・ランドは1987年にウォーリック大学に講師として着任し、主に大陸哲学を教える一方で、1988年の論文「カント・資本・近親相姦の禁止」においては思弁的実在論における「相関主義批判」の先駆的形態ともいえる「啓蒙のパラドックス」を論じ、1994年の論文「メルトダウン」においてはドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス(1972)』に依拠して「プロセスを加速すること」を、すなわち、資本主義の暴力的な力を加速度的にドライヴさせることで特異点(シンギュラリティ)と呼ばれる未知の境域へのアクセスを目指す思想を熱に浮かされたような文体とともに打ち出していく。
1995年には同僚で公私共にパートナーであったサディ・プラントと共にサイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit:CCRU)をウォーリック大学哲学部の内部に設立する。この学生主体でかつ非公式の集団は大陸哲学、ポスト構造主義、サイバネティクス、サイエンス・フィクション、レイヴ・カルチャー、オカルティズム等々といった広範なジャンルを学際的に踏破していく特異な思索を暗号的かつ秘境的なテクストととともに生成していった。
このCCRUに当時関わっていたメンバーとしては、グラントとブラシエの他、のちに批評家として活動し、著書『資本主義リアリズム』などで知られるも2017年に自死したマーク・フィッシャー、出版社アーバノミックの編集ディレクターを務めるロビン・マッケイといった名が挙げられる。
けれど設立から2年後の1997年には共同設立者のサディ・プラントがウォーリック大学を退職し、大学当局からもその存在を煙たがられていたCCRUはウォーリック市内のレミントン・スパにあるザ・ボディショップの上階に活動拠点を移し、その外界から隔絶されたラボではアレイスター・クロウリーの魔術、数秘学、ヴードゥー教、ラヴクラフトといった擬似カルト的な思索が行われていたが、やがて度重なる不眠と身体的疲労によって自身を消尽させていったランドは1998年、大学を辞職して中国は上海に移住してしまう。
3 暗黒啓蒙と新反動主義
ところが2010年代に入り「加速主義」が脚光を浴びると共に再びランドの名は注目を集めることになった。こうして中で2012年、ランドは自らの加速主義を拡散すべく「暗黒啓蒙(ダーク・エンライトメント)」という名の文書をインターネット上で公開する。
このテクストの第一の宛先に想定されていたのは当時アメリカで勢いを増していた「ティー・パーティー運動」というものである。これはオバマ政権下において既得権益を取り上げられていた白人中流層を主な担い手とした保守運動をいい、ランドの目的はティー・パーティー運動に対してネット上から理論的に介入することで彼らを焚きつけて状況をより混乱させ、オバマ政権が誕生した2009年以降のリベラル一人勝ちの状況を動かすことにあった。そしてここでランドが擁護したものが「新反動主義(NRx)」という思想である。
この「新反動主義」とは2008年に起きた世界金融危機を契機として近年のアメリカにおけるリバタリアニズム(自由至上主義)の側からの伝統的なリベラル的価値観の否定する思想として現れた。例えば世界最大のオンライン決済サービスPayPalの創業者であるピーター・ティールは2009年にリバタリアン系オンラインフォーラムに寄稿したエッセイで先の金融危機に触れながら破綻した金融機関や企業に対する公的資金の投入による補填といった国家と市場の腐敗した泥沼的関係を批判して「私はもはや自由と民主主義が両立するとは信じていない」といい、今や全ての政治からのExitを目指すことこそがリバタリアンの目指すべきプロジェクトであると主張した。
またシリコンバレーを拠点に活動する起業家兼ソフトウェア・エンジニアであるカーティス・ヤーヴィンは2007年ごろからメンシウス・モールドバグというハンドルネームを用いて主にブログ上で次のような主張を展開した。すなわち、近代的な「啓蒙」に伴うヒューマニズムや人権や民主主義や博愛主義や平等主義といった現代において普遍的とみなされる諸価値は実は全く普遍的ではなく西洋のローカル宗教であるキリスト教プロテスタンティズムが世俗的に変形されたものに過ぎないとして、彼が「普遍主義」と呼ぶこれらの啓蒙的諸価値は自らの起源を巧妙に覆い隠したまま彼が「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶリベラルな教育機関やメディアから成るネットワークによって世界中に間断なく布教されているという主張である。
こうしたティールやヤーヴィン(モールドバグ)の主張は2010年代に入ると「新反動主義」と呼ばれ一部のオルタナ右翼に思想的な影響を与えることになる。そして、ランドの「暗黒啓蒙」もまた今や世界の隅々までを照らし出すグローバルな「啓蒙」の光を「闇」の側から問い直すテクストといえる。
4 新反動主義は「怪物」の夢を見る?
「暗黒啓蒙」の大まかな構成は次のようなものである。まずそのPART1「新反動主義者は出口へと向かう」でランドはティールやモールドバグら新反動主義者の思想を紹介し、民主主義を捨てて国家は企業のように経営されるべきだとするモールドバグの提唱する「新官房学(ネオカメラリズム)」なるプランに注目する。
つづくPART2「歴史の描く弧は長い、だがそれはかならず、ゾンビ・アポカリプスへと向かっていく」ではギリシャを例にもっぱら経済的な面から民主主義の相対化が行われるが、その半ばからその歴史が辿られ始め、モールドバグの議論に依拠して民主主義が持つ根本的な宗教性が指摘され、この議論の過程でランドは民主主義、人種問題、宗教という三つの項目を一つなぎにして提示する。
そしてタイトルが欠如したPART3では民主主義、人種問題、宗教の三項に加えさらに国家権力の拡大という四つ目の項を接続する。またこのパートでランドはやはりモールドバグの議論を応用する形で、いわゆるヘイト・スピーチやヘイト・クライムの背景にある「憎悪(ヘイト)」という感情とは大聖堂への攻撃それ自体であり、その精神的導きに対する拒絶であり、この世界のあからさまな宗教的流れに対する精神的な反抗を意味していると主張する(なお、このパートのみタイトルを欠如させた理由としてはリベラル派が圧倒的に優位なこの状況下において、ここでの議論を一言でまとめることなど恐ろしくてとてもできないというある種のパフォーマンスであるといわれる)。
もっともこれは単なるレイシズムとは一線を画していることをランドは主張したいらしく続くPART4「ふたたび破滅へと向かっていく白色人種」ではホワイト・ナショナリスト(白人至上主義者)の議論を批判的に取り上げ、自身の依拠する新反動主義がいかにそれとは異なるかが説明されるが、その一方でランドは新反動主義者はある一点において彼らを評価するという。
その一点とはつまり「人間の生物学的多様性」なる観点である。要するにこれは知性にしろ外見にしろ何にしろ人は一人一人異なったものだ、という極めて当たり前の事実を科学的なデータに基づいて公理化したものであり、ここからランドは白人至上主義者や新反動主義者はそれを根拠にして例えば白人は黒人とは離れて生活するべきだといったような「分離主義」を展開する。
こうしたPART4での議論を受け4a以降では全体の議論からの「脱線」という形で執筆当時のアメリカを騒がせていたダービーシャー事件が取り上げられる。これはジョン・ダービーシャーというジャーナリストが科学的人種主義を含む新反動主義的な分離主義を主張する記事を公開したことで保守派の大手論説誌をクビになった事件である。そして最後の4f「生物工学的な地平へのアプローチ」においてランドは新反動主義的な分離主義の一つの極北であり人種問題を解決する最終的な手段として、生物工学による遺伝子操作によって、そもそも人類とは異なる全く新たな種を生み出すことを提唱する。そして、この新たなる種をランドは「怪物」と呼ぶのであった。
5 暗黒啓蒙の功罪
以上のようなランドの主張は先述したようにティー・パーティー運動を焚き付ける檄文として書かれたものである。従ってその内実は哲学のテクストというより政治的なアジテーションに近いものがある。それは要するに、彼らが「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶ民主主義や平等主義やポリティカル・コレクトネスといったリベラル的な価値観を破壊して、極大化した新自由主義の下で「特異点(シンギュラリティ)」に向かって資本主義とテクノロジーを猛然と加速させよということである。
このようなランドの介入が現実政治の中で実際のところどれだけ機能したかはよくわからない。しかし、ドナルド・トランプ政権の誕生に象徴されるように、少なくともその後のアメリカ社会においてはリバタリアニズムへの期待とリベラルへの不信が高まったことは確かだろう。
けれども、どう好意的に解釈してもこのランドの主張に全面的に賛同することは難しいと言わざるを得ない。このテクストの訳者である五井健太郎氏は次のように述べている。
民主主義の起源に宗教性があるなどというごく当たり前の事実を大喜びして指摘しているあたりはご愛嬌だが、〈出口(イグジット)〉などと言いながら、じっさいのところかぎられたごく一部のエリートに勝ち逃げを呼びかける新官房学などというおためごかしに、リベラルな価値観に馴染むことのできないまま割りを食って生きる貧困層が惹きつけられるのだとしたら、さすがに笑えない事態だといえる。またなにより、新反動主義を支持することはその科学的な人種差別を支持することとまったく同義であることは肝に銘じておくべきだ。差別はバカのやることである。なぜ差別がいけないのか。民主主義や平等があるからではない。近代や啓蒙があるからではない。それが正しいからでもない。たんじゅんに不愉快だからだ。
(『暗黒の啓蒙書』訳者解説より)
もっとも五井氏はその一方で「暗黒啓蒙」のようなテクストが書かれた要因の一つにリベラル派の持つ「正しいことは正しい」のだという思考のパターンがあることは明らかであり、今現在の我々の日常生活を見てもそうした思考が抑圧的に機能している例は枚挙にいとまがないとして、ランドの議論は批判のための批判ゆえの過剰さがあることは指摘しておきつつも、民主主義や平等は本当にそれほど重要なものかという点については、あらためて深く考えてみるべきであると述べている。
6 資本主義リアリズムという病理
いずれにせよ、この部分だけを切り取ると「加速主義」というのはかなり危うい思想といえそうだ。けれども2010年代における「加速主義」はこうしたランドの「加速主義」を批判的に継承する形で発展していくことになった。
その代表的な論客の一人としてイギリスの批評家、マーク・フィッシャーが挙げられる。かつてランドが主催していたCCRUのメンバーでありブラシエやグラントの知己でもある彼は思弁的実在論と連動する形で「資本主義的実在論」を展開し、現代では資本主義だけが存在する現実(実在)であり、それ以外の現実(実在)というものは想像することさえ困難であるとした上で、2010年における加速主義のイベント以降、彼はこのような現状の突破口としてランドの加速主義を「資本主義的加速主義」として肯定的に捉え直して「ポスト資本主義」の構想へと進んでいった。
フィッシャーはその主著『資本主義リアリズム』(2009)において現代を席巻するグローバル資本主義がもたらす病理を「資本主義リアリズム」と名指し、その特徴を次のように述べている。
まず「資本主義リアリズム」の第一の特徴は「再帰的無能感」と呼ばれるものである。それはよく知られた「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」というフレドリック・ジェイムソンが述べてスラヴォイ・ジジェクが広めたとされる古い警句が示すように、資本主義がこの世界において存続可能な唯一無二の政治・経済体制であることをもはや認めるしかなく、今や資本主義に対する代替的選択肢(例えば共産主義)を想像することすら不可能であるという諦念が蔓延した状態を指している。
また「資本主義リアリズム」の第二の特徴は「左翼の病理」と呼ばれるものである。ここでフィッシャーがその典型例として持ち出すのが英国において保守党に代わり政権の座についたトニー・ブレア率いる「ニュー・レイバー(新しい労働党)」の資本主義への譲歩ないし参入である。果たしてブレア政権が明らかにしたものとは資本主義に代わる「実行可能な選択肢」ばかりか「想像可能な選択肢」すらもないという物語を他ならぬ資本主義の対抗勢力としての左翼自身が語らなければならないというという事態であった。
そして「資本主義リアリズム」の第三の特徴は「集合的政治に対する信の崩壊」と呼ばれるものである。例えば1990年代後半からゼロ年代初期における「反・資本主義運動」は「その活動形態が政治的組織化よりも抗議運動の演出に向かいがち」であり、そこから「反・資本主義運動」とは「そもそも叶うはずがないと自ら諦めつつも、一連のヒステリカルな要求を繰り返すものだ」という感覚が生まれることになった、とフィッシャーは述べる。ここには「再帰的無能感」と「左翼の病理」の双方に規定された根深い政治不信を見出すことができる。
再帰的無能感。左翼の病理。集合的政治に対する信の崩壊。こうした三つの特徴を備えた「資本主義リアリズム」の下で人々は資本主義を超出する地平としての〈未来〉を想像する能力を喪失することになる。そしてこの「資本主義リアリズム」は同書の公刊以降今日に至るまでますます拡大する一方であり「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを想像するほうがたやすい」どころか「資本主義こそが世界の終わりである」というべき切迫した危機感が多くの人々の間で共有・増幅されていくことになる。
このような「資本主義リアリズム」と呼ばれる病理は具体的にはメンタルヘルス問題の蔓延として現れる。例えば現在、世界的に拡大しているとされるうつ病は脳内の神経伝達物質の均衡が崩れることによって発症すると考えられており、ここではうつ病を発症させた状況因や誘因としての労働環境や社会構造は考慮されておらず、そこでの精神の病はどこまでも個人の「自己責任」であるという新自由主義的な倫理に回収されている。そしてフィッシャー自身もまたうつ病と格闘しながら2017年に自死するまで「資本主義リアリズム」に裂け目を入れるための可能性の地平を思索し続けていたのであった。
7 未来を発明するということ
また2013年に「加速主義的政治宣言」をウェブ上で発表して大きな反響を呼んだニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムスは「左派加速主義」を代表する論客として位置付けられている。この点、彼らは反格差・反グローバリズムを掲げる従来の左翼的な抵抗運動を「素朴政治」と呼んで異を唱え、むしろグローバル資本主義がもたらす成果を逆手に取り、その極限へと突き抜ける「加速主義的政治」を掲げている。
さらにその2年後に出版したスルニチェクとウィリアムスの共著『未来を発明する(2015)』では①ロボットやAIの発展による機械化②労働時間の縮減③ベーシックインカムの整備④労働倫理の衰退といった社会変革によって人間が労働から解放された「ポスト労働の世界」という未来像が提示される。
要するに彼らの提示する〈未来〉とは資本主義を抑制しない加速主義の原則は受け継ぎつつもランドのような新自由主義的な方向ではなく「労働なき世界」へと出ていこうとするものである。
こうしてみるとランドの加速主義にせよ左派加速主義にせよ加速主義という思想は資本主義がもたらす人間の「疎外」をさらに「加速」させていくという意味でまさに「ポスト・ヒューマニズム」の思想であるといえる。
目次へ戻る